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無能扱いで追放された私ですが、作った服で魔王様が最強になりました 〜失敗作と言われたデザインが世界を救うまで〜

作者: 風谷 華
掲載日:2026/02/06

 「――無能だから、いらないって言われました。」

 それが、私の人生が変わった日の始まりでした。



ーー


 王都には、服屋が星の数ほどある。

 けれど、その中で「ここに頼めば間違いない」と貴族たちが口を揃える工房は、そう多くない。


 ――グラン工房。


 石畳の大通りに面したその店は、ガラス窓の向こうに季節のドレスを飾り、香油の甘い匂いを漂わせる。

 店先を通るだけで、誰もが胸を躍らせる……はずだった。


 私は、その工房の奥で、今日も針を持っていた。


「……できた」


 布の上を走っていた糸が、最後にきゅ、と結ばれる。

 手のひらほどの小さな模様――蔓のようにも、羽根のようにも見える線が、黒い布の上に浮かび上がった。


 人間の目には“模様”にしか見えない。

 けれど、私にはわかる。


 この線は、風が流れる道だ。

 この糸の密度は、熱を逃がすための呼吸だ。

 この裏地の折り返しは、着た人の体温を抱きしめるための“かたち”だ。


 ……全部、私が見つけた。


 でも。


「また、それ?」


 背後から投げられた声に、肩がぴくりと跳ねた。


 振り向くと、作業台の向こうで、金髪を揺らした少女が腕を組んで立っている。

 エミリアだ。

 伯爵家の令嬢で、工房の“看板娘”。


 彼女は私の手元を見下ろし、鼻で笑った。


「気味が悪いわ。そんな模様。誰が着るのよ」

「……冬用の外套マントです。裏地を――」

「聞いてない。見た目よ、見た目。売れなきゃ意味ないでしょ?」


 言葉は軽いのに、針より鋭い。

 周囲の作業台からも、くすくすと笑い声が漏れる。


「親が有名デザイナーだからって、偉そうに」

「七光りのくせにね」

「魔法も使えないのに」


 最後の一言が、胸の奥に落ちた。


 この世界では、服作りにだって魔法を使う。

 布を柔らかくする“繊維解し”、色を変える“染色術”、汚れを弾く“清浄”。

 職人たちは小さな魔法を日常のように使い、それが“腕”の一部とされている。


 私は――そのどれも、できない。


 魔力が、ないわけじゃない。

 でも、術式を組めない。

 言葉を唱えても、指先が熱くなるだけで、何も起きない。

 幼い頃から、どれだけ練習しても。


 だから、私は針だけで勝負するしかなかった。


「リリア」


 低い声がした。工房長マルコが、奥の帳場から出てくる。

 太い指に指輪をいくつも嵌め、腹は樽みたいに突き出ている。


 彼は私が差し出した外套マントを受け取り、ほんの数秒だけ眺めた。


 そして、ため息。


「……また、変な服だな」

「変……ではなくて、これは――」

「売れないものは変なんだよ」


 ばさっ、と外套が作業台に投げられる。

 布が擦れる音が、心を削る音みたいに聞こえた。


「お前の両親は、王都一のデザイナーだった。だから雇った。だが――」

 マルコは私を見ない。私の後ろにある“両親の影”を見ているみたいに。

「お前は、使えない」


 ぐっと唇を噛む。

 泣いたら負けだと思った。泣いたら、“無能”を認めることになる気がした。


「……私は、ちゃんと縫えます。魔法がなくても――」

「縫える? そりゃ下働きならな。だが“デザイン”は別だ」


 周囲が、また笑う。


 エミリアがわざとらしく肩をすくめた。

「ねえ工房長。こんなの置いておく場所がもったいないわ。倉庫にでも放り込んでおけば?」

「そうだな。リリア、お前の作品は倉庫行きだ」


 倉庫。


 そこは、売れ残りと失敗作と、誰にも見られない布の墓場。

 私の“世界”は、そこに積み重なっていく。


 それでも私は、針を握り直した。

 指先が痛くても、目が霞んでも、縫うことだけは、やめられなかった。


 ――だって。


 布の声が聞こえるから。

 “こうして”と、囁くから。

 私の中にだけ、確かにある何かが、形になりたがっているから。


「リリア、ちょっと来て」


 同僚のカミラが、にやにやしながら呼んだ。

 私は顔を上げる。作業台の横、糸や針が置かれた棚のほうへ。


「この糸、足りないの。取ってきて」

「……はい」


 棚に手を伸ばした瞬間。


 ガシャン!


 足元で何かが弾けた。

 小瓶が割れて、床に染料が広がる。

 真っ赤な染料は、まるで血みたいだった。


「あーあ。リリア、何やってるの?」

「え……私、触って……」


 触ってない。

 でも、カミラは大げさに叫んだ。


「工房長! リリアが染料こぼしました! しかも赤! 今週の納品分の布、全部ダメになるかも!」


 周囲がざわつく。

 私は固まったまま、床の赤を見つめた。


 ……違う。

 私じゃない。


 けれど、弁解の言葉が喉で凍る。

 言ったところで、信じてもらえない。いつだってそうだった。


 工房長が怒鳴る。

「掃除しろ! 今すぐだ! お前のせいで納期が遅れたら――」


 そこで、エミリアが静かに笑った。


「ほらね。無能って、何をやっても無能なのよ」


 その一言で、胸の奥が、すうっと冷えた。

 痛いとか、悔しいとか、そういう感情を通り越して――ただ、空っぽになっていく感覚。


 私は膝をつき、布で赤い染料を拭き始めた。

 真っ赤が布に吸われていく。

 まるで、私の心の色も一緒に吸い取られていくみたいに。


 ――私って、何のためにここにいるんだろう。


 その時。


 作業台の上に置かれていた、私の外套が、ふわりと揺れた。


 風なんて入っていないのに。

 窓は閉まっているのに。


 黒い布の模様が、ほんの一瞬だけ、月明かりみたいに淡く光った。


 誰も気づかない。

 誰も見ない。


 でも、私は見た。


 ――私の“失敗作”が、息をした。


 胸が、きゅっと縮む。


 この服は売れない。

 気味が悪いと言われる。

 倉庫に送られる。


 それでも――。


 私は針を握ったまま、小さく息を吸った。


「……次は、もっと上手く作る」


 誰にも聞こえない声で、そう言った。


 この世界で、私を必要とする人なんていない。

 そう思い込むしかない場所で。


 私は、まだ縫うことをやめられなかった。


ーー


 それは、あまりにも突然だった。


「――リリア。ちょっと、奥に来い」


 昼下がりの工房は、珍しく静かだった。

 納品前の慌ただしさもなく、針の音すらまばらで。


 その静けさが、嫌な予感を連れてくる。


「……はい」


 私は手を止め、マルコの後について事務室へ入った。


 分厚い帳簿と、金貨の入った箱が並ぶ部屋。

 ここに呼ばれる時は、いつも“良くない話”だった。


 机の前に立たされ、しばらく沈黙。


 やがて、工房長は面倒そうに口を開いた。


「最近、売上が落ちてるのは知ってるな?」

「……はい」


 もちろん知っている。

 私の服は売れない。倉庫に積まれるばかりだ。


「原因は、わかるか?」

「……私、でしょうか」


 問いかけというより、確認だった。


 マルコは鼻で笑った。


「自覚はあるんだな」


 机の上に、一枚の紙が置かれる。


 解雇通知書。


 黒い文字が、やけにくっきりして見えた。


「今日で終わりだ。もう来なくていい」


 頭の中が、真っ白になった。


「え……?」


「君の親の名前がなければ、とっくに首だ。

 今までよく我慢したと思わないか?」


 淡々とした声。

 そこに、迷いも情もない。


「でも……私、毎日……」

「毎日“邪魔”だったんだよ」


 ばっさり切り捨てられる。


「魔法も使えない。センスも独特すぎる。

 正直、店の評判を落とすだけだった」


 胸が、ぎゅっと締めつけられた。


「……給料は……」

「今月分? 赤字だから無理だな」


 悪びれもせず言う。


「住み込みも今月末までだ。

 荷物まとめて、出ていってくれ」


 ――それで、終わり。


 三年以上、縫い続けた場所。

 私の居場所だったはずの場所は、あっさりと消えた。


 事務室を出ると、工房の視線が一斉に集まった。


 好奇心。

 嘲笑。

 安堵。


 誰一人、心配していない。


「やっぱりね」

「遅すぎるくらい」

「無能だったもん」


 エミリアは、私の前を通りすがりに囁いた。


「身の程を知れてよかったじゃない?」


 私は何も言えなかった。


 作業台の引き出しから、少ない私物を取り出す。

 針箱。ノート。布切れ。


 それだけ。


 気づけば、私の人生は、こんなにも軽かった。


ーー


 外に出ると、雨が降っていた。


 冷たい雨。


 王都の石畳を、無数のしずくが叩く。


 私は傘も持たず、ただ歩いた。


 濡れる髪。重くなる服。滲む視界。


「……私、何してたんだろう」


 誰に向けるでもなく、呟く。


 有名な両親の娘。

 期待されて。比べられて。失望されて。


 必死に縫ってきた。


 評価されなくても。

 笑われても。


 いつか――認めてもらえると信じて。


「……何も、できなかった」


 足が止まる。


 橋の上だった。


 濁った川が、雨で荒れている。


 流れていく水を見つめながら、思う。


(私がいなくなっても……誰も困らない)


 胸の奥が、すうっと冷えていく。


 でも、怖くなって、首を振った。


「……だめ」


 私は、生きたい。

 理由はわからないけど、生きたい。


 小さな下宿の部屋に戻り、荷物を置く。


 家賃も、もう払えない。


 明日には、ここも出なきゃいけない。


 ベッドに腰を下ろし、両手で顔を覆った。


 涙が、止まらなかった。


「……どうしよう……」


 仕事もない。

 お金もない。

 居場所もない。


 それでも――


 部屋の隅に掛けてあった、黒いマントが目に入る。


 自分で作った、不思議な模様のマント。


 誰にも認められなかった、“失敗作”。


 私はそれを、そっと手に取った。


「……明日」


 小さく呟く。


「明日……ここを出よう」


 逃げるみたいに。


 泣きながら、縋るみたいに。


 私は、そのマントを抱きしめた。


 


ーー


 朝の光は、残酷だった。


 カーテン越しに差し込む淡い金色が、

 私の現実をはっきりと照らしてしまう。


 ――仕事はない。

 ――お金もない。

 ――帰る場所も、もうすぐなくなる。

 ーー両親を五年前に事故で亡くした私に、実家はない。


「……はぁ……」


 小さくため息をつき、私はベッドから起き上がった。


 部屋の隅に置いた鞄の中身を確認する。


 着替えが一着。

 針箱。

 布切れ。

 ノート。


 全部合わせても、驚くほど軽い。


「私の人生みたい……」


 苦笑してしまった。


 今日は、工房にも行かなくていい。

 行く場所が、ない。


 考えれば考えるほど、胸が苦しくなる。


「……少し、歩こう」


 部屋にいると、悪いことばかり考えてしまう。


 私は、壁に掛けていた黒いマントを手に取った。


 あの“失敗作”。


 売れなかった。

 笑われた。

 倉庫行きになった。


 それでも――私が、一番時間をかけて作った服。


 そっと羽織ると、不思議と落ち着いた。


「……行こう」


 そう言って、外へ出た。


ーー


 王都の外れには、小さな森がある。


 白い石壁の街並みを抜けた先に、

 ぽつんと残された、緑の世界。


 高い建物に囲まれた王都の中では珍しく、

 四季の移ろいをそのまま感じられる場所だった。


 春には若葉が芽吹き、

 夏には木陰が涼しく、

 秋には金色の葉が舞い、

 冬には霜が枝を飾る。


 市民たちの憩いの場。


 休日には家族連れや恋人たちで賑わい、

 小さな子どもたちの笑い声が響く。


 ――そして。


 私にとっては、

 いちばん大切な“逃げ場所”だった。


 昔、工房の仕事がうまくいかない日は、

 よくここに来て、スケッチ帳を広げた。


 木漏れ日を浴びながら、

 布の模様を考えたり、

 風の色を想像したり。


 ここだけは、

 誰にも否定されない場所だった。


---


 けれど、今日は――


 人影が、ほとんどない。


 細い遊歩道には、私の足音だけが響く。


 木々の間を抜ける、やわらかな風。

 葉と葉が触れ合う、かさりという音。

 遠くで鳴く、小鳥のさえずり。


 すべてが、穏やかで、優しい。


 まるで――

 「大丈夫だよ」と、囁いてくれているみたいに。


 ……なのに。


 胸の奥だけが、重かった。


 鉛を詰め込まれたみたいに。


「……明日から……どうしよう」


 誰もいない道で、ぽつりと呟く。


 声は、すぐに風に溶けて消えた。


「仕事、ないし……お金も……」


 歩きながら、指をぎゅっと握る。


 最悪、露店で縫い物を売る?


 でも――


 材料費もない。

 店を出す場所もない。

 信用もない。


(……誰も、私の服なんて……)


 欲しがらない。


 グラン工房で証明されてしまった。


「……やっぱり、私……」


 そこまで言って、口を閉じる。


 続けてしまったら、

 本当に“終わり”になってしまいそうで。


 足元の落ち葉を踏みしめながら、俯いた、その時――


「……?」


 視界の端に、違和感が走った。


 木々の奥。


 木漏れ日の中に、

 不自然な黒い影がある。


 岩……じゃない。


 枝……でもない。


「……なに……?」


 心臓が、どくん、と跳ねる。


 もう一度、目を凝らす。


 ――人。


 倒れている、人影。


「え……?」


 血の気が引く。


 胸が、強く脈打つ。


 考えるより先に、体が動いていた。


 私は、スカートを握りしめて――


 全力で、駆け出した。



ーー


 木々の奥へと駆け寄った私は、思わず足を止めた。


 そこにいたのは――

 一人の青年だった。


 落ち葉の上に横たわり、微動だにしない体。


 乱れた黒髪が額にかかり、

 長いまつ毛が、閉じた瞼に影を落としている。


 彫刻のように整った顔立ち。


 まるで、物語に出てくる王子様みたいで――


 ……なのに。


 その顔色は、異様なほど白かった。


 生気が、感じられない。


「だ、大丈夫ですか……?」


 胸が早鐘を打つ中、しゃがみ込んで声をかける。


 返事は、ない。


 そっと肩に触れた瞬間、ぞくりとした。


 ――冷たい。


 まるで、冬の水に触れたみたいに。


「……っ」


 息が詰まる。


 慌てて、首元に指を滑らせる。


 お願い……。


 祈るように探す。


 ……と。


 かすかに、脈が打っていた。


 弱く。

 儚く。


 今にも消えそうな鼓動。


「……生きてる……!」


 思わず、声が漏れる。


 でも、安心する暇はなかった。


 あまりにも弱い。


 このままじゃ……危ない。


 視線を落とすと、青年の服は、無残に裂けていた。


 袖は破れ、裾は擦り切れ、

 ところどころに、乾きかけた血の跡。


(……魔物に……襲われた……?)


 背筋が、ひやりとする。


 こんな森でも、時々魔獣が出ると聞く。


 ――もし、そうなら。


 ここに一人で置いていったら……。


「ど、どうしよう……」


 声が、震える。


 誰かを呼ぶ?


 でも、ここから街までは遠い。


 往復している間に……。


 考えれば考えるほど、怖くなる。


 私は、ぎゅっと唇を噛んだ。


 その時、視界の端に黒い影が入った。


 ――自分のマント。


 黒地に、不思議な模様が走る、私の失敗作。


 誰にも認められなかった服。


 倉庫行きだった服。


 ……でも。


 私は、迷わずそれを外した。


 そっと、青年の体にかける。


「……せめて……あったかくして……」


 声が、震える。


 手も、震えている。


 それでも、止められなかった。


 不思議と、怖くなかった。


 見捨てられなかった。


 だって――


 倒れている彼の姿が、

 昨日までの自分と、重なって見えたから。


 居場所もなくて。

 助けてもらえなくて。

 一人で、うずくまっていた私と。


 だから私は、そっと祈った。


(……お願い……生きて……)



ーー


 私は、青年を木の根元まで引きずり、寄りかからせた。


 自分のハンカチで、傷を拭く。


「……ごめんなさい。ちゃんとした薬、なくて……」


 誰に言うでもなく、謝る。


 しばらくすると、青年の呼吸が、少しずつ落ち着いてきた。


「……よかった……」


 ほっとして、その場に座り込む。


 木漏れ日が、二人を包む。


 時間が、ゆっくり流れていく。


 私は、膝を抱えた。


「……私ね、昨日……クビになったんです」


 返事がないのは、わかっている。


 でも、誰かに話したかった。


「無能だって……使えないって……」


 喉が、詰まる。


「……でも……頑張ってたんですよ」


 針を持つ手が、少し震えた。


「ちゃんと……縫ってた……」


 涙が、ぽろっと落ちる。


 青年のマントの上に、染みを作った。


「……ごめんなさい」


 私は、目をこすった。


 その時。


 ふ、と。


 青年の指が、わずかに動いた。


「……?」


 驚いて顔を上げる。


 青年の唇が、かすかに動いた。


「……あた……かい……」


 小さな、声。


 私は息をのんだ。


「き、聞こえますか!? 大丈夫ですか!?」


 返事はなかった。


 でも。


 さっきより、明らかに顔色がいい。


 頬に、ほんのり血色が戻っている。


「……え?」


 私は、青年と、自分のマントを見比べた。


 不思議な模様が、淡く光っている……気がした。


 ……気のせい?


 でも。


 胸の奥が、ざわっとした。


 ――もしかして。


 このマント……。


 私は、そっと青年の額に手を当てた。


 冷たくない。


 むしろ、温かい。


「……大丈夫。きっと、助かる」


 そう、祈るように呟いた。


 

ーー





 朝の光が、まぶしかった。


 木々の隙間から差し込む陽射しが、きらきらと揺れている。


「……ん……」


 小さな声に、私ははっと目を覚ました。


 いつの間にか、木にもたれて眠ってしまっていたらしい。

 首が少し痛い。


 慌てて、隣を見る。


「……あっ!」


 青年が――起きていた。


 上半身を起こし、ぼんやりと周囲を見回している。


 昨日まで青白かった顔は、驚くほど血色がよくなっていた。


「よ、よかった……!」


 思わず声が漏れる。


「大丈夫ですか? 気分は……」


 青年は、私を見ると、少し驚いたように目を見開いた。


「……ああ。君が……助けてくれたのか?」


 低くて、落ち着いた声。


 私は何度も頷いた。


「は、はい! 倒れていたので……勝手に、看病してしまって……」


「そうか……ありがとう」


 短い言葉だったけれど、とても真剣だった。


 私はほっとして、胸をなで下ろす。


「よかった……本当に……」


 ――でも。


 ここで、違和感に気づいた。


(……元気すぎない?)


 昨日の状態は、どう考えても瀕死だった。


 数日寝込んでもおかしくない。


 なのに――


 今は、普通に座っている。


 いや、“普通以上”かもしれない。


 青年は、自分の体を確かめるように、拳を握ったり開いたりしていた。


「……おかしい」


「え?」


「体が……軽すぎる」


 彼は、自分の胸に手を当てる。


「魔力が……完全に満ちている」


 私は、きょとんとした。


「ま、魔力……?」


「昨日は、ほとんど枯渇していたはずなのに……」


 彼は、ふと視線を落とした。


 ――自分の肩。


 そこに掛かっている、黒いマント。


 私の、失敗作。


「……これだ」


 青年は、そっと布をつまんだ。


「このマントを羽織った瞬間から、体が回復し始めた」


「え……?」


 私は慌てて首を振る。


「い、いえ! それ、何の変哲もない服です!」


「いや」


 彼は、はっきり言った。


「これは普通じゃない」


 じっと、模様を見つめる。


「魔力の流れが……布に沿って循環している」


「……?」


 何を言っているのか、よくわからない。


 私は困って笑った。


「そ、それ……売れなかった失敗作ですし……」


「失敗作?」


 青年は、目を細めた。


「冗談だろ」


「……本当です」


 胸が、ちくっと痛んだ。


「気味が悪いって……売れないって……」


 自然と、声が小さくなる。


「みんな、そう言いました……」


 沈黙が落ちる。


 しばらくして。


 青年は、ゆっくりと息を吐いた。


「……信じられない」


「え?」


「これほど精密な魔力制御を、無意識でやっている人間を、俺は見たことがない」


 私は、ますます混乱した。


「え、えっと……私、魔法使えませんけど……」


「だからこそ、だ」


 青年は、私をまっすぐ見た。


「魔法を使わずに、これを作ったんだろ?」


「……はい」


「なら、なおさら異常だ」


 “異常”。


 その言葉に、びくっとする。


 でも、青年の目には、侮蔑はなかった。


 むしろ――尊敬に近い光。


「君……名前は?」


「……リリアです」


「リリア」


 その名を、丁寧に呼ぶ。


「俺は……ノアだ」


 初めて名乗った名前。


 なぜか、胸が少しだけ温かくなった。


 ノアは、少し考え込むように視線を逸らし、やがて決意したように言った。


「リリア。君に、頼みがある」


「……は、はい」


 背筋が伸びる。


「俺のところで、働かないか?」


「……え?」


 頭が、真っ白になった。


「は、働く……?」


「そうだ」


 ノアは真剣だった。


「君の服が、必要なんだ」


「で、でも……私は……無能で……」


 反射的に、そう言ってしまう。


 長年、染みついた言葉。


 ノアは、きっぱり否定した。


「違う」


 短く、強く。


「君は、天才だ」


 心臓が、跳ねた。


 そんな言葉、人生で一度も言われたことがない。


「俺は本気で言っている」


 ノアは、そっとマントを握った。


「これが証拠だ」


 私は、言葉を失った。


 胸の奥で、何かが静かに崩れる音がした。


 ――“無価値”だと思い込んでいた私の殻が。


「……少し、考えても……いいですか?」


 震える声で、そう言うと。


 ノアは、優しく頷いた。


「ああ。待つ」


 木々の間を、風が吹き抜ける。


 私は、自分のマントを見つめた。


 失敗作だと思っていた、それが。


 誰かの命を救い、

 誰かに必要とされた。


 初めてだった。


(……私、まだ……生きてていいのかな)


 そんなことを、思ってしまった。



ーー



 正直に言えば。


 私は、まだ夢を見ているんじゃないかと思っていた。


 森で倒れていた青年。

 不思議な回復。

 突然のスカウト。


 そして今――


 目の前に広がる光景。


「……うそ……」


 思わず、声が漏れる。


 黒曜石のように黒く輝く巨大な城。

 空を裂くように伸びる尖塔。

 周囲に満ちる、重く濃い魔力。


 ここが……城?


 いや。


 ”要塞”だ。


「……ノアさん……ここって……」


「俺の城だ」


「……え?」


 軽く言わないでほしい。


 心臓が、嫌な音を立て始める。


 城門がゆっくりと開く。


 次の瞬間。


「「魔王様!!」」


 角を生やした兵士たちが、一斉に跪いた。


 ……まおう、さま?


 頭が、理解を拒否する。


 ざわめく魔族たち。


「ご無事で……!」

「どれほど心配したか……!」


 彼らの視線は、すべてノアに注がれていた。


 ノアは、小さく頷く。


「ああ。世話になった」


 その瞬間。


 空気が、変わった。


 彼の周囲に、圧倒的な魔力が満ちる。


 森で出会った時の、弱々しい青年ではない。


 ――王。


 そうとしか言いようのない存在。


 私は、足が震えた。


「……ノアさん……?」


 彼は、静かにこちらを向いた。


「……隠していて、すまなかった」


 そして。


「俺は、魔王ノアだ」


「…………」


 ……え?


「……ま、魔王!?」


 叫んだ瞬間、後ずさる。


「む、無理です! 私、ただの無能な仕立て師で……!」


 逃げようとした。


 でも。


 ノアは、私の前に立ち――


 深く、頭を下げた。


「……頼む」


 周囲が、凍りつく。


 魔族たちが、言葉を失う。


 魔王が、人間に。


 頭を下げている。


「君の力が、必要だ」


「……え……?」


 ノアは、静かに語り始めた。


「……俺は、ずっと魔力の不調に悩まされていた」


 視線が、遠くを見る。


「どんな回復魔法も、秘薬も、意味がなかった」


 ――数日前。


 地下深層の占い部屋。


 盲目の老婆の声が、脳裏によみがえる。


『王都近くの森。大樹の根が交わる場所に行きなさい』


『必ず、一人で』


『弱ったまま出会いなさい』


 ――そんな、馬鹿げた予言。


 それでも、ノアは行った。


 国を守るため。

 部下を守るため。

 魔王であり続けるため。


 藁にもすがる思いで。


「……森に辿り着いた時、もう限界だった」


 ノアは、苦く笑った。


「倒れて……このまま死ぬと思った」


 胸が、締めつけられる。


「……そこに、君が来た」


 視線が、私に戻る。


「黒いマントを羽織った少女が」


 私は、息を呑んだ。


「君は、何も知らずに……俺を助けた」


「……」


「そして、君のマントで……俺の魔力は完全に回復した」


 ノアは、そっと言った。


「……占い師の言葉は、本当だった」


 沈黙。


 私は、震える声で言った。


「……でも……私は……」


「無能じゃない」


 即答だった。


「君は、世界で唯一の存在だ」


 胸が、ぎゅっと締めつけられる。


「私……捨てられました……」


 涙が、滲む。


「売れなくて……邪魔で……」


 ノアは、静かに首を振った。


「見る目がなかっただけだ」


 そして、もう一度。


 深く、深く、頭を下げる。


「どうか……ここで働いてほしい」


「君の服がなければ、俺も……この国も、終わる」


 私は、自分のマントを見つめた。


 失敗作だと思っていた服。


 誰にも認められなかった服。


 それが――


 魔王の命を救った。


(……私……生きててよかったのかな)


「……少しだけ……考えさせてください」


 そう言うと。


 ノアは、微笑んだ。


「ああ。待つ」


 黒曜城の上に、赤い月が浮かぶ。


 私は、その光を見上げながら思った。


 ここが――


 私の運命の場所なのかもしれない、と。



ーー



 魔王城の朝は、とても静かだった。


 高い天窓から差し込む淡い光が、石造りの廊下を照らし、

 遠くで風が塔を鳴らす音がする。


 私は、与えられた部屋のベッドに腰掛けたまま、しばらく動けずにいた。


「……本当に……ここで、働くんだよね……」


 夢みたいだった。


 数日前まで、雨の王都で泣いていた私が。

 今は、魔王城にいる。


 しかも――

 “必要とされて”。


 胸の奥が、少しだけ震えた。




 案内された工房は、城の東塔にあった。


 重い扉を開けた瞬間。


「……わ……」


 思わず、声が漏れる。


 広い。


 天井は高く、壁一面に窓が並び、光が溢れている。

 作業台は磨き上げられ、棚には色とりどりの布。


 絹、魔獣皮、精霊糸、希少鉱糸――

 王都でも滅多に見られない素材ばかり。


「……夢みたい……」


 指先で、そっと布に触れる。


 さらり。

 ひんやり。

 生きているみたいに、しなやかだった。


「ここは、君の場所だ」


 後ろから、ノアの声。


「好きに使っていい」


 ……君の場所。


 胸が、ぎゅっと締めつけられた。


 そんな言葉、今まで誰にも言われたことがなかった。


「……ありがとうございます」


 小さく、そう答えた。




 最初の依頼は、近衛兵用の外套だった。


「前線に出る者たちだ。

 防御と魔力効率を最優先で頼む」


「……わかりました」


 口ではそう言ったけれど。


(失敗したら……どうしよう……)


 不安が、頭をよぎる。


 ここで失敗したら。

 また、“無能”に戻る。


 私は、深呼吸して、布を広げた。


 ――大丈夫。


 縫うことだけは、裏切らない。


 針を持つ。


 指先が、自然に動き出す。


 布の癖。

 糸の張り。

 縫い目の間隔。


 全部、体が覚えている。


 無意識の感覚。


 私は、ただそれに従った。




 三日後。


 完成した外套が、作業台の上に並んだ。


 黒と銀を基調にした、無駄のないデザイン。

 よく見ると、流れるような細い模様が織り込まれている。


「……また……変って言われるかな……」


 思わず、呟いた。


 王都では、こういう服は必ず笑われた。


 でも――


 逃げたくなかった。




 訓練場の、

 赤い砂が敷かれた広場に、兵士たちが集まる。


 近衛隊長ガルドが、私の外套を羽織った。


「……ほう」


 肩を回す。


 一歩、踏み出す。


 次の瞬間。


 ――空気が変わった。


 ガルドの身体から、濃密な魔力が噴き上がる。


「……軽い」


 剣を抜く。


 ぶん、と振っただけで、風が爆ぜた。


「……なに……?」


 測定器の針が、異常な速度で跳ね上がる。


「魔力量……三倍……!?」

「嘘だろ……!」


 周囲がざわめく。


 模擬戦が始まる。


 一瞬だった。


 敵役の兵士は、防御もできず吹き飛んだ。


 砂煙が舞う。


 静寂。


「……別人だ……」


 ガルドが、呆然と呟く。


 私は、口を押さえた。


「……え……本当に……?」


 私の服で……?




 そこから、すべてが変わった。


 魔法使いのローブ。

 騎士の鎧下。

 偵察用マント。


 作るたびに――


「詠唱が短い!」

「疲れない!」

「回復が早い!」


 城中が沸く。


 討伐成功。

 防衛成功。

 交易回復。


 魔族領は、目に見えて活気づいた。


 市場に人が戻り、笑顔が増えた。


「……私……役に立ってる……?」


 信じられなかった。




 ある日の夜。


 工房に、ノアが現れた。


 慌てて紅茶を差し出した。


「ありがとう。リリア、今日もお疲れ」


「……ありがとうございます」


 彼は、完成品を見つめて言った。


「すごいな」


「……え?」


「君は、本物だ」


 胸が、跳ねた。


「誰にも真似できない」


「……そんな……」


「ありがとう」


 静かな声。


「君が来てくれて、国が救われた」


 涙が、込み上げる。


 私は、必死にこらえた。


 ――初めてだった。


 存在を、認められたのは。


ーー



 一方――王都では。


 グラン工房の店内は、かつての華やかさを失っていた。


 以前は、朝から晩まで客で溢れ、

 笑い声とミシンの音が絶えなかった場所。


 今は――


 重たい空気だけが漂っている。


 薄暗い店内。

 曇ったガラス窓。

 色あせたドレスが、虚しく並ぶ陳列棚。


「工房長……また苦情です……」

「今度は三件まとめて返品……」


 震える声で差し出される書類。


 机の上には、封を切られた手紙が山のように積まれていた。


 赤い印章。

 乱れた文字。

 苛立ちの跡。


「縫い目がほつれている」

「魔力が安定しない」

「一度着ただけで壊れた」


 どれも、以前なら考えられない内容だった。


「……なぜだ……」


 マルコは、机に突っ伏す。


 かつては、豪商や貴族と談笑していたその席で。


「こんなはずじゃ……」


 奥の作業場では、職人たちが無言で針を動かしている。


 だが、手元は乱れ、集中力もない。


 布は歪み、糸は絡まる。


 誰も、“正しい形”を導けなくなっていた。


 ――あの少女がいなくなってから。


 すべてが、狂い始めた。


 誰も口に出さない。


 けれど、全員がわかっている。


 この工房を支えていた“芯”は、

 もう、ここにはないのだと。




 一年後。


 朝の通りに、鈍い金属音が響いた。


 がちゃん――。


 職人が、無言で看板を外す。


 埃をかぶった《グラン工房》の文字。


 それが、地面に置かれたまま、誰にも拾われない。


 シャッターが下ろされる。


 最後の客も、最後の灯りも、もう戻らない。


 こうして。


 かつて王都を誇った名店は、

 静かに、歴史から消えていった。




ーー


 その頃。


 私は、中庭で魔族の子どもたちに囲まれていた。


「リリアー!」

「また服作ってー!」


 笑顔。


 温かい声。


 ノアが遠くから見ている。


 優しい目で。


(……私……)


 胸に、そっと灯る感情。


 ――ここが、私の居場所だ。


 そう、初めて思えた。


ーー




 魔王城の春は、静かだった。


 中庭には色とりどりの花が咲き、

 噴水の水音がやさしく響いている。


 私は、そのベンチに腰掛けながら、針を動かしていた。


 膝の上には、淡い銀色の布。


 ノアのために作っている、新しい正装だ。


「……ここの縫い目、もう少し……」


 指先で整えながら、ふと顔を上げる。


 遠くでは、魔族の子どもたちが走り回っている。


「リリアー!」

「今日も来てー!」


 笑顔で手を振ると、向こうも大きく振り返してくれた。


 ――いつの間にか。


 私は、この場所に溶け込んでいた。





「リリア」


 後ろから、聞き慣れた声。


 振り向くと、ノアが立っていた。


 黒い外套に身を包み、相変わらず凛々しい。


「……ノア様」


 そう呼ぶと、彼は少し困ったように眉を下げた。


「二人きりの時は、ノアでいい」


「……すみません」


 つい、癖で。


 私は立ち上がり、作りかけの服を抱える。


「新しい正装、もうすぐ完成します」


「無理しなくていい」


 ノアは、隣に腰を下ろした。


「君は、もう十分すぎるほど働いている」


「……そんなこと……」


 私は視線を落とす。


 心の奥に、まだ残っている影。


 “無能”。


 “役立たず”。


 消えたと思っていた言葉が、時々よみがえる。


「……私……」


 ぽつりと、零れた。


「ここに来てから……みんな、優しくて……」


 針を握る指が、少し震える。


「でも……時々、怖くなるんです」


 ノアが、黙って聞いている。


「……また、必要とされなくなったら……って」


 昔の工房。


 笑われて、捨てられた日。


 胸が、きゅっと痛む。


「私……そんなに、価値ある人間じゃ……」


 言い終わる前に。


 ――手を、握られた。


「ある」


 ノアの声は、静かで、強かった。


「誰よりもある」


 私は、はっと顔を上げる。


 彼は、真っ直ぐ私を見ていた。


「君が来てから、この国は変わった」


「兵士は命を守れるようになった」

「子どもたちは笑うようになった」

「民は、未来を信じられるようになった」


 一つ一つ、噛みしめるように。


「全部、君のおかげだ」


「……で、でも……私は……服を……」


「それでいい」


 ノアは、優しく微笑んだ。


「君は、服で世界を救った」


 胸が、熱くなる。


 涙が、滲む。


「……そんな……」


 ノアは、私の前に立った。


 そして――


 跪いた。


「……え?」


 周囲の空気が、止まる。


 魔王が。


 私の前で。


 片膝をついた。


「リリア」


 真剣な声。


「俺は、君を愛している」


 頭が、真っ白になる。


「君の才能も」

「優しさも」

「弱さも」

「全部だ」


 胸から、小さな箱を取り出す。


 中には、銀色の指輪。


 細い糸のような模様が刻まれている。


 ――私の縫い目と、同じ形。


「俺と、共に生きてほしい」


「魔王妃としてではなく」

「一人の、リリアとして」


「……そばにいてほしい」


 視界が、滲んだ。


 こんなふうに、必要とされたことはなかった。


 私は、唇を震わせながら言った。


「……私で……いいんですか……?」


 ノアは、迷わず答えた。


「君じゃなきゃ、だめだ」


 ――その一言で。


 心の中の、最後の鎖が切れた。


「……はい……!」


 涙と一緒に、笑顔がこぼれる。


「よろしく……お願いします……!」


 ノアは、ほっとしたように笑い、指輪をはめた。


 そっと、額に口づける。


「一生、大切にする」


ーー


 ――数年後、王都の隅っこで。

 

 かつて「王都一の名店」と謳われたグラン工房は、

 今や、見る影もなかった。

 

 壁はひび割れ、

 窓ガラスは割れたまま。

 

 風が吹くたび、

 外れかけた看板が、ぎい……と不気味な音を立てる。


 そこに刻まれた文字――

《グラン工房》

 かつては誇りだったその名も、

 今では“失敗の象徴”として語られている。


「……ああ、あそこね」


「元は有名だったらしいよ」


「でも、職人を雑に扱ったんでしょ?」


「優秀な子を追い出して、全部終わったとか」


 通りすがりの人々は、そう囁き合いながら、

 ちらりと見るだけで足早に去っていく。


 誰も、立ち止まらない。


 誰も、懐かしまない。


 店の奥では――


 かつて威張り散らしていた工房長マルコが、


 古びた椅子に沈み込んでいた。


 黒くてふさふさした髪には白髪が増え、

 くたびれた背中からは哀愁が漂っていた。


「……なんでだ……」


 机の上には、山積みの督促状。


 赤い封筒。


 差し押さえ通知。


「……あいつさえ……」


 震える声で呟く。


「……あの娘さえ、切らなければ……」

 

 もう遅い。


 誰も、助けない。



 一方、

 かつて看板娘だったエミリアは――

 安物の露店で、色あせたドレスを売っていた。


「……一着、どうですか……」


 声は小さく、視線は下向き。


 昔の傲慢さは、影もない。


 通りすがりの貴族令嬢が、くすっと笑う。


「……あの人、元グラン工房の人よ」


「今は、あんなところで……」


 噂は、容赦なく彼女を縛りつける。


 王都では、すでに常識だった。


「才能ある職人を追い出した店は、必ず滅びる」


 それが、グラン工房の末路。

 



 そして。


 今や、人々が憧れるのは――


 《魔王城専属デザイナー・リリア》の名だった。


「また新作出たらしいよ」


「すごいらしいね」


「伝説の仕立て師でしょ?」


 誰もが知っている。

 

 あの店が捨てた“無能”こそが、

 世界で唯一の“本物”だったことを。


 けれど――

 その事実が、

 かつての関係者たちの胸をえぐることは、もうない。


 なぜなら。

 彼らはもう、

 彼女のいる場所に、決して届かないのだから。


ーーー




 魔族領は、かつてないほど繁栄していた。


 石畳の市場には色とりどりの布が並び、

 焼き菓子の甘い香りと、笑い声が風に乗って広がる。


 仕立てられたばかりの新しい服を着た子どもたちが、

 きらきらと目を輝かせながら、噴水のまわりを駆け回っていた。


 夕暮れの空は、淡い桃色から紫へと溶けていく。


 城の工房では――


「リリア様、この布はどう扱えば……?」

「ここ、もう一度教えてください!」


 弟子たちに囲まれながら、

 私は自然と笑っていた。


 かつて、うつむいてばかりいた私が、

 こんなふうに笑える日が来るなんて、想像もしなかった。


 ふと視線を上げると。


 回廊の向こうに、ノアが立っていた。


 夕焼けを背に、こちらを見つめている。


 ――相変わらず、優しい目で。


 私はそっと工房を抜け、彼の隣に並んだ。


 吹き抜ける風が、私の髪と、彼の外套を揺らす。


「……私ね」


 空の端が、星に変わり始めるのを見つめながら、呟く。


「昔は……自分なんて、ここにいなくてもいいって……思ってました」


 ノアは何も言わず、私の肩を抱き寄せた。


 その温もりが、胸に染みる。


「……今は?」


 低く、やさしい声。


 私は、ゆっくり微笑んで答えた。


「……生きててよかったって……心から、思います」


 そして、小さく付け加える。


「……あなたに、出会えたから」


 ノアは、少し驚いたように目を瞬かせてから、

 そっと私の額に口づけた。


「俺もだ」


「君がいてくれて……幸せだ」


 空には、最初の星が瞬いていた。


 無数の光が、夜を飾る。


 私は、その下で彼の手を握る。


 もう、迷わない。


 もう、怯えない。


 ここには――


 私を愛してくれる人がいて、

 必要としてくれる居場所がある。


 青から群青へと変わる空の下。


 私は、確かにここにいた。


 愛されて。

 守られて。

 世界で唯一の、私として。




 


 完



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