第11話
準備が終わったルシフェル軍は、リベルダ軍の砦に向けて進軍した。
見晴らしの良い平原にある砦というものは、木材を基調とした造りであったとしても圧倒的な存在を放っている。砦の前にはこちらの動きを掴んでいたのか、すでにリベルダ軍が展開していた。事前にあった情報のとおり、パッと見でもこちらの倍近くいるのが分かる。
「……この状況じゃ奇襲とは呼べないな」
俺の漏らした独り言に返事はない。元々声が小さかったこともあって、聞こえても隣にいるラヴィーネとアルディナくらいというのもあるが、誰だって現状を見れば奇襲が成り立っていないことは分かる。それが最大の理由だろう。
――……こんなことを考えられる余裕があるとは思ってなかったな。
少し先の未来で命を落としているかもしれないというのに、よくここまで冷静でいられるものだ。そう自分に対して思う。
とはいえ、緊張や恐怖がないわけではなく、胸の鼓動は速く体の至るところが汗ばんでいる。戦闘が始まったならば、今のように冷静な部分が緊張感へと変わってしまうかもしれない。体が動かなくなってしまったり、パニックでも起こしてしまえば終わりだろう。
もしかすると、俺のせいでまた誰かが死んでしまうかもしれない……それだけはできるなら避けたい。
人知れずそう強く思う。もしかすると、冷静さを欠かないでいられるのはこの想いがあるからかもしれない。
「ん?」
敵軍の中央が割れたかと思うと、奥から煌びやかな鎧を身に纏った金髪の男が、これまた派手な鎧を装備した馬に乗って現れた。日が高い状態で間近で見たならば実に目に悪そうである。
『ルシフェル軍の諸君、奇襲をかけるつもりだったのだろうが残念だったね』
と、鮮明に声が聞こえてきたことに俺は内心驚いた。
俺がいるルシフェル軍からリベルダ軍は見えているが、それでもまだ距離は弓矢が届かないと思われるほど離れている。加えて聞こえてきた声は、決して叫んでいるわけではなく普段どおりに喋っているように思えた。
――何かしらの魔法……待てよ。あの男、左手を口の前に移動させているな。もしかして
「ラヴィーネ、あの男何か手に持ってないか?」
「……貴様は拡声石も知らんのか」
「カクセイセキ? ……声を拡散させる石か?」
俺の問いかけにラヴィーネは淡々と「そうだ」と返してきた。
学生として生活していたせいか、どのような原理で声が拡散されるのか気になる。いや正確に言えば、魔法というものが存在するこの世界の文明自体に、俺は興味も持っているのだろう。
だが今の俺ではこの世界の書物を読むことはできないし、その手のことに詳しい相手も知りもしない。それに、今はそのようなことを考えている場合ではない。まずは今日の戦闘を生き残らなければ。
意識を戦場へ戻すと、ちょうどラヴィーネが拡声石を手に持って話し始めるところだった。
「ユーベル、痛い目に遭いたくなければ兵を引け」
『リベルダの王子である僕を呼び捨てとは無礼だね、ラヴィーネ・ハーゲル』
「ふん、敵となった国の王子に礼を尽くす理由はない」
ラヴィーネの物言いにリベルダ軍がざわつく。だがユーベルという王子は怒った様子もなく、兵達を手で制すると再び口を開いた。
『ラヴィーネは強気だね……うん、僕は君みたいな女性嫌いじゃないよ』
まるで体に纏わりつくような粘り気のある言葉に、ラヴィーネは顔を歪めた。話に出ていない俺でさえ聞いているだけ嫌悪感を感じてしまっているのだから、対象となっている彼女は俺以上の嫌悪感を覚えているに違いない。
『ただ小細工なしでぶつかるしかないんだから、痛い目に遭うのはそちらのほうだ。《氷雪の戦乙女》と名高い君は分かっていないはずないよね?』
氷雪の戦乙女とは、考えるまでもなくラヴィーネのことだろう。
人がいないとはいえ、20代前後という若さで将軍になっていることからかなりの実力者だとは思っていたが、二つ名があり他国にまで知られている人物だったとは思ってもみなかった。彼女の性格を考えると、俺はよく無事で済んでいるものだ。
『僕としては、あまり手荒な真似はせずにルシフェルを手に入れたいんだ。あえて進軍せずに話す時間を作ったのもそのためだし』
「……姫様の命を狙っておきながら、今更話し合うことがあると思っているのか」
『リーゼミレアの命を狙ったからこそ、話し合おうとしているんじゃないか。ここにいるのが僕じゃなかったら、リベルダ軍は待つことなく総攻撃を仕掛けていたはずだよ。でも僕は、《白金の姫》として多国に知られているリーゼミレア――彼女がほしいんだ』
ルシフェルがほしいと言っていたが、どうやらこの男が最も叶えたい目的はリーゼを手に入れることらしい。
『今であれほどの美貌なのだから、きっと数年後はもっと綺麗になっているはず。いやぁ……楽しみだね。あっ、もちろんラヴィーネ、君もほしいと思っているよ。君のような子ほど夜の顔は違ったりするしね。できればアルディナもほしいけど、聖国の連中は人間以外認めないからなぁ……あっでも、奴隷として飼えば問題ないか』
ふざけるな!
欲望を曝け出すユーベルに、さらに嫌悪感がさらに強まった俺は思わずそう叫びそうになった。
この男はリーゼ達のことを何だと思っているんだ。彼女達は感情のない《もの》なんかじゃない。意思のある《人》だ。
激しい怒りに駆られた俺は、ユーベルを睨みつけながら拳を握り締める。直後、ラヴィーネが淡々とした口調で返事をした。
「ふん、アルディナはまだしも誰が貴様のような男に姫様を差し出すか。それと、言うまでもないだろうが私も貴様に肌を晒すつもりはない。貴様に晒すくらいならば、こいつに晒す方がまだマシだ」
その言葉に、敵味方問わず兵達の意識がこちらへと向いた。
今さらりととんでもないことを言われたような気がするが、気にする間もなく下種が俺に向かって話しかけてきた。
ラヴィーネにあっさりと売られそうになったアルディナがひとり騒いでいるのだが、現状には関係ないので触れないでおくことにする。
『君は……あぁ、確か報告にあった身元不明の男か。敵対する立場ではあるけど、君には感謝しているよ。あの邪魔なアスラを消してくれたんだから』
挑発の混じった嬉々とした声に、俺の中の怒りの炎はさらに燃え上がる。同時にユーベルに対する嫌悪感は最大級のものに達し、下種やクズといった言葉でしか表現できない対象へと変わった。
『そういえば、報告とは違った格好をしているようだねぇ。……もしかして君が魔剣に選ばれて、アスラの後釜に座ったのかい? いやはや、もしそうならルシフェルという国は愚か過ぎるね。どこの馬の骨とも知れない男を魔王にしようとするなんてさ』
「お前みたいな男が王さまになるより千倍マシだよ!」
『おや? 今のバカな物言いはアルディナだね』
「誰がバカだ!」
『だってそうじゃないか。僕とその男、比べるまでもなく僕の方があらゆる点で勝っているのだから』
「勝ってないし。王さまのほうが顔だって体型だってお前より良いもん! それに何より、お前何か気持ち悪い。一緒に居たくない!」
バカだからなのか、子供だからなのかアルディナの物言いには嘘や冗談といったニュアンスは全くとしてない。それだけにユーベルにもダメージがあったようで、「んぐ……」のような声が聞こえてきた。
『やれやれ、君の考えは理解に苦しむね。まあ可愛らしくもあるけど』
「う……全然嬉しくない」
『アルディナ、君は分かっていないようだから教えてあげよう。その男は魔王になるはずだった男を殺したんだ。そして、魔王になろうとしている。庇うに値する人間ではない』
確かにそのとおりだ。
俺のせいでアスラは死んだ。責められるならまだしも、庇ってもらうような立場にはいない。
『リーゼミレアは良い子だから、魔剣を受け継いだ者を魔王とするという伝統を守って、その男を魔王にすることにしたんだろう。でもそんなは、いくら政略的結婚があったりする王族とはいえあんまりじゃないか』
「…………」
『それは君も分かっているんだろう? 先ほど感謝しているとは言ったけれど、君はリーゼミレアにふさわしい人間ではない。この場を去るか、死んでくれたまえ』
ああ……お前の言うとおり、俺はリーゼにふさわしい男なんかじゃない。だが、この場を去るつもりもなければ死ぬつもりだってない。
俺はアスラの命を奪ってしまった。これは紛れもない事実。しかし、彼は俺にリーゼを頼むと言い残し、リーゼは俺に魔王として生きることを望んだ。
ならば俺は、ふたりの望みを叶えるために生きなければならない。たとえどんなに罵倒されたり、袋叩きに遭うことがあったとしても、それは俺に対する罰なのだ。
ユーベルの言うように逃げ出したり、死んでしまえば楽になる。でも俺は、自分の罪から目を背けてまで生き続けたいとは思わない。そんな生き方をすれば、俺は俺ではない何者かに変わってしまう。命ある限り、俺は精一杯やるべきことはやり続ける。
俺の内心を察したのか、純粋に何か言い返せと言いたいのか、ラヴィーネは拡声石をこちらに渡してきた。ユーベルに対して思うところがあった俺は素直にそれを受け取る。
『黒衣の君、聞こえているのだろう? 少しは何か言ったらどうなんだい。それとも、図星を突かれて何も……』
「お前みたいな下種と話すことなんて何もない」
『ん、今なんて言ったのかな? 下種なんて言葉が聞こえたような気がしたんだけど』
「聞こえなかったのならもう一度言ってやる。お前のような下種でクズな奴と話すことなんてないって言ったんだ」
『……ハハハ、君もとんでもないおバカさんのようだね。平和的に解決しようかと思ったけれど、さすがの僕も我慢の限界だよ。全軍、あの無礼者たちを殺せ!』
きちんと聞こえたのはここまでだが、ユーベルはそのあとに続けて何か言っているように見えた。
おそらく「ラヴィーネやアルディナは可能な限り生きて捉えろ。あの男もだ。あの男だけは僕が殺す!」という風なことを言ったのだろう。
俺はラヴィーネに拡声石を返すと、右手をナハトの柄に掛けながら前に出る。視界に映るのは、陣形を整えながら突進してくる敵兵達。だが怒りが他の感情を押さえ込んでいるのか、不思議と恐怖はなかった。
あんな男にルシフェルを……リーゼを渡すわけにはいかない。ナハト……――
「――俺に力を貸せ!」
鞘から抜き放つのと同時に、漆黒の刀身から闇が溢れ始める。後方にいる味方から驚きの混じった声が聞こえた気がしたが、今の俺にあるのは敵を滅ぼそうという想いだけだった。
硬く、鋭く……そして重く!
強くイメージしながら肩の高さで右腕を限界まで引き絞る。刀身から溢れていた闇は、俺の意思を汲み取ったナハトによって形を変えて奔流と化した。
眼前に迫る敵全てを貫く。
その想いのまま、前後に大きく開いていた両足で地面を思い切り蹴る。生じたエネルギーを出来る限り右腕に伝え、前方に撃ち出した。刀身から溢れていた漆黒の闇は、うねり、よじれ、絡まりあい、巨大な槍と化す。
「は……ああぁぁぁッ!」
好きなだけ魔力はくれてやる!
気合を発すると共に、内心でナハトに念じると、右腕のほうへ流れる魔力の量が急激に増す。それに伴って、発生している闇の槍の大きさも増した。
視界は巨大な闇によって全て覆い尽くされ、耳に届くのは闇が地面――空間そのものを削り取るかのような轟音のみだ。もしかすると悲鳴も上がっているのかもしれないが、俺の耳には届いていない。
数秒後、ナハトから噴出していた無数の闇が弱まり始めた。それに連動して巨大な漆黒の槍も姿を消し始め、俺が大きく息を吐きながら剣を下ろすのと同時に完全に消え失せる。
巻き上がっていた土埃は、轟音の余韻と共に消えていく。余韻を聞き取ることが出来たのは、敵味方含めて誰も言葉を発しなかったからだ。いや、正確には発することができなかったというべきか。
闇が通った場所は、そこにあったもの全てを飲み込んだかのように何も残っていない。死体はおろか、血の跡さえも。
正確な数までは分からないが、少なくとも数百に上る兵達の命が散ったと思われる。だが俺は、命を刈り取ったことへの罪悪感よりも、突如襲ってきた強烈な脱力感に立っていられなくなった。ナハトを地面に刺して杖代わりにしなければ、確実に膝を突いていただろう。
「はぁ……はぁ……」
これが……魔力が枯渇した状態ってやつか。
体の内部から必要なものに消え失せたかのように全身に広がる虚脱感。確かに死に繋がる可能性があるというのも理解できる辛さだ。もう一度今と同じレベルの力を使えば、間違いなく俺の生命力はなくなり死んでしまうだろう。
――それ以前に……今襲い掛かれたら何もできない。このままじゃ……俺は……。
静寂の中で不安に駆られていると、すぐ傍からふたり分の声が響き渡る。
「何をぼさっとしている! 敵の陣形は崩れた。この好機を逃すな!」
「一気に食い潰すよ!」
呆気に取られていたルシフェルの兵達は、ラヴィーネとアルディナの声によって息を吹き返し気合の声を上げる。直後に聞こえてきた地響きからして突撃を始めたようだ。
「馬鹿げた力の使い方をするものだ……まあ多少なりとも力はあると示せただろう。あとのことは任せて、貴様はそこでじっとしていろ」
俺が疲弊しているからか、淡々とした声で話しかけてきた人物は周囲の兵に護衛するように指示すると、こちらの返事を待たずに前方へと向かっていった。
重い体をどうにか動かすと、白馬に跨る銀色の騎士の姿が見える。華麗さと凛々しさを感じさせるその姿に安心感を覚えてしまった俺の意識は、徐々に闇へと落ちていった。




