妖精の足跡
――ねぇ、妖精って信じる?
――森林公園に大きな池があるでしょ。その奥の川に湧き水が出てるところがあるんだけど、知ってる?
――そう、そこの水面にピ、ピ、ピ、ピッ……って水切りみたいに9つ連続で波紋が出来たら、それは妖精が通った跡なんだって。
――うん、妖精の足跡だね。
――ねぇ、もし………までに………なら、………あげる。
――あ、でもこのことは2人だけの秘密だよ。もし、他の人に話したら………だから。
――じゃあ、約束。
『……続いてのニュースです。
今日、◯◯小学校3年生の篠崎真知さんが行方不明になっていることが分かりました。
昨日、自宅の2階で過ごしているはずの真知さんが、居なくなっていることに気がついた家族が警察に相談。警察と地元の消防団が付近を捜索しましたが、未だ行方が分かっておりません。
なお、真知さんは9月頃から不登校に……』
◇◆◇
――18年後。
人里離れた緑の中。
思わず見逃してしまいそうなほど小さな看板の先に、ログハウス風のカフェが営業している。
周りの自然にすっと溶け込んでいて、テラス席から望める透き通ったエメラルドグリーンの清流のせせらぎは、日常をふっと忘れさせてくれるような心地良さがあり、知る人ぞ知る隠れ家的な人気の店だった。
「わぁ、すっごく素敵なお店」
扉を開けた瞬間、木の温もりを感じる癒しの空間に、綾乃は思わず感嘆の声を上げる。
すると、一緒に来ていた同僚の遥と三佳も、それにうんうんと頷いていた。
「いらっしゃいませ。空いてるお好きな席にどうぞ」
カウンターから出て来てそう案内してくれたマスターに、思わず小さく息を呑む3人。
SNSの口コミなどで密かに話題になっているのは知っていたけれど、スラっとした長身に男性ながら透明感のある白い肌、想像よりももっとずっと端麗な容姿の彼に緊張しながら、綾乃がほんの少し上擦った声で聞く。
「あ、あの、テラス席は空いてますか?」
「申し訳ありません。あいにくテラス席は只今、満席でして……」
人気の席なのでダメ元で聞いてみたが、案の定埋まっていた。
綾乃はどうしようかと他の2人に振り返ると、少しして何か思いついたような顔で遥が口を開く。
「あ、じゃあ、カウンター席は空いてますか?」
「はい。それは大丈夫ですが、よろしいのですか?」
そう言うと、マスターは空いている窓際の席に目をやる。そこからでも外の景色を十分楽しむことが出来る。
それなのにわざわざカウンター席を希望した彼女に、綾乃は小声で本当にいいのかと聞くと、
「だって、カウンターの方がイケメンのマスターと話せる機会が多いかもでしょ?」
遥の何ともちゃっかりした答えに、綾乃と三佳は顔を見合わせるとクスッと笑った。
並んで席に着くと、3人ともお目当てのモンブランのケーキセットを頼んだ。
ここは季節限定の手作りケーキも人気なのだ。
しかし、
「申し訳ありません。季節限定のケーキはあと1つしか残っていなくて、よろしければこちらのチーズケーキもオススメしております」
手作りという事もあり、ケーキの種類はその2つらしい。マスターの言葉にそれぞれ「どうする?」みたいな顔をしていると、いち早く綾乃が身を引く。
「私はいいから、モンブランは今日車を出してくれた遥ちゃんに頼んで欲しいと思うけど、三佳ちゃんはどうかな?」
自然の中に佇むカフェには、車でないと来られないという不便な点があった。
そのおかげか密かに人気があるものの、店内はいつも程よい客数で、ゆったりとした時間を過ごすことが出来るのだった。
「そうだね。ここに来れたのも遥のおかげなんだから。私はチーズケーキにする」
綾乃の言葉に、三佳もこころよく残り1つのケーキを遥に譲る。
「2人とも、ありがとう」
綾乃たちの和気あいあいとした雰囲気に、カウンター越しのマスターも柔らかく微笑む。
「では、モンブランのセットが1つ、チーズケーキのセットが2つでよろしいですか?」
注文の確認をするマスター。しかし、綾乃はほんの少し眉を下げ、困ったような表情おずおずと告げる。
「あの、私は紅茶だけで……」
その言葉に、遥と三佳は同時に驚きの声を上げる。
「え!? 綾乃、ケーキ食べないの?」
2人からの視線に、綾乃は居たたまれない様子でモゴモゴと話す。
「あ……実は私、その、ちょっとだけチーズが苦手で……。食べれるんだけど、でもせっかくの手作りスイーツを、こんな私なんかより本当に美味しく食べてくれる人に、食べてもらった方がいいかなって……」
綾乃の言わんとする事は何となく分かるものの、ここまで来て自分達だけ食べるのも気まずい……。
「それなら綾乃がモンブラン食べなよ。私はチーズケーキも大好きだから」
せっかくの楽しい雰囲気を壊さないように遥がそう言うも、綾乃はブンブンと顔を横に振る。
「そんな、私の事は全然気にしなくていいから。遥ちゃんすごく楽しみしてたんだから、遥ちゃんが食べて」
「いや、でも……」
綾乃の気持ちは有難いものの、やや空気の読めていない気遣いに困っていると、マスターが気を利かせて助け舟を出してくれた。
「あの、よろしかったらスコーンをお召し上がりになりませんか?」
「え?」
「個人的に作ったもなので、本来お客様にお出しするようなものではないかもしれませんが、自家製のジャムもありますので、是非」
「そんな、わざわざそこまでしていただくのは……」
余計な手間を掛けてしまうことに、さらに恐縮してしまう綾乃だったが、
「3人で楽しく食べていただいた方が、もっと美味しく感じると思います」
マスターのその優しい言葉に、素直に甘える事にした。
それでもまだ少し申し訳なさそうにしている彼女に、ふいにマスターがカウンターからほんの少し身を乗り出し綾乃の顔を覗き込むと、
「この事は他のお客様には、内緒にしておいてくださいね」
形の良い唇に人差し指をそっと立てながら、茶目っ気たっぷりに微笑んだあと、カウンター奥のキッチンに入っていった。
一瞬、心臓が止まるかと思うほどの破壊力に、その後ろ姿を茫然と見つめていた綾乃だったが、遥と三佳からの何か言いたげな視線を感じて、ハッと我にかえると一気に顔が熱くなるのが分かった。
目の前で、俳優やモデルをしていてもおかしくないほど端正な顔立ちの男性に囁かれて、顔を赤くしない人なんていないだろう。
それから、おのおのがスイーツを堪能したあと、カウンターに戻ってきたマスターに、遥がこの店のもうひとつの話題について聞いてみた。
「あの、マスターは『妖精』を見たことがあるんですか?」
「お客様の間で噂になってる、波紋のことですか?」
このカフェにはもうひとつ囁かれている話題があった。
それはテラス席から見える川の水面に、ごく稀に不思議な波紋が起こるらしい。
そして、それは妖精が遊びに来た合図なのだとかで、運良くそれを見た人には幸運が訪れるという噂があり、密かなパワースポットにもなっていたのだ。
「それは以前、テラス席でご覧になったお客様が、その光景に大変感動してくださったようで。そこで僕がついうっかり、こんな山奥ですし不思議な存在がいてもおかしくないかもと、言ってしまいまして」
どうやら、その話に尾ひれがついて、いつの間にか『妖精』だとか、それを見る事が出来たら幸運が訪れたり、願い事が叶うなどという噂になって広まったらしい。
「こんなところまで足を運んでくださる方が増えたのは、とても有難いのですが」
カフェのある地域に特にこれと言った言い伝えなどもなく、単なる噂によって作られたパワースポットにどこか申し訳なさも感じる。
しかし、そんなマスターに綾乃は思わず口を開いた。
「綺麗な景色に囲まれて、美味しいスイーツと香りの良い紅茶を堪能しながら、こんな素敵な空間で過ごせるなんて、このお店に出会えた事が、すでに幸運だと思います」
綾乃からの思いがけない熱の入った賛辞に、マスターは少し目を丸くしたあと笑みを深くした。
「そう言ってもらえて、本当にありがとうございます」
「あ……。いえ、何か、急にすみません。その、スコーンがすごく美味しくて、マスターの気遣いとか、何か色々感動しちゃって、それで……つい」
何だか急に恥ずかしくなってきて、俯きながら言葉がだんだん小さくなっていく綾乃に、マスターは右手を自身の胸にあて、うやうやしく頭を下げると、
「それでは、またご来店いただいた際には、スコーンをご用意させていただきますね。もちろん、お客様だけ特別に」
「えー、なんか綾乃だけズルい」
彼の言葉に、他の2人が羨ましがっている。
それがたとえ、接客トークによるものだとしても、綾乃の胸はどうしようもなくくすぐられてしまうのだった。
◇◆◇
「こ、こんにちは……」
「いらっしゃいませ。また来てくださったんですね。とても嬉しいです」
2週間後、さっそく2度目の訪問をした綾乃。マスターの接客トークをいちいち真に受けちゃダメと言い聞かせても、表情がどうしても緩んでしまう。
「今日はご友人の方と一緒ではないのですか?」
「あ、約束してたんですけど、何かすっぽかされちゃって……」
本当は最初から一人で来るつもりだったのに、咄嗟に嘘をついてしまった綾乃。
少しでもマスターの印象に残れたらと、タクシーを使ってまで一人で来たことを、見透かされたらと思うと恥ずかしくなってしまったのだ。
「今日はちょうどテラス席が空いております」
「わぁ、ずっと楽しみにしてたので、良かったです」
念願のテラスに案内してもらい、マスターが水とおしぼりを持ってきた時だった。
「見て」
テラス席にいた他の客のひとりが不意にそんな声を上げると、テラス席にいた全員が自然と視線を眼下に流れる川面に移した。
透き通るようなエメラルドグリーンの水面にピ、ピ、ピ、ピッと、まるで水切りのように波紋がいくつも広がっている。
しかも、それは弧を描くようにピ、ピ、ピ、ピッ、ピ、ピ、ピ、ピッとまるで水面を渡っているかのように広がって行くのだ。
そして、それがカフェの庭のビオトープにまでピ、ピ、ピ、ピッと波紋が出来たと思ったら、最後にピチョンっと小魚が跳ねたくらいの水の音がした。
一瞬、シンと静まり返ったあと、小さな歓声が起こる。
初めて目にした不思議な波紋の光景に、綾乃も興奮を隠し切れない。
「今のすごかったですね。まさか、本当に見られるなんて!」
弾んだ声で隣にいたマスターに思わず話しかけたが、彼はどこか呆然と立ち尽くしているような感じだった。
「あの、大丈夫ですか?」
綾乃がもう一度声を掛けると、マスターはまだ心ここに在らずといった感じで、ゆっくりと振り返る。
「まさか……」
何やら小さく呟いたあと、どこか蒼白としたような顔で綾乃を凝視している。様子のおかしい彼に戸惑いながらも、再度呼び掛けてみる。
「マスター? どこか具合でも悪いんですか?」
すると、やっと我に返った様子のマスターはひと言詫びを入れると、一度カウンターの奥へ戻ってしまった。
「先ほどは、失礼いたしました」
少ししていつもの様子に戻ったマスターは、前回の言葉通り、綾乃のために特別に用意してくれたスコーンと紅茶を運んで来てくれた。
「もう、大丈夫なんですか?」
「ええ、ご心配おかけして申し訳ありません」
「それにしても、あの噂は本当だったんですね」
「僕も、あそこまでの光景は初めてです」
そう言いながら、マスターは話を続けた。
「本当のところは、風や水中の生物によって偶然起こるものなのかも知れません。でも、こんなにお客様が喜んでくれるなら、自分で言っておいて何ですが、不思議な存在のによるものだと考えた方が、ロマンがあっていいのかもしれませんね」
彼の言葉に、綾乃も深く頷く。
「正体が何であれ、こんな光景を見れたのが幸運なんだと思います」
感動したようにそう言う綾乃に、
「幸運、ですか……」
けれど、彼はじっとなにかを考えているような顔でぽつんと呟いた。
「え?」
「いえ。それでは、ごゆっくり」
そう言って、テーブルから離れようとするマスターを、綾乃は勇気を振り絞って引き留める。
「あ、あの……」
「はい。他に何かご注文ですか?」
振り返ってそう尋ねてくる彼に、綾乃は高鳴る鼓動を何とか抑えながら口を開く。
「あの、妖精を見たら、願いが叶うって言う噂もありましたよね……」
「ええ」
「さっき言ったみたいに、本当かどうかはわからないけれど、でも、このきっかけに私も勇気を出してみたいです……」
緊張で震える声で、やっとそこまで告げる。
本当はもっと何度もお店に通って、ほんの少しでも距離が近づけばくらいに思っていた。けれど、先ほどの小さな奇跡を目の当たりにして、このチャンスに賭けてみようと思ったのだった。
顔がびっくりするほど熱い。きっとマスターにも自分の顔が真っ赤になっているのがバレているだろう。
けれど、むしろこの想いに気づいて欲しいと、綾乃は恥ずかしいのをグッと堪えて熱っぽい視線をマスターに送る。
「僕も今、同じ事を思っていると思います」
すると、そんな彼女の胸の内を全て察してくれた上にそう答えてくれたマスターの言葉に、綾乃の表情はパッと輝く。
出会ったばかりにも関わらずまさかマスターほどの男性と、こんなにスムーズに話が進むとは思っていなかったので、驚くと同時に嬉しさが胸いっぱいに広がっていく。
そんな彼女にマスターは、ふと思いついたように唇の前に人差し指をそっと立てて、こう告げた。
「この事は、他のお客様には内緒ですよ」
その日、綾乃はマスターと連絡先を交換したのだった。
◇◆◇
メッセージのやりとりをするようになってから、綾乃はマスターを将希と名前で呼ぶようになった。
最初は他愛のない内容のやりとりが少し続き、だんだんとお互いの事を話し始める。
彼は積極的に綾乃自身のことを聞いてきた。それを綾乃は、それだけ自分に興味を持ってくれているのかもしれないと、嬉しく思っていた。
普段、綾乃は会社員で将希はカフェのため互いの休日がなかなか合わず、2人で出掛けたりする機会はまだだったが、綾乃は休日になると将希に会いにカフェに訪れていた。
彼との距離はゆっくりだけど、でも確かに近づいている、そう思っていた。
「今度の土曜日、一緒に出掛けませんか?」
そんなある日、将希からついにデートの誘いが入る。
どうやら改装のため、1週間ほどカフェを臨時休業するとの事だった。
「ごめんなさい。準備に手間取って、遅れてしまって……」
待ち合わせ時間より少し遅れ、息を切らせながら駆け寄る綾乃に、
「来てくれて良かった。地味なデートコースかなと思って、すっぽかされたらどうしようかと」
将希が笑いながら冗談っぽくそう言ってくれたおかげで、遅刻の罪悪感が和らぐ。
今日はカフェのある山の麓の公園で、ピクニックをする予定だ。
正直、最初行き先を聞いた綾乃は、せっかく将希ほどの男性とデートするなら、もっと人が沢山いて注目してもらえるようなお洒落な場所が良かった。
しかし、彼が腕によりをかけてお弁当を作ってくれるというので、それはそれで親密度が上がりそうな気がしてOKした。
「何だか、小学校の時の遠足みたい」
公園の遊歩道を歩きながら、綾乃がそう言うとすかさず将希が聞いてきた。
「懐かしい感じがしますよね。遠足はどんなところに行かれたんですか?」
それは一見普通の会話の流れに思えるが、ふと心の中でまた…と思う綾乃。
彼は綾乃の普段の生活の話題には当たり障りのない返答なのに対して、子どもの頃の話になると何となくいつも思い出を引き出そうとしてくる感じがしていた。
最初は綾乃もそれぞれの思い出を共有する嬉しさがあったが、話していくうちにかすかな違和感を感じる時があった。
「ちょうどこんな風に自然に囲まれた公園だったと思います。確か、池があってその奥に湧き水が出るところがあったような……」
それでも、将希の質問にふいに思い出した遠足の記憶。
けれど、綾乃はその思い出の光景に懐かしさを感じつつも、何となく胸のあたりがかすかにざわつくような感じがした。
「ちょうど良かった。この公園の川の上流にも湧き水があるんですよ。ちょっと歩きますが、とても綺麗なのでぜひ行ってみませんか?」
「そう、ですね。せっかくだし」
そう言った綾乃だったが、本当はもうどこかに座って将希の料理を食べたかったのだが、初デートという事もあり大人しく彼の誘いを受ける。
「小学生の頃は、お友達ともよく遊んだりしてたんですか?」
歩きながら将希は、綾乃に尋ねる。
「あ、そうですね。3年生くらいまでは、休み時間にはよく遊んでたと思います。でも、4年生から塾に通い始めたので……」
それからも、淡々と将希からの質問が続いた。それもやたらと小学3年生の頃の事を聞いて来るのだ。
「えっと……うーん、それは、どうだったかな。正直、もうその頃のことは、あんまり覚えてないんです」
ついに将希の質問に応え切れなくなって、綾乃はそう言った。
通っていた小学校は生徒数も多く、進級する度にクラス替えがあり、5・6年生の頃ならもう少し覚えているが、それ以前はほとんど忘れていた。
「そうでしょうね」
するとそんな綾乃の言葉に、将希がひと言そう返したあとは、そのまま黙々と歩き続けた。
「着きましたよ」
黙りこくってしまった将希に戸惑いながらも、後をついていき目的地に到着した。
「え、あ……はい。あ、本当だ。とても水、綺麗ですね」
気分を変えようと、努めて明るく振る舞う。
「そうでしょう。本当に妖精が現れてもおかしくないくらいに」
すると、将希はそこら辺の小石をおもむろに手に取ると、川に向かって投げた。
水面に石がピピピッと跳ねて、波紋が出来る。
「覚えていますか? 水切りみたいに水面に波紋が9つ連続で出来たら、それは妖精が通った跡だって」
「え? それって、お店の噂のことですよね?」
しかし、将希の言った9つ連続というのは聞いた事がなかった。それに以前、綾乃がその光景を見た時、きっちりと数えていたわけではないが、数はまちまちだったような気がする。
「いえ、もっとずっと昔の話ですよ。18年前、あなたがよく覚えていないと言った小学3年生の時の話です」
また、3年生の時の話。
話の意図が分からず、困惑したような顔で固まっている綾乃を見て、将希はここまで言っても、思い出す様子のない彼女に落胆する。
「少し僕の話に付き合ってもらえますか?」
将希は深いため息をつくと、話し始めた。
「僕には、歳の離れた妹がいました」
将希には13歳離れた妹がいた。
引っ込み思案だけど優しい性格の子で、歳の差に多少気恥ずかしさはありつつも、よく可愛がっていた。
しかし、妹が小学3年生に上がると同時に、就職を機に将希は家を出る事になった。それをひどく寂しがった妹をなだめるのに、苦労したのを覚えている。
そんな妹が5月に入った頃から、学校に行きたくないと言い始めた事を、親からの電話で知る。
それから、夏休み前までは何とか保健室登校を続けていたが、二学期からは完全な不登校になってしまったのだった。
「そしてその2ヶ月後、妹は行方不明になりました」
そこで一旦話を区切った将希はひとつ息を吐くと、ジッと綾乃を凝視する。
彼の鋭く射抜くような眼差しには、怒りと悲しみが入り混じったような冷たさがあった。
「え? え……?」
唐突に、そんな話を聞かされ、睨むような視線を向けられた綾乃は、身に覚えがないといった感じで困惑の声を漏らすばかり。
しかし、そんな思いとは裏腹に、綾乃の背中にはべったりと汗をかいており、胸の奥からザワザワと何かがせり上がってくるような感覚に襲われていた。
「『真知』覚えていませんか? あなたが小学3年生の時、同じクラスだった篠崎真知ですよ。真知は僕の妹です」
名前を聞いた瞬間、無意識に蓋をしていた記憶がブワッと蘇ってくる。
「ち、違……違う、違っ……」
綾乃の口から、咄嗟について出て来たのは何かを否定する言葉だった。
「あぁ、やっと思い出してくれたんですね」
それを聞いて、将希は渇いた声で笑う。それはどこかゾッとするような笑顔だった。
「え、え? いや、だから…違う、違うよ?」
当時の事を思い出しつつあるものの、いまだ話の全体が見えていないような綾乃に、将希は妹の行方不明にまつわる経緯を話し始める。
当時、妹の真知は綾乃と同じ友達グループにいた。
しかし、些細なことがきっかけで仲間内で時々、真知だけを話の輪に入らせないような事があった。
ただ、完全に無視をするというわけでもなかったようで、人目があるところでは普通に話し掛けてくれる時もあった。
しかし、まだ小学3年という狭い世界で、気まぐれに行われる仲間外れ。常に同級生の顔色を伺いながら過ごす時間は、真知にとってひどく辛いことだった。
そんな真知に、ある日仲直りの条件を告げられた。
それは、遠足で行ったことのある森林公園の奥の湧き水に現れるという妖精の噂。
夕方5時になると川の水面にピ、ピ、ピ、ピッ……っと水切りみたいに9つ連続で波紋が出来るらしい、そしてそれは妖精が現れた証拠なのだとか。
それを明日写真に撮って来たら、前みたいに仲良くしてあげるというものだった。
それは綾乃たち数人の女子が、気まぐれに思いついただけの、ただの冗談だった。
しかし、真知にとってそれが嘘だと半ば分かっていても、また仲良くしてくれるためにはやるしかなかった。
もちろんただの嘘なので、そんな写真が撮れるはずもなく、そのあと何とか繋ぎ止めていた心の糸がとうとう途切れた真知は不登校になった。
そして彼女は、学校でのことを家族に打ち明けることなく、そのまま居なくなってしまったのだった。
じゃあ、将希がなぜここまで知っているのか。
それは3年前、あの森林公園の池の近くから、白骨の一部が見つかったのだ。鑑定の結果、それが行方不明になった妹のものだと判明。
恐らく、足を滑らせてしまったなどの事故ではないかとの事だった。
真知が発見された時、もちろん一縷の望みを絶たれた悲しみはあった。しかし、15年という歳月を経て、心のどこかで見つけてあげられたという安堵も感じていた。
そして真知が発見された時、将希がお下がりであげたスマホも一緒に見つかったのだ。
通信は出来ないが、写真が撮れたりメモ帳の機能を真知は日記がわりにしていた。
年数が経ち過ぎて復元はほぼ不可能だと言われたが、それでも何か少し残っていないかと依頼した。
そして半年前、奇跡的に復元され部分を繋ぎ合わせて、将希は悟ったのだった。
最後の日付には、もう一度探しに行ってみよう。もしかしたら奇跡が起こるかもしれない、とあった。
データにはクラスメイトの名前はなかった。
将希はこれをどうすればいいのか悩んでいた。両親にはこれ以上の負担をかけたくなかったので、データのことは伏せていた。
そんな思い悩みつつも、日々は淡々と過ぎていく。
正直、カフェで妖精の噂が広まったのは、本当に偶然によるものだった。この時まだ将希は何も知らなかった。
しかし、真実を知ったあとふと思い立ち、将希は店のテラスから川に向かって妹の名を呼んでみる。
しばらくジッと川面を見ていると、水面に波紋が起った。
まさかと思いつつ、将希は続けて何度も妹の名前を呼んだ。
全てに反応があるわけではなかったが、将希はいつからか妹が自分のそばに居てくれていたのだと思った。
そして、綾乃と出会った時。
「あなたが一人で僕の店に来た時、教えてくれたんだと思いました」
そう言うと、将希はおもむろに川に向かって妹の名前を呼んだ。
「真知」
すると、将希の声に反応するかのように、水面にピピピピッっと波紋が広がる。
その光景に、綾乃はガタガタと震え出した。
カフェで見たあの不思議な光景は、自然現象でも妖精でもなかったのだ。
「マ、マチちゃん……?」
綾乃が震える声でかつてのクラスメイトの名を口にすると、またもやピピピピッっと水面が揺れる。
「ひっ……! ち、違う……私、そんな、つもりなくて…違う。違うの、だって……けい君とばっかり、しゃべってて……他の子だって……」
きっかけは、当時クラスで人気だった男子とよく喋っていた真知を、数人の女子がおもしろく思わなかった、ただそれだけのことだった。
綾乃はボロボロと涙をこぼしながら、まさに子どものような言い訳を繰り返す。
「私だけじゃ、なかったもん……あんなの、ただの冗談で……」
綾乃自身、いじめたという意識はなかった。
ただ、ほんのちょっとふざけただけ。
もともとあの冗談も一回きりの事で、すでに終わった話だった。
だから、行方不明になったと学校の集会で聞いた時も、あれから時間も経っていて、学校にも来ていなかったので関わりもなく、自分とは全く関係のないところで起きた事だと思っていた。
ただ、心のどこかで事態が大きくなって、そのとばっちりで綾乃たちの悪ふざけがバレたらどうしようという思いはあったのかもしれない。
今、真知の存在に恐れを抱いている姿が、その証しかもしれない。
確かに、真知が亡くなったのは単なる事故だったかもしれない。
あの日、綾乃たちがあの場所に行けと直接言ったわけでもない。
それでも、あの日真知がそこへ向かうきっかけを作ったのは、綾乃たちがついたあの嘘だったんじゃないか。
将希は、改めてそのことを綾乃に告げた。
「ご、ごめ……ごめん、なさい」
それは、泣きじゃくりながら、まさに子どものような謝り方だった。
まだ綾乃は真知の受けた心の痛みを、本当には理解していないのだろう。
正直、将希も何がしたかったのか分からないまま、真実を突きつけた。
それでも、今、綾乃の言葉を聞いて、せめてひとこと妹に謝って欲しかったのかもしれないと思った。
◇◆◇
「いらっしゃいませ」
カランと扉の開く音がして、将希はカウンターから出て客を出迎える。
「こんにちは」
遥と三佳が声を揃えて挨拶する。
「久しぶりのご来店ありがとうございます」
2人は最初に綾乃と来て以来、仕事が立て込んでいて来れなかったらしい。
「えー、1回しか来てないのに、覚えててくれたんですか?」
「もちろんです。今日はお2人で?」
将希が自然な流れでそう聞くと、2人は少しだけ表情を変える。
「あ〜、実はこの前一緒に来てた子は……何かちょっとメンタル崩したみたいで、会社辞めちゃったんですよね」
「そうでしたか。それは、気の毒ですね」
何食わぬ顔で答える将希。
あの後、泣きじゃくる綾乃を引きずるようにして駅までは送った。それが将希に出来る最低限のことだった。
それ以降、連絡は絶っている。
「少々、お待ちください」
注文を確認した将希がカウンターへ戻ると、遥は向かいに座る三佳にポツンと本音をこぼした。
「あのさ、綾乃の事だけど……病んだのはさ、本当に可哀想だなって思うけど、いなくなってちょっとホッとしたかな、なんて」
「あー、まあ……うん、私もちょっとそう思ったかな」
そんな遥の言葉に、歯切れ悪そうにしながらも三佳が同意すると、ポツポツと綾乃に対する不満がこぼれだす。
「あの子、何気に自分のミスを周りに被せるところあったし……」
「あったね……。特に遥が1番迷惑かけられてたよね?」
「やっぱり、そう思う? 何かある度に、上司に私からの指示だって言ってたよね。私、あの子に何かしちゃってたのかな?」
「知らないの? あの子、同期の川上君を狙ってたらしいんだけど、遥と川上君が仲良かったからやっかんでたんだよ……」
「えっ、そんな理由だったの?」
綾乃は周りには仲良し3人組というふうにアピールをしていたが、2人からするとだいぶ困った同僚に過ぎなかった。
だからと言って、同じ部署で働く以上、小学生みたいに無視するわけにもいかない。2人はなるべく距離を保ちながら、大人の対応をしていたのだ。
一緒にカフェに行く事になったのも、遥と三佳が話していたところに、強引に綾乃が割り込んできて、断り切れずに連れて行くことになっただけだった。
「あと、ちょっと虚言癖? みたいなところもあったよね」
「あった、あった。アレでしょ……。あ、ちょっと待って。ごめん、自分から言い出しといてなんだけど、やっぱこの話やめよ。せっかくの休日に、居ない人の話はやめとこう」
これまで色々と思うところがあったらしく、次から次へと不満が出て来そうになったところを、けれど遥は思い直してピタッとやめる。
「楽しい話しようよ」
気持ちを切り替えようと遥がそう言うと、三佳もそれに頷いた。
「それもそうだね。じゃあ、今度の連休どこ行くか一緒に決めよ」
カウンターで紅茶を淹れながら、2人の綾乃に対する話を聞いていた将希は、人の本質はなかなか変わるものではないのだなと、苦笑する。
妹が好きだった色のカップに紅茶を注ぐと、それをキッチンの棚の一角に飾っている妹の写真立ての前に置いた。
と、またカランと扉の開く音。
将希が客を出迎えるためにキッチンから出て行ったあと、不意にカップの中の紅茶にピッと波紋がひとつ広がった。
それが、最後だった。
以来、あの不思議な波紋が起こることはなくなったのだった。
Fin.
お読みくださった皆さまに、心から感謝します。