2 「青春は双眼鏡の中に」
部室にメンバーが揃い、ゆるやかな時間が流れていく。
俺は椅子に腰掛け、ぼんやりと周囲を見渡した。
この部室は広い。部室は普通の教室と同じ広さのはずなのに、クラスのように大勢の生徒がいるわけでもなく、机や椅子も少ないせいか、やけに広く感じる。中央には大きなテーブルが鎮座しており、奥には本棚や天体望遠鏡、双眼鏡、パソコンが並び、隅のほうには一眼レフがカメラバッグに収められている。
それらは一応、観測用の備品ということになっているが、実際に活用されているのを見たことはほとんどない。ほとんどの部員が「天文部」という看板のもとに、ただゆるく集まり、好きなことをして過ごす——そんな空間だ。
「……って、結局、天文部らしいことって何もしてないですよね」
ぽつりと漏らした言葉に、向かいの席に座るひより先輩が頬杖をつきながらくすっと笑う。
「なに、新人君。もしかして、天文学に目覚めちゃった?」
「いや、そういうわけじゃ……」
「いいんだよー、この部は自由だから! だってさ、そもそも私、天文部の副部長だけど、星の名前ほとんど知らないし!」
「副部長としての自覚は……」
「あるよ! ちゃんと、部のムードは盛り上げてるし!」
「まあ、それは認めますけど……」
ひより先輩は得意げに胸を張るが、なんの説得力もない。それでも本人はいたって本気らしく、キラキラした目でこちらを見てくる。
俺は苦笑しつつ、「まあ、先輩らしいですね」と適当に流しながら、ふと視線を横に向けた。
「……双眼鏡か」
俺は椅子からゆっくり立ち上がり、そのまま棚へと歩く。そして、棚にかかっている双眼鏡を手に取り、試しに覗いてみる。せっかく天文部にいるんだ、たまには備品を活用してみるのも悪くない。
ピントを合わせながら、なんとなく窓の外を眺めてみる。視界には校舎の向こう側が広がり、その先には職員室の方向が映った。
ガラス越しに、職員室の前を行き交う生徒たちの姿が映る。先生に何かを尋ねる生徒、プリントを手にしたまま立ち止まる生徒、友人と談笑しながら歩く生徒――学校の日常がそこにあった。
「……なにしてんの?」
突然、すぐそばから声がした。
「……!」
驚いて双眼鏡を下ろすと、そこにはひより先輩が立っていた。
腕を組みながら、俺の顔を覗き込んでいる。その表情は、どこか興味深げで、ほんのり口角が上がっていた。まるで「面白いものを見つけた」とでも言いたげな顔だ。
「え、あー……なんとなく外を見てただけです」
「ふーん?」
ひより先輩が、ニヤニヤしながら言う。
「もしかして、覗き見とかしてた?」
「は?」
「いやー、高校生にもなれば、そろそろ気になるお年頃ってやつ?」
「違います!!」
即座に否定すると、ひより先輩は楽しそうに頷いた。
「いやいや、反応が怪しいな~。ほら、どこ見てたの? 職員室? それとも……女子更衣室の方?」
「更衣室そっちじゃないですし!!」
「あ、そうなんだ? へぇ~」
俺が必死に否定するのをよそに、ひより先輩はどこか楽しげに俺を見つめてくる。
「うわー、青春って感じ?」
「……勝手に変なこと言うのやめてもらえませんか」
「そんなに焦るってことは、やっぱり見てたんだ~?」
「はぁ……」
もう何を言っても無駄だと悟り、俺は肩を落として小さく息をついた。
「……で、結局なに見てたの?」
ひより先輩が腕を組みながら、じっと俺を見てくる。
「だから、ただ外を眺めてただけですよ」
「ふーん。ほんとに?」
「本当です」
俺がそう答えると、ひより先輩は少し考え込んだ後、
「じゃあさ、私も覗いてみよ」
と、双眼鏡を手に取った。
「えっ、ちょっ……!」
「ほらほら、どこ見てたの? 職員室の方向? それとも……」
ひより先輩はいたずらっぽく笑いながら、窓の外へ視線を向けた。
俺が見ていたのと同じく、職員室の方へピントを合わせる。
「……あ、本当に職員室だ」
「だから言ったじゃないですか」
「つまんなーい。せっかくだから、もっと面白いもの見ようよ」
ひより先輩は視線を動かしながら、部室の窓からの眺めを楽しんでいる。
しかし、次の瞬間――
「……あっ!!」
「え、なに?」
「なんかさ、あそこのベンチ、カップルっぽくない!?」
「は?」
思わず、眉をひそめる。
「ほら、ちょっと双眼鏡貸して!」
「えぇ……」
急かされるままに、俺は別の双眼鏡をひより先輩に渡した。
二人並んで双眼鏡を覗き込む。
確かに、校舎の中庭にあるベンチに、男女二人が座っていた。
遠目ではよくわからなかったが、よく見ると結構距離が近い。
「おお、これは……」
「ね? ほら、なんかすごく親密な感じしない?」
「まあ、確かにしますね」
「おお~、ドキドキするねぇ……」
ひより先輩は妙にテンションが上がっている。
「……ていうか、こういうの覗き見してるのは先輩の方ですよね?」
「えっ?」
「いや、俺が職員室見てただけで『覗き見してた?』ってからかってきたのに、今は先輩がガッツリ人の恋路を観察してるじゃないですか」
「……うっ」
ひより先輩は言葉に詰まり、バツが悪そうに目をそらした。
「いや、これはその……ほら、新人君に恋愛の勉強をさせてあげようと思って?」
「どんな言い訳ですか、それ」
「ふ、深い意味はないよ!? ただ、こういうの、なんか青春って感じするじゃん!」
ひより先輩はごまかすように笑う。
そのまま双眼鏡を覗き続けていたが、ベンチの男女が突然立ち上がり、どこかへ歩いて行った。
「あ、行っちゃった」
「そりゃあ、ずっと見てたらいずれ動きますよ」
「……つまんなーい」
ひより先輩は少し不満そうに双眼鏡を棚に戻し、俺の方を振り向いた。
「ねぇ、新人君」
「はい?」
「新人君って、恋とか興味ないの?」
「……いきなりですね」
「なんか、そんな感じするからさ~」
ひより先輩はテーブルに寄りかかりながら、俺の反応を窺ってくる。
俺は少し考えてから、肩をすくめた。
「興味がないわけじゃないですけど、別に今は……って感じですね」
「へぇ?」
ひより先輩はニヤリと笑い、指で俺の肩を軽く突く。
「そっかぁ。じゃあさ、もし誰かに告白されたらどうする?」
「えっ?」
「断る? それとも、試しに付き合ってみる?
「……さすがに、そんな簡単には決められませんよ」
「ふーん」
ひより先輩は少しだけ考え込んだあと、何か思いついたように笑った。
「じゃあさ、もし私が告白したらどうする?」
「――は?」
俺は思わず、ひより先輩の顔を見た。
ひより先輩は、口元に指を当てながら、いたずらっぽく笑っている。その瞳はどこか楽しげで、俺の反応を伺っているようだった。
「お? ちょっと動揺した?」
俺の視線を受けて、ひより先輩がニヤリと笑う。その無邪気な表情が、やけに小悪魔的に見える。
「……いや、それはだって」
不意を突かれたせいで、うまく言葉が出てこない。
「冗談だよ~」
ひより先輩は楽しそうに笑いながら、俺の肩を軽く叩いた。その仕草はいつもと変わらない、軽いノリの延長のようなものだ。
「……まったく」
俺は軽く息をつきながら、ひより先輩のいたずらな笑顔を横目で見る。
この人は本当に、俺をからかうのが好きなんだろうな。
俺が何か言い返そうとしたその時、不意に部室の窓の外が目に入る。
そこには、沈みかけた夕陽が部室をオレンジ色に染め上げていた。淡い光が差し込み、長く伸びた影が床に揺れる。
こうして、くだらない話をしながら過ごす時間も、案外悪くないのかもしれない。
「さて、と。そろそろ部活の時間、終わりかな?」
ひより先輩がゆっくりと伸びをしながら、軽く笑う。その仕草は、どこか名残惜しそうにも見えた。
「そうですね」
俺も椅子の背にもたれながら、小さく息をつく。
静かになった部室に、時計の針が微かに動く音が響いた。
外では、夕陽がゆっくりと沈んでいく。
こんな他愛のない放課後が、いつまで続くのだろうか。
そんなことをふと思いながら、俺も小さく伸びをした。