第1話
これは、後に聖人と崇められる女性ーーパトリシアの、恋の話。
「パトリシア!」
茶髪の青年に呼ばれて、黒髪の女性が振り返った。背中の半ばまで伸びた髪が翻って美しい。けれど何よりも美しいのは、彼女の瞳に宿る強い意思の光だと彼は思っていた。
「なによ、ジャン」
ソプラノの声に名を呼ばれて、嬉しくてつい目尻が下がる。
ジャンは、パトリシアが好きだった。
「パトリシア、一緒にお昼どう?ベーコンを燻したんだ」
「あら、いいわね。チーズもたっぷり使ったピッツァが食べたいわ」
「ピッツァ?なんだい、それ?」
「………………」
パトリシアは、ジャンの知らないたくさんのことを知っていた。
彼女にとっての常識は、この世界にとっての未知だった。彼女の持つ知識は、この世界の誰も知らない高度な物だった。
崖の上から落ちてきたばかりの頃、パトリシアは麓民族の技術レベルの低さに愕然としていた。
この世界で高水準であると自負してきた彼らは当然の如く憤ったが、今では彼女の感想の正しさがよく分かる。自分達は間違いなく、井の中の蛙だったのだ。
ありえないと大きく叫んだ彼女は、所有する知識を一切の惜しみなく人々に分け与えた。
治水、医療、教育、農業。そしてなにより大きかったのは防衛の仕方だ。
堀に水を流し、木で柵を作り交代で見回りをして襲撃に備えていたあの頃。
しかし彼女はさらに石で塀を作る技術を教え、見張り櫓を作ることによる見回りの簡略化を提案した。原子的だけどと彼女が言った策は、しかし画期的だった。
高く積み上げられた石塀は馬では越えられず、矢すらも内へ届かせない。さらに高く建てられた見張り櫓からは外界の動向が筒抜けて見えた。
麓の民族達は、戦火に恐れずに眠れる日々に幸せを感じていた。




