社畜ですが、過労死寸前の逃亡が幸せな未来につながりました
怒鳴り声が、遠くで響いていた。
言葉としては耳に入っているはずなのに、意味が脳に届かない。水の中にいるみたいに、すべてがぼやけている。
「――こんな資料で通ると思ってるのか!?」
(ああ、またか……)
三上は、キーボードの上に置いた手を止めたまま、ぼんやりと画面を見つめていた。カーソルが点滅している。何を入力しようとしていたのか、思い出せない。
(三日……いやもっとかもしれない……。しばらく、自宅に帰っていない……)
眠いというより、意識が薄れている。頭の中に、霧がかかっているようだ。それでも、怒号だけはやけにクリアに届く。
「謝って済む話じゃないんだよ!」
女の声が、かすかに震えていた。
「……すみません」
(ああ、あれは……確か……佐倉)
三上は、その姿をぼんやり眺める。
(……死にそうだな)
誰のことを思ったのか、彼にも分からなかった。
彼女か?
それとも、彼か?
あるいは、その両方……。
三上は立ち上がっていた。
理由も意思もない。
ただ、体が動いていた。
ゆらりと、まるでゾンビみたいに。
上司の怒鳴り声がまだ続いている。その前に、佐倉が立っている。うつむいたまま、肩が小さく揺れている。
三上は、その手を取った。
「……え?」
彼女が顔を上げる。
「み、三上さん……?」
何も言わずに、彼女の手を引いた。
三上の力は強くないはずなのに、彼女は抵抗しなかった。というより、抵抗する余裕がなかったのだろう。
「おい、何してる!!」
背後で上司の怒鳴り声がした。
振り返らない、いや、三上には振り返るという発想すらなかった。
ただ、歩いて出口へ向かう。
フロアを横切り、ドアを開け、廊下に出る。
誰かが何か言っているが、全部、遠い。
エレベーターのボタンを押す。
乗り込み、扉が閉まる。
静寂。
「……あの」
佐倉が、恐る恐る口を開く。
「これ、どういう――」
その瞬間──
三上は、彼女に抱きついた。
「……え?」
彼女の体が、びくっと強張る。
しかし、三上は何も言わない。
ただ、ぐったりと体を預けている。
「み……三上さん?」
反応がない。
けれども、規則正しく呼吸はしている。
「……寝てる?」
彼は寝ていた。
限界を超えた脳が、強制的にシャットダウンしたのだ。
エレベーターの中で、彼女に抱きついたまま。
「……もう」
佐倉は、小さく息を吐いた。
「なんなんですか、本当に……」
困惑と、呆れ、ほんの少しの安堵。
「でも……ありがとうございます……」
彼女はそのまま、彼の体を支えた。
◇
目が覚めた。
「……ん」
見知らぬ天井。
柔らかいベッド。
カーテン越しの光。
体を起こす。
「……どこだ、ここ」
記憶を辿る。
会社。
怒鳴り声。
佐倉。
「起きました?」
振り向くと、キッチンの方に佐倉がいた。マグカップを手にしている。
「あ……」
「おはようございます」
「……おはようございます」
ぎこちない挨拶を交わす。
「ここ……」
「私の部屋です」
「……ですよね」
「エレベーターで、いきなり抱きついて寝たんですよ」
「……ああ」
ぼんやりとした記憶の底に、かすかな温もりがよみがえる。
「仕方ないので、そのまま連れてきました」
「すみません……」
「いいですよ」
彼女は肩をすくめる。
「むしろ、助けてもらいましたし」
「……ん?」
そのとき、テーブルの上でスマホが震えた。
三上のものだ。
画面を見る。
着信――会社。
着信履歴も、通知も、山ほど溜まっている。
「……うわ」
現実が一気に押し寄せてくる。
だが三上は、少しだけ考えて、電源を切った。
「……いいんですか?」
「よくないでしょうね……でも」
スマホをテーブルに置く。
「今は、いいかなって」
頭が、妙にクリアだった。
会社で感じた霧が、嘘みたいに晴れている。
「……佐倉さん」
「はい」
「今日は……好きなこと、しません?」
「……好きなこと?」
「はい。ちゃんと寝たら、冷静になりまして」
ゆっくりと言葉を選ぶ。
「勝手に抜け出したので、たぶん俺たちはクビでしょう」
「……」
「仕事って人生の一部でしかない。だから、命を削ってまで働く必要はありません」
少しだけ間を置く。
「俺たちは、仕事ばかりしてきました。だから、一回、仕事から離れた方がいいと思うんです」
彼女の目を見る。
「で、そのあとで考えましょう」
「考える?」
「本当にやりたい仕事が何なのか、ということを」
はっきりと言った。
彼女の目が、大きく開かれる。
「だから今日は、好きなことをやりましょう」
長い沈黙。
そして――
「……はい」
彼女は、微笑みながら頷いた。
◇
それからの時間は、不思議だった。
昼まで寝て、起きて、適当なものを食べて。
外に出て、なんとなく歩いて。
カフェに入って、甘いものを食べて。
映画を観て、くだらないことで笑って。
時間の使い方が、全部、自由だった。
「……こんな楽しい日、久しぶりです」
夕方、公園のベンチで、彼女が言う。
「俺もです」
風が心地いい。
ただ、それだけで満たされる。
「……三上さん」
「はい」
「なんで、助けてくれたんですか?」
その問いに、三上は少しだけ考え、正直に答える。
「……覚えてないんですよね」
「……え?」
「ほとんど無意識で動いたみたいで」
「無意識……」
「でも」
言葉を探す。
「──死にそうだったから」
「……誰がですか?」
「俺も、あなたも」
彼女は黙る。
「どうせこのまま働いてたら、どっちか先に壊れるなって……。だったら、まあ」
肩をすくめる。
「一緒に逃げるのも、アリかなって」
沈黙。
しばらくして──
「……変な人ですね」
彼女は笑った。
「よく言われます」
「でも」
少しだけ、顔を伏せる。
「──助かりました」
その声は、とても静かで、確かだった。
「ありがとうございます」
「……どういたしまして」
二人は微笑み合う。
夕焼けが、その頬をやわらかく染めていく。
言葉はなくても、そこにいるだけで心が安らいだ。
◇
五年後。
三上と佐倉は、それぞれ好きな仕事に就き、無理のない日々を送っていた。
休日。二人は並んで街を歩く。あの日のように、自由に。
「こうしてると、思い出しますね」
「……あの逃亡劇ですか?」
「はい」
笑い合う。
夕暮れの公園。あのときと同じベンチに腰を下ろす。
しばらく黙って、風を感じる。
「佐倉さん」
三上が、少しだけ真剣な声で言った。
「はい?」
「これからも、一緒に笑っていたいです」
ポケットから、小さな箱を取り出す。
「結婚してください」
佐倉は、一瞬だけ目を見開き――やがて、やわらかく微笑んだ。
「はい」
あの日、踏み出した一歩が、二人の幸せな未来へと繋がっていた。
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