真実と我が主2 ■sideタリア
過度な残酷描写が含まれておりますのでご注意ください。
今日に至るまでのシアレス様の生活は誰もが想像できるほど悲しみと憎しみが繰り返され、想像以上の孤独と絶望がそこにはあった。現在のシアレス様を形成しているのはそのすべてであり、シアレス様の母君が亡くなられてから周囲の嫌悪は一層濃いものとなったのは言うまでもない。
義兄様であるクリフォード様のみがシアレス様の処遇に心を砕かれていたが、継承権第一位の王太子であるクリフォード様がシアレス様のみに気を向けるわけにはいかない。王として義弟すら統べる事を強いられ、いつしか距離を置かれてしまったことにシアレス様は理解もされていたし諦めもしていた。
クリフォード様が自分を必要と――否、自分の能力を高く評価してくれていると切ない思い違いをされているシアレス様は、ただその想いに報いるためだけに剣術に勤しみ、尽くすために王位継承権を放棄し、戦争が始まれば我先にと戦地へ赴き敵をなぎ倒していく姿は鬼神とも呼べた。
他人から慈しみを受ける事を忘れてしまった彼の方は、ただ戦いと血の臭いにのみ喜びを感じ、喪失していた笑みをこぼすようになったのだ。
だからだ。
だからこそコトエ様が起こした言動に笑みを浮かべたシアレス様のお姿が信じられなかった。
天と地がひっくり返ろうともありえず、一生聞くことはできないだろうと思っていたシアレス様の楽しそうな笑い声に動揺したのは言うまでもない。
まさに《奇跡》だと思わずにはいられない。
たまたま居合わせた侍女のセリハも同じ思いだっただろう。
自分だけではなく、未だに信じられず高揚した気持ちを共有できる人間が居るというのは非常にありがたいと思った。たとえそれが侍女であっても、だ。
視線を落としていた書類ができあがったのだろう――シアレス様が上半身を椅子の背もたれに預けたの見つめ、私が声をかけようと口を開いた時だった。
執務室の扉に小さなノックが響いた。私とシアレス様の視線が同時にそちらを向いて、続くように「入れ」と主の声が小さく命令する。
静かに扉が開かれた先に居たのはコトエ様に付けた侍女であるセリハの姿だった。扉を開いた後に、一度会釈をしてまっすぐに執務席に座るシアレス様に視線を向ける。
「執務中、失礼いたします。ご報告があってまいりました」
静かに挨拶を述べたセリハに対し、シアレス様はすでにそちらに視線を向けてはおらず、手元にあった書類にふぅっと息を吹きかけてインクを乾かしている。
そんな主の様子を見つめながらセリハは淡々と事実を述べた。
「コトエ様ですが、少し気分が優れないとのことでシアレス様がおいでになるまで、休憩をとご希望されまして」
「お眠りに?」
「はい」
短く私が尋ねれば、セリハが小さく頷きながら端的に答える。
今休まれたのであれば会う時間を少しずらした方がよいのではないかという思惑を含みながら、振り返ってシアレス様を見つめる。彼もまた思案の中に居るようで机に頬杖をついて作成したばかりの書類に視線を走らせているようで。
しばらくの沈黙を置いた後に、シアレス様は視線を向けないまま普段通りの冷たい口調で私の名を呼んだ。
「タリア、早馬の準備は?」
「できております」
「ではこの書簡を陛下宛てに」
「かしこまりました」
「私も出る」
「どちらへ?」
「牢壁所だ」
シアレス様が告げた行先に、私は思わず眉間にシワを寄せる。本来、牢壁所はその名の通り高い壁に囲まれた犯罪者を収容する場所だ。騎士団をまとめる団長――ましてや王位継承権を放棄したとはいえ、身分が高いシアレス様が行くような場所ではない。
そこは咎人が処遇を決められるまで放り込まれる薄暗く汚れた場所で、まさに尋問、拷問をするためだけのものである。シアレス様自身もその事をよく御存じだ。誰もが好き好んでいく場所ではない。
が、彼の方がそこへ赴くという理由が一つだけ思い当たった。
「牢壁所と言いますと……例の……?」
と静かに問えば、シアレス様の口から「ああ」と肯定する言葉がこぼれる。
「この国に堂々と蒼の甲冑を身に纏ってやってきた輩から何の情報も引き出せないと聞いた。自白剤を持っては舌を噛み千切る勢いで何も聞き出せないと」
相変わらず無表情ではあったものの、明らかに落胆の色を隠さないシアレス様の声色に苦虫を噛み潰したような思いが心の中を駆け巡る。この方があの場所へ赴く理由はそれしか思い浮かばないのだが。
「シアレス様のお手を煩わせるとは、大変申し訳ございません」
唇をかみしめた後にそう伝えると、彼の人はふんっと小さく零しながら書類を机の上に置くと同時に立ち上がった。
「馬の用意を」
◇◆◇
城下町より少し離れた場所にある、荒れた土地に突如として現れた場所が牢壁所だ。高い壁に囲まれたそこの門番は、シアレス様と私、そして二人ほどの騎士を連れて馬を走らせてきた姿を遠方で確認し、その重苦しい錆びた門をゆっくりと開けた。
門番に挨拶することなく馬と共になだれ込んできた一行対し、中で見張りを行っていた騎士達が緊張を全身には知らせて胸に右手を拳にして宛がう。騎士達にとっては最敬礼の姿である。
手綱を引くと同時に歩みを緩めた馬から早々に飛び降りたシアレス様は、そこに駐屯していた騎士の一人に馬を任せ、颯爽と迷うことなく薄汚れた牢壁所へと歩みを進めていく。
経略式の甲冑姿で腰に宝飾された長剣を携えた姿は白いマントの中に隠れている。
シアレス様の歩みに少し遅れ、ふわりとマントが揺れる姿を駐屯していた騎士達が先ほどの騎士と同じく最敬礼した状態で迎え入れる。
同じ格好をした私と騎士達が無言のまま歩みを進めるシアレス様の後ろについた。
幾人もの咎人達が住まうその場所では、彼の方を見た途端に牢の中から罵声を浴びせるものもいる。無論、震えるものもいたがシアレス様はすべてを無視して歩みを進め、この場所において最も奥へと繋がる薄暗い廊下を進む。
カツカツと廊下と自分達の歩むブーツが幾度となくぶつかりあったものの、やがてぼんやりと蝋燭の明かりがともる場所で前を歩いていたシアレス様が歩みを止める。
パチンッと小さな音が響いたかと思えば、シアレス様は自分が身に付けていたマントを外したところだった。無言のまま私が歩みを進めると、彼の方は振り返りもしないまま無造作にマントを投げてよこす。それを受け取りながら頭を垂れると、シアレス様は牢番をしていた騎士に視線を向けた。
「現時点においては何の情報も」
短い報告ではあったが、それがすべてだと騎士は強張った表情のまま少しだけ頭を下げながらシアレス様に報告をする。誰とて彼の方がどれほど恐ろしいお方か知っているため、自分の些細な言動が彼の方の逆鱗に触れるか恐れているようにも見える。
シアレス様は視線を目の前の牢に向けると、鉄格子の向こうにボロボロなイスに手足を縛りつけられ、目隠しと猿轡をされている例の侵入者を確認した。
ボロボロになった衣類と、拷問を受けた傷痕が目立つ。男自身が流した血が固まって、頬にこびりついている。
あの時――皮肉にもコトエ様と出会うきっかけとなった隣国からの侵入者の一人だった。
蒼い甲冑は言葉を発せずとも隣国の騎士であると理解でき、同時に堂々と現れたのは不可解でもある。
殲滅した中で唯一、五体満足で気を失っていただけのこの男を持ち帰ったのは、もちろんこの国へ侵入した理由を探るためだ。
直立不動でその男を睨み続けるシアレス様の前で、牢番をしていた騎士がじゃらりと鍵の音を鳴らしながら唯一牢につながる小さな鉄格子の枠に一つを差し込む。開錠の音と同時に鍵を差し込んだ騎士が鉄格子を引き寄せたため、その牢に続く口はあっけなく開かれた。
少しだけ身をかがめて侵入したシアレス様に続き、一緒に来た騎士達と私も続けて中に入る。
目の前の縛られた男が唯一自由である耳で何かを察したらしく、うぅっと唸って警戒したようにも見えた。
男の前にシアレス様が静かに立つ。
付いて入った二人の騎士と私は壁際に背を向けてそれを見守る。
ただそれだけなのに不快な汗が額からにじみ出る。
これからどのような事が起こるのか、ここに居る連中は既に理解しているからだ。
ふと、シアレス様が私の隣に立つ騎士に視線を向けた。騎士はすぐに察したらしく、男の背後に回ると目隠しを取って男の視界を確保する。視界を遮っていた布を手に持ったまま、騎士は先ほどまでいた私の隣に再び並んだ。
目を閉じていた男がゆっくりと目を開き、暗闇から少しの明かりがともった牢の中をぐるりと見渡したのちに、自分の目の前に居るシアレス様を酷く睨む。
「隣国の間者としては随分堂々とした振る舞いで我が国の土を踏んだものだな」
凛とした、けれど一切熱を感じない冷たいシアレス様の声に男は睨みを止めない。
「この国へやってきた目的を吐け」
雑談など不要とも言いたげに本題を切り出したシアレス様に対し、男は自分の立場を分かっていながらも高圧的な態度を示しているようで。
ああ、わかっていないな。
と、ぼんやりとした気持ちでそう思った。
どんなに睨みを利かせ口を噤んでも、シアレス様の前では無意味だ。
猿轡をされたままで言葉を吐くこともできないと分かっていながら、シアレス様はもう一人の騎士に視線を向けるとゆっくり歩み寄る。
命令なくして持ち場から動くことは許されない。
騎士は視線をまっすぐに向け、歩み寄ってくるシアレス様を見ぬよう心がけながら直立不動でその場に足を据えている。
シアレス様の手が伸びたのは、騎士が腰に携える長剣だった。
すらりと鞘から抜かれた長剣。騎士の命ともいえるソレを、シアレス様は無言のまま手に取った。
暗闇の中で鈍く光る長剣に目をやりながら、シアレス様はそのまま騎士に背を向けて椅子に縛り付けられている男に剣先を向ける。
男はシアレス様の行動を視線で追いながら、剣先を向けられても決して屈さないといった態度を示す男に対し、シアレス様はようやく表情を変えた。
とは言っても、すこしだけ眉をひそめただけなのだが。
「強情と聞いていたが……これくらいの脅しは既に受けているか」
それもそうだ、とシアレス様はご自身で納得されたように長剣を降ろすと、今一度男の前に立って彼の額にトンッと中指の先を付けた。
――始まった。
男以外のすべてが息を呑みこんだ。
「お前の名は?」
男はシアレス様に触れられたのが気に食わなかったのか、激しく体をゆすって抵抗するものの両手両足を椅子に縛り付けられた状態では微動しか敵わない。
目を細めながらシアレス様は答えも得られぬまま次の質問を繰り出した。
「この国に来た目的は?」
前に投げかけられた質問に答えなかったはず――否、応えられなかった男はシアレス様の不可解な言動に眉をひそめているようだ。何か思惑があるのかと思考しているようにも見て取れたが、無言のまま冷淡ともいえる表情で自分を見つめ、額に手を指先を当てているシアレス様の姿にますます眉をひそめている様子だ。
既に静かな指先だけの攻防戦が始まっている。
男がそれにいつ気が付くのか見ものではあったものの、それが成し遂げられるのは人外的な力が動いているため周囲の顔色は悪い。
その指先がいつ自分に向くかと思う恐怖は心のどこかにある。だからと言って自分達の主に背く陰謀が渦巻いているわけでは決してない。しかし黙っていても心を読まれるというのは気分のいいものでは決してないのだ。
次の質問を繰り出すわけでもなく、ただ静かに自分の額に指先を触れているシアレス様を男は怪訝な表情で睨み続けていた。
ただ何の前触れもなく、だ。
男が少しずつ何かを察したように目を見開き、やがて戸惑いをその瞳に浮かべて視線を漂わせ始めた。
想像を超越しただろう男の思考は体をガクガクと揺さぶり始めた。恐怖からか否定からかは分からないが、確実に男の心を侵食していくソレにシアレス様もようやく納得がいったように指先を男の額から離した。
そうして私に振り返ると、備忘録のようにすらすらと得た情報を話し始めたのだ。
「ギルヴェッツェ王国第四騎士団所属ガルーヴァ・ミェンチェット。近年訪れるであろう《誉人の奇跡》を探し、無傷で国へ連れ帰るようにと大臣の一人から――とは表向きで、実際は国王の勅命によりこの地に足を踏み入れた。《誉人の奇跡》たるヒナモリコトエの容姿も把握済み。しかし《誉人の奇跡》を所望する国王の意図は知れず……と言ったところか」
淡々と述べられる事実に男の目がようやくたどり着いた真実を見たとばかりに大きくなった。
私はシアレス様の言葉を幾度となく脳内に反芻し、一句違わず叩き込む。
「驚いたね。自国の客人であるコトエの事を他国が先に見出しているとは」
思ったことをそのまま口に乗せただけであろうシアレス様の言葉は深く理解が出来た。
あの時、シアレス様を庇って瀕死の重傷を負った女性が《誉人の奇跡》であると我々がたどり着いたのは、つい先刻ほどの事だった。それなのにギルヴェッツェ王国の頂点は先に彼女の存在を認め欲しているという。
《誉人の奇跡》はこの国において神に等しい宝であるが、他国でもそれが通用するとは到底思えない。
思惑がどこにあるにしろ、自国を出し抜いて他国が彼女の存在を求めるというのは明らかに可笑しい事なのだ。
男が体を大きく震わせて怯え始めた。
それは人としてではなく明らかに《異端》たるシアレス様に恐怖しての事だ。自分が思っていた事を指先で読み取られた恐怖は計り知れないだろう。自白剤にも負けず、どんな拷問にも耐えながら口を閉ざし続けた男の結末は目に見えている。
ふと、シアレス様と男の視線が交わった。
男の震えは自然と止まり、拘束された自分を見下ろすシアレス様の瞳に温もりはない。
次第に、ゆっくりとシアレス様の口角が上がっていく。
それはコトエ様に見せた微笑みとは真逆と冷笑。
下限の月のように歪んだその唇は、身内から見ても背筋が凍る。それに伴いシアレス様の瞳も細く弧を描き始めた。唇とは鏡写しのように三日月を形成していく。
効果音にしてはニシャリと言ったところだろう。
あまりにも歪みすぎたその笑みは恐ろしい感情を通り越して美しくさえ見える。
「ご苦労だった」
シアレス様が短く呟かれた言葉と共に、彼の方が力なく持っていた長剣が勢いを増して風を切った。
男の背後に血の道がピシャリと走り、鈍く肉が切り捨てられた音と共に、牢の壁にゴンッと切り離された男の頭が飛んでぶつかって落ちる。
頭部を失った体はビクビクと痙攣し、先ほどまでシアレス様を見つめていたそこからはバシャバシャと激しく血があふれ出す。
大量の返り血を浴びながらも無表情のままその場に立ち尽くしたシアレス様は、やがて痙攣を納めた胴体をいつの間にか無表情で眺め、手に持っていた長剣を大きく一振りする。
長剣に流れていた男の汚れた血が牢の床に一筋の線を作った。
血を払った長剣を視線の高さまで持ち上げたシアレス様は、染みひとつ残らなかった長剣を眺めて「ふむ」と小さく零す。その剣に映る自分の姿が血にまみれていたとしても気にしないといった様子で。
まるで今の事が何もなかったかのような振る舞いに、そのすべてを見ていた誰もがゾクリと体を震わせただろう。
男の首を飛ばした長剣を片手に、シアレス様は長剣を無条件で渡した騎士に歩み寄った。
「いい剣を使っているね。手入れも行き届いている。今度贔屓にしている鍛冶屋を紹介してくれる?」
そう言って何事もなかったかのように彼が腰に携える鞘に長剣を戻したシアレス様に対し、騎士は顔面から流れ落ちる冷や汗を拭う事も出来ずに「はっ」と短く答えるだけに留めた。
脳裏からは一切消えていた。
この方がどのように声をあげて笑っていたのかなんて。
自分達が知る今のシアレス様こそ我々が仕える主であり事実なのだ。
王位継承権を放棄した後でも、皇帝陛下がこの方を手元に置きたがる理由は明白だ。
味方に据えればこれほど頼もしい方はいらっしゃらない。
また、敵に回ればこれほど厄介な方もしかり。
しかしこの時は誰もが気付いていなかった事がある。
他国が先立って求める《誉人の奇跡》たるコトエ様という存在が、シアレス様を存在を軽々と凌駕するほどの度量と知力、そして国を脅かすほどの《悪》を潜めた人であると――。