内緒話しちゃったよ!
ばっと闇が逃げたと思った瞬間、視界に飛び込んできたのはお世話になっているシアの屋敷の一室。
次に感じたのは頬から響く熱い痛みとぐわんぐわんとした眩暈。
慌ただしい複数の足音と怒鳴り声。たぶん、あの声はタリアだな、と覚醒しきらない頭で考える。
それにしても痛いな。
視界に焦るシアとセリハを映しながらもむっくりと上半身を起こせば、部屋の中にはいつの間にか騎士が入り乱れてタリアを取り押さえていた。
殴られたらしい頬を指先でなぞれば、思わず目を細めて痛みに耐える。
「……痛い」
素直に呟く私の体をセリハが支え、シアがホッとした後すぐに険しく冷たい視線で射るように私を見つめた。
「不道徳な発言をするからだ」
ピシャリと叱ったシアの言葉に、ああ、あれは不道徳な言葉だったのかと肩をすくめる。へろっと笑って見せても、シアには通じないらしく私を軽蔑した目で見つめた後に立ち上がり、騎士に取り押さえられた状態で部屋の絨毯に頬を寄せた状態のタリアを見下ろした。
「《奇跡》への暴力行為は重罪だタリア」
残念そうに淡々と事実を伝えるシアの声に、タリアが酷く声を荒げる。
「貴方は分かっておいでかっ! 彼女の発言は国を――皇帝陛下の血筋を侮辱する不敬です!」
「まだこちらに来て日の浅いコトエにそれを理解しろと言う方が難しいだろう」
「しかしっ!」
「言い訳は後で聞こう。お前は皇帝陛下からの預かり者だ。こちらで処分を言い渡す事は難しい。連れていけ」
冷たいシアの視線が入口に流れたのを見て、タリアを取り押さえていた騎士達が短く返事をしたのちに、なおも暴れようとするタリアを連行していく。
ばたばたと去っていく騎士の一人をシアが呼び止め「医者を」と小さく命令を零した。
床で寝転がっていた私を支えてくれていたセリハは苦い顔をしながらも心配な声色で「大丈夫ですか?」と問う。
私の上半身を支えてくれているセリハに申し訳なく思いながらも自分の状況を伝えた。
「ん、大丈夫。ちと痛いけど」
素直にそう言えば、セリハは顔をくしゃくしゃにゆがめて泣きそうな顔になった。そんな私の前に膝をついたシアは私をジッと見つめて無表情なままはぁっと息を吐いた。
「コトエ。君の発言はこの国で最も侮辱とされる言葉だ。知らなかったとは言え今後は控えてほしい」
「ほー」
知らなかったと当然の反応をしたならば、シアは分かっているのかと言いたげに目を細めてくる。
睨むというより理解の度合いを確認しているようで、私は仕方ないという気持ち半分に「ごめんなさい」と口にする。
私に触れてもいないくせに反省の色を持たない言葉から、私の考えを見透かすようなシアの視線にますます萎縮したけれど。それ以上の発言は不要かと無言を貫いた。
◇◆◇
「もう、本当に心臓が止まるかと思いましたよっ」
シアに叱られるよりもセリハに叱られる方がずーっと怖い。
仁王立ちしているセリハを見て私は思わずにいられなかった。
タリアに殴られた頬を、胸の怪我の治療に携わってくれていた医者に見せた私は「生傷が絶えませんね」と笑われた。塗り薬とたっぷりと乗せ、頬を覆った大きなガーゼはタリアの本気を物語る。
タリアの発作的な行動とはいえ、王族と同等の権威を持つ《誉人の奇跡》への暴力行為は見逃せないと、シアはようやく落ち着いたはずだった私に関する対応に、再度奔走すべく部屋を後にして。
なまじ真面目な性格をしているタリアが激怒したのも無理はないと言った様子で、セリハは遠慮なく「自業自得です!」と言い捨てた。
「知らなかったとはいえ、コトエ様の不道徳な言動にもほどがございますよ!」
頬の怪我なのだから不要だと言っているのにもかかわらず、始終起こりっぱなしのセリハは問答無用で私をベッドに押し込んだ。
せっかく胸の怪我も回復したのに、またベッドに逆戻りかと思えば億劫だ。
まぁ、自分でもあの中二病めいたセリフはなかったなと自嘲したと同時に、あれが侮辱発言だったことには少々驚いた。
――試す、つもりだった。
本音とも冗談とも取れない発言をしたところで、ここの世界で生きてきた人間がどんな反応を示すか見たかったのだ。
異世界トリップとしては、でたらめでつぎはぎだらけの設定。設定というかそれがこの国にとって何より中心となる《理》であるという。
こんなおかしな世界に住まう人達は、自分達の世界をおかしいとは思わなかったのか。
痛みは伴ったものの想像以上の反応が返ってきた事にたいし、私がほくそ笑んでいたのを誰も知らない。
……なるほどねぇ。
《誉人》は崇める神。
《誉人》が創生した《理》は絶対。
この世界を作り出しているのは《誉人》ではなく《理》という結果。
この結論に誰がたどり着いただろうか?
私以外の《奇跡》は理解している?
ブレブレの設定の中にある世界で絶対的中枢を担うのが《理》であるというならば。
「……んふふっ」
楽しくなってきたなぁー、なーんて考えていると、私の思考を理解しないセリハが「何を笑っていらっしゃるんですか?」と怒りを含んだ冷静な言葉を投げかけてきて、私はますます萎縮した。
「コトエ様。何度も言いますが、冗談でも言っていいことと悪いことがございますよ」
「冗談……?」
「あんな侮辱的な言動を本気でされたのであれば、いくら《誉人の奇跡》と言えど裁かれるべきは貴方様です」
あ、なるほど。だから冗談としてとられたのか。
普段からふざけた態度を取っていたからそれが功を奏したのかと思うと、ちょっと自身が情けないけれど。
そんなやり取りをしているうちに――というか、ほぼ一方的にセリハに叱られていただけだけれど、部屋の扉が開いたかと思えば先刻出て行ったばかりのシアが戻ってきた。
無表情なのは標準装備って聞いていたけれど、そんなことはないのになと首をかしげる。
私との会話の中で、彼は面白いほど表情をころころ変えるから、むしろ感性は豊かなほうではないと思っている。くるくると子供が世界に反応するかのように表情を変えるシアを見て、タリアもセリハも他の従士達もあんぐりと口を開けて驚いていた様子だったけれど、それが対私だけに向けられるものだと知ると納得したような複雑な面持ちになるのだ。
好きな顔立ちに微笑まれると、やっぱり嬉しいしドキッとするのは確かだ。けれど、同時に彼が表情を変えるのは私だけというところに懸念を抱かざるを得ない。
異性に好かれる容姿はしていない事くらい自覚はしている。素の性格をさらけ出した私を好きだと言ってくれた異性は元の世界にも居たには居た。
が、シアが向ける感情が恋愛感情じゃなければいいな、と正直に思う。
彼が私に向ける感情が恋でなければいいと思うのは、この世界に未練を残したくないからだ。
方法はわからないにしろ元の世界に、日本に帰りたいと強く願う私にとって、その感情は弊害にしかならない。元より《絆》を選んでしまえば、この世界との結びつきは一層強くなる。
この世界で特別な人を作りたくない。元の世界へと戻る希望は絶対に捨てられない。
ようやく私に手を差し伸べてくれた人。私を客人として、特別な人間として扱ってくれている初めての人。
そんな人にもしかして? なんて感情を抱くのはもちろんだけれど、真っ先にソレを否定するのも同じ理由。
こんなこと考えている時点で、もう遅いのかもしれないけれど、私は気持ちに蓋をする。
「コトエ」
自分に歩み寄ってくるシアをぼんやり見つめながら、私は上半身を背中に回した大きなクッションに預け、シーツの中に埋もれた膝を抱え込みながら「うん?」と答える。
シアの姿を確認したセリハが、先ほどまで見せていた喧騒とした姿を納め、静かに頭を下げて部屋を去る。
二人きりになった部屋の中。
私がベッドの上に居る時、彼は当たり前のようにベッドの縁に腰を据える。まるで流れるような動作に私は無言のまま視線でそれを受け入れている。
無表情なはずである彼の瞳が揺れ動いたのを間近で見た。彼は情に絆されやすい人なのだろうかと思いながらも、すっと差し出された手を難なく受け入れる。
彼がその掌で心を読めるという事を忘れてしまうほど、当たり前に受け入れる私。たぶん、彼にとってはそれが何よりの至福で喜ばしいことなのだろうとも予測は付いた。
シア自身が気付いていない、心にくすぶる思いを増長させることになったとしても、私の中に彼の手を受け入れないという選択肢はない。
酷い女だと思う。
これだけ恋愛フラグを立てながら、受け入れようとしないのだから。
頬に当てられた大きなガーゼにシアの手が触れる。
「痛いか?」
「ちょっと」
ヒンヤリとしたシアの指先がガーゼの上を滑って肌に触れる。
そういう時は心の中で「シアのバカ」と小さく悪態付くのだ。
そうすると彼はフッと笑みを浮かべて私の額をぺちんっと叩く。
「酷いことを考える人だね君は」
叩かれた額を自身の手で撫でながら膨れ面を見せれば、シアはクスクスと楽しそうに笑った。
……あーゴメン。この甘い空気駄目だわ私。
無理無理。砂糖吐きそう。
気持ちを改めるようにして小刻みに首を横に振りながら改めてシアを見た。
「タリアは?」
私が端的に聞きたいことを発言すると、シアは口元に浮かべていた笑みを引っ込めて、いつも通りの無表情を作り出す。この変わりようが凄いなと思いつつも口には決して出さない。
ジッとシアの答えを待っていると、彼はやがて諦めたように話始めた。
「今回の件についてはコトエの発言が発端であることは否めない。が、それを暴力で押さえつけとうとしたのはタリアだ。非の傾きはタリアが圧倒的に大きい」
「……うん。知識がなかったとはいえ、私の発言が悪かったのだから、必要であれば甘んじて処罰は受けるよ」
「いや。コトエに対する処罰はないだろう。言葉を選ば無かったとはいえ、問われるのは王族への不敬罪。対するタリアは《誉人の奇跡》に対する暴力罪。《誉人の奇跡》であるコトエと子爵であるタリアの身分を比較するならば」
「タリアの罪が大きくなる、ってことね……」
はぁ……タリア、アンタ子爵だったの……。
と、とんでも方向にため息を漏らしているとは知らず、シアはふと視線をそらす。部屋の隅――どこか遠方を見つめるシアの横顔に、私は静かに息を呑んだ。
「私が言及したら、タリアは罪に問われない?」
ぽつん、とこぼした質問にシアは現実に戻ってきたかのように驚いた表情で私を見た。ごくり、と小さく唾を飲みながら言葉を選んでみる。
「ここにお世話になった時から、タリアはずっとシアにくっついていたでしょ? シアにとっては秘書みたいな? 右腕みたいな存在だったんだよね? いなくなったら困るよ、ね?」
一応、を確認してみる。
それは本当に分からなくて恐る恐るだ。
あの時――私が不用意な発言をした時、烈火のごとく怒り狂ったタリアの表情が忘れられない。
元々タリアは冷静な人だったと思っていた。
シアに不思議な力が宿っているのであれば、それはきっとこの世界でも迫害の対象だ。元の世界でさえシアと同じ能力を持っている人が居たら、きっと初めて出会う人の間隔は“恐怖”に他ならない。
セリハが教えてくれたシアの笑わない理由と掛け合わせれば、おのずと導き出される彼の過去。誰に説明されたわけでもないけれど、それくらいは理解できる。
迫害され続けてきたであろう、不器用なシアを傍で支え続けたのがタリアならば、シアにとっては腹心とも呼べる存在のはず。
それなのに、だ。シアは私が殴られた痛みで一瞬意識を失う瞬間まで、タリアの行動を阻止することもなく呆然と見つめているように見えて。
シアが示した態度で導かれる可能性は二つ。
「タリアは」
と、シアが静かに彼の名を口にする。
大切な部下を一人失った人間とは思えないほど冷淡な表情を見せていなければ、想像していた可能性は一つ消えたのに。
「兄上――皇帝陛下が遣わせた俺の監視役だ。表向きは俺の補佐官であるけれど……俺の行動を皇帝陛下に逐一報告している」
「……信じて、ないの?」
ふるえる唇で尋ねると、シアは自嘲した。
「便利だ、とは思っていた。皇帝陛下が遣わせた監視役は見事な補佐をしてくれていたと思う」
「でも、タリアはシアを大切にしていたと思うよ?」
見るからに、と続かぬ言葉を胸の中で付け足せばシアの眉間にシワが寄った。
「タリアは皇帝陛下に忠誠を立てている。俺が懐柔されるのを待っていたんだろう。フリくらいは俺もする」
ああ、難儀ねぇ。人の心が読めるってのは。
身近にいるタリアが彼の能力の餌食になっているのは目に見えた。だからこそ彼はタリアを信じてはいないのだろう。タリアもまた、その思いを隠そうとはしていなかったけれど、それが裏目に出たということだろうか。
……ぶっちゃけ、今まで二人の間に何があったかなんて知ったこっちゃねぇよで済ませますけどね。だって関係ないし。
じゃあ、もう一つの可能性はつぶれたって事かな?
「てっきりシアもこの世の不条理に嘆いてんのかと思ったけど」
ぽろっとこぼれた言葉に、シアは今度こそ目玉が零れ落ちそうなほど目を見開いて。
…………わぉ。
「図星?」
私の言葉にあれほど驚いていたのは、タリアやセリハと共通の認識であった侮辱行為に対し、彼だけが賛同していたからだ。そして私があっけなくソレを口にしたものだから驚いてしまって、タリアが起こした暴力行為を止める事ができなかったと。
これは、これは。
無意識のうちにニンマリしてしまったらしい私に彼がギョッとする。おっといけないと思いながらもまさかの同志に私は浮かれていたんだと思う。
「なるほど、なるほど」
自身で納得したように頷けば、彼はムッと唇を結んで私に触れようとする。延ばされた手をサッとよけた私に対し、彼は驚く。触れる事に対して初めて避けた私の態度がそういう表情にさせたのだろう。
使える。
ただそれだけが頭を支配していく。
馬鹿みたいに浮かれた恋愛感情じゃなく、思い浮かぶ限りの計画を頭の中で必死に組みながら。
それもそうだよね。
信じられる人もいない世界で飼い殺しにされている状況であれば、誰だって世界を呪いたくなる。
「とりあえずは、だ。今後の話し合い次第でタリアの処分について私が言及するかどうかを決めようじゃないの。シアは体よくタリアを厄介払いできたわけだけれど、便利であった以上は傍に置きたいというのも事実だろうしね」
「……何が言いたい」
にやにやを止められない私の発言に対し、今まで聞いたことがない冷たいシアの言葉が耳に届く。
ゾクゾクするなぁ。いいねぇ、その人を射殺せそうな視線。
「今は健全な話し合いかな。もし読みたくなるなら心を読んでもらって構わない。上辺だけの会話の後であればいくらでもどうぞ」
自分が上であることを譲らない私の発言に、シアの態度はますます固くなる一方で。
本位なんて知られたくなかっただろうに、君は心を読むことに長けていても隠すことは下手なようだ。少なくとも私には。
ふふふっと不敵な笑みを浮かべた私は先に願いを告げる。
「どうだろうシア。私に忠誠を立てては?」
「……」
「何言ってんだコイツ、と言ったところだよね。それは当然だと思うし仕方がない。けれど、共有できる感情が私とシアの中にあるみたいだから」
だから、ね?
「私と手を組んでみない? 小娘に世界が翻弄されるのを特等席で見るって言うのは」
意味が分からないと初めて困惑の色を見せたシアに対し、私は抱えていた膝を手繰り寄せて頬を摺り寄せた。
そうよね――絶望ってそういうもんだ。