恐怖しかない
裸足で逃げ出す溺愛。
アーシェラ・モリスが異常に気づいたのは、両親が死に、母の実家であるグリモア公爵家に引き取られて三日目の朝のことだった。
「どうしたの? アーシェ」
「早くこちらにおいで」
「アーシェの好物ばかりだぞぅ」
いきなり愛称で呼ぶ義母、ニコニコ顔の義兄、猫なで声の義父。そして彼らを微笑ましげに見つめる公爵家の使用人。
両親を喪ったばかりのアーシェラに気を使っていると見えなくもない。
ただし、所在なげに立ち尽くしている義姉のミリエラがいなければの話である。
朝食室に用意された席は四人分。さすが公爵家、朝飯食べるだけなのに無駄に広々とした部屋に長いテーブルだ。アーシェラは現実逃避したくなった。
「……アーシェラ、座ったら?」
ミリエラの暗い声にハッとする。ミリエラは、呆れたような、怒ったような、悲しむような、負の感情に負けまいとする笑みを浮かべていた。
「ミ、ミリエラ様……は、普通ですよね……?」
恐る恐る尋ねたアーシェラに、妹の存在など見えていないような義兄の声がかかる。砂糖を蜂蜜で煮詰めたような、甘すぎて胸焼けしそうな声だ。
「待ってください、伯父さま、伯母様、クロウェル様も! どうしてミリエラ様の席がないんですか!?」
耐え切れずに叫んだアーシェラに、三人はようやくミリエラに気づいたようだった。
「ミリエラ?」
よくよく見てみればミリエラのドレスと髪もおかしかった。
自分で結んだのか長い髪は後ろでひとまとめにしたいわゆるひっつめ髪だし、ドレスは皺が寄っている。おそらく身支度をするメイドが来なかったのだろう。
「あら、ミリエラもいたの」
あら、じゃないだろ。叫びかけたアーシェラは、明らかにショックを受けて立ち竦むミリエラの手を取った。
「わたしたち、部屋で食べますっ」
「ミリエラなら気にするな」
「無茶言わないでっ!」
自分の娘に対するとは思えないセリフを言い放った義父に反射的に言い返し、ミリエラの手を引いて朝食室を駆けだす。と、顔だけ振り返ったアーシェラは念を押した。
「二人分よ、二人分っ!」
向かった先は、アーシェラに用意された客室だ。
「な……っ、何アレ何アレ何アレっ!? どうなってんの!?」
繋いでいたミリエラの手を抱きしめるように縋りつく。アーシェラの足はガクガクだ。
「……アーシェラさんには、都合が良いのではありませんの?」
「どこが!? ほとんど初対面の親戚に溺愛されたって恐怖しかないわっ!!」
投げやりなミリエラにアーシェラが反論した。
アーシェラはミリエラの父の妹の娘だ。母はグリモア公爵家の五女で、父のモリス子爵とは恋愛結婚だった。子供はアーシェラ一人しかいなかったが家族仲は良く、アーシェラはたいそう溺愛されて育った。
両親が死んだのは事故である。雨の中走っていた馬車の近くに雷が落ち、驚いた馬が暴れて転倒。馬車から飛ばされた御者は骨折で済んだが中にいた二人は打ち所が悪く、数日後に帰らぬ人になった。
そうして、その日留守番をしていたアーシェラが一人残されることになったのである。
親戚といっても子爵家と公爵家ではほぼ付き合いはない。アーシェラがグリモア公爵と会ったのは、両親の葬儀が初めてだった。
当初はアーシェラが成人するまで公爵家が後見として管財人を置き、成人後は婿を紹介する予定だった。親戚付き合いのない姪相手なら妥当だろう。
なお両家の付き合いがないのは家格差もあるが、アーシェラの母が頑として拒んだからだ。兄を嫌ってのことではなくむしろその逆、仲の良すぎる兄妹として有名だったグリモア公爵家の末姫が嫁いだ家だ、と子爵家に集ってくるだろう他家を警戒してのことだった。ひいては公爵家、兄のためでもある。そして、公爵家の援助が当たり前になり、愛する夫が金の亡者に変わるのを避けるためでもあった。良くも悪くも金は人を変える。恵まれた公爵家の生まれなだけに、兄と四人の姉は理解を示した。
そんな、清貧を是として育てられたアーシェラを見た途端、公爵が引き取ると言いだしたのだ。それぞれ嫁いでいた四人の伯母が反対する間もなくあれよあれよと馬車に乗せられ、本当に公爵家に連れてこられたのである。
「伯父様は、まだ良いのよ。うちの母も身内というか家族大好きな人だったし、特にわたしには甘かったから。そういう家系なんだろって思えたし」
あれからアーシェラとミリエラは、突撃してくる公爵家一同から逃げるため、ミリエラの婚約者に助けを求めた。
ミリエラの婚約者はこの国の第一王子。すなわち王宮に避難してきたわけである。まさかの相手に畏れ多すぎてアーシェラは気が遠くなった。片田舎の子爵家で平民に混じって遊んでいたアーシェラには雲の上すぎる。むしろ天に召されそうな気分になった。
公爵家の一大事なら王家に頼るのは当然だとミリエラに説得されたが、だからといって王子殿下の私室で取り調べなんていいのだろうか。
「それなら素直に甘えようとは思わなかったのか?」
「突然両親を亡くした娘に知らないおっさんが「今日から君のパパだよ! さあパパの胸でお泣き!」って両腕広げられて素直に泣けるとでも? 普通にドン引きだわ」
これまでのことを説明するアーシェラの前にいるのは第一王子のアシルではなく、側近候補で魔導士団長の息子ジャハルである。アシルは広い部屋の窓際でミリエラとお茶をしながら話を聞いていた。そこだけ優雅だ。
さすがに第一王子相手に直答はできない。アーシェラはホッとした。
「……そうだな」
驚きすぎて猫をかぶるのも忘れたアーシェラは不敬そのものだが、十二歳の少女にそれを咎める者はいなかった。ジャハルなど、むしろ気の毒そうな顔だ。
あの公爵に両手を広げられて「パパだよ」なんてされたらその場から全力で逃走する。裏があってもなくても怖すぎた。想像するだけで鳥肌立ってきた。
「伯母様とクロウェル様も仕方なさそうにしてたし、メイドさんなんかあからさまに警戒してたくせに、一晩経つとコロッと態度が変わっちゃって。こう言っちゃなんだけど、公爵家チョロすぎじゃない? 心配」
「……」
ジャハルが沈痛な面持ちで額を押さえ、話を聞いていたアシルはとうとう笑い出した。
「殿下……」
ミリエラが困ったようにたしなめた。自分の大切な家族にずいぶんな言い方だと思っても、実際にこの目で見ているとその通り過ぎて怒る気にはなれない。
「いや、すまん。ジャハル、どうだ?」
「魅了眼に間違いないと思われます」
ジャハルが袖口に隠していた魔導具を取り出した。懐中時計のようにも見えるそれは、魔力測定器だ。
「常時何らかの魔術が彼女から発動しています。意思を奪われたり、感情を書き換える感じはしませんが……自分もあなたも、もう彼女を警戒する気がない」
アシルがうなずいた。
アーシェラは聞いたことのない単語に首をかしげている。
「ミリョウガン?」
「……魔女の目、と言えばわかるか?」
「魔女? それっておとぎ話ですよね?」
ミリエラが息を呑み、アシルとジャハルが一転して真剣な顔になったのを見たアーシェラは「マジ?」と引き攣った笑みを浮かべた。
「魅了眼の持ち主をこの目で見るとは……」
アシルがため息まじりに言った。席が離れているのは身分差もあるが、魅了眼を警戒してのことだったのだ。
魅了眼。
おとぎ話の魔女がその瞳を見たものを魅了していたことからそう呼ばれている。呼んでいるのは主に王家と魔導士たちだが、伝承として語り継がれるほど危険な存在だった。
おとぎ話のあらすじはこうだ。貧しい町娘が祭りにお忍びで来ていた王様と出会い、恋に落ち、大臣や貴族にも認められてお妃様になる。シンデレラストーリー……なのが前半。後半は、実はお妃様の正体が魔女で、操られた王様が暴君となり、自分に従わない貴族や国民を次々と処刑、拷問にかけ、しかもそれを宴の余興にして楽しみ、ついに勇者と聖女によって討たれる。王道というにはいささか凄惨な描写の混じる英雄譚である。
調子に乗って悪いことするといつかしっぺ返しが来る、という教訓に仕上がってはいるが、なんとこの話は実話だという。
「勇者と聖女が現王朝の初代国王と王妃だ。悪王は……あまりにも悪逆非道の限りを尽くしたため、廃王、ようはいなかったことにされている」
負の歴史である。魔女の存在をおとぎ話という形で語り継いだのは、いつか再び魔女が現れるかもしれない、と恐れたからだ。
「……それ、聞いてもいいヤツ?」
王家の秘密を知ってしまったアーシェラは真っ青である。
「当事者だ。聞く権利はある。それに、どうも君は伝承の魔女とは少し……いささか、うん、違うみたいだしな」
ジャハルが頭をかいた。
「ミリエラ、君もこの話は知っているだろう。どうしてもっと早く私に言ってくれなかったんだ」
アシルがやさしく咎めた。妃教育に魅了眼のことは入っている。おかしいと感じた時点で連絡をしてくれていたら、公爵家全員が魅了されることは防げたかもしれない。
「申し訳ありません……。父の様子がおかしいとは思ったのですが、わたくしが生まれた時もああだったと言われたので……その、浮かれているのかと……」
「ああ……」
「あー……。言われてみればミリエラ様への溺愛と似たようなものですね……」
アシルとジャハルが遠い目で納得している。
「え。あの全方位甘やかしと全肯定がデフォなの? それはそれで心配」
やっぱり血は争えなかった。大丈夫か公爵家。真顔で心配されたミリエラはそっと目を逸らした。
「仕事はできる人なんだ、仕事は。部下にも厳しいし、尊敬できる人だよ」
「反動来ちゃってるじゃん。ミリエラ様、よく今までグレなかったね……」
「わたくしは……妃教育で王宮に通っておりましたから……」
「クロウェル様は?」
「……」
ミリエラがサッと横を向いて顔ごと目を逸らした。アシルとジャハルが黙り込む。どうやら公爵家嫡男はマズイ方向にグレていたらしい。アーシェラは察した。
「ところでこれからわたしはどうなるんでしょうか? そんなつもりはなかったとはいえ、公爵家を魅了? したんですよね?」
悪気も自覚も全くなかったとはいえ国の禁忌である。無罪放免とはいくまい。あえて軽い口調で聞いたアーシェラは処刑を覚悟していた。
「研究所送りだろうな。意識せずとも魅了が発動しているとなると、魅了眼の発動条件から調査し直さなければならない。親父が喜びそうだ」
ジャハルはため息だ。考えるそぶりをしていたアシルが顔を上げた。
「アーシェラ」
「はい」
第一王子の呼びかけにアーシェラが姿勢を正した。
「正直、君の扱いは難しい。これから陛下に奏上するが、君の身柄は王家が預かることになるだろう」
「はい」
それはアーシェラにもわかる。
自覚は全くないが、他人の意志を操れるとなったら危険を承知で利用しようとする。ハニートラップに最適な人材だ。それほどの力である。
「……生涯、飼い殺しを覚悟してくれ」
「殿下!」
ミリエラが悲鳴のような声で彼を呼んだ。アシルは首を振った。アーシェラが魅了眼をコントロールできなければ、処刑もあり得るのだ。
「わかっています。あの、公爵家の人たちはどうなるのでしょう?」
「隔離後、経過観察だろうな。伝承では魔女の死後操られた人々は元に戻ったとされているが、あくまでも伝承だ。どこまで効果が続くのか不明なんだ。それに、その間の記憶も残るという」
これに答えたのはジャハルだった。
「……魔女は」
ぽつり。アシルが言った。
「王妃になった魔女は、王を虜にすることで人々を支配しようとした。敵は容赦なく殺したがそうなる前は魅了眼で操るだけだったと聞く。なぜだと思う?」
「やっていられなくなったんじゃないですか? 常に誰かを操って、いつも誰かに見られていちいち手助けされて……それ、生きてるって言えないと思います」
アーシェラの答えはあっさりしたものだった。それはアーシェラの答えであり、魔女の真実とは限らない。アシルはうなずいた。アーシェラの性質が善性であることを確認できればそれでいい。
「グリモア公爵家は仲が良く、特にミリエラへの溺愛は有名だった。ミリエラが、義妹を引き取ってから家族がおかしい、虐げられている、と訴えても、嘘だと思ったか、親を亡くした子を気づかっているだけだとミリエラを窘めたかもしれない」
先程はもっと早く言えと言ったが、もしもそうしていたら疑われるのはミリエラだった。すまない、と謝るアシルに、婚約者にも信じてもらえなかった可能性があると気づいたミリエラが蒼ざめた。
アシルが体を捩り、アーシェラを見た。
「君は、なぜミリエラを魅了しなかった?」
「なぜって……効かなかっただけでは?」
「そうかもしれない。勇者と聖女の他にも魔女の魅了にかからなかった者はいる。しかしそれでは私たちが魅了されていない理由にはならない。説明がつかないのだ。魔導士団に預けても彼らを魅了されては困る。確証が欲しい」
「そ、そう言われましても……」
困った。自分でも説明のつかない現象に保証を求められてもどう言えばいいのか。アーシェラはうーん、と考え込んだ。
「……わたしの両親、特に母は私を溺愛していました。時にうっとうしく思うくらいには。でも嫌じゃなかった。わたしは両親を愛しています。公爵様が引き取るって言った時も、あの母の兄なだけあるなと思いました」
ミリエラ、アシル、ジャハルがうなずいた。あの公爵そういうとこある。
「伯母様と、クロウェル様も、そう。……でも、ミリエラ様は、だから……」
アーシェラが顔を上げ、申し訳なさそうにミリエラを見た。
「わたしは一人娘で、ずっと姉というものに憧れていました。お母様が末っ子で、お姉様たちの話をずっと聞かされていたんです。理想のお姉様。ミリエラ様のこと、わたし、たぶん、そう思っていたのだと思います」
「……わたくし?」
「一緒のベッドで寝たり、勉強や好きな人の話をしたり、悪戯して我儘言ったら「メッ」って叱ってくれたり。そういうお姉様は、溺愛はしてくれてもひたすら甘やかすなんてことしませんよね。それに、そういうお姉様の婚約者や友人は、お姉様を絶対裏切ったりしない」
ミリエラの目が潤んだ。
今朝、公爵家がおかしいとアーシェラが訴えてくれなかったら、アシルが言ったように誰からも信じてもらえず、孤立することになっていただろう。
一人っ子のアーシェラにとって、『姉』はまさに憧れであり、夢であったのだ。
「ミリエラ様、ごめんなさい。伯父様と伯母様、クロウェル様にメイドさんたちを、あんまり責めないで上げてください」
「いいのよ」
立ち上がって頭を下げたアーシェラにミリエラは目元を拭って首を振った。
「お父さまたちにはあまりの溺愛に慄いたアーシェラを王宮で匿ってもらうことにしたと言っておきましょう。少しは反省するでしょう」
「え、あの全方位甘やかしと全肯定が日常なの? 本当に?」
二人の少女はニコッと笑い合った。甘やかされるほうも大変だ。
アーシェラはその後、王宮魔導士団にある研究所に属することになった。魅了眼については伏せられ、特殊な魔力を持つということで研究員の一人となったのだ。
やがて魅了眼を完全にコントロールした彼女は、外交員として働くことになる。
「ミリエラ姉様!」
「お帰りなさい、アーシェ。今度の旅はどうだった?」
短期間だったからか日常の延長だったからか、何が起きたかわかっていないグリモア公爵家は、たった三日で耐え切れずにアーシェラが逃げ出したというミリエラの説明をそのままされてさすがに反省し、ほんの少しだけ溺愛が控えめになった。それでも公爵家は相変わらず仲良しである。
「もう疲れた! わたしがいるとパーティーが盛り上がるからって、扱き使いすぎ!」
アーシェラの仕事はそれとなく場を支配することだ。難しい取引を円滑に進め、時には政敵がぶつかり合うパーティーで揉め事が起こらないよう人々を魅了する。おかげでアーシェラがいると純粋に楽しめるとあちこちのパーティーに引っ張りだこだ。
「ジャハル様とはどうなの?」
ミリエラは無事アシルと結婚し、王太子妃となった。クロウェルも結婚して一児の父だ。公爵家の孫フィーバーはすさまじく、領民全員に振る舞い菓子が贈られ子供服や玩具が売れに売れ、その溺愛ぶりを国内外に知らしめることになった。おそらく孫も苦労することになるだろう。溺愛の血は着実に繁栄している。
アーシェラは公爵家の養女のままだ。物理的に引き離されてしまったせいで公爵家があれこれ気を回してドレスや本だけではなく研究に役立ちそうな魔導具などを折々に、何もなくても贈られて、気後れするから止めてくれと泣いて懇願する場面もあった。物足りなそうな顔をされた。
それでもアーシェラは公爵家の家族だ。亡き両親を忘れたわけではない、新しい家族になったのだ。そしてずっと仲良しである。
ジャハルは魔導士団長の息子という立場を利用してアーシェラの魅了眼を喜々として研究した。今では王太子アシルの側近魔導士だ。
「それが聞いてくださいよ姉様っ。ジャハル様、わたしがイイ感じになった人といると、いっつも邪魔しに来るんですよ! 上司として管理する義務があるのはわかりますけど、そこまで信用ないですかねっ? わたし、姉様と離れる気なんかないってのに!」
ぷりぷり怒るアーシェラにミリエラは目を覆いたくなった。立場にかこつけて寄ってくる虫を排除しているのはミリエラにさえわかるというのに、肝心のアーシェラには何も伝わっていない。
実験、監視だと言い訳したツケだ。自分で何とかしてもらおう。
会話を聞いていたらしい腹を抱えて笑うアシルと、蒼ざめたジャハルがやってくる。
ジャハルの腕には赤いバラ。
どうやら腹をくくったらしい。きょとんとするアーシェラに、ジャハルが花束を差し出した。
いや普通に考えたら会ったこともない親戚がいきなり溺愛してくるって怖いよなって。
あと名前、なんも考えずにつけたら某ゲームキャラっぽくなってしまいました。気にしないでください。