天国の階段
「雨」
私はサクの発した単語を頭の中で反芻した。雨なんて降っていない。
私達はしばらく黙って歩いた。
小さなバス通りで、新しくて小綺麗な葬儀場と古ぼけたバス停しかない。もう少し行ったところを左に曲がると商店街がある。寂れた薄暗い商店街。昔は街の中心だったけど、いまは駅前通りにその座を明け渡して、小さい子供みたくふて腐れている。
私はこのバス通りと商店街をよく知っている。二年前までは通学に、いまは通勤に毎朝通っているから。少しだけ道幅の広いバス通りを曲がり、自転車で駆け抜ける朝の商店街。新しい一日のまっさらな匂い。
でも今日は違う。火曜日のお昼前のバス通りは誰もいない。私とサクの二人だけ。
雨が降り始めてきた。
「すごい、なんで分かったん」
「―――うん、匂い」と、サクは視線を下に向けたまま言った。
朽ちた煉瓦のタイルの舗装に、雨が黒い点になって浮かび上がる。むせ返るような降り始めの雨の匂い。濡れたアスファルトにタイヤが軋む音。
「ねえ、雨に濡れたコンクリートってバターの匂いせん?」
と、私が何気なく訊くと、サクは難しい顔を始めた。沈黙。
「姉ちゃん」
ようやくサクが沈黙を破る頃、私達は商店街の入り口のところで雨宿りを始めていた。
「なに?」
「やっぱりバターの匂いはせん」
「―――ん、そっか」
私が九歳のとき、母は再婚した。一人っ子だった私に初めてできた兄弟が、私より一つ年下のサクだ。
夏の昼の雨はやけに空が明るい。私達の隣に一匹の黒い猫が来た。猫はこちらを気にする風もなく、自分の足を舐めている。車が水溜りを撥ねる音。葬儀場から白い煙が昇りだしたのが、ここからでも見えた。煙が雨にぼんやり溶けていく様子は、なんとなく、小学校の写生の時間の水彩絵の具を思い出させる。
私が十五歳になる一週間前に母が死んだ。そして一昨日の晩、義理の父も死んだ。私はどうしても式のあとの会食に出たくなくて、サクを無理矢理に引っ張って外に出た。そしていま、ここでこうして父さんの煙を眺めながら雨宿りしている。
「何べんやっても会食はしんどい。あたし、遺族として出るの、もう3回目」
「僕、4回。ばあちゃん死んどるし」
「―――あたしら、死に神?」と、私は冗談めかして言う。少し声が上擦ったのに気が付いたのだろうか、「違う」と言うサクの返事がそれまでとは比べ物にならないくらい早かった。それで思わず、「なんで?」なんて訊き返してしまった。
「―――死に神は、もっと、こう、いかつい」
なるほど。
「この前、映画で言ってたん」サクが唐突に話し始めた。
「人って死ぬと、全員天国に向かうんだって」
私は自分の心が曇っていくのを感じた。頭が締め付けられるような感覚。喉がつかえたみたいに胸が苦しい。
「胡散臭っ」と、吐き捨てるように、声を絞り出す。
「まあ、聴いて。そんでな、みんなそこに向かうんだけど、誰一人として天国には辿り着けないんよ。途中で雲に邪魔されるからな。最後は雨になって地上に降ってくる」
そう言ってサクは雨に手を翳す。骨ばった華奢な手。雨に溶けた煙。
「なんだか救いがないね」
黒猫が幼く鳴いて、私の足元に頭をすり寄せてくる。
「もし」言いながら、サクがちらっとこちらに目を向けた。父さん似の優しい目。いまも雨に溶ける煙。
「もしそれでも、最後に辿り着くところを天国って呼ぶのなら」
サクは雨の中に一歩出た。
「ここが天国なのかもしれない」
まだ雨は降り続いているけど、雲の切れ間から陽が射してきた。天使の梯子。私は雨の中に飛び出した。空を仰いで、口をいっぱいに開ける。雨の味。腹の底から叫ぶ。サクも私に倣って口を開けて叫ぶ。
「ああーっ!」
天国。地獄。天使。死に神。なんでもいい。私の隣にはサクがいる。
「雨」
黒猫はいつの間にかいなくなっていて、私達は雨の中を歩き出した。