第7話 その道化師、ロングコートマンにつき
走れっ!
おのれに命じるのは、限界を超えた持久走。それは、たった一つ、絶望からの脱出に与えられた試練。
大原の背中だけを見て、その影を追いかける。
つないでいた手はほどかれ、自由になった腕を振って廊下を疾駆する。
これは人生を賭けた逃走だ。
もう後ろは見ない。
大原に導かれるまま、左に曲がり、階段を駆け上がり、右に曲がって廊下を駆け抜ける。
息が苦しい。心臓が止まりそうだ。足がもつれそうになっている。
だけど。
最後に大原が飛び込んだスペースで、俺はやっと一息つくことができた。
廊下と隔てるドアはない。けれど、入口がクランク状の通路になっているので、廊下から完全に隠れた場所だ。
不審者を探す追手は来てるのか?
まだ息は荒く、声を出せる状態じゃない。両手を両膝について、酸素を吸いこみ、二酸化炭素を吐き出す。ゆっくりと息を整え、顔を上げる。
目に映ったのは怪しげな男。
「うっわーあっ!」
その異様さに思わず声をあげた。
夏だというのにロングコートを着て、パチモンの魔法少女のお面を首からぶら下げている。髪は乱れ、手に握るひしゃげた大きな黒いバッグは犯行にでも使われたのだろうか。
その禍々しい様子は、犯罪者の姿。しかも、まさに今、人を殺して埋めてきたかのような。
そんな男が険しい目つきで俺を見ている。けれど、そいつは。
鏡に写った俺だった。
公園や幼稚園、保育園の前を通っただけで通報されてもしかたのない異様な格好。
明らかに何も入ってない大きなバッグが不自然さを際立たせる。
こんなやつが学校にいれば、通報事案だ。まず、俺が通報する。言い分があれば、署で聞いてもらえ。秋葉原かコミケに帰れっ!
そんな破綻者スタイルをしている自分に、いたたまれなくなる。
「大丈夫だよ。わたしはわかってるから」
大原が涼しい顔で俺に笑いかけるが。
……何を?
こんな怪しい姿をしたやつの何をわかってるって? むしろ、これが俺の本当の姿だなんて思ってないよね?
そうだとしたら、俺、泣いちゃうよ?
「優子のメール見たんでしょ? 動画ファイルを開いて、うちの学校の更衣室かどうかを確認してくれたんだよね? ……わかってるから」
「……俺は」
「ん? 違うの?」
「いや、そうだけど」
「で、どうだった?」
「よく似てた。だが、はっきりしないからスマホで撮影した。動画と見比べようと思って」
「そう。じゃ、それ見せてよ。あっ、人が来るとまずいから、こっちでね」
大原が手近のドアを押して開ける。
便座が見えた。ドアが五つ並んでいたから気づかなかったけど、ここ、女子トイレだ。
その証拠に見慣れた小便器がない。
女子トイレなんて、今まで入ったことがなかったし、すりガラスの窓のせいで薄暗く、正直、今までこの場所がどこなのか判別できていなかった。
手を洗う水回りも、壁面の大鏡が映しだす俺の姿の異様さに存在感を失い、そのためか、床のタイルにも、不自然に甘い芳香剤にも全く気づいていなかった。
だけど、男子禁制という意味では女子更衣室以上に禁忌の場所だ。
しかも、さらに個室に入れと大原は言う。スマホで確認するためだと。……俺と大原の二人で?
二人用じゃないよ? わかってる? そもそも、二人用トイレなんて存在するのか?
固まってしまった俺のコートの袖を引いて、大原は個室へと誘う。そして、怪訝な顔で。
「いつまでそんなコートを着てるの? 趣味なの? それとも普段着? もしかして、コートの下、何も着てないとか? くくっ」と容赦ない嘲笑を浴びせてきた。
「これは、変装してるんだよっ!」
「よかったよ」と息を吐くが。
その態度、本気で普段着だと思ってたな。こんな格好で町を歩いてたら、学校に着く前に交番に連れてかれるわっ!
それに、もし、コートの下が裸だったらどうするつもりだったんだ? ……いや、着てるけど。
俺が本物の変態だったら、笑ってる場合じゃないぞ。
俺はロングコートを脱ぎ、お面を首からはずしてバッグに入れる。そして、そのまま、なぜか素直に個室トイレに入ってしまった。
大原の言葉に突っ込みを入れようとしていたはずなのに。あれれ~?
……でも、女子トイレの中に、一人残されるよりはましか。
大原は内鍵をかけると、便座のふたの上に座り、俺に手のひらを向けた。
俺は素直にスマホを渡す。
本当は、ふたの上とはいえ、大原が便器にまたがっている姿を写したかったけど、スマホを取り上げられてはそれもかなわない。
1枚だけでいいんだけどな。
そんな口に出せない願望が、最近読んだ官能小説の、個室トイレに男女が一緒に入ってエロい事をするシーンを思い起こさせる。
だって、他にすることがないからね。
でも、現実は、ふたの上で足を組んで俺のスマホをいじってる大原と、向かい合って直立している俺。エロさ皆無。
ここって、狭いんだよな。
あと、直立しているのは、体の一部じゃないぞ。むしろビビってるから。誰かに見つかったらどうしようかって。気持ちごとしおれてるから。
大原に気を使って、背中を壁にピタッと貼り付けて、大原から距離を取ろうとしてるから。
けして、座っている大原の顔に、俺の股間が近いなあとか思ってないから。
大原が顔を少し上げるだけで、顔がズボンのファスナーと微妙な位置関係になるなあとか思ってないから。卑猥な妄想なんかしてないから。
むしろ、股間のあたりから俺の臭いとかしてないかな、ズボン、いつ洗ったっけ、大原、不快に思わないかなって、心配してるくらいだから。
大原の頭を見下ろしてる状況に、エロい妄想と相まって、今夜のネタ、ゲットだぜ、なんて思ってないから。
いや、夜まで待てない、このまま家に帰ろうなんて、絶対に思ってないから。
もう、だめだ。目を閉じて、むずむずする衝動を抑えよう。妄想を頭から振り払おう。大原にそんな恥ずかしい現象を見られたら。
……もう、大原の性奴隷になるしかない。
これをネタに脅され、一生飼われ続けるしかない。専業主夫になって、裸エプロンでお迎えするしかないじゃないか。
だめだ。
おかしな妄想のせいで、せっかく仕入れたネタが俺の裸の尻で穢されてしまった。
いや、そんなことよりも。
今朝、盗撮動画を見ながら予習したことが悔やまれる。俺の股間、イカ臭いとか思われてないかな?
昨夜、今日大原と会うのを妄想して、風呂に入る前、ちゃんと予習しておいたのに、今朝見た同級生の盗撮動画の破壊力、ハンパなかった。
せめて、シャワーを浴びてから学校に来ればよかった。そうしたら、股間の臭いなんか気にせずに済んだのに。
だけど、そもそも。
俺、個室に入る必要あったのかな? 廊下で待ってりゃよかったんじゃね?
動画を見るのだって、廊下でよかったんじゃね?
あと、女子更衣室から追いかけてきたやつって、結局、いなかったんじゃね?
「間違いないね。動画に映ってる背景と山崎の写真はおおむね一緒だった」
えっ?
「山崎、このことは誰かに話した? ご家族とか」
「いや、誰にも」
「じゃあ、これからも黙ってて。他の男子にも教えないで。約束できる?」
「わかった。約束するよ」
「ありがとう。あと、メールと動画の履歴、勝手に削除したけど、ごめんね?」
えっ?
「それから、スマホの戻るボタンを使ってアクセスできないように、再起動したけど、問題ないよね?」と言ってスマホを返してくる。
やられた。完全に俺の負けだ。俺が妄想に耽っている間に、大原はするべきことをしていた。これで、盗撮動画の再生はできなくなった。
いや、もちろん再生するつもりはなかったよ。たぶん。でも。
残念だ。極めて残念。
うちの学校の更衣室だとわかっていたら、パソコンにデータを移しておいたのに。URLアドレスを紙に書いておいたのに。
だけど、俺は大原の言葉に頷くしかない。殊勝な顔で正義の味方のふりをするしかない。
「もちろんだよ」と笑って。
「だよねぇ。山崎があんな動画を何度も再生するわけないよねぇ。わたしは信じてたよ」と大原も笑う。
信じてたやつはそこまでしないぞ、という心の声は自制心で押さえつける。
だって、アドレスが残っていたら欲望に負けて動画を再生したかもしれない。うん。何回でも再生したと思う。ポーズと巻き戻しを駆使して、被写体から女子生徒を特定しようと目を凝らして見たと思う。
だけどもう遅い。宝物は儚く散った。
そして、大原は俺の本心などお見通し。
こんな嘘つき同士の会話に意味なんてあるんだろうかと虚しくなって、俺は話題を変える。
「それで、どうする? これから」
「そうだね。……とりあえず、ここを出てから考えるよ。いい?」
だめだなんて言えるわけがない。いや、もしもここが男子トイレだったらだめだと言っていたかもしれない。
ここから出してほしかったら俺を満足させてみろと言っていたかもしれない。……無理だな。言ってみたいだけの言葉遊び。
だって。
状況は最悪だ。閉じ込められているのは俺の方。場所は男子禁制の女子トイレ。
大原の助けがなければ安心して外に出られない。誰かに見つかれば変態どころか、犯罪者だ。
出してもらうために相手を満足させなければならないのは、俺の方だった。
靴を舐めろと言われたら、間違いなく舐める。四つん這いになって背中に乗せろと言われたら、そうする。大原を背中に乗せてトイレの中を這って回る。
ご褒美とか思ってないよ。ホントだよ。
俺はしかたなく大原の理不尽な要求に従うんだ。ほら、アウェイでは中東の笛に従うしかないからね。どんなに納得できなくても。
……うん。女子トイレにいる時点で、誰が笛を吹いてもファウル。一発退場のレッドカードだった。わかってる。
退場したいけど、退場したくない。そんな俺のジレンマを断ち切るように、大原はさっと立ち上がり、鍵をはずして外に出た。
そのまますたすたと廊下に向かう。俺も恐る恐る後に続く。
誰もいない廊下。窓から見下ろしたグラウンドで部活の朝練が始まっている。
よく考えたら、まだ夏休みだった。
教室棟の、しかも2階。人がいるほうがおかしい。すべては無用な心配だったと胸をなでおろす。
「犯人を見つけることよりも、今は妨害することの方が先だね」
大原はそう言いながら歩き始めた。
「そうだな」と俺は深く考えもせずに同意して大原の後について行く。
盗撮は犯罪だからな。だけど、犯人に対する社会的制裁は学生の領分じゃない。背後に反社が関わっている可能性だってある。対応は慎重にするべきだろう。
「とりあえず、盗撮カメラにフタをしちゃおうか。これ以上、被害者が出ないうちにね」
大原の言い分はもっともだ。異論などない。
そうして、着いたのは女子更衣室の前。
「山崎、これで段ボールの穴をふさいできて」と俺にバンドエイドを渡した。
「俺が?」
「だって、わたしの身長じゃロッカーの上まで手が届かないからね」
「いやだよ。誰かに見られたらどうするんだよ」
「大丈夫。わたしが外で見張ってるから」
「それでも入ってくるのは止められないだろ?」
「ドアをノックしたら、カーテンの向こうの窓を開けて外に逃げればいいよ」
「外に誰かいたらどうするんだよ?」
「そのときはロッカーに隠れて。一人くらいなら入れるでしょ?」
しかし、このミッション、男にとってはハードルが高い。
「脚立か椅子を持ってくるとか」
「どこから?」
「先生に報告するとか?」
「盗撮を知った理由を説明できる?」
「それは、大原と清水が」
「いやだよ。山崎がさっとバンドエイドで目隠しすれば済むことなのに」
「再発防止という意味でも根本的な対策が必要かと」
「さっき、山崎がここから出た後、女子達が向かってきてたよね。彼女達が着替えてるところは写ってるはずなんだ。再発防止を言うには遅すぎたね」
「どうしても?」
「くどいっ!」
それでもリスクは極力減らしたい。俺は代案を提示する。
「いっそのこと、箱ごと持ち出すのはどう?」
それくらいなら一瞬だ。こんな会話をしている間に終わらせる自信がある。
「そんなことをしたら、山崎が疑われるよ。盗撮カメラを回収しに犯人が来たってね」
「カメラを回収できたらデータを回収したも同じだろ?」
「録画をしてるのならね。電波で画像を飛ばしてたらどうするの?」
「……」
「早くしないと人が来ちゃうよ?」
その言葉に俺は決断した。
パッと行ってパッと貼ってくる。それだけの簡単なお仕事。
「……わかったよ。行ってくるから、中に人がいないか確認してくれ」
「助かるよ」
大原がドアを少しだけ開けて覗く。
「誰もいないよ。……がっかりした?」
「なんでだよっ! それと、なんでこっそり見るんだ? ドアを全開すればいいだろ」
「カメラは作動してるんだよ。写りたくないじゃない?」
「あっ、そうか。……ということは」
大原が俺のバッグを指さした。
そうだよね。顔と体を隠して行くしかないよね。
廊下は静まりかえっている。誰も来る気配はない。
──ロングコートマン参上。
魔法少女のお面を手にする。これからこれをかぶる。なんて痛いやつなんだ。こんなものを持っているなんて。
これは秋葉原やコミケを愚弄した罰なのか?
大原は声を殺して笑ってるし。
俺は覚悟を決めてお面をかぶる。ドアをスライドさせて、するりと忍び込んだ。
目指すは窓際のロッカー。
数歩でたどり着き、段ボールを見上げる。この映像を見ているやつがいたとしたら、異様な変質者の登場に驚いているはず。
箱を斜めから見上げると、小さな穴が確認できた。文字の部分に穴を空けた巧妙な手口だ。
俺は、バンドエイドの粘着シートを剥がす。穴の上から貼りつける。上から強く押さえてミッション完了……じゃないね。先生が言っていた。
家に帰るまでが遠足だと。
恥ずかしさで致死量に達するお面を、家に持ち帰って収納するまでがミッションだ。
急いで出口に駆け寄り、ドアを開けるとともにお面をはずす。ロングコートを脱いでバッグに入れ、その上にお面を丁寧に置いてジッパーで閉じて隠す。
「くくっ、大切なお面なんだね」
大原は笑うが、このお面を求めて俺はこの夏、夜店を探し回った。
先月、幕張メッセで開催されたフェス。すなわち、ガレージキット展示即売会。
そこで魔法少女のお面が売られていたのを知ったのは、フェスが終わってからのこと。
ガレージキット展示即売会には、当日版権システムという制度がある。出品者が、イベント主催者を通じて版権元から許諾を受けて製作・販売できるというものだ。
その開催期間、開催場所でしか手に入れられないレアアイテムだ。
もちろん、公式ではない。
しかし、魔法少女の始まりの物語をこよなく愛する俺としては、レプリカであったとしても手に入れたい。
だが、時間は戻らない。俺には時間遡行能力がない。
いや。
異なる時間軸へ時間遡行して、叶うはずのなかった未来をつかんだとしても、それは、平行世界で起きたことにすぎない。
この世界での俺が先月のフェスに参加することはない。
どれだけ因果の糸を束ねようとも、この世界の俺が魔法少女のお面を手に入れることはできない。
ならば、と。
そんな熱に浮かされて、俺は夏祭りの夜店を巡った。お面を売っていない祭りも多く、探すのは容易ではなかった。
そうしてようやく見つけたのが、このお面だ。
明らかなパチモン。
それでも、これはこの夏の成果だ。夏祭りを探して、お面を求めて東京中を歩き回った。……それは言い過ぎか。
たとえ、納得できない部分があるとしても、このお面を見つけられなかったら、俺は、お面探しをやめられなかった。いつまでも心に棘が刺さったままだった。
砂をかむような挫折感の果てに、どうせパチモンさと、強がって自分をごまかしていただろう。
だから、このお面はこの夏のトロフィーだ。
たとえ、まがい物だとしても、この夏、俺が歩き回ったこと、俺が見てきたこと、感じたこと、諦めなかったことの証しだ。
やればできる。
そう信じさせてくれるアイテムなんだ。
俺の15歳の夏はこのお面とともにある。いつか、魔法少女から離れる日が来るとしても。
これは、そういうお面なんだ。……パチモンだけどな。
だから。
「高1の夏の思い出として大切に残しておきたいんだ」とつぶやいたとしてもしかたないだろ?
なのに、それを大原は聞き逃さなかった。俺に。
「まだ高1の夏は終わってないよ」と言って「山崎、わたしと思い出を作ろうか?」と笑った。
聞き間違いかな?
俺はあらためて大原を見る。
「わたしとデートしようよ」
……それって。
「山崎?」
なんて言ったらいいのか言葉が見つからない。女の子から、好きな子から告白された。こんなことが起きるなんて、夢じゃないのか?
もう、死んでもいい。
告白されたなら、応じるしかない。このまま彼氏彼女の関係になって桃色の高校生活をエンジョイするしかない。
そう。やればできる。ただ。
念のために確認だけはしておこう。
「……それは、付き合ってもいいってこと?」
「違うよ。ただのデート」
「告白だよね?」
「違うよ。ただの遊びの誘い」
「俺のことが好きなんじゃ?」
「違うよ。ただの同情」
「でも、好意を持ってるとか」
「違うよ。今日のお礼」
「でも、好意がない相手とはデートしないよね?」
「できるよ。遊びに行くくらい」
だよね〜。そんなに上手くいくはずがないよね。
そもそも、さっきまでそんな雰囲気すらなかったし。こんな状況で愛の告白なんてあるわけないじゃん。
気づけよ、俺。……ぐすん。涙が出てきた。
「お礼って何のこと?」
「今日、色々と助けてくれたからね」
「ああ、そういうことか」
「わたしとのデートは不満? なら、優子にする? まゆみでもいいけど」
もうやめてくれ。
俺に関心がないってことだけは十分に伝わったから。
「大原で」
「ご指名、いただきました」
「デート、いつにする?」
「明日でいいんじゃない?」
「明日は演劇の練習があるよね?」
「朝、合流してデート、昼、ご飯を食べた後、学校に来て練習、終わったら夜までデートって、どう?」
「まるで弾丸ツアーみたいだ」
「そう? 夏休みももう終わりだよ。ほかにすることもあるからね。ほら、タイムイズマネーって言うじゃない?」
Time is Money だと?
それは、アメリカの建国の父の一人に挙げられているベンジャミン・フランクリンの言葉だ。
100ドル札の肖像画でおなじみのあいつだ。
時は金なり。日本では、時間はお金のように大切だから時間を無駄にしないように生きようなんて言われてるが、あいつの言った言葉はもっと生々しい。
言い換えるなら、機会損失。
利益を得る機会があったのに、それを得ることができなかった時間には価値がないということ。
つまりだ。
100ドル野郎の言葉を正しく理解するなら、大原の言葉は、時間を無駄にしないように過ごそうということじゃなくて、俺と過ごす時間に利益を得たと思えるだけの価値があるのかっていうことになる。
さすがは100ドル札を顔に持つ男。
資本主義、競争主義、合理主義を推し進める国家の顔に選ばれるだけのことはある。
日本人のような、お金を最優先に求めることをさもしいと考える草食系とは違う。
アメリカンドリームの証しは、ひたすらカネだ。Big Moneyだ。
日本人の無常観など通用しない。美辞麗句は勝者の権利。負け犬が口にするなどおこがましい。
そんな男の自伝には、時間は常に何か得るために使うべきであり、無用な行動はすべて絶つべきだと書いてあるんだぜ。どうよ?
しかも、その自伝ときたら。
勤勉など13の道徳的規範を示して、自己改善の努力を推奨するものだ。
アメリカでは、若者のための教育的な手本として広まったらしい。
マーク・トウェインから、その本の影響を受けた多くの父親が何百万人もの少年に苦痛をもたらしたと、批判的なエッセイが贈られたくらいだからな。
もっとも。
出版されたのは、御仁が死んでから1年後。しかも初版はフランス語。パリで発行されたというから驚きだ。
さらに言うなら、未完。生前は印刷業を生業としていたのに、アメリカで出版しなかったのは、そのまま発行するつもりなんかなかったんじゃないのか?
自分を奮い立たせるための生々しい覚書が、死後に自伝として公開されるなんて、俺だったら自殺もんだね。……もう死んでるか。
この教訓から、俺は決意した。
俺が死んだら、パソコンは棺に入れて燃やしてほしい。俺の人生を偏った性癖で彩ったものにしてほしくない。
ネットの閲覧履歴とか、ブックマークとか、人には死んでも知られたくないものがあるんだ。
偏った性癖という一面をもって俺のすべてだと思われたくない。
恥ずか死ぬとか言ってる場合じゃない。
誰かに知られるなんてことがあったなら、DATEでプリンセスな精霊が叫んだとおり。
殺して殺して殺し尽くす。
死んで死んで死に尽くせ。
それしかないっ!
……って、あれっ? 盗撮犯を見つける方法って、実はものすごーく簡単なんじゃ?
「……山崎っ!」
「えっ?」
「またボケっとしてたよ。大丈夫? 難しい顔してるけど」
「……大丈夫、だと思う」
「そう? なら、わたしはそろそろ行くね。デートについては、お昼にでも相談しよう。山崎は、いつものとおり図書館にいるんだよね?」
「あ、ああ」
「じゃあ、また後で」
「う、うん」
「どうかした?」
「いや、別に」
「なら、さっさと行ってよ。女子更衣室の前で立っている男がいたら、安心して着替えられないよ。……それとも、わたしの下着姿を見たいのかにゃあ?」
見たい。けど、そんなことは言えない。
たぶん、こいつはわかって言ってる。笑いながら玄関の方を指さしているのがその証拠だ。
俺は、とぼとぼと図書館へ向かう。開館までは、あと1時間。どこで時間をつぶそうか。
このときの俺は、盗撮犯のことも、犯人を見つける方法も、すっかり忘れ去っていたんだ。
大原いずみが盗撮を学校に通報しようとしない不自然さについても。