6月11日 その5
同じ頃、宮城楓は鳳凰台高校から徒歩一分の距離にある「キースピアノ研究所」という物々しい名前のピアノ教室に来ていた。今日は週に一度のレッスンの日である。教室の主宰者であるキース・リチャードソンは、楓の素質に惚れ込み、彼女を特待生として遇している。
キースは現在四十五歳。ショートカットの金髪と青い瞳、モヤシのようにひょろりとした長身と、年がら年中着用している黒いカンフースーツが外見上の主な特徴である。性格は至って快活で温厚であり、レッスンの時ですら穏やかな笑みを絶やしたことがない。
アメリカのジュリアード音楽院でピアノと作曲を学び、卒業後、日本人の友人の誘いに乗って来日。大阪を拠点に小規模な音楽活動をしばらく続けた後、南波市でピアノ教室を開き、今に至っている。子供の頃は神童と呼ばれ、将来を嘱望されていたが、身体が弱く病気がちだったこともあり、一流ピアニストとしての地位を築き上げるまでには至らなかった。ピアノ教室を始めたのも、演奏家としての自分に見切りをつけ、別天地で新たな生き方を模索したかったからだ。そこにタイミングよく現れたのが、当時、小学五年生だった楓である。
さて、楓はいつもの練習場所でレッスンの時間が来るまでの間を過ごしていた。そこはキースの私的な音楽室であり、高価なAVシステムと小型のグランドピアノ、大量のCDとDVDが揃った趣味的な部屋である。楽譜もピアノ曲の有名どころはほとんど揃っていた。楓がこの部屋でいつもやっている課題は、世界の名演奏家の演奏を幾つも聴き、部屋のピアノで真似をして弾くというものである。無論、キースの指示であり、そこには表現の模倣を通して、楓の足りない部分を培っていこうという意図があるらしい。
「『幻想即興曲』か。ショパンね。どこかな」
キースの持つCDは、タイトルや曲目が日本語で表示されていないので、探すのもひと苦労である。
「あ、あったわ」
適当に引っ張り出したCDの中に「幻想即興曲」が入っていた。「Chopin」 の文字がジャケットに躍っている。楓はそれをプレイヤーにセットし、ピアノの椅子に腰掛けながら聴き始めた。一度目はただ聴き流す。二度目は楽譜を見ながら。三度目はCDの音に合わせてピアノを弾く。それからプレイヤーを止めて、自分なりに演奏してみた。難しいところはない。過去に仕上げた経験のある曲なので、暗譜も完了している。もう一度演奏してみた。CDの演奏に近いものが出せたと思う。CDを再度再生して確認する。
ノックの音がした。
「カエデ、はいリまスよ」
「あ、はい」
楓の練習時間中にキースがやってくることは珍しい。何事かと首を傾げる楓に向かって、キースは単刀直入にこう言った。
「さっソくでスが、カエデ、聞キたいことがアりまス」
「なんですか?」
「前々からユビズもウに、とテもとテもハマってるそうでスネ。違いまスか?」
「え、どうして先生がそれを」
「やハりそうでスか。ジツはさッき電話でネ、カエデの伸ビ悩ミを心配シテ、オシえてクれた人がいタんでスよ」
「嘘!」
楓は驚愕し、激しく動揺した。脳裏に覇斗の顔が即座に浮かぶ。
確かに、楓が指相撲に熱中していることぐらい、宮城家に住む人間なら誰だって身を以て知っている。だが、彼女がピアニストとしての行き詰まりを打ち明けたのは、ただ一人、覇斗だけなのだ。電話を掛けたのは覇斗としか考えられない。楓の頭にカーッと血が上っていく。たとえ楓の行く末を案じてのことだったとしても、断りもなく告げ口するのは許せなかった。
「どうしマした? そんナ怖い顏をシて」
「い、いえ、なんでも……」
「かノじょハこう言っテまシタよ。カエデが壁を乗り越えらレないのは、ユビズもウにのめり込ムあまり、ピアノの練習にボットーでキてないからじゃなイかと」
「彼女? え?」
楓はきょとんとした顔になった。
「──誰?」
「カわいラしい声でしたよ。カエデの家族のような口ぶリでシタ」
「あーっ!」
込み上げてくる猛烈な決まりの悪さを打ち消すため、思わず楓は大声を上げていた。真っ先に覇斗の顔を思い浮かべて憤慨しそうになっていた自分が、恥ずかしくてたまらない。覇斗に対しても申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
「どうシましタ? 顔がボイルドオクトパスのようでスよ」
「な、なんでもないです」
(そっか。ピアノが好きで毎日練習してるわけじゃないって、よくつっけんどんに言ってたから、壁にぶち当たってること見抜かれちゃったんだ。きっとそうだわ。迂闊だったぁ。家族にはとっくにバレてたのかな? 心配させないように黙ってたのに……)
「さては、ボクに隠し事を知られて動揺してまスね。──サテ、提案でス。ボクとユビズもウで勝負シませんか」
「はあ?」
いきなりの申し出に、楓は面食らった。キースが指相撲をするという話は、これまで本人の口からは勿論、生徒達の誰からも聞いたことがない。冗談としか思えなかった。
「カエデには素晴ラしいピアノの才能がアりまス。それは間違いなイ。ダけど、ピアノよりもユビズもウの方が大事ということでアれば、一流演奏家として大成すルのは難しいでショう」
「……」
「カエデの人生でス。カエデがどう生キようと、何を選ぼうと、カエデの自由でスヨ。ただ、押しつケるつモりはナいですケど、ボクとしテは、カエデがユビズもウから離れてピアノに打ち込んでクれたらなあと思イまス。──でスから、提案でス。敢えてボクがカエデと同じ土俵に立ちまショう。今度のユビズもウの大会でボクと勝負して負けタら、イさぎよくユビズもウから足を洗いマせんか?」
キースは、彼にしては珍しい挑戦的な視線を楓に送った。それは、彼が楓の性格をある程度掴んでいる証拠である。
五年に渡る楓との付き合いの中でキースは理解していた。楓は、真正直で裏表がなく人を疑わないという意味では実に「素直」である。だが、その「素直」の中に、おとなしく他人の言いなりになるような従順さは含まれていない。楓は常に我が道を行く。たとえピアノに本腰を入れるようどれだけ懇願してみたところで、楓自身に元々その気がなかったなら、聞き入れてもらえる可能性は低い。また、強引な押しつけに対しては激しい反発を見せる。基本的に楓は負けず嫌いなのだ。だからこそ、自信のある分野において挑戦された場合、受けて立たずにはいられなくなる。しかも、本人は負ける事態を想定すらしていないので、負けた時のペナルティが自分だけ厳しくても一向に意に介さない。扱いやすいといえば扱いやすかった。
「いいですよ」
いとも簡単に楓は承諾した。指相撲で大きな賭けをするというシチュエーションが妙に楽しそうだったので、余計なことは何も言わないでおくことにする。
本当ならば、今の自分の心境を正直に語るだけで、キースの参戦の動機をほとんど消し去れるのだった。何しろ楓の中では、大会で優勝して指相撲中心の生活にひと区切り付けるところまでが、とっくに既定路線となってしまっているのだから。
(それにしても……)
楓はキースの身体を上から下へと品定めするようにじっくりと見た。
細い。ちょっとした大風で吹き飛ばされそうなくらい華奢である。生まれつき体調を崩しやすく、些細な病気が重症に陥りやすい体質だったことが影響しているのだろう。本人の談によると、長年の体質改善の努力の結果、現在は体力も運動能力も人並み以上にあるそうだ。とはいえ、見た目が見た目なので、楓としては別段警戒する気も起こらない。
「先生、相当練習しないと、秒殺されますよ。あたし、はっきり言って鬼みたいに強いですから」
楓が軽口を飛ばすと、キースは温和な表情を崩さないまま、サムズアップした。
「シんぱい御無用。ボクにも勝算グらいアりまス。とっテおきの技をおミまいしマすよ」
続く