僕には世界の全てが文字に見える
僕の世界は僕の独断と偏見により成り立っていて、僕の世界の文字は他人の世界の文字よりもかなり重い意味を持っている。誰に対する嫌味ではない。文字通り、僕の世界は文字だった。僕の視界に見えるもの全ての物体には名札のように文字が貼り付いている。僕から見れば他の人達は他人だった。他人という文字を顔に貼りつけただけのマネキンなのだ。それは僕自身の家族にも同じことが言える。母は母という文字を顔に貼りつけただけのマネキンであったし、父は父という文字を顔に貼りつけただけのマネキンだった。だから僕にとって人の顔と名前を一致させることがとても難しいことだったから、僕には友達がいなかった。僕にとっては人間は家族と他人の二種類でしかなかった。僕の世界の文字の恐怖はこれだけではない。僕は他人の目線に含まれている感情まで文字に起こしてしまうのだ。好奇の目、悪意、軽蔑。それらが全て実際に彼らが抱えている感情かどうかは分からないけれど、他人と名前のついたマネキン達はそれぞれがいつも目を爛爛と輝かせていたり死んでいたりした。それぞれの目に、文字を宿して僕に見せつけながら。
いつからだったかは覚えていない。最初は確か、それぞれがきちんとその人の名前の名札をぶら下げていたように思える。ただそれだけだった。それから人の目から溢れる感情が文字になり、表情が文字になり、その人の内に巣食っているはずの感情でさえ僕には文字で見えるようになった。じろじろこっち見んなよ、きもい、怖い、ぼっち、精神障害者。僕に対する目線も感情も負の物ばかりで、僕はそれから余計に自分の殻に閉じ籠るようになった。それでも頭の中で反芻される思い出はやはり文字になって頭の中に溢れ、膨張し、僕はただただ自己嫌悪の中で生きて行く他なかったのだ。
学年が上がって新しいクラスになった時の話だ。出席番号順から自己紹介をしていくのが常で例にも漏れず、僕は自分の番をそわそわしながら待っていた。苗字が「あ」に近い人から自己紹介をする。出身の中学、部活、他もろもろ適当に。どの他人も名前を言ってはいたけれど、僕にとっては結局どの生き物も他人でしかなかった。席を立って声を張り自分の事を口にするどの他人も、緊張や不安を抱えていた。汗汗としたマークさえ見えるような気がした。大体が無表情と作り笑いだった。必死に話す他人を余所に、椅子に座る他人達の顔や後頭部に書かれていたのは「聞いてません、興味ありません。」「何話そうかな。」そんなものだった。1人の男子と、2人の女の子の時だけ教室内の文字の雰囲気が一気に変わった。可愛い子と格好いい子だったらしい。ざわざわと、イケメン、可愛い、彼女いるのかな?ライン聞こう、とかそんなもの。でも結局、そんな人たちも僕にとっては他人だった。僕の番だって例にも漏れず、「興味ありません。」だった。自分の番が終わって、踵を置いたまま爪先を上げてそのだけ跳ねの文字を作りながら身体全体としては背中を丸めたつの字を作る。僕の足元には僕自身の文字が出ていた。「興味ありません。」と。常のことなのに、僕はなんだかそれがとても面白くって、少しだけ(笑)になった。
僕にとって世界は「世界」という文字それだけで、全然壮大なものではない。雰囲気でさえも全然大きくない。僕にとっての世界はただその文字だけのもので、僕の視界にある他人以外のものの世界なんてそんなもの、別に僕自身に対した影響があるとは思えなかった。
ある日、猫が死んでいた。道の真ん中に、車に轢かれた死骸があった。僕の視界にもそう映っていた。「猫の死骸」と。そして頭とか、お腹とか、尻尾とか。そして内臓と書かれたものも少し出ているようだった。僕はなんだかとてもむずむずした。田舎だからあまり車は通らない。僕はその「死骸」を抱えて、道の端に寄せた。僕に出来たことはそれくらいだった。それ自体、何の意味があったかは分からない。朝の登校の時だったから、誰か他の子供がその道を通る可能性だってあった。そうしたらその「死骸」が自分の直ぐ傍にあるわけだ。気分がいいものではない。僕は「死骸」を道の端に寄せて、「死骸」があった跡には「くすんだ赤色」があった。文字ばかりの世界だから、対して恐怖も気持ち悪さもなかった。僕の世界は淡白だった。1か0かだった。僕は、淡白な人間だった。文字ばかりの世界にいるからついつい考え込んでしまってまた文字に埋まってしまうような人間だけれど、決して感受性が強いような生き物ではなかった。僕がほとんどの生き物を他人だと思うように、僕は誰もの他人だった。
生まれて初めて付き合った人に、そのことを話した。自主的に話したのか、話しの流れだったか。それはよく覚えていなかった。その人は大人の人だった。「大人の他人」だった。付き合った後は恋人になるんだろうと思っていたのに、結局は他人だった。その人が僕のことを相変わらず他人と思っているのか、僕がその人のことを他人と思っているのか、きっとそのどちらかだった。僕らは他人のまま「性行為」やら「セックス」をした。僕らは相変わらず他人だった。だから僕はその「他人」に聞いたのだ。僕らは他人なの、と。他人だと書いてあるよ、と。そうするとその「他人」は「吃驚した顔」をして、僕に目隠しをした。
僕は目が見えなくなった。
僕の世界は真っ黒だった。真っ黒な世界に色々な文字が振ってきた。だから僕は大好きだった本の世界に耽るようになっていた。僕は、文字を読むことが好きだった。文字から世界が浮かび上がってきた。その世界には名札なんてものがついていなかったからだ。僕は毎日毎日、色々な世界を思い出した。「他人」が言う言葉の端々から頭の中の文字の塊を引き出して、読み、その世界へと旅立った。
僕の世界は真っ黒だった。何故なら目隠しをしているから。
今の僕の世界には「他人」しかいなかったけれど、どの目に見えていた世界よりも美しくなった。
僕の目に見えていた世界は、いつもいつもどんよりと、灰色だった。