女子のかおり
私のクラスは、比較的平和なクラス。イジメらしいイジメもなく、グループ間のいざこざもない。でも小学校の時のような雰囲気でただ純粋に仲が良いクラスだというわけでもなくて、破ってはいけないルールがあってその上を皆が皆狡賢く生きているような世界。校則や人間の常識と言ったものではなく、思春期特有の友人関係の彼是だったり、会話だったり。かといって上辺だけの付き合いというわけでもない。仲のいい子とは他の悪口を言い合ったり、好きな人のお喋りをしたり。ひそひそ、耳打ちでの会話。勿論その中にもルールはある。自分だけいい顔をしないこととか、度の過ぎた嘘を吐かないこととか。そういうルールは今までの経験で分かったり、このクラスのちょっとした事件で決まったりしている。窮屈ではあるけどそれがきっと世間っていうものなんだ、大人の世界なんだって、皆そう思っている。私もそう思っている。大人には子供のことは分からない、なんてことを言うバカな人はこのクラスにはいない。少しだけ大人びていて諦めが早い、所謂物分りのいい子の集まりだった。良い意味でも、悪い意味でも。
そんな私たちのクラスで、一人だけ可笑しな人がいる。一年の頃から少し浮いている人(この学校のクラスは持ち上がり)で、多分、このクラスで唯一ルールから外れている人だった。そんな人がいるのにどうして平和なクラスなのかって、彼はむやみやたらに色んな物を壊すようなタイプの人ではなかったから。彼に関する何かで彼の気に障ることがあれば遠慮なく注意したり何かを言ったりするけれど、彼はそれ以外のことにはとても無頓着だった。無頓着、な、ように見えた。私が彼の接点が出来るまで、そう思っていた。
三年生になった。このクラスはとてもいいクラスだから、受験勉強だといってピリピリと神経質に他人を攻撃するような人はいない。先生達はそんな私たちを見てちゃんと勉強しなさい、と釘を差したのだけれど誰も勉強していないわけではなかった。それから出席を取り始めたのだけれど、いつも先生の声に返事がない場所は決まって彼のところだった。彼は夏休みの少し前から9月いっぱい、毎年学校を休む人だった。
彼は変な人だった。夏も一人だけ長袖を着ているのに、涼しい顔をしていた。涼しい顔、というか青白い気分の悪そうな男の子。そしてとんでもないくらいに綺麗な人だった。格好いいとは違っていて、渋い俳優ともアイドルみたいな爽やかなかんじとも違っていた。彼は誰にも似ていない。強いて言うなら、女の人の彫刻の丸みをすべて彫刻刀で荒々しく削げ落としたかんじ。彼はなんだか、この世界とは違う世界にいるような美しさをしていた。きっとそれは彼の外見だけでなく、彼というもの全てを加味したものだと思うけれど。
私と彼の接点が出来たのは、一年生の時のプールの後の授業の休み時間だった。二年も前のことをそれだけ覚えているのは、彼の会話が私の中で色あせない思い出になっているからだと思う。彼とまともに言葉を交わしたのは初めてで、彼の声まで現実味がないほど綺麗だったから、私は何故か恥ずかしくなってとても顔が熱かったのを覚えている。
「僕、君みたいな人には好感が持てる。女の子って生き物はどうして自分をエロく見せたいのか全く意味が分からないんだ。君だけだよ、水泳の授業の後、綺麗に髪を乾かしていたのは。僕ね、女の子の髪から滴った水が制服のブラウスに落ちて肌が透けるだろう?あれを見るとすごい吐き気がするんだ」
綺麗な声で、抑揚のない声で、しかし彼は早口にそう捲し立てた。てっきり彼みたいな綺麗な人は色んな所に余裕があるものだと思っていたから、少しだけ驚いたけどなんだか少し可愛く思えた。私が別次元の人かと勘ぐっていた人は、やっぱり少し可笑しかったけれど普通の人なんだって。
「私、今日、水泳の授業休んだの」
そう言ったら今度は彼が目を丸くする番だった。顎を引いて視線を左へと流しながら、椅子の背凭れを指でなぞった。切り揃えた爪は桃色で、指は細くて、やっぱりすごく綺麗だった。彼には繊細って言葉がきっと似合う。誰かにそんな印象を持ったのは初めてだった。
しばらくしてから彼の視線は私に戻ってきた。すごく綺麗な目だった。汚れた物なんて、何にも知らない目だった。少し怖くなって、目を逸らす。
「女の子の日だ」
明け透けにそう言ってくる彼にまた私は驚かざるを得なかった。何故か綺麗な目はきらきらと楽しそうで、少しだけ前へ顔を突き出して、私の耳に唇を寄せた。
「僕ね、排卵日の女の子って嫌いじゃないんだ」
彼は大体一年中同じ服装をしている。長袖のシャツに黒色のカーディガン、第一ボタンまでしっかり留めてネクタイを締めている。彼は、私たちのクラスでは浮いている存在だったけれど、彼を良く知らない人たちからすれば綺麗で美しい彼氏にしたい人、の対象だったらしい。だから彼はよく女の子に呼び出されていた。でも、その誰も嬉しそうな顔をして戻ってくる子はいなかった。怒るか泣くか、曖昧に笑う子ばかりだった。
図書室へ行った時彼がいたから、その手の中にある本を見て首を傾げた。有名な作家さんだけれど、難しそうで読んだことがない本だった。
「僕、女の子ってあまり好きじゃないんだ」
と、彼は言った。入口から遠い本棚のとある列。私たちの他には誰もいなかったけれど、誰にも聞こえないというわけではなかった。彼は相変わらずの無表情のまま淡々と言った。
「気持ちが悪いから。話しただけで赤くしたり怒ったりするだろう。その反動で何かしらの作用が働いて子供が出来ちゃうんじゃないかって思うと、ものすごく気持ちが悪い」
本の表紙に視線を落としながら発せられた彼の言葉はまるで小学生の無知な子の台詞みたいで、少しだけ笑ってしまった。彼は一瞬こっちを見ておどけるように肩を竦めたから、私は少しだけ安心した。
「…セックスしないと子供が出来ないことくらい僕だって知ってるんだけどさ」
なんてわざわざ付け加えたから、頷いてあげた。
私は、このクラスの中で浮いてはいないけど避けられている方の人種だった。仲の良い子は一人だけいたけれど、彼女は途中で転校してしまった。何故避けられているかって、私の外見がとても気持ち悪いからだった。
だから私は夏休みがあけてしばらく、10月になってシャツのボタンを第三ボタンあたりまで外してみた。それから彼が私に話しかけてくることはなくなったし、彼はこの教室へ足を踏み入れることすらなくなった。女というものを匂わせれば彼のこのクラスの中の居場所がなくなる。気持ちが悪いから。これまでは女ではない私がいた。でも私は馬鹿だから、彼のことを好きになってしまった。でもその感情を少しでも彼に悟られてしまったらその途端、彼は私の気持ちすら気持ちが悪いというのだろう。そんな純粋なものを否定されることくらいなら、と、私は私と彼の為に嘘をついた。正直シャツから覗く胸元は私自身で見ても滑稽だったけれど、何故か私は思ったのだ。
彼をここから逃がしてあげなくちゃ、って。