2
「―――陛下」
普段は使うことのない呼称で、配下がルーグを呼んだ。
ルーグが起兵したのは、つい先日のことである。天女であるさつきが行方知れずとなってからというもの、ルーグは方々(ほうぼう)に遣いを遣って情報を掻き集めた。そして、突き止めたのだ。
レオハルト領では、とある言葉が流行していた。聞きなれない言葉だったからと遣いの者が報告したのだが、それが功を奏した。この国では聞きなれないそれは、しかしルーグや、ごく一部の人間には聞き慣れたものだったのだ。
食事の時、茶会の時。何かを口にする際、彼女は必ずと言っていいほど、その言葉を口にしていた。
「いただきます」と、それはさつきの口癖でもあった。
報告を受けて所在を知ったルーグは一も二もなく軍備を整えた。
掲げる旗は金の布地にグリフォン―――王軍旗。王の勅命を受けた軍にのみ掲げることを許されるこの御旗を、当代国王が用いるのは初めてのことだった。
ルーグは、自身が王を名乗ることを好んではいなかった。ルーグが王となったのは、一言で言えば血筋故である。
初代国王を輩出した、王国屈指の名門貴族、カルヴァン伯爵家。公爵家も侯爵家も途絶えてしまったが故に舞い込んだ、望まぬ地位。本来ならば座することのなかった地位。
それを承知しているからこそルーグは通常『ルーグ=カルヴァン伯爵』を名乗っていた。
さつきが、姿を晦ますまでは。
「ヘルバルト」
ルーグはすぐ側に控える近衛隊長官を呼びつけた。ヘルバルトは騎乗したまま、ルーグに対して静かに頭を垂れる。
「今回のこと、お前はどう思う?」
策謀か、偶然か。問われてもヘルバルトは押し黙っていた。
正直なところ、ヘルバルトはこれを偶然だとは思えなかった。あまりにもタイミングが良すぎるのだ。天女が消え、それから暫くもしないうちにレオハルト領で急激に広まった天女の言葉。これを偶然と呼ぶにはあまりにも出来すぎている。しかし、策謀であるという確証もない。
ヘルバルトは天女に対面したことはない。ただ自身の妹や、目の前にいる主人から時折話を聞いたことがあるだけ。天女に対する異常なほどの信仰がないのは兄妹通ずるものがあるようだが、かといってまったく関心がないというわけでもなかった。
「陛下」
ヘルバルトは今一度、主人を呼んだ。
「陛下は、天女さまを取り戻して、どうなさるおつもりですか」
「どうするもなにも……」
ルーグは言葉を詰まらせた。
どうする、と聞かれても特にこれといった考えはない。敢えて目的を定めるとするならば、盗られたから取り返す。それだけのことだ。しかしヘルバルトは、それは嘘だと断言した。
「ただ手元に置くだけなら、あなたは王軍旗を掲げることまではしなかったはずです」
あれほど王を名乗ることを嫌がっていたのだから。本当はもっと奥深い理由があるはずだ。
図星を指されて、ルーグは自嘲の笑みを浮かべた。
「お前たち兄妹は、本当に言葉を飾らないな」
そっくりだと言うルーグに、兄妹ですからねとヘルバルトは淡白に答えた。
あーあ、ルーグが溜息を吐く。ばれたならしょうがないと口では言いながら、本当は隠す気などさらさらなかったことをヘルバルトは気付いていた。
「私はね、ヘルバルト。あまり欲深な方ではないんだ」
「存じております」
この国で誰よりも血筋正しく高潔な主人は、望めば何もかもを手に入れられる権力を手にしていながらも、誰よりも物を望まない人だった。地位を振りかざすことのない、ある意味で理想的と言える君主だった。
「でもね、私は、あの方だけは逃したくないんだ」
天女だからではない。ただ、あの方自身が欲しい。誰にも渡したくない。
たとえ何を犠牲にしたとしても、厭うていた王権を盾にしてでも。
それで手に入るなら、傍にいてくれると言うなら、決して後悔することはない。
―――だからこそ、許せない。
「もしレオハルトがさつき様を勾引したと言うなら、私は手段を選ぶことはしない」
自身の持ち得る全てを以ってして根絶やしにしてくれようと、恐ろしいことを平気で口にする主人は狂気さえも垣間見せた。
「君は私を止める?」
「――まさか」
ヘルバルトは答えた。
レオハルト伯爵家もまた、由緒正しい聖人の血統である。パトラシャーナの民として、その血筋を守るべきなのだろうが、ヘルバルトはそうしない。理由は至極簡潔だ。レオハルト伯は、主足り得ない。それだけのこと。
「どうぞご随意に、我らが王」
深々と腰を折る配下にありがとうと笑って、ルーグは目前のレオハルト領を見下ろした。平らかな街並みの中に聳え立つ邸城。あそこに、さつきがいると思うと、それだけで全身の血が沸騰するような錯覚に陥った。
(さつき様………)
今、あなたの許に―――。
ルーグは手綱を握り締め、騎乗するグリフォンを急かした。




