第12話
俺は……死んだのか?
まぶたを上げて見えるのは、闇に包まれた暗黒の世界だ。記憶が正しければ、俺はリベルダ軍に向かって魔剣の力を解放し、最終的に気を失ってしまったはず。状況が状況だけに死んでしまっていても何ら不思議ではない。
だが意識がはっきりするにつれて、視界に映る闇も心なしか薄れ始め見覚えのある天井が見えてきた。下から伝わってくる感触は、ここ何日か俺が使っていたベッドに等しい。
「くっ……」
上体を起こそうとしたのだが、妙に体が重く感じた。とはいえ、動けないというほど強烈なものではない。ただ全身の筋肉が悲鳴を上げていることもあって、上体を起こすには両腕を使っても数秒かかってしまった。
窓から月明かりが射しているが、部屋の中は薄暗くおぼろげにしか見えない。だが感覚的に自分が使わせてもらっている部屋だと理解する。ベッドの脇には鞘に納められた魔剣達が立てかけられていた。
身に着けていたコートの類は脱がされている。近くにないことからして、洗濯されたかクローゼットに仕舞われたのだろう。
「……生きてるんだな」
だるさや筋肉痛、ベッドの感触などに生を実感した俺は自然とそう漏らしていた。死を覚悟していたとはいえ、いや覚悟していたからこそ今生きていることがこれほど嬉しいと感じるのかもしれない。
戦場の出来事を振り返ってみても、俺は気を失ってしまったのだ。外傷はないに等しい状態で戻ってこれたというのは運が良かったとしか言いようがない。
「……戦いはどうなったんだ?」
気を失う前の記憶から判断すれば、俺の放った一撃で戦力差は縮んでいたし、士気はこちらのほうが高かった。それに個々の能力で言えば、多種族であるルシフェル側が有利。城内に静けさが満ちていることからも、おそらく負けてはいないはずだ。
しかし、戦いである以上負傷者や死者は必ず出ているはずだ。
……気を失った俺を守って負傷したり、死んでしまった者がいるかもしれない。もしそうなら俺は……。
兵達は俺と違って戦の経験が豊富だ。覚悟だって俺と比べ物にならないほど出来ていたと思われる。ここに来てからの流れからして、責める者はほとんどいないだろう。
でもだからといって、何もないように過ごすことはできない。可能ならば礼を述べるなり、謝罪をしたい。もしもできない状態ならば……その罪を胸に刻んで、明日をより良くするために生きていく。それが俺の……魔王シンク・ルシフェルとしての償いのはずだ。
「くっ……ん?」
外へ出ようとした直後、扉が開いた。中に入ってきたのは、メイド服姿のノワールだった。ここ数日大人の彼女ばかり見ていたせいか、子供でメイド服を着た彼女が新鮮に見える。
「気が付いたか」
「あ、あぁ……」
「ん、どうした? ……漏れそうなのか?」
何でここでそんな質問が来るんだ。というか、お前も一応女なんだから直球で聞くなよ。本当は分かってるくせにふざけてるんじゃないのか。
そんな風に色々と思うところはあったが、体を支えるのにかなりの労力を強いられる今の状態では、これまでのようにすぐさま返事をすることができない。
「……違う」
「そうか……ならいい」
「何で……残念そうなんだよ」
「君なら聞かなくても分かりそうだが、まあ答えてやろう。上手く事が運べば、君のを見れたかもしれないからだ」
予想していたことだが、この金髪幼女はキリッとした顔で何を言っているのだろう。内容的に完全にセクハラのはずだ。いや、女からされているから逆セクハラになるのか……ここはどうでもいいか。
「そんなに欲求不満なら……男でも作ればいいだろうに」
「まあ君の言うとおりだが、私好みの男はなかなかいないからな」
俺の記憶が正しければ、ノワールは俺みたいなのが好みだと言っていたと思う。俺くらいの見た目の男ならば、探せばいくらでもいるだろう。まあ黒髪で紅い瞳の男という括りになると話は別になってしまうが。
「……お前って一途だよな」
「別に言葉を選ぶ必要はない。自分でも初恋の男をいつまでも忘れられない重い女だと思っているし、時折君にあいつを重ねて見ていたりするからな。君からすれば、わたしは実に不愉快……」
「そんな風には思っていないさ」
元の世界でノワールのような女に会っていたならば、他人の影を俺に重ねるなと強く思っていただろう。だがここは明日死んでもおかしくないような戦乱の世界。誰かを想う心は俺の居た世界の住人よりも遥かに強いだろう。
――それに……面倒見の良いノワールのことだ。きっと初代と初代のことが好きだった人物を結ぶために、今みたいに何にもないように振る舞ったり、ふざけたりして自分の想いを周囲に悟られず身を引いた気がする。
「重ねて見たいなら好きなだけ見ればいい。お前には色々と助けてもらっているし」
「そう言われると、かえって見づらいのだが……何だその顔は?」
「いや……お前のことだからてっきり真逆の反応をするかと。……普段ふざけてるのってわざで、本来は真面目なのか?」
「ふふ、どうだったかな」
「どうだったかなって……」
「わたしは長生きしているな。きっと性格も何度も変わっているだろう。本来の性格というのは分からんさ」
今のノワールは子供の姿をしているが、浮かべられている笑みは大人のものだ。
ここまでの流れ全てが仕組まれたものなのか、途中だけは真実なのかは分からない。今の俺では、ノワールの内心を完全に推し量ることはできないようだ。
ノワールは笑みを浮かべたまま歩み寄ってくると、横になるように指示してきた。戦のことは彼女に聞けば分かるだろうし、体のだるさもあったので俺は素直に従うことにした。
「う……」
「やれやれ、世話のかかるご主人様だな」
そう言う割には、横になるのを手伝ってくれるノワールの顔は嬉しそうだ。長年メイドをしているだけにご奉仕精神が人並み以上にあるのか、初代を重ねてみているのか。まあ何にせよ、嫌がられるよりはマシだ。
「……悪い」
「そう思うなら、次からは無茶な使い方はしないことだ。多少意思の重さが違っていたならば死んでいてもおかしくないぞ」
「確かに……このきつさからして納得だな」
そう言う俺の声に力はなかったが笑っていた。
生きていることが嬉しいのか、死んでもおかしくなかったことが回りに回って笑いになったのか。それとも本当の俺――黒崎真紅は、魔王なんて立場を捨てて……死んでしまって楽になりたいと思っているのだろうか。
「……魔王として認められるために頑張るのは良いことだが、あまり頑張りすぎるな」
まるでこちらの内心を理解しているかのように、ノワールは優しい笑みを浮かべて俺の頭を撫でる。今の彼女は子供の姿であるため、大人の時とは別の意味で恥ずかしさを感じてしまう。
「頑張るなって……普通は逆だろ」
「普通はな。だが君は……君の心は今にも擦り切れてしまいそうだ」
「そんなこと……今の状況じゃ誰だってそうだろ」
国の衰退、隣国の裏切り、アスラの死……この世界に来てから日にちの浅い俺でもこれだけ浮かぶのだ。俺よりも精神的に参っている人はたくさんいるだろう。
だからこそ……俺は、たとえ今はお飾りの魔王だとしてもこの国の希望にならないといけない。リーゼ達もそんな風に思っているはずだ。
「そう何でもかんでも背負い込もうとするな」
「別に…………魔法でも使ってるのか」
「まさか。ただの経験による推測だ……君はリーゼミレアに似て必要以上にひとりで背負い込んでしまう性格のようだからな」
「……あの子ほど俺は背負ってはいないさ」
「まあ確かに、ここで大丈夫だと言わないだけ君はまだマシかもな」
ここでそう返してくれるあたり、ノワールは俺の性格を考えた上で慰めてくれていると言わざるを得ない。
ただ疑問もある。
リーゼのためにも行き続けてくれ、とノワールは言っていた。戦いがどういうものか誰よりも知っているとはいえ、ここまで優しい言葉だけというのはおかしいのではないだろうか。
「ん、どうかしたか?」
「……えらく優しいなって思って」
「あぁ、そのことか。実を言うと、君が起きる少し前までリーゼミレアも一緒に居たんだ。命には別状はないし、倒れられても困るから先ほど部屋まで送ったがな」
ノワールは続けて、リーゼが仕事の合間を縫って見舞いに来ていたこと。実に心配そうな顔をしていたことを俺に伝えた。
余談というわけではないが、気になっていた戦のほうも教えてくれた。簡潔に言えば、俺の放った一撃で敵陣が崩壊したこともあってほぼ無傷で勝利したとのこと。俺を庇って負傷したり、死んでしまった兵はいないとのことだ。負傷者や死者が全くいなかったわけではないそうだが……。
リーゼが見舞いに来てくれていたことに嬉しさを覚える一方で、心配をかけてしまったことを申し訳なく思ってしまう。そして、ノワールが妙に優しい理由も想像がついた。
「まさか……」
「そのまさかだ。君の場合、わたしにとやかく言われるよりあの子に言われたほうが効果があるだろう。おそらく君が次に目を覚ましたときにはいるだろうから、今のうちに覚悟を決めておくといい」
「……お前って性格悪いな」
「心配をかけた罰さ。まあ小言を言ってほしいのなら言ってもいいが?」
「それは遠慮する」
リーゼからあれこれ言われると分かっているのに、ノワールの小言がほしいと思うほど、俺は追い込まれて快楽を覚えるタイプではない。
「なら今日はもう休むといい」
「そうしたいけど……眠気はないんだよな」
「ふむ……色々と話してもいいが、体調が悪化でもしたらリーゼミレアから怒られそうだからな。頑張って寝ろ。子守唄くらいは歌ってやるから」
俺の経験上、頑張って寝ようとしたほうがかえって眠れないと思うのだが。それに俺は子守唄が必要な年齢でもない。ノワールからすれば違うかもしれないが……。
内心でそう思いはしたものの、歌い始めたノワールの声は心を静めるような優しい響きがあった。決して耳障りではなく、むしろ聞いていて心地良さを覚える歌声に、俺は少しずつではあるが眠りへと落ちていったのだった。
……温かいな。
意識を取り戻した俺は、右手に安らぎを感じる温もりを感じた。指先を少し動かすと、俺の手を握り締めている小さな手に入っていた力が強まる。
誰が手を握っているのだろうか……、などと考えたのは一瞬。眠りに落ちる前にしたノワールの会話や俺に対してこんなことをする人間は彼女しかいない。
いったいどんな顔をしているのだろう?
優しげな笑みを浮かべているだろうか。それとも心配そうな顔で覗き込んでいるだろうか。いや、どちらにせよ俺は彼女の心に影響を与えてしまったのだから、俺がすべきべきことは変わらない。
「……あっ」
「おはよう、リーゼ」
「……はい」
安心したかのようにリーゼは笑った。しかし、瞳は潤んでおり涙が溜まっている。
今にも溢れ出しそうな涙を拭ってあげたいと思うが、あいにく右手はリーゼに握り締められたままだ。左手でやるには体を起こすしかない。だがそうすると、おそらく彼女は慌てたように手を貸すだろう。それは個人的に嫌に思う。
――……が、脱力感も大分なくなっているし、いつまでも寝ているわけにもいかない。遅かれ早かれ同じ反応をされるのなら、さっさと済ませてしまったほうが賢明か。
体を起こすと、予想通りリーゼが背中に腕を回して起きるのを手伝ってくれた。視線で無理せずに寝ていろと言われたものの、大丈夫という意味を込めて一度微笑み返す。
「ありがとう。……ごめんな。心配かけて」
「いえ……生きて戻ってきてくれただけで充分です」
そう言って、今にも涙がこぼれそうな顔で笑うリーゼを見て、俺は胸に痛みを覚えた。
心配を掛けるな、命を大事にしろ……といったように怒られるほうがずっとマシだな。最も良いのは激しく罵倒してくれることなんだが……してくれるはずもないか。リーゼはとても優しい心の持ち主なんだから。
付き合いが短くてもそのように思えるだけに、余計に心配を掛けてしまった自分に苛立ちや情けなさを覚える。魔王として頑張ると決め、自ら進んで戦場に立ったというのに……。
そういえば…………俺、人を殺したんだよな。
就寝前にノワールと話したときは、魔力枯渇による脱力感から思考が鈍っていて脳裏に浮かんでこなかったが、今は鮮明に浮かんでくる。
あのときの俺は……怒りに身を任せ、ナハトを……漆黒の闇で多くの命を消し飛ばした。それも……一瞬で。
ほんの少しまでは、ただの学生の手そのものだった俺の手。だが今は一瞬にして生命を奪うことができる手に変わってしまった。
そう理解できてはいるのだが、頭で分かっても心が追いついていないのか、罪の意識をそれほど感じていないのが現状だ。
「……いや」
俺にとって敵の命を消し去ることより……自分のせいで誰かが死んでしまったことのほうが罪深いって思うことなのかもしれないな。
あのとき、敵の命を奪ったのは紛れもなく俺の意思だ。奪うつもりで、殺すつもりでナハトの力を使った。でもアスラは……無力な俺のせいで死んでしまった。
もしもあのとき……、と考えても意味がない。そう分かっていながらも、俺はありもしない現実を考えることをやめられない。
「シンク?」
「別に何でもない……ただ…………この手が命を奪ったんだなって」
今の俺の手は、至るところに肉刺が出来ているが、それ以外は汚れのない綺麗な手をしている。多くの人間を殺したというのに、全く汚れていないというのは良くないことなのではないだろうか。
汚れてないから……直接斬り殺していないから、死に逝く者の顔の記憶、肉や骨を断つ感触がない。だから罪の意識をあまり感じないのかもしれないな。……でもいずれは
「俺が……魔王として生き続ける限り、この手は真っ赤に染まっていくんだよな」
それも徐々に濃くなっていって、最終的に黒と呼べるほどのものに。
俺は……直接命を奪うことができるだろうか。魔王として認められれば、兵士達にここで戦って死ねといった命令をする日もくるかもしれない。俺は……俺の心は……壊れずに存在し続けてくれるだろうか。
祈るように内心で呟いていると、そっと白い手が俺の手を握り締めた。少しずつ視線を移動させていくと、こちらを励ますような笑顔を浮かべているリーゼの顔が見えた。
「大丈夫です。……どんなにこの手が汚れてしまっても、私はこの手を握り続けます。あなたを独りになんかしません」
「リーゼ……」
どうして君は……そんなことを言えるんだ?
俺は君の最愛の人を奪った。……魔剣達に選ばれただけってだけで剣の腕もなければ、政治にも口出しできない無力な人間なんだぞ。なのにどうして君は、そんなにも……。
気が付けば俺はリーゼの手を強く握り返し、彼女のことをとても愛おしいと思ってしまっていた。彼女のことを守りたい、守れる男になりたいと強く願ってしまっていた。アスラが死に、代わりに魔王になるときに彼女の心は犯さないと決めていたのに。
リーゼとアスラに強い罪悪感を抱いた俺は、そっと自分の手を握ってくれていた温かい白い手をそっと離した。
「そんなこと……しなくていい。俺は……俺は君から……この国から大事な人を奪ってしまったんだ。少なくとも……彼の代わりになるまでは、魔王だと認められるまでは……優しくされる資格なんてない」
「優しくなんてしていません。私はあなたに戦うことを求めているのですから。そもそも、資格って何ですか? シンクにどのように接するか決めるのはその人自身のはずです」
確かにリーゼの言うとおりだ……だが、だからといってすぐに気持ちが変わるはずもない。
内心に抱く感情が全面に出ているのか、リーゼは穏やかな笑みを浮かべながら、子供をあやすような優しい声色でさらに続ける。
「シンク、経緯はどうあれ私達は夫婦になるのです。この国の行く末を決めるのは私とあなたなんです。あなたが犯した責任や罪は、あなたひとりのものではありません。ですから、この命が尽きるまで……私はあなたの傍にいます。あなたの手を握り続けます」
俺と君の間に愛なんてものは存在していない。夫婦なんてなりたくない。そもそも俺には夫になる資格なんてない。まだ夫婦でもないのだから、君に俺の責任や罪を背負ってもらう理由はない。俺の傍に居ないでくれ。俺の手を握らないでくれ……。
そう思う一方で、彼女の言葉に喜んでいる自分も確かに居た。人間は醜い生き物だと聞いたことがあるが、確かにそのとおりだと思う。俺は今日ほど……自分という人間が嫌だと思ったことはない。
だが、どんなに自分を醜く思うと俺にこれからを決めるのは俺ではない。目の前にいる彼女に選択権があるのだ。彼女が望むのならば、自分の意思だって捻じ曲げることだって容易い。これ以上、我が侭を口にすることはできない。
「……分かった。俺の命は君のもので……君のために使う。この命の灯火が消えるその日まで、君が望む限り一緒にいる」
俺の言葉にリーゼは小さく微笑み、再び俺の手に自分の手を重ねた。まるで握り返してほしいと言わんばかりに一度強く握り締められたが、俺は手の平を返すことしなかった。返して握ってしまえば、伝わってくる温もりに決意が揺らいでしまいそうだったからだ。彼女を好きにならないという決意が……。




