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床の上の線

掲載日:2026/08/11

 

 夜の十時、掃除機のヘッドが吸い込む「カサカサ」という不快な乾いた音が、ワンルームのフローリングに響く。


 吉田は膝をつき、フローリングの板目に沿って落ちている黒い糸状のものを指先でつまみ上げた。自分の髪の毛だ。先が細くなった、紛れもない三十歳の自分の頭皮から脱落した毛髪。板目の溝に挟まったそれは、木目を断ち切るように斜めの短い「線」を描いていた。


「……またか」


 吐き出した息が、床の上の埃をわずかに散らした。


 吉田は三日前に、生まれて初めて実家を出た。三十歳という年齢が、背中に冷たい手で触れてきたからだ。


 大学時代に二年間だけ付き合った彼女がいたが、それ以降、浮いた話はない。勤め先は実家から徒歩十二分の距離にある、地元の小さな複合機販売商社だ。コピー機のトナーを替え、紙詰まりを直し、年に数回の買い替え提案をする。給料は高くも低くもない。実家にいれば、母が洗濯をしてくれ、夕飯には温かい煮物が出た。一人暮らしをする合理的なメリットなど存在しなかった。


 それでも出たのは、世間体という名の、見えない檻のせいだ。


 会社の飲み会で、二十代前半の女子社員が「まだ実家なんですか? すごーい、親孝行ですね。」と、微妙なひきつりを浮かべて言ったあの顔。三十歳という節目に、自分だけが子どものまま取り残されているような不気味な焦燥感。


 職場の商社と実家のちょうど真ん中、徒歩六分という位置にある築十五年のアパート。実家からこのアパートまで徒歩六分。アパートから職場まで徒歩六分。地図の上に、綺麗に等分された一直線の道路が浮かんできた。実家という起点から、たった六分ぶんだけ横にスライドした場所に、吉田は自分だけの「線」を引き直したつもりでいた。


 しかし、一人暮らしを始めてから、吉田の頭を占領したのは自立の充足感などではなかった。


 髪の毛である。


 洗面所のプラスチックの床、ベッドの脇、キッチンと居間の境界。至る所に、黒い線が散らばっている。実家にいた頃は、こんな光景を見たことがなかった。


 風呂場に入り、シャンプーを揉み込む。指の隙間にヌルリと絡みつく毛髪の感触。シャワーで洗い流すたび、足元へ向かってスーッと流れていく黒い線。排水溝の目皿に、あっという間に小さな毛玉が形成されていく。


(こんなに抜けていたのか?)


 実家にいた時から同じように抜け続けていたのか。母親が自分の知らないところで、毎日毎日、黙ってこれを拾い集めて捨ててくれていたのだろうか。それとも、環境の変化によるストレスなのか。あるいは三十歳という年齢の崖から、自分の頭皮が転がり落ち始めた証拠なのか。


 答えは出ない。ただ、誰もいない部屋で自分の抜け毛と対峙していると、自分が少しずつ目に見える形で摩耗し、細い線となって床の上に零れ落ちていくような感覚があった。


「はぁ……」


 掃除機のスイッチを切り、ゴミ受けを覗く。ホコリと絡まった自分の髪の毛が、不気味な鳥の巣のように丸まっていた。


 ティッシュでそれを摘み取り、ゴミ箱へ捨てる。


 ふと、窓の外を見た。カーテンをまだ買っていないため、夜の街がそのままガラスに映り込んでいる。


 徒歩六分先には実家がある。今頃、母はテレビを見ながらお茶を飲んでいるだろう。そこへ戻れば、温かい風呂があり、髪の毛の落ちていない綺麗な床があり、何も考えずに眠れるベッドがある。


 自分は何をやっているのだろう、と吉田は思った。


 実家と会社の間のほんのわずかな隙間に部屋を借り、落ちる髪の毛の本数に右往左往している三十歳の男。人から見れば、笑ってしまうほど遅れていて、矮小で、格好悪い選択だ。何かをやり遂げたわけでも、何かが劇的に変わったわけでもない。


 吉田は床にしゃがみ込み、指先でフローリングの隙間に挟まった最後の一本の髪の毛をつまみ上げた。


 黒く、細く、頼りない一本の線。


 それを指先で丸め、ゴミ箱の中に落とす。カサリ、と乾いた音がした。


 何か誇らしい感慨が湧いてくるわけではなかった。「これで大人になれた」などという爽快な納得もない。ただ、実家にいた頃は目に入らなかった自分の汚れや摩耗が、この六分だけ離れた部屋の中では、隠しようもなく眼前に転がっているという事実があるだけだった。


 自分が引いた不格好な「一人暮らし」という線の上で、吉田は後頭部を撫でた。掌に伝わる頭皮の感触は、どこか心もとなく、薄い。


 立ち上がり、台所でコップに水道水を汲んで飲んだ。塩素の匂いが鼻につく、ぬるい水だった。


 窓を少しだけ開けると、夜の生ぬるい風が部屋の奥へと入ってきた。遠くで踏切の音がカンカンと低く響いている。


 明日もまた、髪の毛は落ちるだろう。部屋は静かで、自分は一人で、頭頂部の不安を抱えたまま、徒歩六分の職場へ向かって歩くのだ。


 吉田はコップをシンクに置き、電気を消した。暗がりの中、フローリングの板目が黒い線の束となって、足元に静かに広がっていた。

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