かげまち
「かげ町、その名の通り影の町だよ。」
そういって悲愴は僕の影を指差した。膝の丈ほどある水の中にゆらゆらと揺れる、不安定な黒くずんぐりむっくりとしたそれ。指差されればむずがゆがるように影が揺れた、ように思えた。錯覚かもしれないし、錯覚ではないのかもしれない。
「亡霊の影だよ。主を失ったから彷徨っている。ここじゃあ息が出来ないからね、あっちへ行くんだ。」
「…花形の人ってこと?」
「さーあどうかなあ、ふふふ。ないしょ。」
座っている8段目、いつもの階段から側面に足を投げ出した彼のズボンの裾は僕と同じように水に濡れている。箒が使えない人は大抵半ズボンを穿いているというのに彼は長いスラックス、黒い靴下、スニーカーを履いている。脱げばいいのに、濡れたそれらもそのままにぼんやりと出来る神経は羨ましいと素直に思う。思わせぶりな彼の言動はいつも通りで、溜息しか出ない。彼の二段したに腰だけを下ろした。足が水に触れていないと、どうもむず痒くなる。魚みたいだと思うけれど、魚は丁度僕の目線の高さを漂って右から左へと泳いでいく。悠々とした、美しい、布切れみたいだ。悲愴は自分の帽子の鍔を弄っている。
「魔法使いが言ってたんだ。本当に知りたいことがあるならいずれあっちへ行かなくちゃいけないって。」
「ふうん。」
「どう思う?」
「君はどう思うのさ。他人の答えを聞くばかりで自分で何かを考えはしたの?君が新参者だからって、君は赤ん坊じゃない。誰だってそうだ、この世界じゃね。」
悲愴は相変わらず帽子の鍔を弄っている。長い前髪に隠れた瞳は見えない。酷い不細工だとも、美少年だとも、本当は女だとも聞いたことがある。春になれば彼は引きこもり生活を余儀なくされるらしいけれど、彼が言う春がいつなのか、僕には分からなかった。サンダルを脱いで脇に置き、素足を水の中へと浸す。影が揺れている。
「しなきゃいけないことがあるような気がするけど、何かも分からない。第一僕は、花形じゃないし。」
「馬鹿だなあ、君って。」
はは、と。いかにもらしい乾いた、取ってつけた笑い声が聞こえる。彼は相変わらず、帽子の鍔を弄っている。
「花形じゃないよ、君は。この世界に花形は今、いないもの。…でも、皆怠惰でモブキャラだからじゃあ動くのやあめた、ってさ。それでもこの世界は成り立たないよ。分かるかなあ分からなくてもいいけれど。死にたいなら駅にでも行けばいいさ。」
「駅じゃなくて、あっちの話をしているんだけど。」
「ふうん。」
あまりにも気のない返事で拍子抜けしてしまう。また魚が泳いできた。今誰がバナナを部屋の窓から吊るして魚を釣ろうとしているんだろうかと考える。どうせ魔法使いだろう。彼は暇人だから。
「かげ町に近いのは裏通りだよ。多分ね、うん、確か。ふふふ。」
不気味な笑い声だ。悲愴は口に手を当てて嬉しそうな、取ってつけた笑い声を溢すとそのまま彼は立ち上がって階段を下りて行く。
「君はきっと行けるよ……なんとなく、分かるでしょ?ふふふ。行ったら感想教えて。僕、あそここわっくてさあ。」
白い紙と、黒いペン。拙い数字が、思い出された。