異世界に来ちゃったよ!
この一ヶ月、私は誰よりも頑張ったと思う。
知らない土地、見知らぬ人達の中、私を温かく迎え入れてくれたレアン食堂のヨン=リエロおじさんにヘラ=リエロおばさん。記憶を失った私に知識を与え、仕事を与えてくれたレアン食堂の跡継ぎであり一人息子のエン=リエロ。不慣れな生活にようやく慣れてきた頃、ようやく自身の置かされた状況と向き合うことができたのだけれど。
「……もー! やだああぁぁっ!! 帰りたいよぉ! お父さん! お母さん!!」
与えられた部屋から夜な夜な抜け出して来た町はずれの小さな森。その中にひっそりと水面を揺らす小さな湖畔で、私は座り込んで号泣した。
雛森琴枝、27歳。
異世界にトリップして一ヶ月でホームシックになりました。
《おいでませ異世界!》
記憶喪失というのは便利な言葉だと思う。
知らないうちに異世界に紛れ込んでしまった私は以外と冷静だった。異世界であると認識したのは目の前に広がる街並みが先ほどまで居たはずの場所と全く異なっていたからだ。
現実にはありえないと思いながらも必死に自分のパニック状態を誤魔化すように、召喚系? それとも迷い込んだ系? なんて、自分の異世界トリップの状況を必死に飲み込もうとした。オンライン小説で異世界トリップネタが大好きだった私にとっては、「うっはw当事者w」とか喜ぶよりも先に、知識があってよかったとつくづく思った。
現状把握ってマジ大事。
小説ネタで行けばどこぞの貴族や王様なんかとラブロマンスを経た後ハッピーエンドとなるか、勇者かもしくはその仲間として魔族的な敵と戦って勝利し現実世界に戻れるリターンエンドかの大きく二種類に分けられると思う。当然ラブロマンスなのにリターンするってネタも捨てがたいけれど、とりあえず私の中では二種類。
けれど、自分自身が異世界トリップしたとなれば話は別。
ほら、アレじゃん。異世界トリップものって主人公が絶世の美女だったり、何かの能力に長けていたりとか、チート設定が非常に多いし。という前提で話を進めるのであれば、私はそのどちらにも当てはまらないと自負できる。
悲しい事に、容姿は平凡だしむしろぽっちゃり(と思いたい)体系。あ、でも身長があるからそれほど太っては見えないと思っている。股下は長いって言われるし。ヒール履けばそれなりに。うん。
現代社会において資格は運転免許と簿記検定があるくらいで、ぶっちゃけ正社員にもなれない派遣社員だった。性格はそれほど悪くないと自分では思いたいけれど、人見知りはしない。まぁ、心を許す範囲と言えば狭く深くがモットーだけれど、元ホテルマンの父と母を持てば接客対応については心得だけで言えばプロ根性。ただし、敬語除く。
やる気がない時はとことんやる気がないけれど、やる気があればとことんど根性。派遣社員って立場を理解しているけれど、持ち合わせている自尊心だけは一丁前で彼氏なんて存在は悲しいことに……。
そんな自分と向き合えば、少し前に記していた二種類のトリップネタ、どちらにも当てはまらないのだ、自分と言う存在は。
と、なれば。
侵入者とか異世界の人間だとかで見つかった場合、即効切り捨て御免! の展開もありうるわけだと考えた私は、とりあえず現状把握という行動に出たのも仕方がない。
トリップ先は洋風の建物が並んでいたため、中華系でなくてよかったと思う。ちょっと雰囲気が苦手。読まないことはないけれど。あ、小説の話ね。
ただ見た目で理解できることはそれくらいで、とりあえず人と話してみなければわからない。
数年前に買ったリクルートスーツを未だに仕事着として活用しているから、見た目として不愉快にさせることはないと思うんだけど、どうしたものかと思いつつ街へ足を運んでみればやっぱり私のような服装をしている人はおらず、浮いた存在だったのは否めない。
情報というのは人が集まる場所に集まるものだと、どっかの本で読んだ。ので、居酒屋や食堂的な場所を探してみれば《レアン食堂》という看板をぶら下げた店を見つけてホッとしたのは言うまでもない。
あ、ついでに理解したんだけれど、言葉が通じないという設定はなさそうだった。
看板を見た時は日本語だったし、ざわめく街中の人々が客を呼び込む声も理解できたからだ。街並みが洋風だから英語とかだったらどうしようかと思った。英語嫌い。日本語大好き。
恐る恐る《レアン食堂》へと足を踏み入れると、景気のいい「いらっしゃいませ!」という言葉と同時に、気さくに続いた「おや、お客さん、不思議な格好をしているね? どこの旅人だい?」というセリフに自分の選択が正しかったことを理解する。
そうして自分が考えていた設定として『記憶がないこと』『自分の名前と年齢だけは覚えていること』『記憶が戻るまでここで働かせてほしい』という願いを伝えれば、気前のいい《レアン食堂》を営む夫婦は涙を零して同情し、すべてを言い終わるまでもなく二つ返事で了承してくれた。同情されたのは良心が痛んだものの、現状を把握するには必要な事だと心の中で謝罪する。
「この世界の記憶も定かではない」とあいまいな事を告げれば、リエロ夫妻の一人息子であるエンが知識提供を申し出てくれたのはありがたかった。
こうしてリエロ夫妻に世話になることが難なく決定し、「今日は休みなよ」と優しく声をかけてくれるエンに縋り付いて「記憶のないままこの世界に身を置くのは怖いので、世界感だけでも教えてほしい」とちょっと現実寄りな事を言って詰め寄った。エンに惚れられるような美女じゃないため、彼は少しだけ驚いたものの性格はいいらしく「いいよ」とすんなり教えてくれた。
この世界の名前は《アルファシア》。
現在私が身を置くのは《フィアンベルセット王国》の城下町。ああ、あの遠くに見えたお城みたいなのは、正真正銘の王宮だったのかと納得する。
魔物とかはいないらしく、むしろ「魔物って何?」とエンに聞かれた時はさすがに誤魔化すのがちょっと大変だった。
ファンベルセット王国は世界でも大きい方らしく、隣国のギルヴェッツェ王国とは数年前まで対立して戦争していたけれど今は休戦中。
よしよし、ここまでは順調だ。
あるあるネタでは階級や騎士なんかの存在があるのかも確認しておきたいな、と思いそれを口にしたところ「当然だろ」という言葉が返ってきた時には「やっぱり?」と笑うしかない。そりゃそうだ。戦争していたってさっき聞いたばっかりだもんね。白馬に乗って戦う騎士というのは一度見てみたいものだと思うが、それはまた後日機会があればということで。
現代のように発達した技術はなさそうで、魔法という便利なものもないらしい。
あとは帰れるかどうかだけれど、さすがにこれは聞いたところで返事などもらえないだろう。
ようやく自分が納得する情報を確認してエンに遠慮されるくらい「ありがとう」をたくさん言って、与えられた食堂二階の自室のベッドにもぐりこむ。
自分が使っていたフカフカな布団ではなかったけれど、野宿するより何百倍もマシだろう。
今後自分が出来ることと言えば。
寝る。食う。働く。自分に利益をもたらす情報収集。
よし、腹はくくった。
そうして張り詰めた精神状態のまま異世界での生活を送り始めたのが一か月前。
――もう、限界でした。
いい年して泣き叫んでんじゃねぇよとは思うけれど、緊張状態は自分のキャパを大きく超えてしまった。
仕事にも慣れ、街の人達にも仲良くしてもらい、初給料だって出たばかりだけれど自分の世界に戻れないというのはかなり堪えた。気丈な性格ゆえに泣き事なんて誰にも言えなくて、一人逃げ出すようにやってきたこの場所で豪快なまでに号泣した。
もう、人目を気にせず鼻水たらしながらわんわん泣いた。
せめてイケメンヒーローくらい寄越しやがれ異世界め。私にベタ惚れする男くらい表れたって罰は当たらないんじゃないかっていうくらいの悲しい境遇。家族からも引き離されて、一人ぼっちで何しろってんだよと、理不尽すぎる自分の現状に八つ当たり。
そこら辺の雑草かきむしって池に投げ入れる。鬱憤くらい晴らさせろと。
散々ひとりで喚き散らした後は、湖の水面に顔を映して月明かりを頼りに目が腫れていないかを確認することだった。
ずびずびと品もなく鼻を身に付けていたエプロンの端で拭い、一人で大暴れしてようやく気持ちが落ち着いた時にはこれは定期的にやろうと心に決めた丁度その時。
けたたましい馬の足音が近づいてくることに気が付いて、思わず近くの木に身を寄せて声を潜める。
とうとう誰か私を殺しに来たかっ!? と突然訪れた緊張に身震いを起こしていると、金属音が弾かれる音とドサリという大きな物が落ちた音、呻き声と共にブシュッと何が飛び散る音が混在しながらどんどんと近づいてくる複数の声と馬の蹄の音。
「クソッ!」
間近に迫った苦々しい声が最後の合図だったようで。
ドサッと何かが草むらに落ちた音と、ぶるりと震えた馬の声。
キンッと金属がおさまる音にそっと顔を覗かせれば。
やったね、イベント大発生!
という状況ではなかった。
じゃあどういう状況かって?
もう、最悪。
生で見るもんじゃないよ、人が血吹いて死んでるところ見るのって。
グロテスクな表現は苦手だからあえて避けるけれど、五体満足っていう言葉がどんだけありがたいものかって理解できる状況。
血なまぐさいってこういうのかと冷静に思いながらも、私はあふれ出す吐き気を必死に抑える。
騎士を生で見てみたいと思ってはいたけれど、こういうところを見たかったわけじゃない。
「シアレス様」
「タリア。ここの始末はお前に任せる。2騎隊は引き続き残党の始末に迎え」
「ハッ」
凛とした声が部下らしき人物に命令する。夜の森は薄暗くてはっきりとした人物像が見えない。これはたぶん、相手側にとっても私が見えないだろうという好都合。
命令されたタリアという人物は自分達の後ろに控えていた騎士達に主人らしきシアレスという人物から託った命令を下しているようで。
ばたばたと動き回る複数の影はやがて馬の足音と共に遠退いていく。それを見送った後に先ほどとは違い、ボソボソとした会話が始まったようで。
今? 逃げるなら今? どうしよう? どうしたらいい??
誰に聞くわけでもない、自問自答を繰り返しながらそっと木の陰から様子見すると、馬から降りてこちらに背を向けたまま会話する騎士の姿が視界に映る。その奥で人が数名居るらしいが、全員に気づかれないように去るなら今しかないかもしれない。
そう思った刹那だった。
私から見て一番手前で倒れていた片腕を失った騎士が、剣を杖に震えながら立ち上がった。
蒼の鎧が動きに合わせてカチャリと音を立てるが、話している白の鎧の騎士達は気づかない。震える体がゆっくりと剣を振り上げる間もなく、それに気が付いた遠方の騎士が大声を上げた。
「シアレス様!!」
声に反応して振り返った騎士が腰に携えた剣に手を掛けたが間に合わない。
ああ、もう。なんでこうなるかな。
一番先に気づいた私は誰かが叫んだ寄り先に動いていた事に自分自身でも驚いて。
うああああ!!! 痛いいいいいい!!!
シアレスと呼ばれた男を庇って、右肩から左腹部へとざっくり切られた。後ろで叫ぶ騎士達が大きく目を見開いていた事なんて気づかない。
後方に倒れる私を受け止めながら、白い騎士殿は目の前に立ちはだかった蒼の騎士の胸を己が携えた刃で貫いた。
もうだめ、吐きそうだし痛いし。
畜生、私は結局バッドエンドの方だったか、なんて余裕ぶっかましたことを考えながら、走馬灯の如く現代日本に残してきた家族に謝りつつ意識を手放した。