予言のバンクシー
「落書きがあったんです」
がらりと扉が開けられたのと、そんな言葉を投げかけられたのはほとんど同時だった。
くたびれた文庫本を開いたままの俺は、もはやその唐突さに驚くこともなく、辟易した様子で嘆息を漏らすばかりである。
「いじめられてたのか」
「違います。わたしの持ち物ではありません」
ぴしゃりと言われ、俺はタダで付いてきた安っぽい広告が書かれただけのしおりを挟んで、渋々彼女と向き合うことにした。文芸部を名乗っているのに部員が揃うと活動できなくなるのは、どうにも間違っている気がする。
「そうではなくてですね。ここ一ヶ月ほど、校内の空き教室だったり、放課後の無人の教室だったりの黒板に、チョークで落書きがされているんです」
「よくあることじゃないか」
むしろ学校の黒板に一つも落書きがない、なんて方が不健全とすら思う。そこで話を切り上げて文庫本を開き直そうとする俺に対し、彼女は身を乗り出してそれを制する。
「問題は、その内容なんです」
なんとなく察した俺は、もう今日は開けないであろう文庫本の表紙を名残惜しくさすりながら、どんよりとした窓の外を眺める。
「……話を聞いていますか?」
「聞きたくないなとは思っている」
「では続けますね」
いよいよ俺の抵抗は肯定と捉えられ始めていた。恨みがましいため息と共に文庫本をスクールバッグの中に投げ入れて、俺は彼女と向かい合う。
「それで、問題の内容っていうのは?」
「驚かないでくださいね。――なんとその落書きは、未来を予知した内容なんです」
「……、」
「なにかとても形容しがたい表情をされましたが」
「気のせいだ」
いつにも増して突拍子もないことを、と思ったが、それを口に出しても何も変わらないことを分かっている俺は適当に嘯く。
「それで。なんで未来を予知した落書きがされたのか。その理由を考えてほしい、ということか?」
「察しがよくて助かります」
「はぁ……」
頬杖をついて、俺はまたため息をこぼす。もはや思考を巡らせる理由もなかった。結論など決まり切っているではないか。
「あのな。そんなのは」
「たまたまではありませんからね」
先手を打った彼女は、その細い指を三本立てて、ずいっと俺に詰め寄るように身を近づける。
「今まで見つかった落書きは三つ。いずれもネズミのキャラクターの周囲で何かが起きていて、そのネズミがリアクションをしているというものです。
一つ目は、家の中にいるネズミが慌てていて、その家が揺れているような表現がされていました。これが見つかった三日後、地震が起きています。
二つ目は、これもネズミが少し青ざめた顔をしていて、目の前には倒れているネズミと、救急隊のような格好をしたネズミが手当てをしている絵です。これは五日後、熱中症で救急車が校内に入ってきました。
三つ目は、驚いているネズミの前に炎が起こっているイラストです。これは翌日、家庭科室でボヤが起きました」
長々と説明した彼女は、なにか期待を込めて俺を見ていた。そんな様子に食あたり気味の俺は、彼女が求めているであろう適当な相づちを打つ。
「……一つくらいならともかく、三つともが現実に起きたなんてなれば、たまたまとは言えないだろうってことか」
「はい」
力強く断言されてしまったが、俺は頬杖をついたままだ。
「……予言なんて、たいていからくりがあるんだよ」
「というと?」
「一番手っ取り早いのは、書いたあとで本人がその絵の通りに事件を起こすこと。――火事の絵を描いたんだったら、適当な紙でも直火で燃やせば再現できる。簡単な作業だろ」
「……何のためにですか?」
「よくあるのは売名だろ」
「では、二重の意味であり得ません。――その落書きは匿名なんです。名を売ろうとしているとは思えません。それに、です」
「それに?」
「救急車と火事は、なんとか出来るでしょう。水筒一つ隠せば、運動部なら熱中症で倒れるリスクは格段に上がるでしょうし、火事はあなたの言うとおり。――でも、さすがに地震は人力では起こせないです」
あっさりと論破されて、俺は回答に窮する。適当にあしらいたかったのだが、それはいつものごとく出鼻をくじかれる形で終わってしまう。
とはいえ、それで俺の持ち玉が尽きるわけじゃない。苦し紛れと理解しつつ、絞り出すようにアイディアを並べ立てる。
「他のからくりで言えば、山ほど落書きをして、当たったものだけ残すパターンだ。SNSにいるだろ、変な未来予知してるアカウント。大量に未来に起こりそうなことを投稿して、その中で何かが起きればそれだけを残して他を全部削除すれば、さも百発百中の予言者に見える。あれと同じだよ」
「それもあり得ませんよ。――だってこの三件は、落書きが見つかった後に、事件が起きているんですよ? もしその手法であるなら、事件が起きた後にこんな落書きがあったぞ、と見つけなければいけません。時系列が違います」
「……そうだな」
俺がぱっと思いつくようなことは既に通った道だったのか、即座に否定の言葉が返ってくる。
これは本腰を入れて考えないと、今日も帰りが遅くなってしまう気がする。文庫本の続きを読むためにも、早めに閣下に満足いただけるような回答を献上しなくては。
「……状況を整理しよう。
まず俺たちが考えたいのは、その落書きの主……便宜上は犯人って呼ぶか。その犯人がどうやって未来を予知しているのか。
そして次に考えなきゃいけないことが、それを犯人が落書きという形であちこちの教室に書き残す理由は何かってこと」
俺が指を二本立てると、彼女はこくりと頷いた。どことなく先ほどより嬉しそうな顔をしている気がしないでもないが、それは本件には無関係なのでさておくことにする。
「わたしも少し考えたんですが」
そうして嬉しそうに語り出す彼女に、俺は目線で先を促した。
「未来予知の三つ目のからくりは、解釈の余地のある絵を描いて、さもその事件にマッチしたようなイラストだと思わせることだと思うんです。占いで言うバーナム効果ですね」
いわゆる『誰にでも当てはまりそうな言葉』を投げかけて、当たったと思わせる手法だ。今日のあなたは些細なミスをしてしまうので気をつけましょう、という朝の占いのようなもの。些細なミスさえしない人間などいないのだから万人に必ず当てはまるのだが、気づかなければ予言が当たったように感じてしまう。
――だが。
「残念ながらあり得ないな。――地震や火事ならまだそうは言えなくもないだろうけど、救命隊員が倒れているネズミの手当てをしている絵じゃ、どこにも解釈の余地なんてないだろ。その手の方法を取るなら、そこまで限定的な状況には絶対にしない」
「そう、ですね」
少し自信があったのか、しょぼんと彼女は肩を落とす。
それからうんうんと二人で数分頭を捻ってみるが、それ以上の画期的な答えは出てこない。
出てこないのであれば、それは打ち止めだ。
考えてもそこは行き止まり。であれば、進む道を間違えている。
そう、たとえば。
「考える順番が違うんだな」
「順番、ですか?」
「そう。未来を予知した手法を考えようとしてたけど、それは後回し。先に考えなきゃいけないのは、誰が何の目的であちこちに落書きを残していたのか、だよ」
口に出すことで、自然と自分の頭の中が整理されていく。そこでようやく、なんとなく、今回のこの話の着地点は見えた。
「何の目的か、ですか? それは予言ですから、注意喚起とか……」
「違うな。それが本当に目的なら、そもそも曖昧で解釈の余地のあるイラストなんかにしなきゃいい。言葉でしっかり伝えないと、喚起としては成立しない」
それに、と俺は続ける。
「空き教室にだって落書きがあったんだろ? 注意喚起とか、それこそさっきの売名とか、不特定多数に見せたいっていう目的にはそこからして噛み合わないんだ」
「では、誰に向けての落書きなんですか?」
「不特定多数じゃないなら、特定少数だよ」
「でもあちこちに書いているんですよ。特定の誰かへ向けたメッセージであるなら、それも筋が通りません。空き教室にも書いているんですから」
「いいや。いろんな教室、それこそ空き教室だって見る人間がいるだろ」
そんな人……と否定しかけて、彼女ははっと気づいたようだった。だから俺もしたり顔で答え合わせをする。
「教師だよ。――うちは管理会社と連携してるから、夜間に何かあれば警備員が駆けつけるらしいけど。それが無駄に作動しないよう窓の戸締まりとか、残ってる生徒がいないかとかは、若い男の先生たち中心に夜になってから持ち回りで見回ってる」
「でも、それをあちこちに書く理由が分かりません」
「理由なんて要らないんじゃないか? ちょっとした遊び心だよ。なんせ元々からして落書きなんだし。決まりきった場所に決まり切った形で書くなんて、その方がむしろ不自然だろ」
ふらっと思いついた場所に書き残す。そんな悪戯心のようなものがあってこそ、かえってしっくりくるというものだろう。
「でも、それこそ落書きではなく、言葉でもいいんじゃ」
「若い男の先生に対して、だぞ。そういうメッセージを残す理由なんて、言うだけ野暮だろ。――そんな理由で書いてるのに、言葉なんて形にしたら解像度が上がりすぎる。露骨に好意はバレるし、なにより、今の落書きみたいに他の誰かに見つかったら、赤の他人に気持ちが筒抜け。俺ならそんなの絶対にごめんだ」
「それは、そうですね……」
「好意を持たれているって言うだけでも、相手は教師だし、向こうの迷惑になるって思ったのかもしれないしな。だけど夜に一人で見回っている先生に、少し気持ちを明るくなるような何かを残せたらな、っていう理由で、いろんな気持ちをぼやかした落書きを残すのは、まぁあり得る流れだろ」
「……でも、目的がそうなら、予言は?」
「それこそ決まってる。たまたまだよ」
偶然はあり得ないというのは、三回も未来に起きたことと一致していたから。だが、目的の仮説が立てられれば、描かれた落書きにも別の視点を加えることが出来る。
「目的は見回りの先生に、ほっこりして貰うための落書きだ。そこに書くなら、まぁ最近あった出来事をイラストにするなんて無難な線だろ。それが偶然、未来に起きた出来事のように解釈できちゃったって言うだけ」
そう言って、俺は指を一つ立てる。
「一つ目は、地震だったか? それが一番分かりやすい。――うちは日本だぞ。震度1とか2の地震なんて日常茶飯事。落書きだって空き教室なら、見つけられないまま放置されてたっておかしくない。見つかった何週間か前に書かれたものなら、書かれた日にたまたま地震があって、見つかった後にもまた地震があった。ただそれだけだ」
「では、二つ目は? 熱中症で救急車、なんてよくあることではないですけれど」
「救急車が来たのは現実で、イラストには描かれてないんだろ? 描かれているのは救命隊員のネズミだけ。――ついこの間、救急救命の講習会があっただろ。心臓マッサージとか人工呼吸のヤツ。だったら、その日の落書きなんじゃないか?」
俺の言葉に、あ、と彼女は声を漏らす。
「じ、じゃあ、三つ目の火事は?」
「そもそも火事じゃないとか。だいたい『驚いてる』っていうのも、ボヤに対しては微妙にニュアンスが違うリアクションだと思うんだよな。慌てるとか動揺なら分かるけど。――ちなみにだけど、うちのクラスは最近、火を使う化学の実験の授業があった。先生が実演するだけだったけどさ」
「うちのクラスも、ありました。――水素爆鳴気ですね。水素だけの入ったシャボン玉より、酸素を混ぜたシャボン玉に火をつけたら大きな音で爆発した、というものです」
「そう。あの大きな音なら、『驚いた』っていうリアクションもぴったりだ」
つまりは、そういうこと。
ちょっとした先生へ向けての気軽なメッセージで、その日にあった出来事をイラストにしていただけ。それがたまたま消さずに残されていた結果、さも未来予知をしていたかのように、後から勝手に捉えられていただけ。
「予知じゃなくて残念だったな」
「ですね。けれど、腑に落ちたのでいいです」
そうは言いつつ、それでもやはり残念そうに彼女は肩をすくめる。
とはいえ、彼女の無駄に偏った好奇心が満たされてくれたようで何よりだ。
「ちなみに、なんですが」
「うん?」
「今朝、四つ目の落書きが見つかったんですよね。雨に濡れているネズミのイラストです」
「……雨?」
「えぇ。でも、ここ最近雨なんて降っていないですよね? 梅雨明けからめっきりです」
そんな風に彼女が首を傾げたときだった。
ぱらぱらと。
そんな音が窓を叩く。
「…………、」
嫌な予感がして、俺は窓の外にゆっくりと視線を移す。
ガラスは曇ったように水滴に覆われて、どんよりとしていた空はすっかり深い鉛色に。雨粒で歪んだガラスの視界の向こうには、ぐずぐずになったグラウンドが少しばかり見える。――紛れもなく降雨である。
そんな光景を眺めて、どこか嬉しそうに、彼女はにやにやと口角を上げて呟く。
「……予知、ですかね」
「かもなぁ……」
考えることを諦めて俺は敗北宣言をするのだが、彼女の目は逃がしてくれそうになく、雨粒よりもなお光を綺麗に反射して、俺の解答を待ち望んでいるようであった。
そして残念ながら、俺は傘を持ってきていない。少なくともこの雨が晴れるまでは、彼女のこの好奇心に付き合わなければいけないらしい。
これからは天気予報は欠かさず見ようと、そんなことを思うばかりである。