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心の声が聞こえる私だけが知っている。「沈黙の公爵」の凍りついたその唇が、誰よりも雄弁に愛を語っていることを

作者: 文月ナオ

 

 私は前世、人間不信のまま孤独に死んだ。


 人の嘘、建前、悪意。それらに疲れ果て、誰とも関わらずに生涯を終えたのだ。


 せめて次の生があるなら、静寂の中で眠りたい。

 そう願っていたはずなのに。


 神様というのは、随分と性格が悪いらしい。


 異世界の貴族の娘、エリーゼとして転生した私に与えられたのは、「人の心の声が強制的に聞こえる」という、呪いのような能力(ギフト)だった。


『あらあら、可愛い赤ちゃん』


 揺り籠を覗き込む母の笑顔。


 しかし、私の耳には、その口から出る言葉とは別に、ノイズ混じりの「別の声」が直接脳内に響いてくる。


『……本当に私のお腹から出てきたのかしら。目の色も髪色も私と違うし、なんだか気味が悪いわ』


 人の思考は、微弱な魔力となって漏れ出しているらしい。


 私の身体は、スポンジのようにそれを勝手に吸い取ってしまうのだ。


 他人の悪意が、泥水のように私の中に流れ込んでくる。


『泣き声がうるさい。早く乳母に預けて、夜会に行きたいのに』


 ああ、うるさい。


 やめてくれ。


 そんな汚い本音を聞かせないでくれ。


 赤ん坊の私は、耳を塞ぐこともできず、ただ火がついたように泣き叫ぶことしかできなかった。


 成長するにつれ、その地獄はより鮮明になった。


 使用人たちのへりくだった態度、家庭教師の厳格な指導、父の威厳ある言葉。


 そのすべてに、裏があった。


『早くお金貯まらないかな。こんな陰気な娘の世話なんてこりごりだわ。あー、早く辞めたい』


『出来の悪い娘だ。伯爵家の恥にならなければいいが』


『早くどこかへ嫁がせて、政略の駒として利用価値を見出さねば』


 聞こえてくるのは、計算、嫉妬、蔑み、そして無関心。


 私は悟った。


 この世界も、前世と同じだ。


 いや、本音が強制的に聞こえてしまう分、前世よりも遥かにタチが悪い。


 私は心を閉ざした。


 誰とも目を合わせず、必要最低限の言葉しか話さず、感情を表に出さない「氷の人形」として生きることを選んだ。


 そうでもしなければ、発狂してしまいそうだったからだ。


 周囲はそんな私を「気味の悪い子」「感情のない忌み子」と呼び、遠巻きにした。


 それでよかった。


 誰も私に関わらないでほしい。


 放っておいてほしい。


 そう願いながら、私は18歳になった。


 そしてある日、父に呼び出された。


 書斎に入ると、父は重々しい顔で一枚の釣書を机の上に置いた。


「エリーゼ。お前に縁談が決まった」


 父の口元は真一文字に結ばれているが、その心の中からは、隠しきれない安堵と興奮が漏れ出している。


『やっとだ。やっとこの不気味な娘を厄介払いできる』


『相手があの公爵なら、持参金を積まずとも引き取ってくれるだろう』


 私は無表情のまま、釣書に目を落とした。


 そこに記されていた名前を見て、私は息を呑んだ。


 レーヴェ。


 この国でその名を知らぬ者はいない。


 北の果て、極寒の地を治める若き公爵。


 広大な領地と強大な軍事力を持ちながら、王都の社交界には一度も顔を出したことがないという謎の人物。


 そして何より、彼には不吉な二つ名があった。


「沈黙の公爵」。


 彼は、生まれたときから一度も言葉を発したことがないという。


 その理由は、呪いであるとも、口にする言葉すべてが災厄をもたらすからだとも噂されていた。


「先方は、血筋さえ良ければ誰でもいいそうだ。お前のような愛想のない娘でも、公爵夫人になれるのだ。感謝するんだな」


 父はもっともらしいことを言っているが、本音はこうだ。


『あの呪われた公爵に嫁ぎたがる令嬢などいない。だが、この娘なら壊れても惜しくはない』


『公爵家との縁さえ繋げれば、我が家の借金も帳消しにできる』


 父の思考が、ヘドロのように私の脳内に流れ込んでくる。


 吐き気がした。


 娘を「壊れてもいい道具」として売り飛ばす父。


 借金のカタに、噂の絶えない呪われた男のもとへ送られる私。


(ああ、またか)


 私は心の中で自嘲した。


 前世で孤独に死に、今世でも親に愛されず、最後は「沈黙の公爵」のもとへ捨てられる。


 これが私の運命なのだろうか。


 拒否権などないことは分かっていた。


 私は静かに頭を下げた。


「……謹んで、お受けいたします」


『よし! これで肩の荷が下りた!』


 父の歓喜の叫びが脳に突き刺さる。


 私は逃げるように書斎を出た。


 自室に戻り、窓の外を見る。


 空はどんよりと曇り、今にも雨が降り出しそうだった。


 沈黙の公爵。


 言葉を持たない男。


 噂が本当なら、彼は私以上に孤独な人なのかもしれない。


 あるいは、言葉を必要としないほど、残虐で冷酷な心の持ち主なのだろうか。


 どちらにせよ、私に待っているのは、寒くて暗い、絶望の未来だけだ。


 そう思っていた。


 この時までは。




 ◇◆◇




 婚礼の儀などはなく、私は馬車一つで北へと送られた。


 旅路は長く、過酷だった。


 王都を出て北へ進むにつれ、景色は鮮やかな緑から、荒涼とした枯れ野へ、そして白一色の雪景色へと変わっていった。


 気温は下がり続け、馬車の窓は凍りつき、吐く息が白く濁る。


「……寒い」


 私は薄いショールを肩に巻き付け、ガタガタと震える体を抱きしめた。


 実家が用意してくれた支度は、最低限のものばかりだった。


 防寒具も粗末で、北国の冬を越せるかどうかも怪しい。


『まったく、厄介な仕事を押し付けられたものだ』


 御者の苛立った心の声が、背中越しに聞こえてくる。


『こんな雪の吹き溜まりまで、わざわざ生贄を運びに来るなんてな』


『さっさと荷物を下ろして、温かい宿で酒でも飲みたいぜ』


 御者もまた、私を「荷物」か「生贄」としか見ていない。


 私は耳を塞ぎたかったが、心の声は指で耳を塞いでも遮断できない。


 ただ耐えるしかなかった。


 ガタン、と馬車が大きく揺れた。


「おい、着いたぞ」


 御者のぶっきらぼうな声と共に、馬車が停止した。


 私は重い扉を開け、外へと降り立った。


 そこは、世界の果てのような場所だった。


 見渡す限りの雪原。


 空は鉛色で、太陽の光すら届かない。


 その雪原の中央に、黒い岩肌を削り出して作られたような、巨大な城が聳え立っていた。


 公爵城。


 私の新しい、そしておそらく最後の住処。


 城門の前には、数人の使用人が整列して待っていた。


 彼らは一様に灰色の服を着て、表情を消して立っている。


 まるで墓守のようだと思った。


「ようこそお越しくださいました、エリーゼ様」


 年配の執事が恭しく頭を下げる。


 口調は丁寧だが、彼の心の中は冷ややかだった。


『また新しい花嫁か』


『どうせこの寒さと静けさに耐えられず、すぐに泣いて逃げ出すに違いない』


『旦那様の呪いに当てられて、発狂しなければいいが』


 他の使用人たちの心も似たようなものだった。


 憐れみ、諦め、そして無関心。


 誰も私を歓迎していない。


 誰も私に期待していない。


 慣れているはずなのに、胸が冷たく軋んだ。


「案内いたします」


 執事に促され、私は城の中へと足を踏み入れた。


 城内は、外以上に静まり返っていた。


 足音が石畳に反響し、それが不気味なほど大きく聞こえる。


 装飾は最小限で、壁に飾られた絵画もどこか陰鬱な色調のものばかり。


 暖炉には火が入っているはずなのに、空気は冷たく張り詰めている。


「旦那様は、大広間でお待ちです」


 執事が重厚な扉の前に立ち、ゆっくりとそれを開けた。


 ギィィ……と、錆びついたような音が響く。


 私は深呼吸をし、覚悟を決めて中へと入った。


 広間は薄暗かった。


 高い天井から吊るされたシャンデリアも、蝋燭の光が弱々しく揺れているだけだ。


 その一番奥。


 一段高くなった玉座のような椅子に、一人の男が座っていた。


 彼が、レーヴェ公爵。


 私が近づくと、彼はゆっくりと立ち上がった。


 息を呑むほど、美しい男だった。


 夜の闇を溶かしたような漆黒の髪。


 雪原のように白い肌。


 そして、氷の結晶を閉じ込めたような、透き通る青い瞳。


 身長は高く、仕立ての良い黒い軍服が、彼の引き締まった身体を包んでいる。


 ただ、異様だったのは、その口元だ。


 口元は黒い布で覆われ、表情の半分が隠されている。


 噂通り、彼は言葉を発することを自ら封じているようだった。


 私はドレスの裾を摘み、カーテシーをした。


「お初にお目にかかります。エリーゼと申します」


 震える声を必死に抑えて名乗る。


 レーヴェは私を見下ろしていた。


 その瞳には何の感情も浮かんでいない。


 冷徹で、無機質な視線。


 ああ、やはり。


 彼もまた、私を「望まぬ妻」「邪魔な異物」として見ているのだ。


 周囲の使用人たちの心の声が、うるさいほどに聞こえてくる。


『旦那様、表情を変えないな』


『また気に入らないのか?』


『可哀想に、あの娘、震えているじゃないか』


『早く終わらせてくれ、この気まずい時間を』


 無数の憶測、好奇心、同情。


 それらがノイズとなって頭の中を駆け巡る。


 うるさい、うるさい、うるさい。


 私は眩暈を覚えた。


 もう、どこにも私の居場所なんてない。


 このまま彼の冷たい拒絶の言葉を聞いて、絶望に沈むのだ。


 私は身構えた。


 彼の心から聞こえてくるであろう、「帰れ」「邪魔だ」「鬱陶しい」という罵倒に耐えるために。


 レーヴェが、私に向かって一歩近づいた。


 そして、私をじっと見つめた。


 その瞬間。


 ふわり、と。


 不思議な感覚が私を包み込んだ。


 今まで私の鼓膜と脳を支配していた、不快なノイズが、嘘のように消え失せたのだ。


 まるで、嵐の海から、突然凪いだ入江に迷い込んだかのように。


 完全な静寂。


 そして、その静寂の中から、たった一つ、澄み渡るような「音」が聞こえてきた。


『……なんと、儚い人だろうか』


 え?


 私は顔を上げた。


 レーヴェは、変わらず無表情のまま私を見ている。


 口元の布は微動だにせず、もちろん声など発していない。


 けれど、私には聞こえた。


 それは今まで聞いてきたどの人間の心の声とも違っていた。


 欲望も、計算も、悪意も、一切混じっていない。


 雪解け水のように透明で、夜明けの空のように静かな、美しい思考。


『雪の中に咲く、美しい白い花のようだ』


『儚げで、私が触れたら枯れてしまいそうな……』


『……すまない』


 彼の瞳が、哀しげに揺れた気がした。


『君のような可憐な花は、私のような呪われた男の側には似合わない』


『その翼を折って、この鳥籠に閉じ込めることを、どうか許してほしい』


 私は呆然と立ち尽くしていた。


 彼の心から溢れ出るのは、私への拒絶ではなかった。


 罵倒でも、蔑みでもなかった。


 それは、あまりにも切なく、そしてあまりにも優しい、不器用な労わりの言葉たち。


『寒くはないだろうか』


『ここまで来るのは怖かっただろう』


『何もしてやれない私が、憎いだろうか』


 次々と聞こえてくる、彼の心の声。


 それは愛の詩のように美しく、私の干上がっていた心に染み込んでいく。


 前世から今世にかけて、何千、何万という汚い本音を聞き続けてきた私にとって、それは衝撃的だった。


 こんなに綺麗な心が、この世に存在するなんて。


 こんなに静かで、温かい場所が、この世界にあるなんて。


 私は無意識のうちに、握りしめていた手の力を緩めていた。


 涙が出そうだった。


 恐怖ではなく、安堵で。


 彼が、言葉を持たない「沈黙の公爵」だからこそ、その内面は誰よりも雄弁に、純粋なまま守られていたのかもしれない。


 レーヴェは、私が黙っているのを「怯えている」と勘違いしたようだった。


 彼は少し悲しそうな目をすると、私から距離を取り、背を向けた。


『……怖がらせてしまったか』


『そうだよな。私のような化け物が近づけば、誰だって凍りつく』


『せめて、冬を越せるだけの十分な支度金を持たせて、春になったら逃がしてやらねば』


 違う。


 違います、レーヴェ様。


 私は怖がっているのではないのです。


 私は、貴方のその「静寂」に、救われているのです。


 彼の姿が、ひどく孤独に見えた。


 彼はきっと、自分の心がこんなにも美しいことを知らない。


 そして、その声が私にだけは届いていることも、まだ知らない。


 私はドレスの裾を握り直し、彼の一歩後ろをついて歩き出した。


 この静寂の城で、沈黙の公爵と共に生きる。


 それが私の運命だと言うのなら。


 それは、私が思っていたような絶望の未来ではないのかもしれない。


 私の耳には、まだ彼の優しい後悔の独白が、心地よい音楽のように響いていた。




 ◇◆◇




 北の城での生活が始まった。


 それは、私の人生で初めて訪れた「安息の日々」だった。


 城の中は常に静まり返っている。


 使用人たちは必要最低限の言葉しか発さず、影のように立ち働く。


 彼らの心の中には相変わらず『陰気な公爵夫人だ』『いつまで保つことやら』という冷ややかな感情が渦巻いているが、実家での剥き出しの悪意や、社交界のドロドロとした欲望に比べれば、さざ波のようなものだ。


 何より、私には逃げ場があった。


 夫となった人、レーヴェの側だ。


 彼と共にいるときだけ、私の世界は美しい静寂に満たされる。


 朝の食堂。


 長いテーブルの端と端に座り、私たちは食事を摂る。


 レーヴェは口元の布を少しだけずらし、誰にも口元を見せないようにして、水やスープを口に運ぶ。


 その動作は洗練されており、音ひとつ立てない。


 彼は一言も喋らない。


 しかし、私の耳には、彼の心の独白がBGMのように心地よく響いていた。


『……今日のスープは、少し塩気が強いな』


『彼女の口に合うといいのだが』


『昨晩は冷え込んだ。彼女の部屋の暖炉は十分に機能していただろうか。寒くて目が覚めたりしていないだろうか』


 彼の思考は、常に私への気遣いで満ちている。


 自分のことなど二の次で、ひたすらに私の快適さを案じているのだ。


 私はスプーンを置き、彼の方を見た。


 レーヴェと目が合う。


 彼はすぐに視線を逸らした。


『……見てしまった』


『朝の光を浴びる彼女は、まるで聖画のようだ』


『私のような薄汚れた男が直視していい存在ではない。目が腐ってしまう』


(そんなことありません)


 私は心の中で即答する。


 貴方は美しい人です。


 その瞳も、その心も。


 私は勇気を出して、言葉を発した。


「……レーヴェ様。スープ、とても美味しいです。身体が温まります」


 すると、レーヴェの肩がピクリと震えた。


 彼は驚いたように私を見つめ、それからゆっくりと瞬きをした。


『……よかった』


 たった一言。


 心の奥底から湧き上がったような、温かい安堵の色。


 それだけで、私の胸はいっぱいになった。


 前世から今まで、これほど純粋に、見返りを求めずに私の幸福を願ってくれた人がいただろうか。


 いいえ、いなかった。


 だからこそ、私はこの静寂の公爵に惹かれていくのを止めることができなかった。




 ◇◆◇




 ある日の午後。


 私は城の図書室で本を読んでいた。


 北の公爵家には膨大な蔵書があり、物語の世界に没頭している間だけは、嫌なことを忘れられる。


 コツ、コツ、という足音が近づいてきた。


 顔を上げると、レーヴェが立っていた。


 彼は私がいることに気づくと、踵を返そうとした。


『……邪魔をしてしまった』


『彼女の安らぎを壊すべきではない。私がいるだけで、空気は凍りつき、重苦しくなるのだから』


 彼はいつもそうだ。


 私を大切に思うあまり、私から距離を取ろうとする。


「レーヴェ様」


 私は彼を呼び止めた。


「もしお時間があるようでしたら、ご一緒してもよろしいですか? この本について、どなたかと語らいたいと思っていたのです」


 レーヴェは立ち止まり、困惑したように私を見た。


『私と? 言葉も持たぬ、この人形のような私とか?』


『……だが、断って彼女を悲しませたくはない』


 彼は躊躇いながらも、私の向かいのソファに腰を下ろした。


 そして、懐から小さなメモ帳とペンを取り出した。


 サラサラとペンを走らせ、私に見せる。


【私でよければ。だが、私は声を出せない。聞き役にしかなれないが】


 美しい筆記体だった。


 私は微笑んだ。


「ええ、それで十分です」


 私は読みかけの本のあらすじを語り始めた。


 異国の冒険譚、悲恋の物語、古代の魔法の話。


 私が話す間、レーヴェは静かに頷き、時折メモ帳に短い感想を書いて見せてくれた。


【それは興味深い】


【主人公の選択は正しいと思う】


【美しい結末だ】


 紙の上に書かれる言葉は、簡潔で、そっけないほど短い。


 けれど、私には聞こえている。


 彼がペンを走らせるその瞬間に、心の中で紡いでいる、もっと豊かで色彩豊かな感想が。


『その姫君の孤独は、きっと誰にも理解されなかったのだろう。今のエリーゼのように』


『ああ、彼女が楽しそうに話している。彼女の声は、澄んだ音色のように耳に心地よく響く。聞いているだけで安らげる』


『時が止まればいいのに。この穏やかな時間が、永遠に続けばいいのに。ずっと聞いていたい。この優しくて澄んだ声を』


『……だが、それは許されない願いだ。私は呪われた身。いつか彼女を解放しなければならない』


 彼の心から聞こえてくるのは、私への賛美と、そして深い自己嫌悪。


 彼は自分を「呪われた化け物」だと信じ込んでおり、私を「いつか空へ帰すべき小鳥」だと思っている。


 その切ない矛盾が、私の胸を締め付けた。


(私は帰りたくなんてないのに)


(貴方のその静かな心の中だけが、私にとっての世界で唯一の安らげる場所なのに)


 私は本を閉じ、彼の手元を見た。


 彼の手は、白くて大きくて、武骨だった。


 その手が、私の手に触れようとして、寸前で止まるのが見えた。


『……触れては駄目だ』


『私の呪いが伝染る。彼女の白さを汚してしまう』


 彼は手を引っ込め、代わりにメモ帳に文字を書いた。


【そろそろ、夕食の時間だ】


 それは優しい拒絶だった。


 私は寂しさを飲み込み、笑顔を作った。


「そうですね。行きましょうか」


 私たちは並んで図書室を出た。


 言葉は交わせない。


 けれど、私たちの間には、確かに温かな何かが通い始めていた。




 ◇◆◇




 城に来てから一ヶ月が過ぎた頃。


 北の大地に、季節外れの猛吹雪が吹き荒れた夜だった。


 私はふと、胸騒ぎを覚えて目を覚ました。


 風の音がうるさいせいではない。


 もっと切迫した、誰かの「苦痛の叫び」が、私の脳内に直接響いてきたからだ。


『ぐ、うぅ……ッ!』


『熱い、身体が焼ける……!』


『鎮まれ……頼むから、鎮まってくれ……!』


 レーヴェの声だ。


 私はベッドから飛び起きた。


 普段の静かで詩的な彼の思考とは違う。


 それは、痛みにのたうち回る、悲痛な絶叫だった。


 私はショールを羽織り、廊下へと飛び出した。


「レーヴェ様!」


 彼の寝室は、長い廊下の突き当たりにある。


 近づくにつれて、心の声はより大きく、鮮明になっていく。


『声を出してはならない……!』


『口を開けば、呪いが溢れ出す。城ごと彼女を飲み込んでしまう』


『耐えろ、耐えるんだ……死んでも、封じ込めろ……!』


 私は彼の部屋の扉に辿り着いた。


 鍵がかかっている。


 中からは、荒い息遣いと、何かが倒れるような音が聞こえる。


「レーヴェ様! 開けてください! 私です、エリーゼです!」


 扉を叩く。


 しかし、中からの返事はない。


 代わりに、拒絶の思考が波のように押し寄せてきた。


『来るな!!』


 それは、私が初めて聞いた、彼からの強い拒絶だった。


『頼むから、来ないでくれ!』


『今の私を見ないでくれ!』


『こんな醜い、呪いに食い荒らされた姿を、君に見られたくない!』


 彼の心は、恐怖と恥辱で震えていた。


 私は躊躇った。


 彼がそこまで拒むのなら、立ち去るべきなのだろうか?


 彼のプライドを守るために、何も気づかなかったふりをして部屋に戻るべきなのだろうか?


 ……前世の私なら、そうしただろう。


 他人の事情に深入りせず、見て見ぬ振りをして、自分の平穏を守る。


 それが「賢い生き方」だと信じていたから。


 でも。


(嫌だ)


 私は扉の取っ手を強く握りしめた。


 もう、後悔したくない。


 誰の声も聞かず、誰の手も取らずに孤独に死んだ、あの前世のような最期は二度と御免だ。


 私は今、彼の心の声を聞いている。


 助けてほしいと、本当は誰かにすがりたいと泣いている、彼の子供のような本音を聞いているのだ。


「開けますよ!」


(以前、執事がここの窪みを押すと隠してある予備の鍵が出てくることを心の声で言っていた!)


 窪みを押すと、カチッと音がし、カラン、と鍵が落ちてくる。


 私はそれを拾い上げ、鍵穴に差し込んだ。


 カチャリ、と音がして錠が外れる。


 私は勢いよく扉を開けた。


「レーヴェ様ッ!」


 部屋の中は、冷気とは対照的な熱気に包まれていた。


 床には本や調度品が散乱している。


 そして、部屋の中央。


 レーヴェが、床にうずくまり、喉元を掻きむしっていた。


「……っ、ぁ……!」


 彼は私を見ると、絶望に染まった目で首を振った。


 口元の布は外れかかり、そこからは黒いもやのようなものが漏れ出している。


 それが「呪い」の正体なのだろうか。


 私は彼に駆け寄った。


 彼の身体は高熱を発し、苦しげに喘いでいる。


 それでも、彼は必死に口を閉じようとしていた。


 声を出せば、その黒い靄が爆発し、私を傷つけると分かっているからだ。


『逃げろ……!』


『エリーゼ、逃げてくれ……!』


『私は化け物だ。君を殺したくない!』


 彼の心からの絶叫が、私の胸を突き刺す。


 私は恐怖を感じなかった。


 化け物?


 いいえ、違います。


 貴方は、誰よりも優しくて、誰よりも私を大切に想ってくれている、ただ一人の人。


「逃げません!」


「……っ!?」


 私は彼の燃えるように熱い身体を抱きしめた。


『馬鹿な……何を……!?』


『離れろ、汚れる! 呪いが伝染る!』


『お願いだ、私を置いていってくれ!』


 彼の思考はパニックに陥り、私を突き放そうと暴れる。


 凄い力。さすが男の人。


 けれど、私は離さなかった。


 死に物狂いでしがみついた。


 前世で手放してしまった温もりを、今度は絶対に離さないと決めたから。


「置いていきません! 貴方がどんな姿でも、私は貴方の側にいます!」


 私は彼の耳元でそう言った。


「貴方の声は、聞こえています!」


 その言葉に、レーヴェの動きが止まった。


 彼は信じられないものを見る目で、私を見上げた。


『……え?』


『聞こえて、いる……?』


「ええ、全部。最初から、全部です」


 私は彼を見つめ返した。


「貴方が私のことを『白い花』だと言ってくれたことも。『春になったら逃がそう』と考えてくれていたことも。本の感想も、全部!」


 涙が溢れて止まらなかった。


「貴方の言葉は、誰よりも優しくて、温かかった。私は貴方の心の声に、ずっと救われていたんです!」


 レーヴェの瞳が揺れた。


 その揺らぎと共に、彼から漏れ出していた黒い靄が、少しだけ薄らいだ気がした。


『私の……声が……?』


『この呪われた思考が……届いていたのか?』


『彼女を、救っていた……?』


 彼の心の中に広がっていた自己嫌悪の嵐が、急速に凪いでいく。


 代わりに満ちてきたのは、困惑と、そして圧倒的な歓喜。


 私は彼をさらに強く抱きしめた。


「だから、お願いです。一人で苦しまないで」


「声を出してはいけないなら、私が貴方の声になります。貴方の想いは、私が全部受け止めますから!」


 レーヴェの手が、震えながら私の背中に回された。


 熱い。


 火傷しそうなほどの体温。


 けれど、それは呪いの熱さではなく、彼の命の熱さだと思った。


 彼は私の肩に顔を埋め、音のない慟哭を漏らした。


『……ああ』


『神よ』


『私は、まだ生きていて良いのだろうか』


『こんな私でも、彼女を愛していいのだろうか』


 彼の心から溢れ出す、切ないほどの愛の言葉たち。


 それが私の心と共鳴し、部屋に充満していた重苦しい空気を浄化していくようだった。


 外では猛吹雪が窓を叩いている。


 けれど、この腕の中だけは、世界で一番静かで、温かい場所だ。


 私が彼の想いを受け入れたその時、レーヴェの体内で暴れていた「呪い」が、最後の一撃とばかりに膨れ上がった。


『ぐ、あぁ……ッ!』


『だめだ、抑えきれない! 溢れる……ッ!』


 彼の喉の奥で、異様な音が鳴る。


 それは言葉ではなく、破壊の魔力が形を成そうとする音だった。


 黒い靄が彼の口元の布を焼き切り、漏れ出し始める。


 このままでは、彼は声を出し、その衝撃でこの部屋ごと吹き飛んでしまうかもしれない。


「レーヴェ様!」


 私はとっさに、彼が必死に閉じようとしている口元に手を伸ばした。


『離れろ! エリーゼ! 死んでしまう!』


 彼の心の絶叫が、私の頭を直接殴りつけるように響く。


 けれど、不思議と怖くはなかった。


 私の耳には、彼の恐怖心以上に、彼がどれだけ私を生かしたいと願っているか、その切実な愛が聞こえていたからだ。


(貴方が私を守ろうとするなら、私は貴方を守ります)


 私は彼の頬を両手で挟み込み、その顔を上げさせた。


 苦痛に歪む青い瞳が、私を映す。


「大丈夫。貴方の声は、毒なんかじゃありません」


 私は彼の目を見つめ、静かに、けれど強く言った。


「私が塞ぎます。貴方のその悲しい声を」


 私は迷わず、その唇に自分の唇を重ねた。


 強く、離れないように、強く。


『……ッ!?』


 レーヴェの身体が硬直する。


 漏れ出そうとしていた黒い靄の行き場が塞がれ、二人の間に閉じ込められる。


 熱い。


 焼けるように熱い魔力が、唇を通して私の中へと流れ込んでくる。


 それは膨大すぎて行き場を失っていた、魔力の濁流だった。


 普通の人なら、触れただけで廃人になってしまうほどのエネルギー。


 けれど、私の身体はそれを拒絶しなかった。


 生まれつき、他人の思考という「魔力の漏洩」を受け入れ続けてきた私の魂の器は、皮肉にも、彼の溢れ出す呪いを飲み干すための「受け皿」として完成されていたらしい。


 そうか。


 私が今まで苦しんできた『心の声が聞こえる呪い』は、今日、この人を救うためだけに神様が与えた試練だったんだ


(……貴方の痛みごと、私が全部貰い受けます)


 前世の孤独。


 今世の絶望。


 私が抱えてきた「負の感情」という器が、彼の呪いを飲み込み、共鳴し、そして静めていく。


(……貴方も、寂しかったのね)


 流れ込んでくるのは、魔力だけではない。


 彼の記憶、彼の孤独な幼少期、誰にも触れられなかった冷たい日々の記憶。


(私も同じ)


 私は心の中で彼に語りかけた。


(私もずっと、一人で。誰の声も信じられず、耳を塞いで生きてきた)


 私の想いもまた、彼に伝わっているようだった。


 レーヴェの瞳から、大粒の涙が溢れ出し、私の頬を濡らす。


『エリーゼ……』


『私の光。私の救い』


『……愛している。誰よりも、何よりも、ただ……愛してる』


 彼の心の声が、今までのどの瞬間よりも鮮明に、そして優しく響き渡る。


 暴れていた魔力は、いつしか穏やかな光へと変わり、二人の身体を包み込んでいた。


 外の吹雪の音さえも遠ざかり、世界には私たち二人だけの鼓動が残った。


 重なる唇の中では、いつしか舌を絡めていた。


 彼と私が、舌で会話をするように、お互いを理解し合うように、濃密に絡み合い、息継ぎも忘れるほどに。


 その行為はまるで、魂を融合させているみたいで、このままひとつに溶けあってしまうんじゃないかと錯覚するほどだった。

 

 その甘くて尊くて、長い口づけのあと、私はゆっくりと顔を離した。


 レーヴェは荒い息をつきながら、けれど憑き物が落ちたような穏やかな顔で、私を見つめていた。


「……レーヴェ様」


 私が微笑むと、彼は泣き笑いのような、どうしようもなく愛おしそうな表情を浮かべた。


 そして、震える手で私を強く抱きしめ返した。


 もう、言葉はいらなかった。




 ◇◆◇




 翌朝。


 嵐は嘘のように去り、窓の外には見渡す限りの白銀の世界が広がっていた。


 朝日が雪原に反射し、キラキラと輝いている。


 私はベッドの脇で目を覚ました。


 昨晩、疲れ果てて眠ってしまったレーヴェの手を握ったまま、私もいつの間にか眠ってしまっていたようだ。


「……ん」


 レーヴェが身じろぎをして、ゆっくりと目を開けた。


 彼と目が合う。


 一瞬の静寂。


 そして、彼の心から、朝の光よりも温かい思考が聞こえてきた。


『……夢では、なかった』


『彼女が、ここにいる』


 彼は身を起こし、私の髪にそっと触れた。


 その手つきは、壊れ物を扱うように繊細で優しい。


『おはよう、エリーゼ』


 声には出さない。


 けれど、その想いは言葉にするよりもはっきりと私の心に届いた。


「おはようございます、レーヴェ様。お加減はいかがですか?」


 彼は自分の喉元に手を当て、少し考えてから、枕元のサイドテーブルにあったメモ帳とペンを取った。


【不思議だ。あんなに重かった身体が、羽のように軽い】


【あの黒い衝動も、今は嘘のように静まっている】


 彼はそこまで書いて、ペンを止めた。


 そして、私を真っ直ぐに見つめ、続きを綴った。


【君が、私を救ってくれた】


【ありがとう、エリーゼ】


 私は首を振った。


「いいえ。私も、貴方に救われたのです」


 私は彼の手を取り、自分の頬に寄せた。


「貴方の心の声が、私を孤独から連れ出してくれました。貴方がいてくれたから、私は初めて、生きていることが嬉しいと思えたんです」


 レーヴェは目を見開き、そして破顔した。


 それは、私がこの城に来て初めて見る、彼の心からの笑顔だった。


 氷の彫像のようだった美貌が、春の日差しを受けて溶けたように柔らかく綻ぶ。


『……愛している』


 彼の心の声が、鐘の音のように響く。


『これからの生涯、私の全てを君に捧げよう』


『私の心臓が動く限り、君を守り、君を愛し抜くと誓う』


 私は涙ぐみながら、彼に抱きついた。


「はい。私も、お慕いしております」


 私たちは朝の光の中で、何度も確かめ合うように抱きしめ合った。




 ◇◆◇




 それから、数年の月日が流れた。


 北の公爵領は、相変わらず雪に閉ざされた静かな土地だ。


 けれど、城の中の雰囲気は随分と変わった。


「奥様、今日のお茶はいかがなさいますか?」


「旦那様が、奥様のために新しい本を取り寄せたそうです」


 使用人たちの表情は明るく、かつてのような陰鬱な心の声は聞こえてこない。


 彼らもまた、主人の変化を感じ取り、この城に愛着を持ち始めていたのだ。


 私はお茶の支度を整え、図書室へと向かった。


 暖炉の前。


 お気に入りの定位置に、レーヴェが座っていた。


 彼は私が部屋に入ってきたことに気づくと、読んでいた本を置き、穏やかな瞳で私を迎えてくれた。


『おかえり、エリーゼ』


「ただいま戻りました、レーヴェ様」


 私は彼の隣に座り、温かいお茶を差し出した。


 レーヴェの口元は、今は薄い布で覆われているだけだ。


 呪いが完全に消えたわけではない。


 彼は依然として「沈黙の公爵」であり、言葉を発することはできない。


 けれど、かつてのように命を削るような発作は起きなくなっていた。


 私の存在が、彼の精神安定剤となり、呪いを抑え込んでいるからだ。


 私たちは言葉を交わさない。


 暖炉の爆ぜる音と、ページを捲る音だけが響く静寂の時間。


 けれど、私の頭の中はとても賑やかで、幸せだ。


『その服、よく似合っている。春の空の色だ』


『今度、領内の視察に君を連れて行こうか。雪解けの花が咲く丘があるんだ』


『……手を、繋いでもいいだろうか』


 彼の可愛らしい葛藤が聞こえてくる。


 私は黙って、自分の手を彼の手の上に重ねた。


 レーヴェが驚き、そして嬉しそうに指を絡めてくる。


『ああ、温かい。なんて柔らかい手なんだ』


『幸せだ。死ぬほど幸せだ。離したくない』


『愛している。愛している。世界で一番、君が大切だ』


 ……うるさい。


 正直、ちょっとうるさいくらいだ。


 かつて私が求めた「静寂」は、もうここにはない。

 けれど。


「ふふ、私もです。あなた」


 私は彼の方へ身体を寄せ、その「世界で一番愛おしい騒音」に耳を傾けた。


 言葉を持たない彼の、誰よりも雄弁な愛に包まれて生きていく。


 それも悪くないと、私は心からそう思ったのだ。


 窓の外では雪が降っている。


 けれど、私たちの愛の灯火が消えることは、もう二度とないだろう。


ここまでお読みいただきありがとうございました!


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