噎せ返る
ハ、ハ、ハ、ハァ―――
濡れた烏のような黒い髪、黒い髪、黒い獣の影が蠢いている。卑猥な音で水を啜るその唇だけでなく、頬も、シャツの襟も、生臭い血の匂いに初めの頃は何度も嘔吐した。その度に彼はついてこなくていいと言ったけれど、彼の食事の度に俺も一緒に外に出た。彼の殺し方はとても危なっかしく非効率的。それは彼が人間の暮らしに慣れておらず、理解しえない次元の為彼は彼の単調な食事を続けて来ていただけの話だった。
「…美味しい?」
ぽつりとそう聞いてみれば血に濡れた黒い前髪からぎょろりとした瞳が覗く。普段は青色の澄んだ其が赤く食欲の色に澱んでいて、少しだけ、怖くなる。唇から覗くやけに鋭い犬歯は牙を剥くようにして唇の端も威嚇するよう震えたけれど、一つ、瞬きをすれば彼は理性に支配されたようだった。嗚呼、残念だと思った。
「……別に君、君が殺さなくたって僕は一人でだって大丈夫なんだよ。」
「あなたが一人ですると、すぐに捕まりそうになるんだもの。」
「それもそうなんだけどね。」
軽口のつもりなんだろうけど、彼は決して笑わない。愛想笑いも浮かべやしないし、笑気交じりの呼気すら漏らしたことがない。食事の合間声をかけてしまったからどうすればいいのだろう戸惑う彼から目線を外して閉口し、暫くは彼の視線を感じていたけれど彼は再び食事に戻った。彼の口にする肉を捕ったのは僕で、殺したのも僕だった。彼の一番のご馳走は処女の女らしいけれど、そういう年頃の女性の中でも「いなくなって構わない」人はほんの一握りで、初めはそれに拘っていたものの結局は男だったり処女ではない女だったりでどうにか彼の空腹を満たしている。彼は、人の血肉を食事とする生き物だった。恐らく人間ではなく闇の眷属と言われるもので、聞き及ぶ中では吸血鬼というものに限りなく近いのではないかと思っている。
それ、は、処女ではないが女だった。可哀そうな女だった。夜の飲み屋で働いてはそこの客に体を売り、文字通り身をすり減らして生きている女だった。彼は基本夜行性だけど最近は空腹が祟って二日三日と眠りこけることもあり、この町に来て最初の頃は彼と生活の時間がほとんど同じになっていた為夜の街に繰り出すことが多かったのだ。そこで彼女と出会った。くるくるとした茶色の巻き毛にも血が付着している。むせ返るような、吐き気のする、血の匂い。彼は首を食べて、もはや彼女は頭と胴体首の皮一枚で引っ付いているだけでいつ頭が地面に落ちるともしれない。茶色の髪が徐々に傾いていく。女を口説くのは慣れてしまった。旅人ということもあるし、町の人間とは違う空気に田舎の女は酔いやすい。殊更、彼女はとても可哀そうな女だったからあれこれ言いくるめ二人で生きて行こう君も連れて行きたいなんて言えば簡単に目に涙を溜めて喜んだ。そうして仕事もやめさせたし家も引き払わせた。傍らに、大きなトランクがある。彼女の荷物、彼女の生きた証。女性の物としては質素な茶色で、しかしながら傷はない。可哀そうな彼女がどこにも行くことが出来なかった証拠でもある。そうして彼女との逢瀬の場所に、――否、彼の食事の場に彼女を呼び出した。それだけの話だ。
彼は柔らかい場所が好きらしく、女性の乳房や腿なんかを好んで食べた。本当は眼球も食べたいのだろうけどそれを見た僕が何度も失神したからそれ以来舐めたり齧ったりするだけに留めている。美味しいの、と青い顔で聞けば彼は美味しいよ、と答えた。ほかの場所と歯ごたえが違うからかな、とも付け加えた。
「このまま町を出ようか、暫くしたら雨が続くんだって聞いたよ。」
そう言っても彼は食事に夢中で、僕の方を向いてはくれない。それがなんだか微笑ましく、そしてとても愛しいと思った。




