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第25話 そのランナー、すれ違う者につき

 激しい雨が屋根と壁をたたきつけている。


 その、ドドドドッと腹の底まで響く雨音あまおとに、自然の恐ろしさを、人の身ではあらがえない力を思い起こさずにはいられない。


 10月も半ばを過ぎたというのに、今年はなんでこの時期に台風が多いのか。いや、目の前の豪雨は台風の余波に過ぎないんだけど。


 それでも。


 これはもう異常事態としか言いようがない。


 もっとも、その責任を化石燃料の消費に押しつけようとする勢力の中には、原発推進派が紛れ込んでいる。地球温暖化への警鐘にすら身構えざるを得ないくらい世の中は複雑だ。


 かつては、日本の繁栄を示すかのように、宇宙から見た列島は、その輪郭を光でかたちづくっていたという。


 今もそんなふうに見えているのだとしても、俺は素直にほこれないと思うんだ。


 繁栄の陰でそこなわれたものの大きさを知って、加害者の一人だと自覚してしまったから。


 そんな地球の片隅で、俺達は膝を抱えて、寒さと雨の轟音からのがれようと互いに体を寄せ合っている。


 矮小な存在に過ぎない俺達に許されているのは、小屋の外で自然がいかりにまかせて暴れるのを見続けることだけだ。


 視界に捉えていたはずの木々の緑は、白くかすみがかったベールで覆われ始めている。


 あれは、もやか、すでにきりなのか。


「……雨足が杉の密林を白く染めながら、すさまじい早さで、ふもとからわたしを追ってきた。……本当に、そうなんだ」


 突然、大原がつぶやいた。


「何のこと?」


「……伊豆の踊子の始まりの部分」


「始まりの部分は、道がつづら折りになって、いよいよ天城あまぎ峠に近づいたと思う頃、だったと思うけど?」


「その続きだよ」


「なんだ? 突然」


「今まで創作だと思っていたんだけど、こんな感じだったのかなって」


「伊豆の踊子は、創作だけどな」


「実際に見たんだよ。川端康成は」


「かもな。作品自体が実際の経験に基づいているらしいからな」


「そういう私小説的な意味じゃなくて」


「私小説的な?」


「実在する固有名詞を、たとえば天城峠を舞台にしたからとかじゃなくて、そのとき、その場所で見たこと、感じたことを文章にしたというか」


「情景描写という意味か?」


「そう。高地特有の天候をね、想像して美しい文章にしようとしたわけじゃなかった。こういう景色を実際に見たんだなって、今初めて実感した」


「高地特有の天候?」


「知ってる? 天城峠は標高七百メートルの高地にあるってこと」


「そうなのか?」


「あのあたりは、いくつかの山がつらなって天城連山とか天城山脈と呼ばれてるんだ」


「山脈?」


「その内の三つの山の高さは千メートルを超えてるからね」


「それで、雨が降りやすいんだな」


「ん?」


「伊豆半島は三方が海に面している。つまり、湿った風が三方から高い山に吹きつけるから、雨雲が発生しやすい」


「なるほど」


「白く見えるくらいに雨が勢いよく降ってきたってことは、積乱雲かもしれないな。空の低いところを雨雲がものすごいスピードで流されてきたんだろう」


「初めて読んだときは、雲というか霧のようなものが地を這うように追いかけてきたイメージだったんだけど」


「雲と霧は同じものだぞ。空に浮かんでいたら雲、地表近くを漂っていたら霧。どちらも、空気が冷やされて水蒸気が水滴になったものだ。だけど、これは……」


「うん。違うね。雨粒に光が当たって乱反射した結果、白く見えたんだろうね」


「白く見える原理は同じだろうけどな。湿度が高くなると、空気中のちりやほこりが水を吸って大きな水滴となる。そこに光が当たって光の散乱が起きると、着色が起こりにくく粒子は灰色に見えるらしい」


「わたしは、物語の情景の話をしてるんだけど?」


 二人きりでいるのに、共通の話題が浮かばない。だから、俺達は、『伊豆の踊子』をネタに会話を続けている。


 だけど、お互いの知識を披露しているだけだから、微妙に話が噛み合っていない。


 それでも、会話をとめるつもりはない。黙り込んでいるよりはマシだ。俺の得意分野に持ち込めたなら、いくらでも言葉をつないでみせる。


「ついでに言わせてもらうなら、山に雲がかかっているとき、ふもとにいる人にとっては雲だけど、雲の中にいる人にとっては霧なんだ。視界が薄ければもやと呼ばれる」


「伊豆の踊子、本当に読んだの?」


「冒頭部分だけな。高校受験に頻出ひんしゅつの問題だから。……むしろ、冒頭しか知らないといっていい」


「読んでないんだね」


「問題集に書いてあった冒頭の抜粋部分を読んだ」


「それを読んだとはいわない」


「高校受験に必要な知識は、伊豆の踊子の作者が川端康成であることと、その物語の出だしと書かれた背景。あと、ほかの代表作のタイトル」


「本を読もうとは思わなかったの?」


「著名な作品であっても、そういう昔の小説が書店に置かれているのを見たことはないからな」


「……それはそうだけど」


「需要と供給という点から見れば、作品としての価値はともかくとして、商品価値はゼロってことなんだろうな。


 自慢じゃないけど、世界最古の長編小説といわれている源氏物語だって、俺は読解どっかい参考書の口語訳でしか読んだことがない。


 作者は紫式部といわれているけれど、違うという説もあるし、作者は一人じゃないという説もある。


 それに、長編小説の定義というか、竹取物語のほうが古いんじゃないのかという純粋な疑問もある。


 俺としては、平安時代の政治家、藤原道長が紫式部を支援するようになってから、簡単には入手できない紙が自由に使えるようになったということのほうが興味深い。


 当時の政治に文化がどう影響を与えたのか。源氏物語をどう政治に利用したのか」


「それは、もう古典の話じゃないっ!」


「ちなみに、源氏物語について初めて記録されたのが、紫式部日記の11月1日の部分だったことから、去年、11月1日を古典の日とする法律が制定された」


「嘘でしょ。それ」

「嘘じゃない」


「絶対、うそっ!」

「嘘じゃない」


だまされないからね」

だましてない。来週の金曜日、11月1日は古典の日だ。これは、法律で決まったことだ。お祝いも予定されている」


「絶対、違うっ!」

「国会が決めたことだ。日本人なら、いや、民主主義を重んじるなら、従え」


「国会って、もっと重要なことを話し合うところじゃないの?」


「めっちゃ重要じゃん。俺としては祝日になってないことに不満を覚えるくらいだ」


「祝日になってないから嘘だね。だまそうったって、そうはいかないっ!」


「なら、逮捕だな。警察の留置場りゅうちじょうで反省しろ」


「いやだあ〜っ!」


「だったら、信じろ。来週の金曜日は、古典の日のお祝いの場所、京都に行くぞ。そこで……」


 そう言いかけて、俺は言葉に詰まった。


 全国高校女子駅伝。


 それが毎年、京都で開かれていたことを思い出したからだ。その予選会に、足をくじいた大原が出場することはない。


 大原の声も途絶えた。


 黙り込んだ俺達の前で、雨音はいつの間にか静まり、雨は小降りになっていた。


 やがて、人の声が近づいてくるのがわかり、俺は、様子を見ようと立ち上がった。


「……みんな、大丈夫、だった、かな」


 大原の声がふるえている。


 それは、仲間を心配に思う気持ちなのか。それとも、今この瞬間まで仲間のことを思い出さずにいた罪悪感からなのか。


 あるいは。


 自分が役に立てなかったことに対する情けなさかもしれない。それとも、一人で逃げ出したと、仲間を見捨てたと思われたかもしれない不安からなのか。


 いずれにしても。


 皆を助けようとした行動が、助けるどころか、けがをして皆を危険な場所に残したまま現場から離脱した形になってしまった。


 もしかしたら、事態はとんでもないことになっているかもしれない。それなのに、こんなところで馬鹿な話をして無為むいに時間を過ごしてしまった。


 おそらくは、そういうことなんだろう。


 誰も、一つのことだけをずっと思い続けて生きていくことはできない。

 

 ふとした瞬間に笑ったり、なごんだり。


 それを、だめじゃないと、今の俺が言うのは無責任すぎる。


 それでも。


 何をどう言いつくろっても、どうせ無責任な言葉しか出てこないのならと、「大丈夫だ。先生も付いているし、助けに行った大人が二人もいる。何とかしたはずだ」と適当な言葉を吐いて安心する理由をあげる。


 そんなの、なんの根拠にもならないのに。


 大原はそわそわして俺を見ている。みんなの無事な姿を見るまでは安心できない、そんな顔をしている。


 俺はうなずいて、大原をかかえて立ち上がらせた。


 大原が声を殺して顔を歪ませた。


 それに気づかないふりをして、ゆっくりと歩き出す。一歩。また一歩と。


 雨はあがり、雲間から日が差し込んでいた。


 この小屋にたどり着いたときには見えなかったが、小屋のまわりの草はきれいに刈りそろえられた広場になっており、その刈り込みの先が山道へと続いているようだ。


 よく見ると、刈り込みの先、草木が茂る隙間から、山道を登ってくる青いジャージの生徒達の姿をとらえることができた。


「お~いっ!」


 俺の声に気づいた生徒もいたが、あたりを見回すだけで、立ち止まる気配すらない。


 山道からは、草木が邪魔になって俺達の姿は見えていないのだろう。


 もう一度声をかけようとしたのを、大原が俺の右腕を強くつかんで止めた。


「みんなが通り過ぎてからにしようよ。帰る邪魔をしたくはないよ」


「それは、わかるけど」


 捻挫はクセになる。

 そう聞いたことがある。


 精密検査をしてみないと状況が判断できない。それが捻挫だ。だが、痛いということは、炎症を起こしているということだ。


 捻挫したところは、靭帯の断裂を起こしている。それが微細びさいなものか、部分損傷なのか、それとも完全断裂なのかで治療の方針、期間も違ってくる。


 完全断裂なら、手術とリハビリを要する場合だってあるんだ。


 それなのに、ここには足首を固定する包帯も、患部を冷やすアイスパックもない。

 

 唯一できたのは、安静にしていたことだけ。それが一番大切なことだとしても。


 それに。


 俺は気づいてしまった。おそらくは大原も。


 この、山道へと続くけもの道のような刈り込みは、二人並んでは通れない。そして、山道もそうだということに。


 どうするか。

 答えは一つだ。


 だが、俺の答えと大原の答えは違っているのだろう。


 ならば。


 俺は、俺の答えを正しいと信じるだけ。

 

 かかえていた手を離し、大原に背中を向けてしゃがみ込みながら言った。


「背負っていくから、背中に乗れ」


 これ以外に方法はない。これ以上、こいつに無理をさせたくない。こいつに歩かせて、取り返しのつかない事態になるのはいやだ。


 だけど。


「大丈夫。歩けるよ。がまんできない痛みじゃないし。この先も長いから」


 それが大原の答え。


 どちらが正しいかなんて意味がない。人生の選択は結果論に過ぎない。


 天秤は可能性の高いほうに傾くと、そう信じ込んでいるだけのこと。


「その足で坂道を登るのは無理だ」


 背中を見せながら真実を告げる。


「でも」

「絶対に落とさないから」


「そんなことを心配してるんじゃないよ」

「大丈夫だ。お前は重くないっ!」


 ぺちん。


 頭をはたかれた。


「失礼なことを言ったから、その罰ね」


 そう言って、大原は俺の背中に手を乗せる。


「腕を俺の首に回して、しっかりとしがみつけよっ!」


「……ありがとう」


「礼はバスに着いてから言ってくれ」


 大原の重さが俺の背中にゆっくり覆いかぶさってくる。たいした重さじゃない。


 ぐふぅ。


 俺は、背中に乗った大原の両(ひざ)の裏に腕を通すと、気合を入れて立ち上がった。


 落とさない決意を固めるように、腰の上に両脚を固定し、腹の前で自分の手をしっかりと握りしめる。


 そのまま、刈り込んだ道へと足を進めていく。


 やがて、山道にたどり着くと、引率の先生が俺達を見つけた。


「山崎、大丈夫か?」


「俺は大丈夫です。みんなは?」


 今、大原が一番知りたがっていることを聞く。


「全員無事だ。心配するな。それより、大原はどうなんだ?」


「足をくじいたみたいです。このままバスまで背負って行きます」


 背中の大原が何も言わないのは、恥ずかしがっているからだろう。寝たふりをして皆の質問をかわそうと考えているのかもしれない。


 それでいい。今は、この立場を誰にも譲りたくない。


「代わろうか」


 先生はそう言うが、俺よりもやせ細っている体格に、首を横に振る。


「それより、山小屋にジャージを置いてきてしまいました。誰か、取りに行ってくれると助かるんですが」


「わかった。おい、誰か、その先の山小屋から山崎と大原のジャージを取ってきてくれ」


「わたしが行きます」


 前方からそう言って山道をりてきたのは、清水優子だった。


 その声に安心して、俺は山道を登り始める。


「大丈夫か」「いつでも代わるぞ」「足元に気をつけろ」と後ろから男子達がうるさい。


 だけどな。この役目だけは絶対に譲らない。


 それは、今のこの一瞬のことだけじゃない。この先もずっとだ。


 この関係がいつまで続くかわからないからこそ譲れない。


 俺達の前には、大学受験、進学先、大学生活に就職と、当たり前のように人生のハードルが待ち構えている。


 そのハードルを飛び越えるにせよ、蹴飛ばして進むにせよ、いつまでも今の関係のままではいられない。


 卒業したら、いや、大学受験を意識するようになったら、否応いやおうなしに関係は変わっていく。


 そこで終わってしまう関係だってあるはずだ。


 それでも。


 足をくじいたこいつが、もしも心までくじいているのなら、立ち直るまでその隣を並んで歩くのは俺でありたい。


 その思いがなければ、皆が目をみはる中、女の子を背負って山道を歩くことなんてできない。


 女子達が振り返っては、口に手をあてて驚いているし、男子達も好奇心を隠そうともせず俺を指さしている。


 そんな興味津々の視線を見まいと下げた視線の先には、泥濘ぬかるんだ泥と水たまりと土の匂いが広がっていた。


 足元だけに意識を集中しながら、俺は、前かがみになって、土のでこぼこをにらみつけ、次の足場を間違えないように、半歩ずつ慎重に登っていく。


 湿度の高さに汗が流れ落ちるけど、雨で冷やされた空気が風となって頬をでていくから、暑くは感じない。


 背中のぬくもりすら、心地よいくらいだ。……密着している部分、大原のお腹と俺の背中は、汗でしっぽりと濡れているようだけど。


 これを正解という奴は、たぶん変態。

 だが、それがいいっ!


 俺にとっては大正解っ!

 むしろ、ご褒美っ!

 よくやった、俺っ!


 こうして二人で、皆に見られながら、ひそかに誰にも言えない秘密を積み重ねていきたい。


 それに、篠崎会長と大原の噂は、これできれいサッパリ消えてなくなるだろうし。


 そう思っていたのもつかの間。


 いつまでも続く坂道に、よこしまな気持ちは消え失せてゆく。それでも、俺は答えを示し続けなければならない。


 滑らぬように。

 転ばぬように。

 落とさぬように。


 その決意が、今の俺を支えている。


 額から汗が落ちる。


 腕や腰にかかる重力に、踏み出す一歩が重い。


 坂道の終わりはまだ見えない。


 本当に。

 お前の言うとおりだ。

 学校の試験みたいに、誰もが疑わない正解があったならよかったのに。


 ❏❏❏❏


 高速道路で見あげた窓には、青い空が広がっている。


 東京へと、東に向かうバスは、疲れ果てた顔であふれていた。


 まるでしかばねの山。


 それでも、さっきまでは、男子達が冒険談で大騒ぎしていたんだ。


 こいつら、男子どもは、皆が自分の冒険譚を、いかに危険な場所を勇敢に越えてきたのかを語ろうとして、大原の近くの席に座ってきた。


 あげく、喋り疲れたやつから眠っていくものだから、最後までニコニコと聞いているのは大原しかいない。あと、あくびを噛み殺している俺。


 もちろん、こいつらからすれば、俺はリスナーに入っていないんだろうけど。


 口から泡を飛ばして、身振り手振りを加えながらも聞かせたい相手は、大原いずみ、ただ一人だ。


 奴らの話をまとめると、雨が激しくなり、水かさが増してきて、橋が完全に水没したときには、女子は全員が渡り終え、男子達は、膝下まで水にかりながらも左右の2本のロープをつかんで安全に渡りきったようにしか聞こえないんだが。


 誰も言わないけど、一番大変だったのは、両岸で2本のロープを張っていた大人4人で、一番危なかったのは、ロープを張るために最後まで中州に残り、生徒全員が渡り終えた後に、雨で滑りやすいロープを命綱いのちづなにして、腰までの水の中、川を渡った引率の先生二人じゃないのか?


 それに、大原がニコニコ聞いているのは、皆の無事を喜んでいるからなんだけど、わかってるのかな?


 けして、お前らの冒険譚が面白いからじゃないからな。


 川を渡り切ると、雨を避けるためにさっさと林の中の山道に逃げ込んだって、さっき、女子達が言ってたのを、俺はこの耳で聞いたからね。


 もちろん、何が起こるかわからない自然の中でそれは正しい行動で、非難するつもりはないけれど、自慢話も過ぎると鼻につくんだってことは、学んでほしい。


 でも、まあ、きっとそれは今じゃない。


 俺が水を差して話の腰を折り、空気を壊すのは本意ほんいじゃないし、ここで放った言葉の数々は、たとえば今夜、冷静になったとき、切れ味鋭いブーメランになってお前らの体を切り裂き、むき出しになったその羞恥心をなぶるように何度も何度も(えぐ)ってくれるだろうから。


 ……どんまい。


 気にするなよ。誰もが通る道だ。


 俺も通った。恥ずかしがらずに、明日も学校に来いよな。マイブラザー。


 だけどな。


 事情を知っている女子達はさっさと自分達の席を決めて、安らかな寝息を立てているというのに、お前らが隣の大原のまわりで騒ぐから、うるさくて眠れやしない。


 だから。


 こいつら、男子どもに言ってやりたい。


 もしも、対応が遅れていたら、帰れなかったかもしれないんだぞ。仮に腰まで増水していたら、それでも渡っていたら、パンツまでびしょ濡れだったんだぞ。


 いや、お前ら男にとってはどうでもいいか。それすら、冒険の書の1ページになるんだもんな。


 すべては、皆を救おうとしてケガをした女王陛下に捧げる感謝と慰めのつもりなんだろうから。


 だけど、俺に対する感謝の言葉がまったくないのはどういうことなんだ?


 増水にいち早く気づいて大原とともに行動した俺に感謝して、頼むから眠らせてくれ。


 お願いだから。


 興奮する気持ちはわかるんだけど。


 つまらないと思っていた課外活動のディスカッションにプレゼンテーション。その憂鬱ゆううつが突然のアクシデントで一気に吹き飛んだ。


 みんなでワイワイ騒ぎながら、カレーライスを作って食べた。雨の中、川を渡る冒険をした。水が流れてきて滑りそうな山道を頑張って歩いた。その面白さと興奮、危険と隣り合わせのスリルがいつまでも残って、消えてくれない。


 途中で終わった課外活動のやり直しはないだろうし、今となっては、班別討議も発表後の意見交換も気が抜けたサイダーのようなものだ。


 そして、最悪のケースは起こらなかった。皆が無事に帰ることができた。


 これで心躍らずにいられるわけがない。


 わかるよ。よ〜くわかる。


 だがら、少しの間、静かにしてくれないかな。お願いだから。


 最前列に座っている最大の功労者の先生のように、ゆっくりと眠らせてほしい。


 その先生にしても、学校に戻ったら、報告に追われることになる。


 最悪の事態にはならなかったとはいえ、生徒達が危険にさらされたことへの対応をどうするかで頭を悩ませるはずだ。


 擦り傷、切り傷まではわからないが、少なくとも山道から滑り落ちて歩けなくなった大原という負傷者がいる。


 大原にとっては、大会欠場という大きな出来事だけど、学校側にしてみれば捻挫なんて大したケガではない。


 陸上部にしても、実際に走る5人の選手の不測の事態に備えて、7人の選手を登録しているのだから、頭数はなんとかなるだろう。


 少し調べたところによると、予選会はハーフマラソンの距離を走るらしい。


 1区から5区まで順に6キロ、4.0975キロ、3キロ、3キロ、5キロの合計21.0975キロ。


 優勝校は全国大会への出場権を得る。また、優勝校を含む上位6校は11月23日の関東大会に出場し、その優勝校は南関東地区代表として12月22日の京都都大路(みやこおおじ)を走る全国大会に出場できるとあった。


 もっとも、京都に都大路みやこおおじという地名は見当たらないんだけど。


 一体、どこ?

 はっ、まさか、異世界か?


 それはいいとして、仮に、大原が欠場したことで予選会で優勝できなかったとしても、6位以内に入って関東大会で優勝すれば全国大会に出場できる。


 だけど、6位に届かないようなら、大原が出場していても全国には届かないだろう。駅伝は一人で走るものではないのだから。


 俺は陸上部の駅伝選手の力量を知らない。


 それでも、一度も全国大会に出場していないことは知っているし、選挙演説で篠崎会長が、全国大会は難しいだろうと言ったことも覚えている。


 陸上部のエースが言うのなら、それはまぎれもない事実だ。


 つまり、大原に責任はない。ケガをしたことで大原が予選会を走れず、結果が出なかったとしても。


 だから、本当に憂慮すべき問題は。


 こいつらだ。

 男子ども。


 なんと言っても、非日常を経験した冒険者達は、家に帰ったら魔王を倒した勇者ばりの活躍を家族に吹聴し、その言葉の綾として、キャンプの帰りで、大河の荒波を渡りきるまで、その永遠にも思わせるわずか数秒の出来事が、いかに危険で自分がどんなに勇敢だったのか、各家庭ごとにまったく異なる命知らずで勇壮な物語が繰り広げられるわけだから。


 保護者からの問い合わせにどう対応するか、学校側から説明するのか、問い合わせがあってから説明するのか、書面対応か、口頭対応かを検討しなければならない。いや、その前に校長、副校長、それから理事会への報告が先か。


 いずれにしても、今日、危険を冒して生徒達を無事に連れ帰った最大の功労者である引率の先生達には、これから魔王(じょうし)とかラスボス(ほごしゃ)との戦いが待っている。


 ……お疲れ様です。


 俺が憐れみの目を先生に向けていると、お腹がぐぅ~と鳴った。考えてみれば、カレーライスを食べるのを途中でやめていた。


 バスに着いてからは、喉の乾きに堪えられず水をガブ飲みした。お腹いっぱいになるまで。


 はぁ〜と、ため息をつく。


 食べるものなんか用意していない。お菓子を持ち込むなんて考えつかなかった。朝のポッキーは、課外活動と遠足を区別していないやつらのれ事だ。


 大原は別だ。羊羹ようかんなんて、あんこと砂糖のかたまりを進んで食べるとは思えない。おそらくはお母さんに持たされたんだろう。


 でも、そんな俺の目の前に、黒いブツが差し出される。


 羊羹ようかんだ。


 差し出したのは大原いずみ。

 何個持ってきたんだ? こいつ。


「はい、あ〜ん」


 それを俺は拒まない。


 大原がそうする理由を聞いたから。

 お腹が空いているから。

 大原がこれを食べるつもりがないことを知っているから。


 理由はいくつもある。

 だけど。


 最大の理由は、意趣返しだ。

 騒いで俺を眠らせてくれなかった男子どもへのリベンジだ。


 口を大きく開けて大原が差し出すミニ羊羹をぱくりとくわえる。


 もぐもぐ、ごくん。


「おいしいな」

「もっと、食べる?」

「ああ」

「どうぞ」


 そのやりとりを見て、冒険者達は去っていく。一人ずつ俺達から離れていって、いるべき座席を見つけては黙って座り込む。


 そして、あっという間に、しかばねの山と化したというわけだ。


 そうして、静かになったバスの中で、背もたれに深く沈み込み、高速道路から東の空を見あげている俺がいる。


 窓の外に広がる青い空を。


 肩にコトンと体重がかかった。


 大原の頭が俺に寄りかかっていた。寝息を立てて。


 大原も疲れている。俺も学校に着くまでの一休みと考えて、目を閉じた。


 息を整えようと深く息を吸って吐く。それを繰り返す。もう一度。


 静かになったら眠れると思っていたのに、隣の大原を意識して眠れない。


 というか、女子が隣にいて眠れるとしたら、もうそれだけで勇者だ。色香にまどうことなく、はがねの精神で己を律し、目的を見失うことのない勇者の中のゆぅ、しゃ……グゥ。


 次に目を覚ましたときは、バスは高速道路を降りていた。学校はもうすぐだ。


 大原はまだ眠っている。


 俺は、起こさないように、頭を背もたれに寄りかからせると、じっと顔をのぞき込んだ。


 桜色に唇が濡れて見えるのは、リップクリームでも塗っているのだろうか。吸い寄せられるように顔を近づけていく。


 眠っている女子にしていいことではないとわかっている。


 これは犯罪だぞと自制を促す声が聞こえる。だけど、この気持ちは抑えられない。


 8月の体育館、文化祭の劇の稽古ですでにキスをしている。合意の上ではなかったけれど。


 今朝のバスの中では、俺の食べかけの羊羹ようかんを食べてくれた。好意からではなく、別の意図があったけれど。


 でも、だから、これくらいの役得は許されるような気がする。


「んーっ!」


 背中から誰かの声がした。


 振り返ると、水越まゆみがにらんでいた。


 その後ろで、クラスメイト達の目が光っている。


 今朝、殺気にさらされた記憶がよみがえってきた。


「死ねっ!」

「変態っ!」

「痴漢っ!」

「キモッ!」

「鬼畜っ!」

「最低っ!」

「クズッ!」

「低能っ!」

「卑劣っ!」

「ゲスッ!」

「色魔っ!」

「カスッ!」

「最悪っ!」

「姑息っ!」

「汚物っ!」

「ゴミッ!」

「淫獣っ!」


淫獣(いんじゅう)って、何?」

「ケダモノのこと」

「なら、オッケーだよ」


 オッケーなのかよっ!


 だが、大原を起こさないように小声で投げつけられるコンパクトで的確な言葉に反論などできない。


 それは、大原が目を覚ますまで、ネチネチと続いた。


 ❏❏❏❏


「ねぇ、優子、古典の日って、知ってる?」


 大原が清水に聞いていた。


 バスを降りた俺達は、大原を病院へ連れて行くために、先生が車を回してくるのを教職員用玄関で待っているところだ。


 保健室で足にテーピングをした大原はイスに座り、その隣には清水優子がサポートしようと控えている。どうやら、俺は、お役御免らしい。


 というよりも、性犯罪者を被害者の隣には置いておけないという、被害者保護を意識した水越のありがたい配慮だ。


 俺が見送るのを許してくれたのは、大原がそれを望んだから。


 俺が寝ている大原にキスしようとしたことを聞かされて、最初はあっけにとられていたが、やがて、笑いだして「受けるっ! 山崎、受けるんだけどっ! そっか、そっか〜、そんなにわたしのことが好きだったんだ〜」と言ってくれたので、とりあえずは無罪放免となった。


 だけど、♫水越的(みずこしテキ)には完全オールギルティ。

 by 水越 メイクス レボリューション。


 大原の介助と荷物を持ち帰るために病院に付き添うのは清水優子。俺は、水越の監視のもと、離れたところから大原を見送るためにここにいる。


「古典の日?」と、清水が返す。


「11月1日らしいんだけど」


 ……こいつ、信じてなかったんだな。


「11月1日?」と清水が繰り返したとき、水越が。


「キティちゃんの誕生日っ!」


「「「えっ!」」」


「11月1日は、キティちゃんの誕生日だよ」


 ……そ、そうなの?


「キティって、ハローキティ?」


「そうだよ。11月1日は、キティちゃんの誕生日。それ以外は認めないっ!」


「「そうなんだ」」


 ……しかたがない。光源氏には悪いけど、メジャー度で言えば、ハローキティが遥かに上回る。我が国の国策であるクール・ジャパン戦略への貢献度も大きい。ワールドクラスの有名人だもんな。


 ハローキティは猫じゃないのかって?


 ハローキティ、正式な名前はキティ・ホワイト。彼女は猫をモチーフに擬人化したキャラクターなので、猫ではありません。


 しかも、チャーミー・キティというメスのペルシャ猫を飼っている。猫が猫を飼うなんてありえない。

 Q.E.D.以上、証明終了。


 11月1日は、キティちゃんの誕生日で間違いありません。異議なし。


 だけど、クール・ジャパン? 自分のことをクール(かっこいい)とか、言っちゃう? ナルシスト全開みたいで見てられないんだけど。


 それは、ともかく。


 なんとなく、クラスの空気が変わり始めている。


 無邪気に笑っている大原にとっては、これも計算ずくのことなんだろうか。


 でも、俺とみんなとの距離が明らかに離れ始めた。俺のことを遠巻きに見ているというか。


 大原にふさわしい相手なのかを見定めようとしているのかもしれない。


 おそらくは、誰もいない山小屋で、俺と大原の間に何かあったとでも思っているのだろう。


 担任の先生の車が玄関前に着いて、大原と清水が乗り込んだ。


 それを見送りながら、寂しさを感じていた。二人で過ごした濃密な時間が手のひらからこぼれ落ちて消えていくようだ。


 そして。


 覚悟していたとはいえ、バスを降りるときに向けられたクラスメイトの視線を思い出して、俺はたった一人になる不安に怯えていた。


 一人ぼっちには、慣れていたはずなのにな。


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