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「…………あの娘の様子はどうだ」
人気のない執務室。男が低い声が一つの疑問を呈示した。
唯一空間を同じくしている者がゆっくりと口を開く。
「何も変わりなく。ただ、あまりに未知に溢れている、と思います」
「役に立つか」
ピシャリと叩きつけられた言葉に部下は思わず息を飲んだ。利益だけを追求する主人の正確に薄ら寒いものさえ覚える。不自然に詰まった息を吐き出して、部下は求められた答えを口にした。
「聖パトリシアとは違った方面にですが、発展は見込めるかと……」
中途半端に言葉を途切れさせたその声に、男はそうかと残忍な笑みを浮かべた。口元は綺麗な弧を描いているのに、その眼差しにはどこか歪さを感じさせる光が宿っている。見慣れているはずなのに部下はふるりとその身を震えさせた。
「準備はどうなっている」
「は。滞りなく、とまでは申せませんが、予定には十分間に合うと報告を受けております」
伝えられ、男はもうすぐだと喉奥を鳴らした。もうすぐ、男の願いが叶おうとしている。
果たして止められる者はいるのだろうか。部下は仕える身でありながらそんなことを思った。
しかしそれも、すぐに自分で否定する。
止められる者などいないだろう。ただ噂しか知らない民さえ駒と見て、たった一つの念願を叶えるべく動いていたこの男は、何の因果か念願を叶えるための財力や地位も、支配者的カリスマ性も、思考力も備えている。
いつその好機が訪れるかわからない中でも準備を進め、ようやく千載一遇の機を逃さなかったこの男を止められるとしたら、それこそ人ではない。
「絶対に天女を逃がすな。わかっているな?」
「はい、もちろんです……旦那様」
最後の最後で常の口調に戻す。一礼の後、部下は身に纏う雰囲気までもをガラリと変えて役割を果たすべく主人の執務室を辞した。
自分一人になった空間で、男はまた喉奥で笑い始める。男の目がぎらりと輝く。
「もう少しだ」
呟いた男の声を聞いたものはいない。




