第9話 その道化師、妄想トレインにつき
大原がデートの待ち合わせ場所に指定したのは、JR渋谷駅新南口だった。
渋谷駅前での待ち合わせといえば、有名なのがハチ公前だが、人が多いのをわずらわしいとでも思ったのだろうか。
ここは、ハチ公前からは想像つかないくらいに普通に静まり返った、まったく別の駅といえるほど離れた出入口だ。雰囲気においても、距離から見ても。
まわりは住宅街を含む商業地区で、とても渋谷駅前とは思えない閑静なストリート。
そんな様子から、南渋谷駅と揶揄されることもある。利用者もハチ公前ほど多くはないし、今待ち合わせで立っているのは俺だけだ。
片側1車線の車道が丁字路となり、丁の突き当たりの部分が、駅と直結するJRのホテルになっている。目の前の横断歩道には信号もない。
俺は、そのホテルを背に、正面と左右の三方をにらみながら大原を待っていた。
ここを待ち合わせ場所にしたということは、渋谷駅前での109や映画館、ボウリング、カラオケというデートコースは考えていないということだろう。
まあ、デートしようと言われても、一度も女の子と出かけたこともなく、ましてや、どこに連れていけば女の子が喜んでくれるのか皆目見当がつかない俺は、意見を言える立場ではない。
俺は、ご教示されるままありがたく大原について行って、お金を払うだけ。あとは、大原が笑う顔を見られたらそれで満足だ。
それが男の甲斐性だと思うから。
大原の記憶に、俺という存在と今日という日の楽しさが刻み込まれることを、ひたすら願っているのだから。
ただ、念のために、下着は新品を履いてきた。
黒のビキニブリーフ。
普通に履いているだけで、もっこりが強調される紳士の素敵アイテムだ。
経験がないことも、サイズのコンプレックスも華麗に隠し、男らしさを見せつける最強の防具。
専守防衛に特化している点で国防紳士専用下着に推薦したい。
ハリボテだから、脱いだときに攻撃力が見劣りするのは、侵略を肯定しない正義の証し。
何を守っているのか、それは本当に守らなきゃいけないのかは、男によって意見が分かれるんだろうけど。
分かれるよね?
みんな、ヤリチンこそ正義だなんて思ってないよね?
ただ、そういう俺も。
昨夜は、大原が俺の下着姿を見て、恥ずかしさから両手で真っ赤な顔を隠しながらも、わずかに開いた指の隙間から俺の股間を凝視するのを妄想して、色々と捗ってしまった。
そんなこと、起こるはずがないんだけど。
でも、万が一ということもある。
たとえば、昨今話題になっている東京直下型大地震が起きて、大原と俺が一室に閉じ込められ、もう助かる見込みがないと悟ったとき。
最期を覚悟して、種の保存本能が暴走した結果、お互いを本能のまま求め合っちゃうとか。
死ぬ前にせめて一度くらい経験しておきたいとかね。ほら、2年前の東日本大震災の後、震災婚とか絆婚という言葉が流行ったくらいだしね。
なんせ。
生物には、食欲、睡眠欲、性欲の3大欲求があるという。
まぁ、種の保存本能の暴走なんていうファンタジー以前に、性欲を食欲、睡眠欲と同等に並べて本能に祭り上げること自体、怪しいんだけど。
だって、アリの世界では、メスは女王アリと働きアリに分かれてるけど、卵を産むのは女王アリだけだ。
働きアリが卵を産むことはないし、女王アリになることもない。
鮭の命がけの産卵で見せるオスの必死な生殖映像とヒトの肥大した恋愛脳から、勝手に性欲を過大に評価して、そう思い込んだ人がいたんだろうなっていうレベルで疑わしい。
ほら、人類は結構長い間、この世界は平らだって思い込んでいたんだからね。日常の常識が科学に追いついてないことって、よくある話じゃないか。
しかも。
動物行動学の分野では、特定の生物種が増えすぎると、個体数増加を抑える自己抑制メカニズムが働くことが観測されている。
そして。
種の保存というのは、個体の行動ではなく生物種全体を俯瞰的に見た場合の現象を指すと結論づけられているんだ。
つまり、自然界において、種の保存本能って、ヒト種がセックスに夢中になるほどには重要視されてないってこと。
事実、震災婚とか絆婚なんて言われても、婚姻件数は前年に比べて増えてなかったわけだし。
まったく。
限りある脳の容量を交尾の妄想に差し出すなんて、人類はどこまで助平なんだか。
まぁ、俺のことなんだが。
だけど、種の保存本能の劣後性って、現代社会の日本人にも当てはまるんじゃないのか?
子供を産むことは女性にしかできないことなのに、女性の自立とか、自己実現とか、雇用機会均等とか、さらには、被扶養者の税金の控除額を減らすとか、まさに、女性に社会に出て働けとばかりに繰り出される施策。
それは、家庭の中で子供を産んで育てることよりも、社会に出て働くことのほうが生きる上で価値があると規定する社会の構築。
そんな社会で子供を生んで育てるために家庭におさまるというのは、生きる上で、間違いなくリスクを取るということ。
つまり。
個体数増加を抑える自己抑制メカニズムが働いているんじゃないのか?
働きながらも子供を産んで育てられるって? 冗談も休み休み言え。
それが女性に一方的に負担を押しつけていることになぜ気づかない。それとも、あれか? 気づかないふりをしているのか? 見ないふりって楽だもんな。
違うというのなら、産休、育休の間は、それまでと変わらない報酬を補償すべきだ。復帰するまでキャリアを保持、発展できる関わり方を提供すべきだ。
せめて、子の義務教育が始まるまではそうあるべきだ。
まぁ、それでも。
幸せのあり方は時代で異なる。
幸せのかたちは人それぞれだ。
自分の力を試したい、培った経験を生かしたい、誰かが自分に影響を与えてくれた分だけ、他の誰かに影響を与えたい、望んだ未来に向けて存分に力を発揮したい。
そういう生きがいを求めたい。
それを幸せと思える女性が増えるのはいいことだ。社会を構成する半分は女性なんだからね。
問題は、社会で働く男性のほとんどが、そういう社会へのアプローチに幸せなんか感じていないということ。
確かに、男性だって、誰かに褒められたらうれしいし、目標を達成すれば心が沸き立つのも事実。
だけど。
選んだ仕事が、達成した目標が、本当に夢見たものだと言える男性はそう多くはない。
誰もが、学生時代というモラトリアム期間が過ぎて、やむなく働かなければならない先に、選ばざるを得なかった仕事と押しつけられた目標に向かって走っているだけなんだ。
生活のためとか、お金のためとか、そういう対価を得るために。
そうじゃないと言い切れる男性は、十分なお金を得られる仕事が夢と一致しただけのこと。あるいは、Big Money そのものが夢だったやつ。
だから。
女性の社会進出に、生きがいという言葉で背中を押す人は、その言葉の陰に惰性で働いている男性がいることも忘れないでほしい。
願わくば。
女性の社会参画なんてものが、そんな男性の不幸に参画させようとしたのではないと思いたい。
そして。
女性が社会進出を選んだ未来にある少子化の責任を、女性に求めないでほしい。
その方針は、国民の代表たる国会が決めたことの結果なんだから。
もちろん、社会で活躍したい女性を否定するつもりはない。それと同じことを人生の目標にする男性もいるからね。
だけど。
もしも。もしもだ。
女性の社会進出を目論んだのが、納税者を増やし、年金制度を支える納付者を増やすためだとしたら。
許しがたい欺瞞だ。
それは、女性の自由を謳いながら、その実、出産の自由を奪うことだ。子供を育てる権利を奪うことだ。
女性の権利を主張する声を利用して、専業主婦を労働者の列に加えようとする国家のおぞましさ、増え続ける国の借金の不足分と消えた年金の穴埋めを女性から取り立てようとする国家の悪辣さしか感じられない。
そもそも。
高度成長期の歴史をひもとくと、第二次ベビーブームという時代があり、「こんにちは赤ちゃん」という歌が一世風靡した世情があった。
その後、人口の爆発的増加への危惧と限りある資源への懸念が叫ばれ、フードロス問題にからめて、日本の食料自給率の低さが問題視された。
少子化は、そういった事情の中で生まれた、あるいは、放置されてきた現象なんだ。
ならば。
人口一億二千万という数字が、日本という国にとって本当に最適なのか、日本という国で一億二千万人は食べていけるのか、というところにまで立ち返って議論すべきだ。
そうでなければ。
少子化対策なんて意味がない。
仮に食料の輸入が途絶えても、日本で生きていける人口のあるべき数字を示さなければただの言葉遊びに過ぎない。
そんな遊びの議論で少子化を、女性の権利を語ろうとするのなら。
子供のために生きがいを犠牲にした女性が、生きがいのために子供をあきらめた女性が、流した涙を、飲み込んだ嗚咽を、無に還すだけでしかない。
それを良しとしないのなら。
そう。たとえば。
産休、育休に要した時間の分だけ、定年延長するべきだ。キャリアを積み上げる時間を補償すべきだ。
男女平等って、そういうことじゃないのか。機会均等って、そうあるべきじゃないのか。
そんなことすら思い浮かばないのなら、社会を根本から変革するしかない。
そう。たとえば。
結婚制度の廃止。
夫という存在からの解放。
一時期だけをともに過ごすパートナーの肯定。多様な遺伝子を求めることの推奨。
子孫に多様性を求めることは、生物学的に見ても、進化論の自然淘汰においても、最適解のはずだ。
つまり、女性は恋の数だけ子供を産んで、公共団体が事業として子供を育てる仕組みの構築。
あとは、モラルの楔を抜き取るだけだ。法律的に。
生まれてくる子は国の宝。
育てるのは親ではなく、地域。
子は、もはや親のペットではない。
……あれぇ?
なんか、本末転倒のような気がしてきたな。とりあえず、これはだめだな。うん、だめだ。
俺は、大原いずみを独占したい。
ともに季節の移ろいを眺めたい。
身も心も拘束して拘束されたい。
欲しいのは、愛し愛される関係。
それが、俺の願望なんだから。
そう。あんなふうに大きく手を振って俺に向かって駆けてくる大原を見たいから。
まとめたポニーテールをキャップの後ろで左右に揺らし、長い生足を惜しげもなくさらして、大きなストライドで横断歩道を軽快に数歩で渡り切るサングラスをかけた……大原にそっくりの。
「おはよう、山崎。待たせたね」
大原いずみ、姉さま。でした。
「あっ、いや、今来たところだから。……おはよう」
「そうなの? 約束の時間までまだ20分もあるよ。いつから待ってたんだって話なんだけど。まさか、昨夜からじゃないよね?」
そう言ってサングラス越しに笑う大原の今日の装いは、濃いグレーのTシャツに白いジーンズを脚の付け根から切り取ったホットパンツ。
肩から斜めにかけたポシェットとスニーカーは、白地に緑と紫をあしらったおそろいの色使い。
今まで学校でしか姿を見たことがなかったが、女子の私服姿は大人びたかわいさ増し増しで尊さすら感じる。
ありがたや〜、ありがたや〜。
拝んでしまいそうになるのを堪えて、言葉を探す。
「昨夜から待つとか、そんなわけないだろ。でも、大原の家って、このあたりだったんだ?」
「ちょっと、怖いんだけど。やめてよね。変なことを考えるのは」
「いや、いいところに住んでるな〜って」
「父が勤めてる会社の社宅だよ。来年か再来年、父が転勤したら引っ越すことになるけどね」
「転校するってこと?」
「それは、そのときに考えるよ。母は父についていくだろうから、こっちに残って下宿で自炊するか。ついて行った先に転校するか」
「うちの学校、学生寮があったろ? そこに入ればいいんじゃないか?」
「残念。寮に入れるのはスポーツ特待生だけ。一般生徒は入れないんだ。入学の段階で入寮できる人数しかとってないみたいだからね。……それでも、どこに行ったって走ることはできる。わたしはそうやってこの学校を選んだんだ。親について行けば、別の場所で走るだけだよ」
サングラスを外して胸元に引っ掛けながら、目を伏せる様子に切なくなる。
「大原ぁ〜」
俺は、大原の手を取ろうと前に踏み出す。できれば、この熱い思いのまま抱きしめたい。
「やめてよ」と大原は、軽いステップでかわすけど。
こんなの、いつものことだ。
俺は空を切った両手を握りしめて大原に告げる。
「さみしいこと言うなよ〜」
「はいはい」
「どこにも行ってほしくないよ〜」
「はいはい」
「大原のこと、もっと知りたいよ〜」
「ほいほい」
「俺ら、友達だろ〜」
「へいへい」
「このまま一緒がいいよ〜」
「ぴょいぴょい」
「抱きしめたいよ〜。……ぐゎはぁっ!」
大原の右の拳が俺の腹にめり込んだ。だが、こんなことで引き下がれない。
最後の咆哮を放つ。
「ついて行きたいよ〜」
「いや、それマジで無理だから。ほんと、やめてよね。ストーカーとか」
……素に戻った大原いずみ、マジで怖い。
「じゃあ、行くよ」
そう言うと、大原は駅への階段を上っていく。俺は併設のエスカレーターに未練を残しながら階段を上って大原を追いかける。
「どこへ?」と俺が問いかけると。
「新南口で待ち合わせと言ったら?」
「痴漢電車?」
「何それ?」
「埼京線のこと。違った?」
「違ってはいないけど。……痴漢電車? えっ? 埼京線のこと?」
「うん。集団痴漢で有名な埼京線。乗ってる男はほぼ痴漢。違うところがあるとすれば前科があるかないかだけ。乗ってくる女性は触られて興奮する痴女か、度胸試しの女冒険者。あとは囮の婦人警官」
「そこまで荒れてるのっ? はっ! もしかして山崎もよく利用してたりするっ?」
「人を痴漢みたいに言うなっ!」
「よかったよ。……でも、山崎こそ失礼じゃないの? 乗ったら、土下座して乗客に謝っときなよ? それで、今日行くのは新宿駅。埼京線なら一駅だからね」
こうして俺達は埼京線に乗って新宿へと向かった。
心配した痴漢は出なかった。
大原の手を握ろうとした瞬間、俺の腹にエルボーを叩き込まれたけど。
あと、電車の揺れで倒れないよう、大原の腰に回した俺の腕は、つかまれて逆向きにひねられたけど。
痴漢は出なかった。
満員電車じゃなかったからかな? それとも車内の防犯カメラを気にしたのかな?
いずれにしても、痴漢らしいやつは一人もいなかった。ホントだよ。
新宿駅に着くと、俺達は車内から出ようとする人波に押されてプラットフォームへと追い出された。
「待って。待って。順番に降りてるから」
そんなことを言っても聞きやしない。背中を押されて、プラットフォームを強制的に歩かされる。
人波はそのまま階段へと向かおうとする。
俺は、大原とはぐれまいと手をのばす。
けれど、大原の手にはスマホ。いつの間にか人波から逃れて誰かと話している。
これからどこへ行くつもりなのか、大原から聞かされてはいないが、このまま押されて階段を上るのは非常にまずい気がする。
俺は人混みをかき分けて大原へと向う。
通勤時間帯からずれているとはいえ、相変わらずの人混みに「人がゴミのようだ」と言ってやりたい。
その場合は俺もゴミだが。
それでも。
悪態をつくのを堪えたのは、俺が扶養家族だから。
この人達の多くが、俺のような扶養家族を養うために、地獄のような通勤に立ち向かう戦士だと知っているから。
やっと人波から逃れたと思ったら、大原が俺を指さして笑っていた。
「くくっ。山崎、どこ行くつもりだったの? 人が人に流されていくの、初めて見たよ。まるで、映画みたいだった。どこまで行くんだろうって面白かった」
「笑うなよっ! 抜け出すの大変だったんだからな」
「だって、黒い頭が壁みたいになってどんどん上がって行こうとしてる中、山崎の顔だけがこっちを向いてるんだよ? しかも、どんどん離れていく。まるでアリの群れに運ばれるエサみたいだった。もう、笑うしかないよね。……しまったな。スマホに撮っておけばよかった。残念」
「はあっ。新宿駅はこれがあるから嫌なんだ」
「飲む?」
大原がペットボトルを差し出したのを、ありがたく受け取って口にする。
「これからどこへ行くつもりなんだ?」
「ねぇ、山崎? ゲームをしない?」
「ゲーム?」
「そう、ゲーム」
「どんな?」
「鬼ごっこ」
「どこで?」
「ここ。新宿駅で」
「走り回ると危ないし、公共の場所でそんなことをするのはよくないぞ」
「鬼は山崎。わたしは歩いて逃げるから追いかけて。捕まえたらそこで終わりね」
「だから、危ないって」
「わたしは走ったり隠れたりはしないよ? ゆっくり歩くだけ。山崎は常識の範囲でなら走ってもいいけど」
「そんなの、すぐ捕まえられるよ。ゲームにならない」
「そうかな?」
「何を言ってるんだ? 瞬殺だぞ?」
「いいからやってみようよ」
「わかった。俺はいくつ数えてから追いかければいいんだ?」
「そんな必要はないよ。わたしが歩き始めたらすぐ追いかけてきて」
「すごい自信だな。でも、暴力はなしだぞ」
「そんなことしないよ」
「あと、速歩きもだめだぞ」
「しないって」
「ふぅー、しょうがないな。駅構内で遊ぶのはよくないんだからな」
「わかってるよ。今日だけのゲーム。じゃあ、始めるよ」
そう言うと、大原はゆっくりと歩き始めた。まるで散歩でもするかのように。
これならいつでも捕まえられる。
手をのばすだけの簡単なゲームだ。すぐにでも捕まえてくれと言わんばかりのスローウォーキングを、こんなところですることに意味なんてあるのか?
時間つぶしにしても他に方法があったと思うぞ。ばかばかしい。こんなことに付き合うために新宿まで来たなんてくだらない。
デートしようって誘ったくせに、こんなのはデートとは言わない。デートの意味を知っているのか? 残念すぎるよ。大原、お前のこと、もっと頭がいいやつだと思ってたんだぜ。
がっかりだよ。愚か、あまりにも愚かすぎる。大原いずみ改め、愚からいずみだ。今日からお前はっ!
そう口の中で唱えながら、俺はもう1時間以上大原を追いかけていた。
階段を上り、通路を直進。さらに階段を下りては上る。その繰り返しをしているだけなのに大原に手が届かない。
魔法にかけられたように、俺は大原の後ろを追いかけるだけだ。
ちくしょう。全然捕まえられねーっ!
今、俺はエスカレーターに乗っている。
行儀よく手すりを持って。
エスカレーターを歩いて上ったりはしない。そして、二つ上のステップには大原が立っている。手をのばせば届く距離だ。
だけど、手をのばすことができない。
俺の両手の動きは封じられ、神経は目に集中している。
目の前の大原の白いお尻に。
違った。白いホットパンツの後ろ姿に。
やられたっ!
こんな方法があったなんてっ!
これじゃどうしようもない。手も足も出ないとはこのことだ。参った。俺の完敗だ。
だって、手をのばして大原に触れた瞬間、このゲームは終わる。大原のお尻を公然と、本人の許可のもといつまでも眺めていられる至福の時間が終わる。
ゲームオーバーになんてできない。
左右に振られるお尻、小麦色に焼けたすらりと伸びた脚、Tシャツのすそがホットパンツにしまわれてるから腰の動きがよくわかる。
右へクイッ。左へクイッ。
絶対に俺の目を意識して歩いてやがる。
だって、足を運ぶラインが一直線上に置かれたモンローウォークだもん。
それは、1950年代のアメリカの女優マリリン・モンローが映画の中で見せたヒップを振る歩き方だ。
この歩き方は足首に負担がかかる。アスリートにとって、好ましいことじゃない。
今すぐやめさせないと。
そう思うのに、手をのばすことができない。声をかけることができない。
だって。
ホットパンツのすそからチラチラ見える小麦色の足の付け根の陰から、天使と悪魔が交互に俺を誘っている。
そのわずかな陰こそ、神々が住まう限界領域。
俺の目は、大原のお尻が描く白と黒のコントラストにロックオンさせられ、はずすことはもはやできない。
脳からの信号が、歩く以外の一切の行動を禁じている。まるで、駅の構内をさまよい歩くウォーキングデッドのように。
マリリン・モンローが、映画に対する情熱を志半ばにしてこの世を去ったように、大原いずみの選手生命も、何事も成すことができずに終わろうとしている。それを俺は黙って見続けている。……最低だ。
マリリン・モンローが死んだ後に生まれたのに、ファンだと言ってはばからない俺の父が、かつて、モンローの出生名「ノーマ・ジーン」と同じタイトルのビデオを買ってきて大喜びで再生したら、ジョン・レノンの「イマジン」だったことを、その落胆ぶりを、大笑いしながら何度も繰り返して話す俺の母親と同じくらい最低な行為だ。
ノーマ・ジーン。
カタカナで縦に書くとイマ・ジーン。だけど、父にはノーマ・ジーンと見えたそうだ。イマジンなのに。
背表紙だけじゃなく、パッケージまでちゃんと見ろよ。
でも、母さん?
そんなことで、いつまでも笑いものにしなくたっていいじゃないか。
ジェラシーを隠した行動かもしれないけど、モンローは36歳で死んでいる。今の母さんよりも十歳も年下なんだぜ。
父さんのこと、もう許してやれよ。
グラマーが好きなのは男の性みたいなものなんだからさ。そんな父さんがスレンダーな母さんを選んだってことは、見た目以上に好きなところがあったってことだろ?
いつまでも引きずらないでくれよ。
母さんがそんなんだから、俺はエロ本の隠し場所に苦労してるんだぞ。写真を切り抜いてスクラップブックに貼るのも限界があるんだ。
いい加減、俺の部屋をガサ入れするのはやめてくれよ。グラマー、そろそろ解禁にしてくれよ。
そんな父の残念さと母の執念深さと俺の無念さを頭から振り払おうと、意を決して大原に声をかけようとしたとき。
大原がいきなりステップを踏んで、くるりと振り返った。
「ゲームに負けたときのペナルティをまだ決めてなかったね。……歩き回って汗もかいたことだし、山崎が勝ったら、ホテルに行くっていうのはどう?
一緒に初めてを経験してみない?
それとも、山崎はもう誰かと経験したのかにゃあ?」
俺に顔を向けたまま、前かがみになって笑う。首を傾げ、サングラスを目の下にずらして上目遣いで俺を見る。大原の舌が上唇を舐める。
その妖艶さに。
俺の右手が勝手に動いて、大原の左肩をつかんだ。
大原は、それに応えるように、俺に近づいて腕をとる。
「捕まっちゃったにゃあ」と言って、腕を絡ませ、俺の体に密着してその場から離れようと誘導する。
幸せだ。もう、死んでもいい。
任せてくれ。ここは新宿。歌舞伎町二丁目のラブホテルなら頭の中に入ってる。
脳内の、ざきペディアで検索し、休憩時間の金額もあわせてブックマーク済みだ。その方面なら抜かりはない。
「でもぉ。その前にご飯、食べよっか?」と俺の肩に頭を乗せて甘えてくる。
今までの大原の態度からは想像できない言葉と仕草に、頭が真っ白になる。
豹変ぶりにやられて、言葉を失う。
思考回路は死んだ。
完全に大原のなすがままだ。
そんな俺に、大原は、寄り添って歩きながら、顔を耳元に寄せて。
「今日は劇の練習があるけどぉ、いいよねぇ? 学校に行かなくてもぉ」と甘い囁きで誘惑してくる。
学校の規則で、登校するなら一度家に帰って制服か体操着に着替えなければならない。
そんなことをしていたら、お昼ご飯を食べる時間を取れそうにない。
何より、大原の気分が変わってしまえば、このハッピータイムは終わりを告げる。
これはもう大原の誘いに乗るっきゃない。
ゴキゲンでラリホなパリピになって、ベッドにダイブしよう。
初めてを互いに捧げあおう。
期待と興奮で、胸がどきどきしている。今更ながらに喉の渇きに気づいた。大原からもらったペットボトルはすでに空っぽだ。
つばをゴクリと飲み込んだ。
新品の黒のビキニブリーフを履いてきてよかった。
今日、俺は、大好きな女の子と一緒に大人の階段を上る。
ここまでくれば、もう恋人と呼んで差し支えないだろう。
気分は最高潮。怖いものなんかない。
だから。
俺が大原いずみに夢中になってしまったとしてもしかたないだろ?
そのせいで、まわりの状況にまったく気づいていなかったとしても。
そう。
俺達の前方、人混みの中からわらわらと男達が現れて駆け寄ってきたことも。
男達が俺達の横を急いで通り過ぎて行ったことも。
俺達の後ろで、騒ぎ立てる大声がしていたことも。
そして。
大原がいつの間にかサングラスをかけていたことも。
俺は、何も気づいていなかったんだ。
このとき。
大原いずみとその仲間達が仕掛けた罠のことも。
その罠の中で、俺が知らずに道化を演じていたことも。
何も知らないまま、たった一人で、めくるめく桃色の世界に浸っていたんだ。
大原いずみが、サングラスの奥から冷たい目で俺を見ていたことに気づきもしないで。
【あとがき】
いずみ「『誰がために君の鐘は鳴る』の『第9話 その道化師、妄想トレインにつき』を読んでいただきありがとうございます。このあとがきは、作者に代わって副音声ふうにわたし達でお送りします。司会進行の大原いずみと」
浩二「いれるらーず、ぐらんばはまる、とな、がるとえばー、りれくすっ!」
いずみ「頭がおかしくなっていたっ!」
浩二「……日本語? あー、すまん、すまん。『異世界グランバハマルに17年いたが、ようやく帰ってきた、ぞ』だ。ははは」
いずみ「違うよね。異世界おじさんごっこだよね」
浩二「ざるべ? までぃーら? こるすとなむ、こるすとなむ」
いずみ「……あははは。そ〜ですね〜」
浩二「でるすとば、とな、らべるとがる」
いずみ「はい、じゃあ、また時間になったら来ますね〜」
浩二「待って、待って、帰らないで」
いずみ「じゃあ、ちゃんとやって」
浩二「挨拶が遅れて申し訳ありません。主人公の山崎浩二です」
いずみ「異世界も大変だってお話。涙なくしては語れないね」
浩二「そこまでっ?」
いずみ「でも、異世界に体ごと行っちゃったら、もう会えなくて悲しむ人もいるんだよ? ……普通はね」
浩二「大原も俺がいなくなったら悲しい?」
いずみ「……山崎のご両親は泣くよ?」
浩二「大原も泣いてくれる?」
いずみ「……もちろんだよ。ほら、一期一会って言うじゃない? わたしは、山崎と会うとき、いつも一生に一度の出会いだって、もう会う機会は二度とないって思ってる」
浩二「いきゅらす、きおら」
いずみ「それ、何?」
浩二「記憶消去の魔法だな。耐え難いことがあると使うんだ」
いずみ「そんなにっ!?」