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現実世界恋愛

社畜ですが、過労死寸前の逃亡が幸せな未来につながりました

作者: 森実 蓮華
掲載日:2026/04/14

 怒鳴り声が、遠くで響いていた。


 言葉としては耳に入っているはずなのに、意味が脳に届かない。水の中にいるみたいに、すべてがぼやけている。


「――こんな資料で通ると思ってるのか!?」


(ああ、またか……)


 三上は、キーボードの上に置いた手を止めたまま、ぼんやりと画面を見つめていた。カーソルが点滅している。何を入力しようとしていたのか、思い出せない。


(三日……いやもっとかもしれない……。しばらく、自宅に帰っていない……)


 眠いというより、意識が薄れている。頭の中に、霧がかかっているようだ。それでも、怒号だけはやけにクリアに届く。


「謝って済む話じゃないんだよ!」


 女の声が、かすかに震えていた。


「……すみません」


(ああ、あれは……確か……佐倉)


 三上は、その姿をぼんやり眺める。


(……死にそうだな)


 誰のことを思ったのか、彼にも分からなかった。


 彼女か?

 それとも、彼か?

 あるいは、その両方……。


 三上は立ち上がっていた。


 理由も意思もない。

 ただ、体が動いていた。

 ゆらりと、まるでゾンビみたいに。


 上司の怒鳴り声がまだ続いている。その前に、佐倉が立っている。うつむいたまま、肩が小さく揺れている。


 三上は、その手を取った。


「……え?」


 彼女が顔を上げる。


「み、三上さん……?」


 何も言わずに、彼女の手を引いた。


 三上の力は強くないはずなのに、彼女は抵抗しなかった。というより、抵抗する余裕がなかったのだろう。


「おい、何してる!!」


 背後で上司の怒鳴り声がした。


 振り返らない、いや、三上には振り返るという発想すらなかった。


 ただ、歩いて出口へ向かう。

 フロアを横切り、ドアを開け、廊下に出る。


 誰かが何か言っているが、全部、遠い。


 エレベーターのボタンを押す。

 乗り込み、扉が閉まる。


 静寂。


「……あの」


 佐倉が、恐る恐る口を開く。


「これ、どういう――」


 その瞬間──

 三上は、彼女に抱きついた。


「……え?」


 彼女の体が、びくっと強張る。


 しかし、三上は何も言わない。

 ただ、ぐったりと体を預けている。


「み……三上さん?」


 反応がない。

 けれども、規則正しく呼吸はしている。


「……寝てる?」


 彼は寝ていた。

 限界を超えた脳が、強制的にシャットダウンしたのだ。


 エレベーターの中で、彼女に抱きついたまま。


「……もう」


 佐倉は、小さく息を吐いた。


「なんなんですか、本当に……」


 困惑と、呆れ、ほんの少しの安堵。


「でも……ありがとうございます……」


 彼女はそのまま、彼の体を支えた。


 ◇


 目が覚めた。


「……ん」


 見知らぬ天井。

 柔らかいベッド。

 カーテン越しの光。


 体を起こす。


「……どこだ、ここ」


 記憶を辿る。


 会社。

 怒鳴り声。

 佐倉。


「起きました?」


 振り向くと、キッチンの方に佐倉がいた。マグカップを手にしている。


「あ……」


「おはようございます」


「……おはようございます」


 ぎこちない挨拶を交わす。


「ここ……」


「私の部屋です」


「……ですよね」


「エレベーターで、いきなり抱きついて寝たんですよ」


「……ああ」


 ぼんやりとした記憶の底に、かすかな温もりがよみがえる。


「仕方ないので、そのまま連れてきました」


「すみません……」


「いいですよ」


 彼女は肩をすくめる。


「むしろ、助けてもらいましたし」


「……ん?」


 そのとき、テーブルの上でスマホが震えた。


 三上のものだ。


 画面を見る。


 着信――会社。

 着信履歴も、通知も、山ほど溜まっている。


「……うわ」


 現実が一気に押し寄せてくる。

 だが三上は、少しだけ考えて、電源を切った。


「……いいんですか?」


「よくないでしょうね……でも」


 スマホをテーブルに置く。


「今は、いいかなって」


 頭が、妙にクリアだった。

 会社で感じた霧が、嘘みたいに晴れている。


「……佐倉さん」


「はい」


「今日は……好きなこと、しません?」


「……好きなこと?」


「はい。ちゃんと寝たら、冷静になりまして」


 ゆっくりと言葉を選ぶ。


「勝手に抜け出したので、たぶん俺たちはクビでしょう」


「……」


「仕事って人生の一部でしかない。だから、命を削ってまで働く必要はありません」


 少しだけ間を置く。


「俺たちは、仕事ばかりしてきました。だから、一回、仕事から離れた方がいいと思うんです」


 彼女の目を見る。


「で、そのあとで考えましょう」


「考える?」


「本当にやりたい仕事が何なのか、ということを」


 はっきりと言った。


 彼女の目が、大きく開かれる。


「だから今日は、好きなことをやりましょう」


 長い沈黙。


 そして――


「……はい」


 彼女は、微笑みながら頷いた。


 ◇


 それからの時間は、不思議だった。


 昼まで寝て、起きて、適当なものを食べて。

 外に出て、なんとなく歩いて。

 カフェに入って、甘いものを食べて。

 映画を観て、くだらないことで笑って。


 時間の使い方が、全部、自由だった。


「……こんな楽しい日、久しぶりです」


 夕方、公園のベンチで、彼女が言う。


「俺もです」


 風が心地いい。

 ただ、それだけで満たされる。


「……三上さん」


「はい」


「なんで、助けてくれたんですか?」


 その問いに、三上は少しだけ考え、正直に答える。


「……覚えてないんですよね」


「……え?」


「ほとんど無意識で動いたみたいで」


「無意識……」


「でも」


 言葉を探す。


「──死にそうだったから」


「……誰がですか?」


「俺も、あなたも」


 彼女は黙る。


「どうせこのまま働いてたら、どっちか先に壊れるなって……。だったら、まあ」


 肩をすくめる。


「一緒に逃げるのも、アリかなって」


 沈黙。


 しばらくして──


「……変な人ですね」


 彼女は笑った。


「よく言われます」


「でも」


 少しだけ、顔を伏せる。


「──助かりました」


 その声は、とても静かで、確かだった。


「ありがとうございます」


「……どういたしまして」


 二人は微笑み合う。

 夕焼けが、その頬をやわらかく染めていく。

 言葉はなくても、そこにいるだけで心が安らいだ。



 五年後。


 三上と佐倉は、それぞれ好きな仕事に就き、無理のない日々を送っていた。


 休日。二人は並んで街を歩く。あの日のように、自由に。


「こうしてると、思い出しますね」


「……あの逃亡劇ですか?」


「はい」


 笑い合う。


 夕暮れの公園。あのときと同じベンチに腰を下ろす。


 しばらく黙って、風を感じる。


「佐倉さん」


 三上が、少しだけ真剣な声で言った。


「はい?」


「これからも、一緒に笑っていたいです」


 ポケットから、小さな箱を取り出す。


「結婚してください」


 佐倉は、一瞬だけ目を見開き――やがて、やわらかく微笑んだ。


「はい」


 あの日、踏み出した一歩が、二人の幸せな未来へと繋がっていた。

最後までお読みいただきありがとうございます。

誤字・脱字、誤用などあれば、誤字報告いただけると幸いです。

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― 新着の感想 ―
昔は、「なんで電車に突っ込む前にどうにか出来なかったんだろう」と疑問に思っていましたが、あれは結果で原因は塵積なんだなと思うようになりました。 入り込んでしまうと自分の意志で断ち切るのは難しいのでしょ…
 死ぬくらいなら、すぐに退職した方が良いですよね。一度に二人もの社員に逃亡されてしまった管理職は人事から睨まれれば良いと思います。管理職の適性がないということですもの。
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