第3話
「……アスラ」
悲しみに満ちた声と共に、リーゼが台座の上のアスラの頬に優しく触れる。
ふたりへの罪悪感から思わず目を背けたくなってしまうが、アスラを死なせてしまったのは他でもない俺だ。自分が招いてしまった現実から目を背けるわけにはいかない。
しばらくすれば、きっとリーゼはこちらに意識を向けてくるだろう。そのとき、冷たい視線を向けられたり、罵倒されたりするかもしれない。場合によっては、俺を殺しに来るかもしれない。だがたとえそうなったとしても、俺は彼女の行動を受け入れるつもりだ。アスラを死なせてしまった罪の償いは、俺が自分から提案していいものではないのだから。
長い沈黙の後、リーゼはアスラを力強く抱き締める。ただ抱き締めた時間は、ほんの数秒。それが彼女の最後の挨拶だったのか、すっとアスラから離れて口を開いた。
「…………彼は勇敢に戦い、この国のために尽くしてくれました。可能な限り手厚く弔ってあげてください」
普段の声とは言いがたいが、震えは全くなかった。今も……いや冷たくなったアスラと再会してから、リーゼは涙を流していない。彼女は大切な人の死に慣れているのか、とも思ったが、それは握り締められた拳が違うことを証明していた。
本当ならリーゼは感情のままに泣きたいはずだ。だが周囲には人が居る。アスラの死によって絶望が充満しつつあるだけに、皇女として強く振る舞わないといけない。そんな風に彼女は思っているのだろう。
アスラが持っていた剣だけをこの場に残し、彼は兵士によって運ばれて行った。見送った後、リーゼは予想していたとおり俺のほうを向いた。ただ彼女の顔は、全く考えていたものとは違って優しい笑みだった。
「シンクさん、ありがとうございます」
「ありがとう? ……何で」
「アスラの最後を看取ってくれたんですよね。それに私も助けていただきましたから」
殺されそうになったとき、もう一度リーゼの笑顔を見たいと思った。だけど、この場に限っては俺の最も苦しめるものでしかない。
「おい、姫様が話しかけているんだ。反応くらいしたらどうだ」
感情があまり感じられない声を発したのは、氷の芸術と言えそうな冷たさと華やかさを併せ持つ美貌の持ち主。名前は確か……ラヴィーネと言っただろうか。彼女とは戦場で話をしたはずだが、あまり覚えていない。敵を薙ぎ払い、俺とアスラを連れ帰ってくれたことと治療を受けさせてくれたことだけははっきりと分かるが。
「ラヴィーネ、構いません」
「ですが」
「シンクさんは何度も私を助けてくれた友達です。それに、彼は召喚に巻き込まれる形で戦場飛ばされた一般市民なのです。錯乱していないだけでも充分に凄いことでしょう」
「……違う」
俺の低く掠れた声に、ふたりの意識はこちらへと向いた。
「友達? 一般市民? そんなの……違う」
否定の言葉に、ラヴィーネは警戒してか敵意のある瞳を向けてきた。一方リーゼは、悲しげな顔を浮かべて「どうしてそんなことを言うのですか?」と視線で問いかけてくる。
「俺は……あなたからアスラを奪ってしまったんだ。あなたに守ってもらえる資格がある人間じゃない」
「シンクさん……そんなに自分を責めないでください」
リーゼは近づいてくると、先ほどアスラにしたように俺の頬を触れてきた。上に立つ者としての振る舞いなのか、俺の境遇に同情しているのか、はたまた純粋に彼女の優しさなのかは分からない。だが何であれ、複雑かつ我慢ならない感情に襲われた俺は彼女の手を払いのけた。
それを見たラヴィーネが動こうとするが、すぐにリーゼが制した。あくまで何もしようとしない彼女に、俺は無意識に口を開いていた。
「何で……何でそんな風に振る舞えるんだ。アスラを殺した人間が目の前にいるんだぞ!」
「アスラを殺したのは裏切った兵士であって、あなたではありません」
何でそんな風に言えるんだ。俺さえいなければ、アスラが死ぬようなことはなかったはずなのに。どうして……どうして君は俺を責めないんだ。
「アスラは俺を庇って死んだんだ。俺が殺したようなものだろ!」
俺の叫びにリーゼは、首を横に振った。彼女は頑なに俺の考えを認めるつもりはないようだ。
――わざと俺が苦しむようにしているのか? ……いや、リーゼがそんなことをするはずない。
そのように思えるのは、リーゼが今回の一件の発端は自分に責任があると言っていたからだ。
俺が思っている以上に、リーゼは自分のことを責めていたに違いない。そして今も、きっとアスラを死なせてしまったのは自分だと責めている。だから彼女は、俺にひどい仕打ちをするどころか優しくするのだ。そうでなければ説明が付きそうにない。
とはいえ、そのような理屈が分かっても自分のことを責めるのをやめられなかった俺は、無意識の内に呟いていた。
「何でこうなる……何でアスラは、俺みたいな奴を助け――」
衝撃を頬に感じるのと同時に乾いた音が鳴り響いた。
突然の出来事に何が起こったのか理解できなかった。だが、ずれた視線を戻すと泣きそう顔でこちらを睨んでいるリーゼが見えた。そのとき全てを理解する。俺は彼女に叩かれたのだ。
「――アスラの死を……無駄死にのように言わないでください」
「……ごめん」
「いえ……私も叩いてすみませんでした。ですが、もう同じようなことは言わないでくださいね。アスラがあなたを助けたのはきっと意味があるはずですから」
リーゼは最後に一度微笑むと、ラヴィーネのほうへと歩き始めた。俺は彼女から視線を落とし、自分の手の甲に刻まれた紋章を視界に移す。
――アスラが俺を助けた意味……そういえば、これを見たとき笑ってたな。
この紋章がどういう意味を持っているのか、今の俺には分からない。しかし、きっと何か意味があるはずだ。それを知れば、俺にもできることが見つかるかもしれない。
リーゼから許されてしまったようなものだが、このまま何もなかったように生きられるほど俺は自分自身を許してはいない。アスラが為そうしていたことを全て為す。それが俺のすべき償いであり、戦いだろう。
「色々としなければなりませんね」
「はい。隣国の裏切りやアスラの死によって兵や民には不安が広がっております」
「国ごと潰しに来る可能性がある以上、まずはそこから手をつけないといけませんね。となると……まずは魔剣の継承者を見つけなければ」
「姫様、その件ですが……すでに継承者はいます」
「え……それは本当ですか? いったい誰が……?」
ふと視線を上げると、ラヴィーネの視線がこちらへ向くのが見えた。それに釣られる形で、リーゼも俺のほうへ顔を向ける。視線が重なったあと一瞬の間をおいて、彼女の表情に驚愕の色が現れた。
「シンクさんが……ラヴィーネ、どうして彼が継承者だと?」
「彼の両手の甲に紋章があるからです」
ラヴィーネの返事を聞いたリーゼは、足早にこちらへ近づいてくると俺の両手を握った。会話の内容がところどころしか聞こえてなかったために疑問を抱いたものの、どうやら手にある紋章が関係していることは理解できた。
「シンクさん、これは?」
「え……ああこれは、アスラが死ぬ間際に剣を渡してきたんだ。それで受け取ったら……闇と炎みたいなのが手を包んで」
そこまで言うと、リーゼは俺の両手を力強く握り締めた。体を小刻みに震わせたかと思うと、傍に居る俺にしか聞こえない声でアスラは無駄に死んだわけじゃなかった、といった言葉を口にした。
アスラも死ぬ間際に魔剣に認められるだけでなく、紋章まで刻まれたかと口にしていたが、いったい何を意味しているのだろうか。
「リーゼ、できればこれの意味を教えてほしいんだが」
「すみません……そうですよね。シンクさんが握った剣は魔剣と呼ばれるものなのですが、魔剣がどのようなものかご存知ですか?」
「いや……名前からして何かしら力を持った剣とは思うけど」
「それで大体合っていますが、具体的に説明しておきますね」
リーゼが言うには、魔剣と呼ばれる武器は持ち主の魔力を糧に宿した力を発揮する。ただ力を宿しているだけあって、意思のようなものが存在しているのか持ち主を選ぶらしい。
「誰でも能力を使えるってわけじゃないんだな?」
「はい。特にあの二振り、底知れぬ闇を宿した漆黒の剣《ナハト》と煉獄の炎を宿した紅の剣《イグニス》は、既存する魔剣の中でも最高位のものとして知られています。強大な力を持つが故に剣の意思も凄まじく、気に入らない者が持てば命さえ奪いかねません」
真剣みのある顔と声に、言っていることが嘘ではないというのは明らかだ。それに撤退する際にラヴィーネは、あの魔剣達を俺に運ぶように言ったことからも事実だと思われる。。
命の危険があったというのにアスラは俺に魔剣達を渡してきたのか……、という思いは芽生えたものの、彼は無愛想に見えるが優しい心を持っていた青年だ。無闇に命が危険に晒される行為を他人にさせるとは思えない。きっと俺なら大丈夫という確信があったのだろう。
「ということは、何もなかった俺はあの2本から嫌われてはいないってことか」
「そうですね。嫌われているどころか、とても気に入られています」
その言葉が気になった俺は、紋章のことも含めてリーゼに尋ねた。
「紋章は魔剣が特に気に入った者だけに刻む証です。紋章を刻まれた者は、自分の魔力を糧に宿った力を使用することができます。最初の持ち主である初代ルシフェルの血を引く私やアスラと、あの剣達に触れられる者はいましたが、紋章を刻まれたのはシンクさんだけです。歴代の魔王達の中でも初代を含めた数人しかいないと文献にあったので、とても珍しいことなんですよ」
と、言われてもこの国の歴史を知っているわけでもなければ、ここで育ったわけでわけでもない俺には実感が湧かない。そのため喜んだりできそうにはない。
それに、リーゼの言葉の中には気になったことがあった。
――あの魔剣達の所有者は、全て魔王だったみたいな言葉を口にしてたよな。もしかしてあの魔剣の所有者が王の座に就いているのか?
「なあリーゼ」
「何でしょう?」
「あの魔剣達は王位の継承に必要なものだったりするのか?」
「シンクさんは察しがいいですね」
リーゼは俺から離れ、残されていた魔剣達に触れようとする。初代魔王の血を引いている彼女は、触れても問題ないと言っていたが、それは俺が紋章を刻まれる前の話だろう。もしも紋章を持つ人間が現れたことで何かしらの変化が起こっていたならば、彼女の身に危険が及ぶかもしれない。
そう思った俺はリーゼに話しかけたが、彼女は微笑み返すと何事もないように魔剣達に触れた。結果、彼女の身に……何も起こらなかった。
「納められている鞘には封印の力が宿っていますから、この状態なら誰が触っても問題ありません」
「……だったら先に言ってくれ」
「ふふ、すみません。それと、心配してくれてありがとうございます」
心配するのは当たり前だ。俺はアスラにリーゼのことを頼まれたのだから。
「続きになりますが、この国の王となる者はこの剣達の所有者でなければなりません。言わなくても分かるでしょうが、紋章は刻まれている必要はありません」
「……ということは、アスラは」
「はい……彼は今回の会談が終われば、正式に魔王に即位する予定でした」
つまり、俺はリーゼだけでなくこの国で生活を送る人々から大切な人を奪ってしまったことになる。アスラの代わりに、と思っていたが、あまりにも超大な重圧に両膝から崩れそうになってしまう。
アスラを話題の中心にしてしまったせいか、リーゼは沈黙してしまう。悲しみの帯びた無言の時が流れる中、俺は罪の大きさを噛み締めるように体を支え続ける。その時間は現実では数分だったのだろうが、俺には数十倍の時間に感じられた。
「姫様、アスラが死んでしまってすぐに酷なことを言うようですが」
「分かっています……シンクさん」
「ん?」
「お聞きしたいことがあるのですが……恋人はおられますか?」
あまりにも唐突な質問に俺の脳は一瞬停止した。再起動後、今の言葉の意味を理解しようと全力で思考するが、言葉を口にするよりも前に首を横に振ってしまっていた。
「それは良かったです」
「良かったって……」
リーゼが何を言おうとしているのか、おそらく俺の脳は理解している。だがその内容が内容だけに納得しようとしていないのだ。
「いたら……何か困るのか?」
「困る……というよりは申し訳ないと思ってしまいますね。シンクさんには魔王に……私の夫になってもらわないとなりませんから」
アスラを殺してしまった俺が……アスラの代わりにリーゼの夫になる?
魔剣や王位継承の条件を聞いたときから予想はしていたが、はっきりと言葉にされるとやはり精神的に来るものがある。
「本気で……言ってるのか?」
「はい」
一瞬の間さえなかった。
俺はリーゼの皇女としての迫力に押されるように数歩後退し、現実を受け入れたことを証明するように両膝を地面に着いて項垂れた。
直後、こちらに近づいてくる足音。目の前で立ち止まったかと思うと、誰かの顔が耳元に来た。視界に映る長い銀髪からしてリーゼではない。
「言っておくが、貴様に拒否権はないぞ。アスラ亡き今、使い物にならない王だとしても、この国には希望となるものが必要なのだ」
「……分かっているさ」
「ならば何故項垂れる? それに正直な話、貴様からすれば都合の良い話ではないか。今までの暮らしからすれば良い暮らしができるはずだ」
確かにラヴィーネの言うとおり、リーゼの夫になるということはこの国の王になるということだ。小国とはいえ、これまでに送ってきたものより裕福な生活が送れることだろう。だが
「そんなものはどうだっていい」
俺が堪えられないのは、リーゼが自分の心を殺し皇女として振る舞っていることだ。大切な人を失ってすぐに違う男を夫にする、なんて彼女だって本当はしたくないはず。これは、平民だろうと王族だろうと同じはずだ。
ただこれを言葉にしたところで、リーゼやラヴィーネからは政略結婚だって存在している。王族で好きな者と一緒になれることは少ない、といった返しが来るだけの気がする。
――もうグダグダと考えるのはやめよう……俺は選択できる立場にはいないんだ。リーゼが望むのならば、魔王だろうが夫だろうがなってやる。
それが俺の罪の償い。だからリーゼと夫婦になろうと、俺はあくまで夫役――魔王を演じるだけだ。彼女の心を犯すような真似はしない。
そう強く決意した俺は顔を上げた。動く気配を感じラヴィーネは即座に距離を取る。立ち上がった俺は、真っ直ぐリーゼを見つめる。
「答えは出ましたか?」
「ああ」
「声から察するに、了承していただけるのですね?」
「もちろん。……見知らぬ場所に飛ばされて路頭に迷うところを拾ってもらったんだ。こんな俺でいいのなら好きに使ってくれ」
「分かりました。ではシンクさん……いえシンク、今日からよろしくお願いします」
優雅に挨拶をしてみせたリーゼの顔は、出会った頃の温かみのあるものではなく、感情を殺したような冷たいものに見えた。