第2話
日が昇り始めた頃、前日に言われていたとおり移動が始まった。
これまでに経験がない起床時間だったわけだが、寝る時間が早かっただけに歩き始めてすぐ眠気は消え失せた。
いきなり訳の分からないところに放り込まれた挙句、命の危険に晒されて負傷までしたっていうのに……自分で思ってたよりも俺は神経が太いのかもしれないな。
「よく眠れましたか?」
話しかけてきたのはリーゼミレア。向けてくれている笑顔は、見ているだけで元気が湧きそうな気がするから不思議だ。
ただ彼女は、兵士達の言動からして相当身分の高い少女だと思われる。また周囲にいる兵士達からは、敵として扱われてはいないが信用されてもいない。疑いの眼差しを向けられているのが現状だ。少しでも失態を犯せば死へと繋がる危険性がある。
「はい。ルシフェルさんの手当てのおかげで」
「私の手当てなんて大したものじゃありませんよ。でも眠れたのなら良かったです……あっ、それと私のことはリーゼで構いませんよ」
独りになってしまったこともあって、親切にしてもらえるのは実に嬉しいしありがたいことだ。だがしかし、その相手の身分が高いとなると困ることもある。
――確認してはいないが、周囲からの視線が鋭くなったような気がする。
当然といえば当然の反応だろう。
周囲からすれば、俺は突然現れた正体不明の男。そんな人間が彼女と親しげにしていたならば不安になるだろうし、心配もするはずだ。立場が逆だったならば、俺だって似たような感情を抱くはず。周囲からの視線は、甘んじて受けるしかない。
「それは……ちょっとさすがに」
「私のこと、リーゼと呼ぶのは嫌ですか?」
「いや……嫌とかじゃなくて」
周囲の人達に悪いというか反応が怖いから。
などと、言おうものならば、きっとこの少女ならば兵士達に何か言うだろう。それはそれで嫌な展開だ。引き下がってくれないだろうか、と願っていると第3者の声が聞こえてきた。
「諦めろ。呼ばない限り、リーゼは折れない」
会話に入ってきたのは、この場にいる人間で唯一少女と対等に話すことができるアスラだ。彼は助け舟を出してくれたのだろうが、個人的には助け舟になっていない。だからといって文句を言うわけにもいかないため、俺ができる選択はリーゼと呼ぶことを承諾する他にないのだろうか。
「折れないんですか?」
「ああ、折れないな」
「アスラ、人のことを駄々をこねる子供みたいに言わないでください」
アスラ達は、そこから痴話げんかのような会話を始めてしまう。ふたりの仲に嫉妬めいた感情は抱きはしないが、近くにいるのは非常に気まずいというか場違いな気分になる。
とはいえ、このふたり以外と話したことはなく、また兵士達からは警戒や疑問を抱かれているのが現状だ。変に距離を取れば面倒な展開になるかもしれない。ここに来てからというもの、俺には選択肢がなさ過ぎる。
「確か……シンクだったな?」
「え、はい」
「お前が言っていた4人だが、出来る限り聞いてみたが見た者はいないようだ」
リーゼに用があって来たのだとばかり思っていたが、どうやら違ったらしい。兵士の数だって見ただけでも3桁には上っているはずなのに、昨日の今日でやってくれるあたり親切な人だ。まあ戦争が行われているここでは、これくらいのことは朝飯前にできるのが普通なのかもしれないが。
「……そうですか」
「あまり気落ちするな。お前のように巻き込まれたのならば、あのへんにいたはずだ。目撃者がいないということは、召喚が指定されていた場所に飛ばされた可能性が高い」
さらりと言われているが、俺のいたところに魔法のようなものは存在していなかった。常識のように言われてもきちんと理解できるわけがない。しかし、魔法の理屈が分からなくてもアスラの言いたいことは分かった。
――俺だけあそこに飛ばされて、他の4人は一緒にいる可能性が高いってことだよな。
4人がどこに召喚されたのはか分からないが、星也がいるのならば大抵のことは乗り切ることができるだろう。それに、指定されていた場所が俺のように戦場だったとは考えにくい。彼らは俺よりも安全である可能性が高い。
きっと心配して……下手をすれば探し回っているかもしれない。俺もそうしたい気持ちはあるが、今俺が置かれている状況は迂闊な行動が死へと繋がる。下手に動けば、親切にしてくれているアスラやリーゼにも迷惑がかかってしまうだろう。
彼らは見捨ててもいいはずの俺を助けてくれているのだから、恩を仇で返すような真似はしたくない。
「もう、そこはきっと大丈夫だって言ってあげなきゃダメじゃないですか」
「無事が確認できていないのに言うのは間違っているだろ」
「シンクさんは見知らない場所に飛ばされて、お友達ともはぐれて不安なんですよ。余計不安にするようなことを言うものじゃありません」
「だったらお前が一緒に居てやれ。うろちょろされるよりずっと良い」
アスラはそう言い残すと、この場から足早に去り始める。リーゼは彼の背中に頬を膨らませた顔を向けているが、何か効果があるかと聞かれたら全くない。しいて言えば、彼女の意外に子供っぽい一面に俺の心が多少なりとも和んだくらいだろう。
「うろちょろって……シンクさん、私うろちょろなんかしてませんよね!」
「え……いや、その」
「あっ、すみません。昨日会ったばかりなんですから分かりませんよね」
顔を赤らめるリーゼは、正直に言って可愛らしい。それだけに嫉妬めいた感情を抱いた者に何かされるのではないか、と不安になってしまう。
そっと周囲を確認してみると、俺の視線に気づいた兵士は一瞬だけこちらを見てきたが、すぐに前を向いた。見た限り、誰もが俺よりも疲労しており、無駄な行動をするような雰囲気ではない。
――……冷静に考えたら当たり前か。
リーゼが明るく話しかけてくるので忘れそうになるが、ここにいる人達は撤退している。昨日よりも前から行っていても不思議ではないし、敵に追いつかれれば戦い、生き延びては野営の準備をする。鍛えているだろうが、それでも何もしていない俺よりも疲れているのは当然だ。
戦場へと飛ばされた俺は、とても運が悪いのかもしれない。だがそれでも、訳の分からない状況にも関わらず命を繋げたのだから、逆に運が良かったと言える。星也達と再び会うにしても、まずは生き延び続けることが第一だ。たとえどんなに怪我をしても……生きていれば可能性はゼロにはならないのだから。
包帯が巻かれている左腕に触れながら考えていると、綺麗な手が視界に入り俺の手に触れてきた。意思を手の持ち主のほうへ向けてみると、心配そうにこちらを見るリーゼがいた。
「痛むんですか?」
「いえそれほど……ただこんな怪我を何度しても生き続けたいって思っただけで」
「……すみません」
俺がここに来てしまったことにリーゼは何も関係していない。彼女が謝る必要はないはずだ。
「何で謝るんですか? 俺がここに来たことにあなたは関係ないでしょう」
「確かにその点についてはシンクさんの言うとおりですが……怪我をさせてしまった、いえ争いに巻き込んでしまったのは私です」
これまでと打って変わって、リーゼは申し訳なさそうな顔で小声で話し始める。
話によると、まずリーゼはルシフェル帝国の第1皇女だそうだ。身分が高いと思っていたこともあって、お姫様だと言われても何も疑問は抱かなかった。現状では彼女が国のトップに近いとも言われたため、緊張感は急激に高まったが。
「えっと……ルシフェルさんが」
「リーゼで構いませんし、もっと砕けた話し方をしてくださいませんか?」
「でも……」
「あなたはすでに私のお友達です。周りが何を言っても、私がどうにかしますから」
個人的にはそういったことはせず、今の距離を保ってもらいたい。というか、いつの間に友達になったのだろう……などと考えても仕方がないと思った俺は、諦めて彼女の要求を飲むことにした。
「分かったよ……リーゼ」
「ふふ……すみません、アスラも昔似たような感じだったので。そういえば何か言おうとしてましたよね。続きをどうぞ」
「じゃあ……リーゼが上ってことは……つまり」
「はい、すでに」
「その、嫌なこと聞いて悪い」
「いえ、気にしないでください。私のような若輩者が上の立場にいるのですから当然の疑問ですから」
にこりと笑うリーゼだが、その裏には悲しみが見えた。
会って間もないが、リーゼは明るく振る舞い続けている。それはきっと、人の上の立つ者として本当に抱いている感情を表に出すわけにはいかないからだろう。
年は俺とそう変わらないはずなのに、この華奢な体にはいったいどれほどの重圧がかかっているのだろう。いや、考えるのはやめておこう。今の俺では到底理解できないことだ。下手な同情は彼女を傷つけるだけだろう。
他に聞きたいことがあるか、という問いに首を横に振ると、リーゼは先ほどの続きを話し始める。
ルシフェルは魔国――ここでは悪いという意味ではなく、人間だけでなく他種族も住んでいる国を指すらしい――の中でも小国だそうだ。加えて、人間のみが暮らす聖国に隣接している。
聖国の人々は、指導者の影響か他種族に偏見や嫌悪を抱いている者が大半を占めるらしく、中には魔国を滅ぼしたいと考えている者もいるだろう、とのことだ。今回の撤退戦は、聖国に近いが一応魔国に入っている隣国との会談が発端らしい。
「その会談、罠とは思わなかったのか?」
「もしかしたら……という思いはありましたが昔から交流があった国でしたので」
「可能性だけで断りにくいか」
「はい……皆から危険だから断るように言われましたが、変に疑いを持って剣を交えることになってしまえば犠牲者が増えるばかりです。それに私のような若輩者は、自分から動いて話し合わなければ手を取ってもらうこともできないでしょうから」
強い想いを感じさせられる言葉に、リーゼが本当に平和を望んでいるのだと理解した。
凛とした顔をしていた彼女だが数秒の後、力のない笑みを浮かべながら続けて言った。
「まあ……守られてばかりの私が偉そうに言えることじゃないんですが。結果的に……私のわがままのせいで多くの人々を死なせてしまいましたし」
「……死んでいった人達は別にあなた……リーゼのことを恨んでたとは思わない」
「え……」
「誰だって自分の命は惜しいはずだ。なのに、危険だと分かっていても今回のことに同行したんだろ? それは君の想いに賛同してたってことだろ。そうでないなら、君を生かすために戦う道なんか選ばないはずだし。君のやろうとしてることは《想い》だけで難しいことだろうけど、《力》だけでやるよりは遥かに立派なことだと俺は思う」
言い終わってから思ったのだが、俺は何を口走ってしまったのだろうか。兵士達と触れ合ったどころか、ここの常識さえ俺にはない。話が話だけに、自分勝手な想像で返事をするべきではなかった。
「その、悪い。知らないことばかりなのに勝手なこと言って」
「いえ……ありがとうございます」
お礼と共に向けられた笑顔に胸が高鳴ったが、リーゼにはアスラがいる。それにここでの俺の立場は、おそらくだが平民と変わらない。彼女とは本来なら気軽に会話もしてはいけないはずだ。
おかしな感情を持たないように自制をかけていると、後方から爆発に似た音が響き耳を貫いた。反射的に振り返ると、「敵襲だ!」と兵士達が騒ぎ始めているのが見える。
「ルシフェルまでそう距離がないのに……」
驚きと悲しみに満ちた声に耳に届いた。どうやら敵は、何が何でもリーゼを抹殺したいらしい。
国を動かしているのは若いリーゼだけの力ではないはず。彼女を殺したところでルシフェルという国は滅びない……いや、血筋が途絶えてしまう可能性はある。そうなれば違った意味でルシフェルという国は滅んでしまう。
「――っ!?」
この場に向かって何かが飛んできている。そう思えるような音が聞こえた瞬間、俺は近くにいたリーゼを思いっきり突き飛ばした。直後、目の前に何かが着弾し爆ぜる。発生した爆風によって、俺は後方へと飛ばされた。
「シンクさん!?」
「姫様、急ぎお逃げください!」
「でもシンクさんが……!」
「あなたが死んでしまっては皆の死が無駄になるのです!」
痛みに耐えながら顔を上げると、兵士に連れられて行くリーゼの姿が見えた。こちらを見ながら抵抗しているようだが、俺は内心で兵士に早く連れて行くように願った。俺のところに来て死なれては堪ったものではないからだ。
負傷は地面を転がった際にできたかすり傷や打撲、左腕の傷口が開いたくらいで、爆発付近にいた割にはひどい怪我は負っていない。
「ッ……動けるだけマシだよな」
急いでこの場を離れようと、体に鞭を打って歩き始める。耳には兵士達の雄叫びや悲鳴、金属同士がぶつかり合う音、爆発といったものが響いてくる。体が竦みそうにそうなるが、立ち止まってしまえば命の灯火が消えてしまう。死への恐怖が何よりも勝っていたため、俺は足を止めることなく歩き続ける。
「うおおぉぉぉッ!」
突如として聞こえてきたこちらに近づいてくる雄叫び。振り返ると、そこには剣を振り上げている兵士の姿が見えた。身に付けている装備からして敵だとしか言いようがない。
――……ここで……死ぬのか?
死に直面したことによって思考が加速しているのか、次々と過去の出来事が蘇ってくる。生へと執着は強まるが、視界に映る凶器は徐々にだが確実に俺に迫ってきた。
斬られる。
そう思った瞬間、目の前にいる敵兵の背中から鮮血が舞った。倒れ行く敵兵越しに現れたのは、二振りの剣を持った黒衣の男――アスラだった。
「……とりあえず無事みたいだな」
「まあ……とりあえずは」
「リーゼはどうした?」
「兵士が先に連れて逃げましたよ」
返事をしたのだが、アスラは無言のまま俺を上から下まで観察している。
俺はところどころ怪我をしているが、昨日の戦場での言動を考えると優しい言葉が出るとは考えにくい。いったい何を考えているのだろうか、と思考を走らせているとアスラは小さく笑った。
「何ですか?」
「いや……リーゼに惚れたのかと思ってな」
「……こんなときに何を言ってるんですか」
「お前の行動はおかしい。戦の匂いがしない人間なのに、自分の身を犠牲にしてでも誰かを守る。それでも一度だけでなく何度も……」
アスラの言いたいことは大体分かった。確かに俺の行動は異常と言えば異常だ。本来俺のような立場になった人間は、パニックを起こすなり誰にも構わず真っ先に逃げ出すのが普通なのだろう。
――この人の言うとおり、惚れてるのかもしれないな。
リーゼは俺にとってここで最初に出会った人間で命を救ってくれた少女だ。それに俺なんかのことを気遣ってくれて話しかけてくれた。アスラがいるため惚れたとは言いがたいが、少なくとも守りたいという思いがあることは認めざるを得ない。
「まあ戦を知らないからできる行動なのかもしれないし、人助けが当たり前の場所で育っただけかもしれないが……何にせよ、リーゼを助けたことには礼を言う」
「そういうのは……あとにしませんか?」
「そうだな。お前に死なれてはリーゼから何を言われるか分かったものじゃない」
アスラは顔つきを変えながら「行くぞ」と言うと、リーゼが向かったほうへと走り始める。戦場に戻るのではないのか、と思いもしたが、ルシフェルまでそう距離はないという話を思い出した。周囲の兵士達も応戦しながらも撤退しているようなので、各自隙を見て撤退するように指示が出されているのかもしれない。
詳細は分からないが、逃げることしかできない俺が考えても仕方がないことだ。俺が今すべきことは、アスラに何が何でもついていくことだけだろう。
痛みに耐えながら走っていると、後方から敵兵の声が聞こえてきた。耳に届いた内容からして、どうやらアスラの首がほしいらしい。
「お前は立ち止まらずに走れ」
それだけ言うと、アスラは方向転換して敵兵へ向かって行った。大丈夫なのか、と思い首だけ振り返って確認してみると、一瞬にして数名の敵を斬り伏せる彼の姿が見えた。どうやら杞憂だったらしい。
アスラに守られながら進んでいると、道らしい道が見当たらない森に到着した。兵士達が通って出来た獣道は何個もある。全てが正しいのかもしれないし、どれかはフェイクなのかもしれない。
迷っている場合ではないが、間違った道を選ぶわけにもいかない。そう思った俺は、アスラが来るまで待つことにした。のだが――
「何ぼさっとしている! こっちだ!」
と、撤退中の兵士に声をかけられた俺は反射的にそちらへと向かった。進んでいると、妙に開けた場所へと出た。先行していた兵士は立ち止まると、腰にあった剣に手をかける。
強烈な違和感に襲われた俺は周囲を見渡した。すると、茂みの至るところが血で赤く染まっていたり、人の腕などが姿を覗かせている。身の危険を感じ、先ほどの場所まで戻ろうと動き始めようとした矢先、鈍色の刃が眼前に迫ってきていた。
「くっ……!」
紙一重で回避に成功することが出来たのは運が良かったとしか言えない。少しでも怪我の具合がひどかったり、身体能力が低かったならば俺の命の灯火は消えていたはずだ。
攻撃を避けられた兵士は驚きの顔を浮かべたが、それはすぐに気持ち悪い笑みへと変わった。弱いくせに楽しませてくれる、とでも思っているのだろうか。
「ルシフェルの兵士じゃないのか?」
「ルシフェルの兵士だがそれがどうした?」
「俺はともかく……周囲の兵士までやったのなら裏切りなんじゃないのか?」
「裏切って悪いのか? かつては魔国の中でも大国だったって話だが、今では小国。国の頂点はあんな小娘だ。そんなに長くは持たねぇだろう」
言っていることは人間らしいとも言えるが、その一方で人間性を疑うものだ。
とはいえ、そんなことを考えている暇はない。べらべらと会話してくれている間に、この場を切り抜ける方法を考えなければ。
――相手は鎧を着ている。走って逃げれば……いやダメだ。普段の俺ならまだしも、今は負傷している身だ。いつものように走れない。となると……俺に味方してくれる人間が来るのを待つしかない。
「諦めたらそこで終わりだと思うが?」
「世の中には努力だけじゃどうにもならないことだってあるんだよ。あんな小娘のために死ねるかってんだ。まあ……顔と体だけは良いから、ヤらせてくれるんなら考えてやらないわけでもねぇが」
下品な笑みを浮かべながら発せられた言葉に、強い怒りの炎が湧き上がった。他人に対して強い感情を抱くことは少なかった俺だが、目の前にいるこいつには反吐が出る。このような男がリーゼを好きにしていいはずがない。
「何だよその反抗的な目は? お前だって似たようなこと考えたことあるだろうが。お前の場合、あっちから尻尾振ってきてたんだしよ」
「お前みたいなクズと一緒にするな」
「アァ? ……殺したところで何の価値もねぇし、度胸あるみてぇだから仲間してやろうかなって思ったが、やっぱ……殺す!」
怒りを顕わにして襲い掛かってくる兵士。戦闘の経験なんて皆無ではあるが、あのお人好し会長に巻き込まれる形で強盗を逮捕したことがある。兵士の手に持たれているのは、そのときのようなナイフとは違って剣だが、怒りで大振りになっているため見切れないことはない。
「ちょこまかと……さっさと死ね!」
そう言われて死んでやるバカがどこにいる。
と、内心で毒を吐きながら必死に迫ってくる剣を避け続ける。だが身を捻って避けたとき、負傷していた左腕から強い痛みが走り、体が硬直してしまった。時間にしてみれば一瞬のことだったが、この一瞬がまさに命取りだった。
「グヘヘ……」
下品な笑みと共に振り上げられ、まさに今振り下ろされようとしている凶器。避けようとしたところで、斬り口が頭から肩に変わる程度だろう。
――ここまでなのか……。
恐怖から目を瞑った俺の脳裏に、星也達や両親の姿が浮かんできた。出会って間もないリーゼまで浮かんできたのは不思議ではあったが、それだけここに来てからの彼女の存在は大きかったのだろう。できることならば、最後にまた彼女の笑顔を見たいものだ。
「うぐっ……!」
聞こえたのは俺――でもなければ兵士の声でもない第3者の声。誰なのかと思い確認しようと思ったが、俺の体は声の主に抱きとめられる形で横方向に飛んでいた。地面を何度も回転、ようやく止まったかとまぶたを上げるとアスラの姿があった。
「平気か?」
急激な感情の変化から上手く言葉を発せられなかった俺は、首を縦に振ることで返事をした。アスラは一瞬だけ笑みを浮かべた後、意識を兵士の方へと向けた。
「まさか隣国だけでなく、兵からも裏切りに遭うとはな……」
「よりにもよってアスラ様に見つかる……いや、好機か。これまでの疲労だってあるだろうし、何より今出来た傷は深い。立ってるのだってやっとのはずだ」
「何をぶつぶつ言っている?」
「ああ……あんたの首を頂くって言ってたんだよ」
一段と気持ち悪い笑みを浮かべる兵士。強さで言えばアスラのほうが遥かに上だと思われるが……。
ふと視線をアスラへ向けると、背中が鮮血で染まっていた。転がってきた地面にも赤く染まっている部分がある。出血の量で言えば俺の比ではない。
声をかけようという思いに駆られるが、アスラの瞳には怪我人とは思えない力があった。加えて、すぐに彼が動き出したこともあって声をかけることはできなかった。
「寝言は寝てから言うんだな」
一瞬にして距離を詰めたアスラは、右の剣で敵の剣を弾き飛ばし、左の剣で兵士の首を断ち斬った。悲鳴さえ上がることなく終わったことから、まさに瞬殺。
生き永らえたことに安堵を覚えた直後、力強く立っていたアスラの体から急に力が抜けた。それを見た俺は、体の痛みを忘れて彼のほうへ走った。
「大丈夫か!?」
「大……丈夫とは、言えないな」
それが偽りでないことを、背中に回している右腕に感じる血の感触が証明している。血が止まりそうにないこと、命の灯火が急激な速度で消えかけていることも直感的に分かった。
「何で……何で俺なんか助けたんだ」
俺が死んだところで、ここで悲しむのは星也達くらいだ。リーゼも悲しんでくれるかもしれないが、結局のところ数人悲しむだけ。問題がないといえばないに等しい。
だがアスラは違う。
リーゼにとって大切な人であり、兵からも信頼されている。今後のルシフェルという国にとって必要不可欠な人間なのだ。無力な俺とは違う……。
「俺なんか……何もできない人間なのに」
「お前は……何もできない人間なんかじゃない。何度も……リーゼを救った」
「そんなのも偶々で運が良かっただけだ! 俺は……俺は無力な……!」
最後まで言えなかったのは、頬にアスラの手が触れたからだ。彼の顔には、とても優しげな笑みが浮かんでいる。まるで最後の力を振り絞っているかのように。
俺は、頬に触れているアスラの血に濡れた力のない手を力強く握り締める。傷が痛んだものの、そんなものは些細なことでしかなかった。
「シンク、お前は……無力なんかじゃない」
「何で……そう言えるんだ。俺は……」
「黒い髪に……紅い瞳。この二振りの魔剣の……最初の持ち主。ルシフェルを築き上げ……歴代で最強と謳われた初代魔王と…………お前は同じ特徴をしている」
アスラは俺から視線を外すと自分の力だけで体を支え、震える手で二振りの剣を握り締め、こちらに差し出してきた。
そんなことをしている暇があるのならば、生き残るために何かするべきだ。
とは、決して言うことはできなかった。死が迫っているというのに、いや迫っているからこそなのかアスラの瞳には有無を言わせない迫力があった。右手に漆黒の剣、左手に真紅の剣を受け取ると、それぞれの手に凄まじい重みがかかる。
その瞬間、左右の剣から何かが発せられ、体の中を探られるような感覚に襲われた。胸辺りに到達すると、何もなかったはずの空間をこじ開けられ、今まで感じたことがないものが体中に溢れ出した気がした。
直後、右の剣から漆黒の闇、左の剣からは紅蓮の炎が巻き起こる。それらは俺の両手を包み込んできたため、反射的に剣を手放しそうになった。だが一瞬で消滅してしまう。
いったい何だったのか、と疑問を抱いていると両方の手の甲に紋章のようなものが刻み込まれていた。より謎が深まる俺だったが、そんな俺を見てアスラは嬉しそうに笑っている。
「魔剣に認められるだけでなく……紋章も刻まれたか。やっぱりお前は……ぐっ」
血を吐くのとほぼ同時に、アスラの体から力が抜けていく。俺は両手の剣を投げ捨てるように地面に置くと、彼の体に手を回した。
「アスラ!?」
「もう……時間がないようだ」
「――っ、何か方法はないのか。ここには魔法みたいなものがあるんだろ!」
「治癒魔法……があったところで、どうせもう助からない……シンク」
「諦めるなよ! お前だってまだ……!」
「シンク……頼む、聞いてくれ」
アスラの声は、とても弱々しいものだったが、真剣さを感じさせるものだった。おそらくだが、これがアスラの最後の言葉になるだろう。そんな風に悟った俺は、黙って意識を彼に集中させた。
「何……だ?」
「リーゼを……頼……む」
それを最後に、アスラからは完全に力が抜けてしまった。無駄だと分かりつつも、呼吸や脈も確認してみたが、やはり止まってしまっている。彼は……死んでしまったのだ。
「……頼むって……リーゼはお前の女だろ。人任せに……するなよ」
俺は嗚咽を漏らしながら、アスラの体を強く抱き締める。何で、何で……と、考えている間に、彼から伝わる温もりはなくなっていった。




