4 「恋愛指南役に任命された結果がこれ」
俺は足を引きずるようにして、五階の天文部の部室へ向かっていた。
――なんでだあああああ!!
叫びたい。心の中で全力で叫びたい。
何の罰ゲームだよ、これ!? 俺、別に何も悪いことしてないよな!?
今日って月曜日だよな!? そう、部活のない月曜日!!
金曜日しか活動しないはずの天文部なのに、なんで俺はこうして階段をのぼってるんだ!?
せめてこのつらい月曜くらい、家でゴロゴロしながらのんびり過ごしたかった!!
ベッドにダイブして、スマホ片手に動画を垂れ流し、気が向いたらゲームして、気づいたら夕方――そんな怠惰な時間を満喫しているはずだったのに!!
思い返せば、全ての元凶はひより先輩から送られてきた”一通のメッセージ”だった。
(「藤崎くん! 明日、部室に来るように!!」)
突如として届いた、この謎のメッセージ。
恐らく、天文部のトークグループから俺を”友だち”に追加したのだろう。
いや、正確には 「無理やりぶち込まれた」 という表現のほうが正しいかもしれない。
いや、軽いノリで言ってるけど、こっちは全然“ちょっと”じゃないんですけど!?
五階って遠いんですよ!? しかも、今日は授業も終わって体力的に疲れてるんですけど!?
(ああああ、帰りたい……! 今すぐUターンして帰りたい……!)
でも、もし無視したら、たぶん明日になっても「昨日来てくれなかったじゃん! ひどい~!」とか言われるんだろうな……。
それはそれで面倒くさい。
(くそっ、完全に詰んでる……!)
そんなことを考えながら、渋々階段を上がり、ようやく五階に到着する。
静かに息を吐き、指先に力を込めてドアノブを回した。
扉を開けると、そこには――すでにひより先輩が待ち構えていた。
ホワイトボードの前に立ち、腕を組み、真剣な表情を浮かべている。
ピンと背筋を伸ばし、まるで教師のような佇まい。
そして、低めに結んだツインテールが揺れ、不敵な笑みを浮かべながら俺を見つめてくる。
その妙に自信ありげな雰囲気に、俺は一歩踏み込むなり、思わず問いかける。
「……で、どうしてわざわざ俺を呼び出したんです?」
俺の言葉を合図にしたかのように、ひより先輩は勢いよくマーカーを手に取った。
「決まってるでしょ!」
そう言い放つと同時に、ホワイトボードに力強く文字を書き殴る。
『恋愛とは戦争である』
「……は?」
俺は、思わずまばたきをする。
「新人君、座って!」
「……いや、意味がわかんないですよ」
「いいから!!」
俺が状況を把握する前に、ひより先輩は俺の腕を引っ張り、半ば強制的に椅子に座らせた。
そして、ホワイトボードを指しながら、堂々と宣言する。
「今日は、私の恋愛観を整理するための特別講義を行う!!」
「いや、何の講義ですか……」
俺が呆れたように言うと、ひより先輩は自信満々に胸を張る。
ホワイトボードの前に仁王立ちしながら、マーカーを握る指先には、無駄に力がこもっていた。
「いい? 恋愛ってのは甘ったるいものじゃないの。これは戦いなのよ!!」
ひより先輩はホワイトボードをバンッと叩き、力強く宣言した。
その姿は、まるで戦場で兵士を鼓舞する将軍のように堂々としている。
「どこ情報ですか、それ」
「恋愛ドラマ!!」
「……ですよね」
俺が呆れながら言うと、ひより先輩はまるで気にも留めず、意気揚々とマーカーを走らせる。
ホワイトボードに書かれた文字が、妙に堂々として見えた。
『駆け引き』
「……やっぱり、それ出てくるんですね」
俺は思わず目を細め、予想通りの展開に苦笑しながらつぶやいた。
呆れながらもホワイトボードの文字を眺める。
あたかも軍略のように語るあたり、やっぱりこの人の恋愛観はどこかズレてる気がする。
「当たり前でしょ!」
ひより先輩は腕を組み、満足げに頷く。
「恋愛において大事なのは、いかに相手の気を引くか。そのためには、ただ素直に好意を伝えるだけじゃダメなのよ!」
「いや、別に素直に伝えてもいいと思いますけど」
俺が当たり前のことを言うと、ひより先輩は「甘い!」とでも言いたげに指を突きつけてくる。
「甘いわね、新人君。恋愛とは、相手に“もっと知りたい”と思わせることが大切なのよ。たとえば——」
ひより先輩は勢いよくマーカーを走らせる。
『簡単に心を許すな』
ホワイトボードに刻まれたその言葉を見た瞬間、俺は思わず眉をひそめた。
「……なんか、ズルくないですか?」
「ズルい? これは恋愛における基本よ!」
ひより先輩は堂々と胸を張り、自信満々に言い切る。
「好きな人ができたら、素直に好意を伝えるのもいいけど、それだけじゃ相手の心は掴めないの!」
「いや、それって……」
「相手に“もっと知りたい”と思わせることが大切なのよ! だからこそ、全部さらけ出すんじゃなくて、ちょっとだけ謎を残すの!」
「……いや、それ相手が興味を持ってくれてる場合に限りません?」
「え?」
「興味ない人にそれやったら、ただのめんどくさい人じゃ……」
「……」
ひより先輩はホワイトボードを見つめたまま、静かに固まる。
まるで、今まで信じてきた教義が根本から崩されたかのような顔をしていた。
「……ちょっと待って、それ本当?」
「本当です」
「えっ、でも、こういうのって恋愛ドラマとか少女漫画ではよく見るじゃん?」
「だから、それフィクションですよね」
「……うそ……」
ひより先輩は書いたばかりの文字をじっと見つめる。
夕陽が傾き、部室の床に伸びた影が少しずつ長くなっていく。
「……私、間違ってる?」
「いや、間違いとは言いませんけど、少なくとも万能ではないですね」
「そ、そんな……!」
ひより先輩は頭を抱え、軽く膝をつきかける。
「ちょ、そんな絶望しなくても!」
「だって、私、ずっとこうやって恋愛は駆け引きが大事って思ってたのに……!」
「それが原因でうまくいかなかった可能性もありますよね」
「むしろ、普通に素直な方が好かれると思いますけど」
「……えっ」
ひより先輩が固まる。
なんか、目が泳いでる。
「……」
「結局、相手とちゃんと向き合うのが大事なんじゃないですか?」
「……」
「先輩?」
「……な、なんか……」
ひより先輩は腕を組んだまま、視線を泳がせる。
「ちょっと、私……拗らせてる?」
「いや、だいぶです」
「う、嘘……」
ホワイトボードに書かれた『恋愛とは戦争である』の文字を見つめ、
ひより先輩は愕然としていた——。
「……ちょっと、今日の講義、一旦中止で!!」
ひより先輩が突然、ホワイトボードのマーカーを放り出した。
そのまま額に手を当て、困惑した様子で天井を仰ぐ。
「先輩、最初からやらなくてよかったのでは?」
俺が呆れたように言うと、ひより先輩はぐぬぬ……と小さく唸る。
「うぅ……もうちょっと、まともな恋愛観を学び直す……」
ホワイトボードに大きく書かれた 『恋愛とは戦争である』 の文字を見つめ、ひより先輩は肩を落とす。
よほどショックだったのか、わずかに震えているようにも見えた。
俺は少し気の毒に思いながらも、ツッコミを入れずにはいられない。
「まあ、恋愛指南を頼んでる時点で、先輩もそこまで自信ないんですよね?」
「そ、そんなことないもん……」
「いやいや、もし本当に自信あったら、そもそも俺に頼みませんよね?」
「うっ……」
ひより先輩が苦しそうに俯く。
俺の指摘が図星だったらしく、しばらくの間、ひより先輩は指先で机の表面をなぞるようにして、思い詰めた顔をしていた。
いつもなら勢いよく反論してくるのに、今はただ黙り込んでいる。
……思ったよりショックを受けているのかもしれない。
ホワイトボードに残る『恋愛とは戦争である』の文字が、妙に寂しげに見えた。
ひより先輩は小さくため息をつく。
そして、頬杖をつきながら、ぼそりと呟く。
「……私、そんなにズレてるのかな」
こればかりは、真剣に答えた方がいいだろう。
「まあ、ズレてますね」
「即答!? もうちょっと考えてから答えなさいよ!!」
ひより先輩が机をバンッと叩いて抗議するが、勢いがなく、どこか力ない。
しばらく沈黙したあと、ひより先輩は力なく机に突っ伏した。
「はぁ……やっぱり、恋愛って難しい……」
彼女の肩がわずかに落ち、長いため息が部室に静かに溶けていく。
「うぅぅ……藤崎くん、ちょっと私に優しくして……」
「いや、俺、指南役なんで」
「……はぁぁぁ……もう、帰りたい」
ひより先輩は深いため息をつき、ふらふらと立ち上がる。
机に放り出されたホワイトボードのマーカーが、ころんと転がった。
「今日の講義、マジでなかったことにしたい……」
「黒歴史にしますか?」
「黒歴史認定で……」
ひより先輩はしょんぼりとうなだれながら、部室の扉へと向かう。
その姿が、なんとなく敗戦した将軍のように見えてしまい、俺は思わず苦笑した。
「まあ、でも経験としては無駄じゃなかったんじゃないですか?」
「……え?」
ひより先輩が振り返り、じとっとした視線を向けてくる。
「だって、先輩、一応恋愛の勉強してたわけですよね? こうやって実際に話してみて、間違いに気づけたんですから、収穫はあったんじゃないですか」
「……収穫ねぇ」
ひより先輩は腕を組み、しばらく考え込んでいたが――
「うーん……確かに、ちょっとは学んだ気がするかも」
そう言いながら、ホワイトボードをチラリと振り返る。
そこには未だに大きく書かれた 『恋愛とは戦争である』 の文字が残っていた。
そして、ひより先輩はふっと息を吐くと、マーカーを手に取り、
その言葉の横にそっと書き足した。
『……とは限らない』
「……まぁ、少しずつ軌道修正していけばいいかな」
そう言いながら、ひより先輩は頬をかきながら笑う。
俺もそれを見て、少しだけ肩の力を抜いた。
「……じゃあ、明日もまた指南、お願いしていい?」
ひより先輩がそう言いながら、ちらりと俺の顔を覗き込んでくる。
俺はひより先輩の様子を見ながら、少し考えた。
今日の反応を見る限り、先輩は本気で恋愛を学びたいと思っているのかもしれない。
ここまで落ち込んでいるのを放っておくのも気の毒だし……まあ、話を聞くくらいなら悪くないか。
「まあ、いいですけど」
そう答えると、ひより先輩は途端に顔を輝かせた。
「ほんと!? やった!」
ひより先輩は途端にパッと表情を明るくし、勢いよくホワイトボードの文字を消し始める。
俺はそんな姿を見ながら、果たして次の指南がどんな内容になるのか、
少しだけ興味が湧いてしまっている自分に気づく。
――まあ、俺も、恋愛したことないんだけどな。
そんな考えがふと頭をよぎるが、口には出さず、軽く息を吐いた。
先輩の指南を続けるうちに、俺も何かを学ぶことになるのだろうか。
夕焼けが差し込む静かな部室。
机の上には、転がったままのマーカーと、消し切れなかった言葉だけが残る。
ホワイトボードには、うっすらと消し残った 『恋愛とは戦争である……とは限らない』 の文字が、今日のやり取りの名残として、淡く部室に残っていた。