見知らぬ世界の彼方より
2013年3月 東京。
地上より132メートルの屋上に男は、いた。
勿論、自殺するつもりなのではない。 やらなければならない仕事があるから、わざわざ施錠されて普段は立ち入ることのできない屋上にいるのだ。
眼下には、人の波、現在時刻、17時20分。
男は黒いビジネスコートに身を包み、排気ダクトに身を預けながら、米粒程度の大きさにしか見えない人々を観察していた。
もっとも、男からすれば人々だろうが何だろうが全てどうでもよかったりするのだが。
男は視線を転じると、目を細めて太陽を見つめる。
もうすぐ、太陽も西の彼方へと姿を消すだろう、だが男の位置からは西へと沈む前にビルの影に隠れてしまうので、その時を見ることはなさそうなのだが。
夕闇迫る東京の空は、太陽の本日最後の恩恵によって美しく彩られている。
全面ガラス張りの高層ビルに、夕焼けのやわらかな光が反射して男の手元を薄く照らしてくれた。
標的 阿形 勇 28歳 独身。
その下に古ぼけた標的の写真。
髪は短く刈り揃え、くっきりとした輪郭。 自信無さげな目つきが若干気になるところではあるが、好青年の枠内には入れてもいいだろう。
面倒だな。 と男は思わず溜息をついた。
この仕事はとっくの昔に男の手を離れて久しかったから。
傍らには、イギリス軍が正式に採用している大口径狙撃銃が大空へとその銃先を向けている。
しかしこの狙撃銃は厳密な意味ではイギリスにて製造されたものではない。
"実物と全く一緒の別物"だった。
「後30分か」
男はのそのそと大口径狙撃銃を手に取ると、そのまま地面に這いつくばってから二脚を立てて眼下へと銃先を向けた。
スコープの調整も、何もかもが済んでいる。
「いつでも、出てこい」
呟きは周囲の空気へと伝わり、ダクトの排気音と混じり合い、呟いた言葉はたった1メートルすら届く前に霧散する、筈だった。
「真面目なんですねー」
男は、一瞬身を強張らせたものの、その驚きを胸の内に押し隠してスコープから目を離さずに答えた。
「仕事は仕事だ。 お上から何か伝言でも預かってきたのか?」
驚かせようと男が集中した時を見計らって登場したものの、気のない返事に少女は頬を膨らませる。
「別に、伝言なんてないですよ、上手くコトを運べるように手伝えって言われただけで」
チェックの可愛らしいスカートをヒラヒラさせながら、少女は先程まで男が座っていた場所に体育座りになると、少女を一瞥すらしない男に構わずに質問をぶつけた。
「私、このお仕事をする意味があんまり、というかよく分からないんですけど」
男は銃を覗いたままだ。
「特にこの標的の阿形って人、他の皆にやらせればいいじゃないですか」
男は開きっぱなしにしていた自分の手帳を勝手に覗いている少女を一瞥すると、手元の時計をスコープを覗いたままでも見やすい位置へとそっと置き直した。
まだ予定の時間まで後25分ある。
「このお仕事をする意味ねぇ...そりゃ他の連中はみーんな"子供"だからな」
「だったらその子達にやらせればいいじゃないですか」
「やったけど失敗した。 だから俺がここにいる」
少女が何か言おうとする前に、男はさっさと話題を切り上げるように右手を軽く振り上げて前へと向き直った。
「まだ、この阿形って人をなんで撃たないといけないのか聞いてませんけど」
少女は抱きしめた自分の膝に顔を埋めてさらに質問を投げかける。 仕事の前に集中しようとしているのに横から質問ばかりされ、男は反射的に怒鳴りたい衝動に駆られたが、大人気ないという気持ちがないわけではない。 また、男は溜息をついた。
「その標的にこの弾丸をぶち込まないと、将来に強烈な禍根を残すことになるんだとよ」
「この人が、ですか?」
「なぁなぁなぁ、ちょっと待て、お前仕事について何も知らないのに、なんでここに来たんだ?」
「えーっと...えへへっ」
大概の男ならば、この笑顔にコロリとやられてしまうだろう。 そう男が思うほど、彼女の笑顔のソレは天使そのものだ。
だが、ごつっ、という鈍い音と共に少女から天使の笑顔が消え去った、いや消されたという方が正しいかもしれない。
「いっいったーいっ! ヒドイです!何するんですかっ」
「何もクソもねーんだよ。 お前勝手にここに来ただけだろ。 俺の仕事が終わったら突き出してやるからな、覚悟しとけよ」
ゲンコツをお見舞いした後、男は長い溜息をついた。
「この標的はな、今現在好きな子がいる。 んで、その好かれてる子も標的が好きなわけだ、いわゆる相思相愛って奴だな」
「分かりました! ハニートラップみたいな肉体関係ドロッドロの罠で会社の機密事項を流出しちゃうんだっ!」
「違う、このままじゃあいつの恋愛は成就しないからな、結果お相手さんは別の男に半ば強引に落とされる形で結婚、その失恋がショックで標的は致死的な化学化合物を大量生産、あちこちにばら撒いて都内は大パニックに陥る」
「...なんというか、人って何考えるか分からないですね」
少女は唖然とそう答えるしかできない。 苦笑いの色が濃いその表情もまた、人を魅了するには余りある代物だった。
「このお仕事の重要性が分かったならほら、これやるから大人しくしてろ」
「はーい...」
男はスーツケースから軍用の双眼鏡を取り出して少女の足元へと置き、自身は再び狙撃銃へと向き直った。
残りは後20分。
眼下に見える人の群れ。
終業時刻をまだもう少しあるというのに、既に通りの人の数は少しずつ増えてきていた。
男は軽く、舌打ちをする。
男が横を見ると、少女もまた軍用双眼鏡で男と同じところを見ていたようだった。
邪魔といえば邪魔なのだろうが、折角与えた玩具で遊んでいるのだからと、結局は放っておく。
「そういえば、私まだお名前聞いてないんですけど」
双眼鏡を胸の位置まで下げると、男の方へと向いて少女が呟く、先程までと違ってその態度は少ししおらしく、これが少女なりの配慮らしい。
その態度に好感を持ったのか、はたまたただの気まぐれなのか、とにかく彼は答えた。
「アハヴォート、お前は?」
「私はピリアです」
アハヴォートは自分のメモ帳を拾い上げると、素早くピリアの名前をメモ帳に書き付けた。
無論、仕事が終わった後の上司達のお説教の為にである。
その時、ピリアがあっ、と声をあげた。
「アハヴォートさん! 標的です!」
ピリアが叫んだ時には、既にアハヴォートのスコープには標的"阿形 勇"のシルエットが大きく写り込んでいた。
「まだ予定には少しある筈だったんだがな」
アハヴォートから見た阿形 勇はやはり気の弱そうな人物である。
春一番が吹いた後の暖かい空気が入ってきたせいか、コートは着ずにスーツ姿で何回か溜息をつくのがアハヴォート達からもよく見えた。
やはり、というか、どことなく元気なさげな風貌が哀愁を漂わす。
「いかにもこいっ...」「いかにも恋煩いって感じですねー、って、あー...」
ピリアが申し訳なさそうに、アハヴォートの方を見る。
「す、すみません...」
小さく謝るピリアにアハヴォートはあえて何も言わず、スコープ越しの標的に精神を集中した。
距離は500メートル。
大口径の対物用狙撃銃ならば余裕を持って狙撃できる距離だ。
指先が、いや、身体全てが銃と一体化したかのような、そんな錯覚を感じる。 ゆっくり、ゆっくりと人差し指に力が込められていく。
衝撃、そして、彼ら以外には聞こえないのだが、爆発のような銃声。
銃弾は真っ直ぐに阿形の胸へと向かって行き、そして、着弾した。なのに、男には何事も起きていない。 いや、起きてはいたが、それは目に見える形でないだけだ。
アハヴォートはポケットから端末を取り出すと、一度ボタンを押して話し始めた。
「あー、あー、こちらアハヴォートだ。 弾丸は標的に着弾したことを確認した。後は監視の連中に任せたぞ。 予定の場所で回収してくれ」
アハヴォートは携帯をコートのポケットへ再びしまうと、手早くライフルを分解しはじめた。
「これで、終わり...ですか? キューピッド達がやっても一緒だったんじゃありません?」
「さっき言ったろ、あいつらのチンケなハートついた矢じゃせいぜい"好き"とか"幸せ一杯"とかそんなんが精々なんだよ」
「だからってわざわざ銃にしなくても...」
「天使の仕事道具も時代に即して変わるんだ。 50LOVE弾の威力はキューピッド800人分くらいだろうな」
「全然分からないですけど」
「天国に帰ってからまた改めて見るんだな、スゲーから」
身支度を終えたアハヴォートがピリアと共に回収地点に向かう頃、撃たれた阿形はとんでもないことになっていた。
一秒でも早く、あの子の顔が見たい、声が聞きたい、想いを伝えたい。
想い溢れるとはこの事か、阿形はもう居ても立っても居られない。
先日、偶然に偶然が重なってメールアドレスを交換していたことで、既に其の手は仕事終わりのデートの誘いを文面に打ち込んでいた。
「綾さん、お仕事お疲れ様です。 突然ですが、本日ディナーでも一緒にどうでしょうか?」
これではだめだ、と削除ボタン。
「マイハニー、想いが止められません」
削除。 削除。 削除。
3度ほどやり直したところで、今まで溜めていた想いが爆発した。
よし、会いに行こう。 いや、想いを伝えに。
阿形が覚悟を決めた時には既に会社へと力強く進んでいる最中だった。 まるで、5分前の自分とは何もかもが違うようで、体が滾る、熱く、苦しい。
会社に入ると怪訝な表情の同僚の脇を抜け、書類整理をしていた女子社員の前に立つ。 天使の放った弾丸に、一人の人間が抗えるわけがない。
「あ、あああ綾さん!! 今晩、僕と食事でもしませんでしょうか!」
人知れず天使に狙撃された阿形が、そして、東京が大惨事から救われることになった瞬間だった。
**********
「で、なんで俺がこいつとチームを組まないといけないんですか!!!」
アハヴォートは目の前の中年太りの天使へと大声で抗議した。
傍らではピリアがまんざらでもない様子で事の成り行きを見守っている。
中年太りの天使は鼻をほじりつつアハヴォートの抗議を軽く受け流した。
「そんなこと言ってもねぇ? ここだって不景気なんだよ? 人間界が少子高齢晩婚化も進んだことで、幼い愛を育むキューピッド達の仕事場は減る一方だ」
「赤ちゃんやらガキンチョに仕事させるココにも問題はあると思いますが」
「なら、問題ないじゃない、それに大人のビターな愛は、君の文字通り情熱あふれる弾丸を必要としているのだから!」
「...で、なんでこいつが一緒なんです」
中年太りの天使は3秒ほど、考えた、ここで嘘をつくべきか、本当のことを言うべきか。
「君もいつまでもこの仕事を続けるワケにはいかないだろーう? その子を後継者に育てたまえ」
中年太りはもっともな嘘をつくことにしたようだ。
真実は、勝手に職場放棄したり、遊びにいったりするこのピリアにうんざりしていた他の天使連中が、ピリアの受け取りを拒否するもんで、だったらそのままにしてしまえ、と考えただけだったのだが。
最悪なことになった、と露骨に顔を出すアハヴォートへとピリアはトコトコと近づいていくと、アハヴォートが何かいう前にぺこり、と頭を下げる。
「よろしくお願いしますね。 アハヴォート先輩」
陰鬱な空間に、天使ピリアの声がよく響く。
それでも、人間界は、世界は回ってる。
新たなお仕事も、またすぐに必要になるだろう。