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第5話 そのアスリート、雌犬につき

 雨が図書館の窓ガラスを叩き始めた。


 大原とのお食事会を終えた俺は、自習室に戻って夏休みの課題の続きを解いているところだ。


 雨雲で窓から差しこんでいた陽光が陰り、天井から照らされる白色灯が手元のテキストに俺の薄暗い影を落としている。


 傘を持ってきていないことに気づいて、気分まで暗くなる。


 今はまだ小雨だが、土砂降りになったら外には出られないし、図書館はあと1時間で閉館だ。


 小雨のうちに帰るか、雨があがるのを待って帰るのか、思案のしどころだ。


 とりあえず、いつでも帰れる準備だけはしておこうと、課題を片付けて窓辺に立つ。窓の向こうの暗雲をにらみ、雨の様子を注視する。


 グラウンドは濡れはじめたばかり。まだ水たまりはできるほど降ってはいない。


 だが。


 遠く鳴り響く雷鳴が、雨が激しくなるのを予感させる。……最悪だ。


 バッグを抱えて図書館のエントランスホールから出てひさしの下に立つ。


 判断を左右する決定的な情報を探す。


 こんなことなら家で勉強していればよかった。


 いや。


 違うな。今日、図書館に来てよかったと、思いを改める。


 大原いずみとじゃれ合った。


 一緒に弁当を食べた。明日も一緒にお食事会をすることを約束した。


 そのことを思うだけで心が躍り出しそうになる。そうだ。有意義な1日だったじゃないか。


 そういえば、部活もそろそろ終わる時間だ。雨が降ったら走ってなんかいられないだろうし。


 大原も今頃は雨宿りでもしているのだろうか。俺とおんなじ空を見上げながら、雨が通り過ぎるのを待っているのだろうか。


 ……一緒に帰れたらいいな。


 外は次第に暗くなっていく。夜になったと勘違いして、壁面の感光式ライトが点灯した。黒雲が迫っていることを知らせているのだろうか。


 風が吹いて、ひさしの下まで雨が届くようになった。


 これ以上ここにいても濡れるだけだ。俺は、教室棟につながる屋根の下、風が吹き抜ける舗道へと足を踏みだした。


 おそらくは夕立だろう。小雨になった瞬間を狙って駅までダッシュすれば、家に帰った頃には、多少濡れたとしてもそれほどひどくはないはずだ。


 バッグを頭に、図書館棟から教室棟につながる屋根の下を、落ちてくる水滴に気をつけながら進む。


 横から吹きつける風にのって雨粒が降りかかる。手に当たる冷たさで気温が低くなっていることに気づいた。


 あの暑さが嘘のように消え去っている。


 灼熱の太陽の下、お昼前に図書館の周りを大原を追いかけたことが随分前のことのようだ。


 あれから数時間しか経っていないというのに。


 雨が空気ごと熱量を洗い流したのか? いや、そんなはずはないな。


 夕立は、日中の太陽熱で暖められた地表の空気が上昇気流を生み、上空で水蒸気が凝結して積乱雲となった後、冷やされた結果、雨を降らすというもの。


 その条件は三つ。上昇気流、上空と地表の寒暖差、そして高温多湿であること。


 上空は気温が低いから雨粒は冷たくなる。地上は雲で日差しがさえぎられている。雨が降ると気化熱で熱が奪われる。


 だから、夕立が降ると気温が下がるのだ。と言われている。


 雨が熱量を洗い流すなんてありえない。でも、そうであったらいいと思ったのだ。俺は。


 いつだって科学は詩人を駆逐しようとする。可能性を奪おうと証明を試みる。


 夕立の条件の一つ、上昇気流。


 風が山にぶつかって生ずる以外にも、ヒートアイランド現象による都市の高温化や高層ビル群に起因することもあるなんて、情緒の欠片もないじゃないか。


 そんなのは、ただの公害だ。


 たとえ、環境基本法に定められていなくても、明らかな人的被害が生じていなくても、人が手を加えた結果、自然現象を捻じ曲げて被害が出るのなら、それは公害だ。


 社会問題にしていないだけで、誰も責任を追及しない、誰も責任を負わない、あえて現状をうれうだけのマスコミの態度も含めて、地球に対する裏切りだ。


 思い上がるなよ。人類っ!


 俺が魔王ならこんな世界、すぐにでも滅ぼしてくれるのに。


 そんな俺の怒りをあらわすかのように、雨はあっという間に土砂降りとなり、昼間見た風景を変えていく。


 叩きつける雨も、芝にとっては恵みのはずだ。それが酸性雨でない限り。あと放射性物質が含まれていない限り。


 大原を追いかけた芝生も息を吹き返して青々と広がっていく。今日の思い出を上書きしていく。


 運動部の連中がランニングで散々踏みにじって芝をはがしたところが、俺が寝転んで空を仰いだ場所が、黒土の道となっている。


 ところどころにできた水たまりは、やがて小川になり、大切な思い出すら押し流していくのだろう。


 俺と大原がそこにいたことなど、今となってはまぼろしのようだ。


 降り始めの雨の匂いが、立ち止まって芝生を見ていた俺のまわりに漂ってくる。


 これは、雨粒が地面や植物の葉にぶつかって生じたエアロゾルによるものらしい。


 巻き上げられたエアロゾルに、カビやほこりが付着し、アスファルトの熱で気化したのが匂いの正体だそうだ。


 そのうちに雨があがると、今度は土に染み込んだ水がバクテリアに有機化合物をつくらせ、蒸発とともにカビ臭い匂いを撒き散らしてくるのだ。


 俺は、その匂いを嗅ぐと田舎のじいちゃんばあちゃんのことを思い出す。けして嫌な匂いじゃない。プルースト効果というらしいが、正体を知ってしまうとやはり興ざめだ。


 じいちゃんばあちゃんをカビ臭いと思ったことはないし、田舎の家も古くて匂うけど、都会の喧騒から離れた自然というイメージで、郷愁を誘う素朴な匂いだ。


 それが、科学的に解明されてしまったことで、なんか台無しにされた気分になる。


 知らなきゃよかった。


 科学による解明が、科学の進歩が人の幸せにつながるなんてたぶん嘘だ。


 戦争という歴史がそれを証明している。


 だけど、その道を進もうとする世界を止める力は俺にはない。


 だったら、地獄へ道連れだ。


 一人でも多く、科学の解明による真実を知って軽く不幸になってほしい。


 たとえば、うんち。


 トイレで用を足した後に嗅いだ悪臭は、自分の排泄物の気化したニオイ分子が、鼻の奥に付着して、においセンサーが反応したのだと知って絶望してほしい。


 手を洗うだけじゃ足りない。鼻の奥まで洗浄したいと思い悩んでほしい。


 うんちを鼻の穴に詰め込まれたわけじゃない。分子レベルの話だ。大腸菌とか関係ない話だ。そんな研究でノーベル賞を受賞したやつらがいたというだけの話だ。


 だが。


 その真実を知って、過敏に反応してほしい。鼻洗浄にいそしんでほしい。


 鼻うがいの商品を買って、ノズルを鼻の穴に入れ、たっぷりと洗浄液を流し込み、反対側の穴から出すのを繰り返しているうちに、しらずしらず調教されて、変な性癖に目覚めてほしい。


 鼻の中を洗いすぎると、大切な粘液まで洗い流されて、細菌に対する抵抗力が低下するが、そんなことなんか忘れて異物挿入に慣らされてほしい。


 そして、いつか、鼻の穴に異物を入れることに抵抗感や羞恥心を失って人の尊厳まで失ってほしい。


 まぁ、穴は鼻に限らないけどな。


 ……ちょっと違うか? 違うな。どこで間違えた?


 とにかく、俺は言いたい。


 科学の進歩は、夢を壊すつるはしの最初の一撃なんだ。


 知らないほうがいいこともあるという言葉に対し、あれは嘘だと断じた小説の主人公もいたが、知らなくても問題のないことなら俺は知りたいとは思わない。


 あれは絶対強者の放言ほうげんだ。少なくとも精神的にタフじゃない俺には当てはまらない。


 そう思っていた矢先。


 俺は見てしまった。


 教室棟の玄関で談笑する一組の男女を。


 あわてて靴箱の陰に隠れた。……別に隠れる必要はないはずだが、それでもと、ソロリ物陰から二人の様子をうかがう。


 やはり。


 ──大原いずみだった。


 隣に立つのは、大原よりも頭一つ背の高い男子。完全に背中を向けているので顔は見えないが、背中に学校名が入ったウィンドブレーカーを着ていることからスポーツ特待生であることはわかる。


 そして、おそらくは陸上部員。……根拠はない。ただの感だけど。


 その男に向けて話しかけている大原の横顔は、俺の知らない女のものだった。


 大原が上目遣いで笑って男に話しかけている。その事実が俺を打ちのめす。


 ……お前、そんなキャラじゃないだろ?


 誰だよ。そいつ!


 大原のそんな姿、見たくなかった。


 キスをした元彼がいたくらいだから、異性への抵抗感は強くないのかもしれない。


 陸上部にだって男子部員はいる。雨宿りの玄関で暇つぶしに話しかけることだってあるだろう。


 だけど、とろけたような笑顔で話しかける大原の横顔を、俺は今まで見たことがない。


 もっと毅然として何事にも動じないのがお前じゃなかったのか?


 そんなキラキラした目を向けるような男がいるのなら、俺とお食事会の約束なんかするなよ。


 勘違いするじゃないか。


 お前も、他の女子達と同じように野球部やサッカー部のエースにきゃあきゃあ言うようなやつだったのか?


 がっかりだよ。


 だが、俺の非難など届くはずもなく、大原は懸命になって話しかけている。しっぽを振って。対して男は、ちゃんと大原を見ることすらしない。


 何だよ、お前。誰かは知らないけど、大原が話しかけているんだから、ちゃんと見てやれよ。笑い返してやれよ。スカしてんじゃねーよっ!


 それができないのなら、その場所を俺と代われよ。


 わかってる。大原はそんなことを望まないし、その場所に俺が立っても、笑いかけてくれたりはしないだろうってことも。


 俺はただのクラスメイト。


 最近よく話すようになって浮かれていたけど、告白はスルーされているし、そもそも俺は大原にとっては、ハーレム軍団以下の存在だ。


 少なくとも清水優子や水越まゆみよりも親しい存在じゃない。


 そんな俺が嫉妬するなんておかど違いだ。


 そう、ただのクラスメイトだから、このまま玄関でスニーカーに履き替えて「大原、さっきは弁当ありがとなっ! また明日もよろしく」と言って声をかけても問題はないはずだ。


 だけど、そんなことをして、もし大原から汚物を見るような目で見られたら、たぶん俺は生きる気力をなくしてしまう。


 さげすんだ目をご褒美だといえるのは、心底嫌われてはいないと思えるからだ。……だけど、これは違う。


 空気を読めないやつだって、越えてはいけない一線があることくらいは知っている。


 これは、その一線だ。大原の態度がそう告げている。


 ここで声をかけるやつがいたとしたら、届かない思いと諦めて、ネガティブにでも関わろうとするただの愚か者だ。


 心から嫌われることを恐れない自爆テロリストだ。その自爆に意味はないけどな。


 俺はそこに踏みこんでまで、友人に笑いのネタを提供したいとは思わない。


 大原に嫌われたくない。


 愛の反対は憎しみではなく、無関心だという言葉がある。


 言ったのがエリ・ヴィーゼルか、アレクサンダー・サザーランド・ニイルか、マザー・テレサなのか、俺は知らないし、誰が言ったかなんてどうだっていい。


 だけど、その愛って人類愛のことだと思うんだ。特定の誰かに向けた愛じゃなく、人類全体に向けた愛。


 戦争を、いじめを、差別を見て見ぬふりをする。


 それは、加害者に加担するのと同じだ。人類愛の反対行動だ。だから愛の反対は無関心だということは間違いじゃない。


 でも、俺が大原に向けるのはそういう愛じゃない。


 友達になりたい。恋人になりたい。特別になりたい。触れあいたいという、個人的で利己的な愛だ。


 だから、特定の対象について愛の対義語を問うのなら、愛の反対は憎しみだ。


 だって、俺は人を憎むということがどういうものかを知っている。死んでしまえと思ったこともある。そいつの存在を消したくて、必要以上に関心を持ったこともある。


 そいつがヤラかしてニュースになったとき、きっと俺は言う。インタビューにこう答える。


『ああ、あいつならやりかねないですね。いつかはやるだろうと思ってました。むしろ、今までやらかしてなかったことが不思議です。もしかしたら、ばれてないだけかも?』って。憎しみをこめてね。


 愛の反対は無関心じゃない。憎しみだ。


 俺は、大原から憎まれたくない。そんな目を向けられるなんて真っ平だ。

 

 そんなことになったら、明日からしばらく学校に来れなくなる自信がある。まだ夏休み中だけど。


 いや、お食事会の約束はなかったことになるかもしれない。もしくは、今度こそ本当に毒殺を警戒しなければならない。


 だから、もういい。十分だ。


 こんなの知りたくなかった。


 俺、戦う前から負けてるじゃん。


 お前に触れた時間は何だったんだよ。


 そんなやつがいるのなら、俺に手を握らせるなよ。


 放っといてくれよ。


 お前のようなやつを──


 雌犬ビッチ


 そう呼ぶんだ。アメリカでは、クソ野郎って意味らしいけど、ここは日本だ。男に尻尾を振ってついていくビッチこそ、お前にふさわしい呼び名だ。


 聞いたところでは、ビッチにも清楚系とか、サバサバ系とかあるらしい。


 しかし、いずれもその特徴にボディタッチが挙げられている。


 大原、お前、さり気ないボディタッチ、得意だよな。


 つまりだ。


 まごうことなきビッチ──百年の恋も冷めちまう。


 あんな女を好きになったなんて、俺はなんて馬鹿なんだ。死んだほうがいいんじゃないのか?


 どうしようもないな。俺ってやつは。あんな見てくれに騙されて好きになっちゃうなんてな。


 だけど。


 こうして大原の真実を知った以上、今までと同じようには付き合えない。望みのない恋なら、好意を示す必要なんてない。


 嫌われない程度で、だけど。


 明日の弁当、正しく評価してやるっ!


 今日程度の出来なら、立ち直れないくらいあざけって、泣くまでののしってやるっ!


 そんなダークサイドに堕ちた俺の耳に大原の弾んだ声が響いた。


「空、晴れてきましたよっ!」


 何が、晴れてきましたよ、だ。このくそビッチがっ! そんな裏返った声を出して男に媚びやがってっ!


 われながら理不尽な怒りだとはわかっている。だけど、このムカムカする気持ちを抑えるすべを知らない。


 怒りの目を二人に向ける。その瞬間。


 あっ。


 ──大原と目があってしまった。


 どうしよう? 今さら隠れるのも変だよね。


 俺は思いきって陰から出る。これはもう、対決するしかない。逃げてはいけない戦いもある。


 なのに。


「おーい、山崎ぃーっ。これから帰るのぉーっ?」と大原は笑って大きく手を振った。


「あっ、ああ」と俺はしっぽを丸めた小犬のように、スニーカーを持って大原に近づいていく。ほてほてと。


「山崎、帰るのなら駅まで一緒に行こうか? ……先輩、また明日っ!」


 大原はそう言って男に手を振ると、男の返事も待たずに、まだ小雨が降り注ぐ中、陽光が照らし始めたグラウンドへと降り立った。


 キラキラと水滴が光るのを身にまとった彼女は、まるで天使のようだ。


 はぁ、とため息をつくと、俺は急いでスニーカーを履き、男を追い越して大原の隣に並ぶ。


 なんとなく、男に勝ったような気分になって、もやもやした気持ちが晴れていく。


 雨粒が落ちてくるのを楽しむように、雨がやむのを惜しむかのように、大原は笑いながらステップを踏んでくるくる回っている。


 いいものを見せてもらった。


 こいつが雌犬ビッチだとしても、いいじゃないか。


 そんな女だからこそ価値がある。そうは思わないか?


 誰もが愛してやまないのがビッチの証明。さすが、俺の大原だ。


 ビッチを受け止めてこそ、男の器の大きさを証明できるというもの。ならば、俺はビッチを受け入れよう。ビッチの部分ごと、大原を愛するのだ。


 振り返って男を見る。勝ち誇った笑みを浮かべて男を探す。


 けれど、そこにはもう誰もいなかった。


 見回すと、ザッザッとグラウンドを走り始めたそいつの背中が見えた。


「山崎ぃーっ!」と大原の声に呼ばれて、俺はきびすを返して足を早める。待っている大原に追いつき並んで歩く。


「誰? あの人」


「中学のときの先輩。スポーツ特待生だから、まだ練習するんだってさ」


 そう言って歩く大原の足どりは、心なしか浮かれているようだ。


 ……もしかしたら、あの先輩に当てつけるつもりで俺と帰ろうとした? 焼きもちを焼かせようと思った?


 いや、元彼って、もしかして?


 そんな疑問も湧いたが、まあいいやと俺は歩く。元彼なんて終わったやつのこと。気にしてもしょうがないし、せっかくの大原と一緒に帰る機会だ。楽しまなきゃね。


 グラウンドを西日が照らし、高い湿度で息苦しくなる。


 それでも。


 この光景を覚えておこう。いつか、大原の彼氏になったとき、あの日、初めて一緒に帰ったねと言うために。


 俺は、大原をじっと見る。


 やっぱ、かわいいな。


「ん?」と俺を見るけど、言葉なんかない。見ているだけで幸せだ。だけど、のぞき込むような視線に堪えきれず、口を開いてしまった。


「部活、終わったのか?」


「そうだよ。見てのとおり」


「さっきの先輩は、まだ走ってたけど?」


「グラウンドがぬかるんでるからね。走ると跡がつくんだ。だから、グラウンドを走っていいのはスポーツ特待生だけ。わたしら一般生徒は、走りたかったら校外に行けってさ。それなら、家のまわりを走るよ。終わったらすぐにシャワーも浴びられるしね」


「……なぁ?」


「ん?」


 心の中で警報が鳴る。


 聞くな。聞いちゃいけない。知らなくても問題のないことなら知らずにすませようぜと心の声が叫ぶ。


 だけど。


 聞いてしまった。


「大原はなんで陸上をしてるんだ?」


 あの先輩が元彼なのか、別れても忘れられなくて追いかけてこの学校に来たのかなんて、そんなこと知りたくもないのに。


「あはは。変なこと聞くね」


「ごめん。言いたくなかったら──」


「わたしの走る姿がきれいだと言ってくれた人がいたんだ。……わたし、その人にひどいことをした。好意につけこんで利用した。その人の優しさをもてあそんで……」

 

「それは──」


 元彼のことか? と聞こうとして口をつぐむ。これ以上は、ただのクラスメイトが踏みこんでいいことじゃない。俺にだってわかる。


「昔の話だよ」と、大原は笑う。


 だけど。


「その言葉を支えにわたしは自分を追いかけてるんだ」と。


 そう言って遠くに目をやる。


「中3のときに東京こっちに転校してきたから、もう会うこともないんだけどね」


 そう言いながらもグラウンドを走る陸上部員達から目を離そうとしない。


 唇を噛みしめ、涙をこらえているようにも見える。


 それは、恋する女の子のようで、俺の心を激しく揺さぶった。


 初めて見る姿。


 そんな顔を見たら、好きだって言い出せないじゃないか。


 そんな顔見せるなよ。泣きたいのは俺の方だよ。異世界転生したくなるじゃないか。


 こうして隣にいるのに、ちっとも距離は近づいてやしない。


 現実は残酷だ。


 生きているのがつらい。


 聞かなきゃよかった。


 雨は完全にあがり、路面は早くも乾きはじめている。歩道のでこぼこにできた水たまりと街路樹の濃い緑が、雨が降ったことのあかしだ。


 夕暮れにはまだ遠く、傾いた太陽は全面ガラス張りのビルに反射して、まばゆいばかりに街を照らしている。


 駅までは歩いて10分。一緒に帰ろうと誘ったのは大原だ。


 それなのに、大原は俺に顔を見せようとしない。


 俺も大原にかける言葉を見つけられない。


 それは、駅の改札を抜けて、さよならの言葉を交わすまで続いた。


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