第24話 そのランナー、偽る者につき
10月23日、水曜日。
週間天気予報によると、晴れるのは今日限り。明日からは数日前に発生した台風の影響で週末まで雨が続くらしい。
どうせなら、今日、雨が降ってくれればこの憂鬱な課外活動も延期になったのにと、俺は頭を抱えていた。
問題なのは、クラスごとに分乗したバスの座席。そして、今の俺の身動きできない状況。
担任の教師によると。
「このクラスの団結力は、今回の試験と答案を返した世界史の授業でのバカ騒ぎでよくわかった。
座席指定はしないから友人同士で固まって座っていいぞ。課外活動は授業の一環だが、せめて行き帰りくらいは楽しみながら過ごせるように、俺からの特別の配慮だ」
ということらしい。
確かに、同じクラスになって半年も過ぎれば、特別に仲のいい友人の一人や二人できていてもおかしくはない。
だが。
つい最近まで、クラスメイトの名前と顔が一致できていなかった俺にそんな友人なんているわけがない。
仲のいいグループがあるということは、そこからはじき出された生徒もいるってことなんだけどな。
まあ、そんな寂しい高校生活を送っていれば、私立高校の教師にはなっていないか。
自身の楽しかった学生時代を参考にされても困るんだよな。
俺の中学時代を参考にするのなら。
……生徒と教師の間には深くて越えられない溝がある。
生徒達は、教師に対して、鏡面仕上げのようにキラキラした、甘いチョコレートでコーティングした人間関係しか見せていない。
たとえば、友人がいない。
たとえば、いじめられている。
それを口にするのは、とてもハードルが高い。
自分がそういう存在だと認める惨めさ。
それに堪えてでも教師に告げなければならないとき、状況はすでに取り返しのつかないことになっている。
もはや、学校での正常な友人関係など考えられないほどに。
ましてや、親に告げるということは、抱いている期待を失望に変えることだ。残酷な事実を突きつけ、悲しませることにほかならない。
父さん、母さん、あなた達の子供は、早くも人生に躓きました。泣かせてごめんなさい、と。
もしかしたらあり得たかもしれない友人関係に背を向け、さらに自分の惨めさを一番親しい人に知られ、それでなお、自分に居場所があるのだろうかと何度も自身に問いかけて、やっと、このつらい思いを吐露できるのだ。
いっそ、かばんや靴を見つからないところに隠してくれたなら。
顔が腫れ上がるほど殴ってくれたなら。
髪をザンバラにハサミで切り散らしてくれたなら。
教科書や服をビリビリに引き裂いてくれたなら、言葉にしなくても伝えられるのに。
だけど。
やつらはアタマが幼いくせに狡猾で、証拠を残さないよう、安全地帯から一歩も踏み出すことなく、手を出してくる。
あるときは、すれ違いざま、俺だけに聞こえるように、「調子に乗るなよ」「いい気になってんじゃねーよ」「お前、みんなから嫌われてるぞ」と繰り返してくる波状攻撃。
別のときは、体育の時間、背中から押されたり、足を引っ掛けられたり、もつれて転んだ瞬間を狙って背後から蹴りを入れてくるラフプレイ。
そして、決まってこう言う。
「ごめんな。わざとじゃないんだ」
それが、俺に向けての言葉じゃないことくらい察しがつく。第三者に向けてのエクスキューズ。
顔に浮かべた薄笑いがその証拠だ。
その巧妙なやり口は、被害を伝えて救いを求めた相手ですら、「その程度なのか」「もっと酷いのかと思った」「社会に出たらそんなの山ほどあるよ」「どこに逃げてもおんなじこと」「無視していればおさまるよ」「やんちゃをしたい年頃だからな」と、かえってやつらの手先となって被害者の心を折りにくる。
現に、俺の様子がおかしいからと問い詰めてきたはずの兄は、「司馬遷の書いた史記に、韓信の股くぐりと言って、大望を抱く人は小事は気にしないという話があるよ」とか「どうしても駄目だったら言ってきて」と、ふざけた答えを返してきた。
こいつが、俺に手を差し伸べようとする気持ちなど持っていないことを思い知らされただけだった。
そして、犯罪にならないような嫌がらせであっても、手数が多くなり、それが日常となれば、精神的に追い詰められていく。
中学校に行くことを厭うようになる。
それを負けだと認めたくないなら、最後まで自分は悪くないと言い続けたいなら、取れる行動なんて一つしかない。
そうして俺は、いつしかカッターナイフをポケットに忍ばせていた。機会があれば正当防衛を装ってやつらに仕返しをしてやろうと。
むしろ、脳内でシミュレーションを重ねていたくらいだ。
登校の道すがら。昼休みにグラウンドを見下ろしながら。部活を見送る下校のチャイムを聞きながら。
修学旅行の夜、呼び出されて取り囲まれたなら、それを理由に、そいつにまっすぐ飛び込むことを夢想して胸を躍らせていた。
見ないふりをしたクラスのやつらも、学校も、担任教師も巻き添えにして、まわりのやつらのこれからのすべてをぶち壊そうと待ち構えていた。
だが、そんなことは起こらなかった。
きっかけは個人面談だった。
担任教師にしても、クラスの空気にまったく気づいていないわけではなかったらしい。
放課後、個人面談と称して俺を応接室に呼び出し、嘘くさい笑顔を貼りつけながら、仲のいい友人をあげさせたり、班の様子、クラス内での俺の役割分担をそれとなく聞き出そうとしてきた。
教師間で授業風景の情報を共有して、孤立している生徒はいないか、いじめはないか、問題行動を起こしそうな生徒はいないかと、日々観察していると、あえて教えてくれた。
おそらくは、俺の行動を抑えつけるつもりで。
だが、俺が教師から呼び出される、次にやつらが一人ずつ呼び出される、その繰り返しにやつらが折れた。
飽きた玩具を捨てるように、俺を無視するようになった。
結果、修学旅行のバスでは二人掛けの席にいつも一人。誰からも声をかけられることもなく、窓に顔を貼りつけるようにして、流れる風景を見て過ごした。
誰かと会話することもなく。
食事のときも寝るときもそう。
修学旅行が終わり、高校受験を意識するようになってからは、無視されることにも慣れ、案外悪くないと思うようになっていた。
相手に合わせなければ維持できない友人関係など、受験勉強の邪魔でしかないと。
進級して3年生になると、教室は受験一色となる。勉強ができる者とできない者、クラスは、緩やかに、だが確実に分断され、成績と志望校のグレードだけが価値を持つようになった。
模擬試験の順位が唯一の評価となり、成績が劣る者は、発言権を奪われ、疎まれ、孤立させられていく。
気づいたときには、俺を虐げたやつらの人間関係は破壊されていた。
クラス替えがあったことも影響したのだろうが、やつらは、進学できる高校の名前で勝手に互いをレベリングし、中学生特有の容赦のない一言でこぼれ落ちた仲間を切り刻んでいた。
友人という言葉の裏に隠された本性の醜さを見せつけられた。
勉強ができないことは悪だ。
そこには、性格とかこれまでの付き合いなんて関係ない。試験で平均点を取れないやつは人間じゃない。ただのゴミ。
まるで、サメの共食いを見せられているようで、吐き気がした。
人がそういう存在なら、俺は友人なんかいらない。
どうせ、このクラスの連中とは進学する高校が違う。受験を考えているのは、日比谷、青山、駒場。いずれもこのクラスのやつらでは手が届かない。
俺もやつらと同じだと気づかないまま、この高校に進学した。
だけど。
同じ轍は二度と踏まない。
目立たぬよう、教室の隅で静かに過ごそうと、そう決めていたはずなのに。
入学式の新入生代表あいさつを任されたことで、浮かれてしまった。
誘われるまま演劇部に入部した。それが理由となってクラスの劇の台本を書かされた。こんなはずじゃなかったのに。
……ただまあ、中学と違って、俺達は入学試験という共通のイニシエーションを経ている。
他の一般クラスはともかく、特進クラス生は、優秀な成績を示して入学した者達だ。
正直、俺が何をした結果、中学でそんな目にあったのかわからないままだが、勉強で選別されてここにいるということは、このクラスメイトになら、ある程度の知性と教養に基づく対応を期待してもいいのだろうと思ってしまう。
それでも、用心することに越したことはない。気をつけて行動しなければ。
たとえ、友達と呼べる人間関係が育たなかったとしても。
だから、俺は、つい先程。
このバスの最後列が空いているのを見て、誰かが不快に思わないように、奥の端の窓際を選んだんだ。
10人しかいないクラスの男子。二人がけの座席に男子同士で座ったなら、誰かが俺の隣というハズレくじを引くことになる。
せっかくのバス旅行なんだ。俺の隣に座るという罰ゲームで、今日という日を台無しにさせたくはない。
なのに。
そこまで気を配っているのに、俺の隣に、この最後列のすべての席に、さらにはすぐ前の席に。
女子達が座ってきた。
俺の隣には、大原いずみ。その隣には清水優子に水越まゆみ、田村春香と続く。前の席には、永田由紀子と石月恵子の二人が座る。通路をはさんで後藤しおりと吉川さん。
だからだろうか。
真ん中あたりから、後ろを振り返って見ている男子達から向けられた視線が痛い。俺は悪くないのに。
そもそもが男子ども、親しい男子の友人同士、二人で並んで座っている時点で俺をにらむ資格なんてないからな。
仮にその資格があるとすれば、俺がここに座ったことで、あぶれて一人きりになった男子しかいないはずだ。が、そいつ、最前列に座る梨田の隣には女子が座っている。あの子は、たしか有田さん。
……にらむなら、梨田をにらめよ。
リア充爆発しろ。言うなら今だぞ。
「ポッキー、食べる?」「いいのか? 俺、好きなんだよね」「えっ?」「う、うん。ポッキーも」「ポッキーも?」「うん。ポッキーも」「もう一本、いかが?」「うん。大好きだから」「そう? ポッキーおいしいもんね」「それだけじゃないけどな」「わたしも」「ポッキーのこと?」「そう、ポッキー」「気が合うね。実は俺もポッキー、持ってきたんだ」「そうなの?」「食べて欲しいな。俺のポッキー」とか。
なにが、ポッキーだ。いや、ポッキーが悪いわけじゃなかった。すべてはバカップルのせいだ。
心の底から叫びたい。
リア充爆発しろ。せめて、ポッキー折れろ。
このクラスの男達に代わって、呪いの念を送りたい。
それなのに。
男子ども、振り返ったまま、背もたれに腕を乗せて、こちらを見ていやがる。梨田と有田さんのことに気づかないふりをしているのか。それとも見ていられないのか。
うん。邪魔しちゃいけないもんな。
わかるよ。……ごくん。
男同士で並んで座っていても、魂の一人ぼっちはさみしいもんな。男の友達が隣にいても埋められないさみしさ、虚しさってあるもんな。
男同士の付き合いも大切だけど、それだけでは満たされない気持ちってヤツも確かにあって、俺達は、そんなモノにとらわれ振り回されてしまう。情けないことに。
だけど。……もぐもぐ。
本当に欲しいのは、たった一人の笑顔。心を満たしたいのは、たった一人からの言葉。
この手に抱えているたった一人への思いを、その人に受け止めてほしいだけなんだ。
誰でもいいってわけじゃないんだぜ。
俺は横に座る大原を見る。……ごくん。
「はい。あ〜ん」
ぱくり。もぐもぐ。……なんじゃ、これ?
「羊羹、おいしい?」
ごくん。
「……いつの間に」
「梨田くんと有田ちゃんのこと、うらやましそうに見ていたからね。口元にミニ羊羹を差し出したら、山崎、そのまま食べるんだもん。くくっ、餌付けみたいで受けるっ!」
「受けねーし」
男子達の怒りの理由がわかりました。うん。俺が悪い。……あと、大原の背中越しに清水と水越がにらんでいた。申し訳ない。こんなちょろい男でごめんね。
「まだ食べるかな?」
「食べねーし」
「そ〜お? 小豆の羊羹、きらいなのかな?」
「きらいじゃねーし」
「だよね~。もっと食べていいんだよ。ほれほれ」
そう言って、大原は一口サイズの羊羹の残りを俺の口に押しつけてくる。でも、男子どもの視線にも、清水と水越の殺意にも気づいた今となっては、口を開けるなんてできるわけがない。
子供がいやいやをするように、唇に押しつけられた羊羹から首をひねって逃げる。
それなのに。
「しょうがないな〜。砂糖が入ってるから食べないつもりでいたんだけどな〜」
大原が、残りの羊羹を、俺の食べかけを、散々俺の唇に押しつけたものを、ぱくりと自分の口に放り込んだんだ。
「「「「「「「ああぁぁああーっ!」
みんなの震える声と見開いた目、そして、その次の瞬間、俺に向けられた殺意、殺意、殺意。そして殺意に、あと殺意。
俺、悪くないよ? 何もしてないよ。
なのに、俺の弁解は誰にも届かない。
バスは、朝日を背にして東名高速を西へと向かう。県境を越えてキャンプ場へと。
暗雲が立ちこめる。
それは、バスの中だけじゃない。
窓の外。
西の空、遥か彼方から少しずつ、それでも確実に、世界は、日の当たる場所から厚い雲が覆う迷宮へと変わりつつあった。
❏❏❏❏
キャンプ場は、山の中、川沿いの中州にあった。
ごろごろする石を踏みしめて、小川に板を渡して杭で留めただけのお粗末な橋を二、三歩で渡り切り、小高い丘の上に登ると、コンクリートの炊事場が設けられた広場にたどり着いた。
炊事場の前に広がる黒土と砂利の混じった平野というか、扇状地。
そこには、木を組んで屋根をこしらえただけの建物が立ち並び、俺達は、屋根の下のベンチに腰掛けて、炊事のレクチャーを受けている。
作るのはカレーライス。
食材置き場から、班別に肉、玉ねぎ、じゃがいも、にんじん、油、カレールー、米を受け取り、調理器具置き場から鍋、飯ごう、お玉、包丁、皮むき器、皿、スプーン、スポンジ、ゴミ袋を受け取る。
副班長が材料を渡すスタッフとなり、班長が受け取ってきた材料に過不足がないか、調理の進行に遅れはないかを確認する。
他の者は、あらかじめ決められた役割にしたがって、資材を受け取り、手分けをして調理に取り掛かる。カレー作り担当とご飯作り担当に分かれて。
俺は、記録係だ。
なんと言っても、この課外活動の目的は、炊事を経験して、家事分担の大切さをレポートにまとめて報告、発表することにある。
材料の選び方、発生した野菜くずの処理、切ること煮込むこと、米を洗うことで感じたこと、食べたあとの食器洗いと返却に炊事場の後片付けの際に思ったこと。
場面、場面で気づいたことをメモに残しておかなければ班別の討議なんてできやしない。
重要なのは、調理や片付けの過程で気づいた問題点の摘示だ。味の感想なんかじゃない。
なのに、大原の作ったカレーを目当てに女子どもが集まってきた。
いや、自分達の皿を持ち寄ってお互いに食べ比べをしてるだけなんだけどね。
同じ具材に同じルーなんだから、大きな違いがあるとは思えないんだけど。
あれか。隠し味にポッキーでも入れた班でもいたのか?
ただ、結果として、俺は自分の班のテーブルからはじき出されることになった。
それで、こうして大きな石をイス代わりにして、一人さみしく小川を見ながら皿を片手にスプーンでカレーライスを口に運んでいるというわけだ。
でも。
だから気づけたのかもしれない。
来たときに、ちょろちょろと流れていたはずの小川の川幅が広くなっていることに。
水量が増えている。
雨は降っていない。曇天は空一面に広がっているが、まだ、降る気配はない。
だけど、上流で雨が降っていなければ、この川の増水は説明できない。
「川が増水しているぞっ!」
振り向いて叫んだ俺の声に、大原が反応した。
俺のそばまで駆けつけると、背中に手を乗せて丘の下をのぞき込む。
ぐふぅ。……重い。
「これは、まずいね。優子っ! 急いで先生に増水を報告して、ここまで連れてきてっ!
まゆみは春香と一緒に他の班を回っていつでも帰れる準備をするように伝えて! 他のクラスにもねっ!
由紀子と恵子は、クラスのみんなと一緒に帰る準備を始めてっ! 急がせてねっ!
しおりと吉川ちゃんは、このまま増水の様子を見ていて。
先生が帰るように指示したら、橋のこっち側と向こう側で、渡る人を一人ずつ誘導して。押さないように、落ち着いて歩くようにってね。
もしも、水が橋の上を超えたら、渡るのをやめさせて。わたしがロープを取って来るから、それまで安全なところまで下がって待つようにって。お願いできるかな?」
「「「「「「「「任せてっ!」
「山崎は……わたしについてきて。ロープを持ってくるのを手伝って」
「わかった」
もう、課外活動どころじゃない。いや、まだわからない。増水だって一時的なものかもしれない。教師の判断を待つのが正しいような気もする。
だが。
学校の教師はアウトドアのエキスパートじゃない。こういうときにどう行動するか、大切なのは何か、俺達はいやというほど学んできたはずだ。
つらい現実を、あのときこうすればよかったと嘆く大人達の姿を散々ニュースで見てきたはずだ。
少なくとも、今俺がすべきことは課外活動の準備なんかじゃない。
後で何と言われようとも、今は行動あるのみ。
「ロープをどうするんだ?」
「橋の上を向こうとこっちに渡して、それにつかまりながら渡れるようにする。腰まで増水したらダメかもしれないけど」
「ロープがどこにあるか知ってるのか?」
「バスの駐車場脇に管理棟があった。もし、ロープがなくても、管理人に増水を知らせれば何か方法があるはずだから」
そう言って駆け出した大原を追う。
杭で数か所を留めただけの板をタタンと一足飛びで渡り、ごろごろした石だらけの川原を駆け抜けていく。
こぶしほどの大きさの石に足を取られながら、それでも、緑が生い茂る林の入り口までたどり着くと、あとは山道を駆け上がるだけだ。
なだらかな坂道を、大原は軽やかに登っていく。
こいつ、山の神かよっ!
対する俺は、木につかまったり、膝に手をついて休んだり、足元をズルっと滑らせたりで、その差はどんどん開いていくばかりだ。
待ってくれと言う気も起きない。曲がりくねった山道の木々の間、緑の中を動いている青のジャージが大原だということが道が間違っていないことを教えてくれる。
息も絶え絶えになり、あの先を曲がったら一休みしようかと思ったとき、突然、目の前が開けた。
アスファルトできれいに舗装された駐車場。並ぶバス。とうとう、たどり着いた。
俺は両手をあげて叫びだしそうになる。
エイ、ドリア〜ンッ!
だけど、その凱歌をあげる間もなく、雨粒が落ちてきた。
「天はわれを見放したのかーっ!」
「ばか言ってんじゃないわよっ! 縁起でもない」
大原が走ってきていた。その後ろに、肩にたばねたロープを巻いた二人の男を引き連れて。
確かに失言だった。日露戦争を想定した青森県の八甲田山、冬の雪中軍事訓練で遭難して二百数十人のうちの11人しか生還できなかった行軍中隊長の失意の言葉だった。
歴史的事実に、かなりの脚色を加えて小説が書かれ、後に映画化もされた。
生存者の手記によると、正しくは、『天はわれわれを見捨てたらしいっ!』とあるようだ。
けど、大原のメチャ怒っている顔が怖い。言ってはならない言葉もある。
後ろに大人達がいなかったなら、飛び蹴りされていた勢いで、大原は俺の横を駆け抜け、今来た坂道を下っていく。
おじさん二人も息を切らして走ってきたが、結局、俺、何のために来たのかな?
わかってます。手が足りなかったときのスペアだよね。大原の思考と俺に対する扱いが自然に理解できて、なんだか悲しい。
たぶん、この先もずっと、そう。
だけど、今は。
雨も降り始め、増水による危険はさらに増した。こんなところで立ち止まっている場合じゃない。
俺もおじさん達のあとに続いて山道を降りていく。
小雨だったのが、だんだん強くなっていく。林の中でこれなんだから、中州はもっとひどいに違いない。
木々の葉は、もう傘の役目は果たしていない。雨が頭をたたき、目の前を雫が垂れる。それを片手で拭いながら俺は中州を目指す。
まだ、坂道は濡れている程度だが、やがて道はぬかるみ、滑りやすくなるはずだ。
そのとき。
先行する大人二人が立ち止まった。
「やっちゃったか?」
「そうだな」
「どうする?」
「ほっとくわけにもいかないな」
俺は、二人の間に入って先を見た。
山道を削るように土がえぐられ、数メートルはあろうかという谷の下に、青のジャージ。
先に行ったはずの大原いずみが崖下に落ちて倒れていた。
「俺が行きます。お二人は中州の方へ」
「大丈夫か?」
「気をつけます。だけど、今は」
「わかった。すぐ先にバンガローがあるから、そこに避難していろ。後で迎えに行くから動くなよ」
「よろしくお願いします」
それだけ言葉をかわして、ロープを持った初老のおじさん達は長靴で足元を踏みしめながら山道を降りていった。
俺は、注意深く崖にしがみついて、あたりの草を握りしめながらゆっくりと降りる。
手も靴も、ジャージも泥だらけだが、気にしてなんかいられない。
ゆっくりゆっくりと、草をかき分けて大原に近づいていく。
「やあ」と、大原が仰向けになって笑った。
「大丈夫か?」
「だめかも」
「おいっ!」
「うそ」
「起き上がれるか?」
「それがね。足首が痛くて。……骨は折れていないようだけど、歩くのはつらいかな」
お前、駅伝の大会は、と言いかけてやめた。予選会は十日後、仮に捻挫だとしても出場は難しいだろう。
いくらメンバーに選ばれていても、選手を大切にしているというコーチが許すはずがない。
大会は来年もある。大原の競技人生は始まったばかりだ。
おそらくは、大原もそのことがわかっている。顔を濡らしているのは雨だけじゃないはずだ。
「どっちの足?」
「左」
「肩につかまれ」と、大原の左側に立って、かがみながら左肩を俺の首に回して立ち上がらせる。
「痛たっ!」
「すまん」
「山崎のせいじゃないよ。ごめんね。ありがとう」
「足元、滑るから気をつけろよ」
「うん」
あたりは鬱蒼と茂ったジャングルに似て、俺達は、胸まである草むらの中に分け入って、ゆっくりと進むしかない。
雨に濡れた草が体にまとわりついて、泥まみれのジャージが洗われているみたいだ。
足元に何があるかわからない。切り株、石、くぼみ、濡れた草。躓く要素はいくらでもある。
俺達は、山道に沿って、ただゆっくり下っていく。どこかで山道に合流できる場所を探して。
それは、だけど。
駐車場から遠のいていくことを意味している。このまま、山道に合流できるまで、雨に打たれたまま、いつまで歩けばいいのかさえわからない。
それでも、右手を回して支えている大原の体の温もりが、俺を奮い立たせる。
こんなところで終わるわけにはいかないと。
どのくらい経っただろうか。やがて、視界の先に三角屋根が現れた。
おじさん達の言っていたバンガローだろう。
だが、これは。
ただのほったて小屋じゃねーか!
ぎいっときしむドアの隅には蜘蛛の巣が張られ、のぞき込んだ先には明かりも見えない。
薄暗い小屋の中は1畳か2畳程度の広さしかなく、明かり取りの窓もなかった。
むき出しの土の上に、直接、柱を立て、トタン板で天井から斜めに覆って、ベニヤ板で囲っただけの、雨風をしのぐ、ただそれだけを目的とした小屋。
山の中だから、キッチンやトイレがないのはしかたないにしても、せめて、体を横にして休める床くらいは欲しかった。いや、できれば窓も。
それでも外よりはマシだと思って、小屋に入るけど。
斜めの屋根から聞こえる雨音は、バラン、バランとうるさい。
火元がないから、雨に濡れて冷えた体を温めることもできない。
ドアを閉めると真っ暗になる。それは心細いと、つっかえ棒を立てて、開け放っているせいで、なかなか温まらない。
土砂降りの中を歩き回らずに済んだ幸運に感謝して、二人で膝を抱えて雨の様子を見ているだけだ。
俺達はここで助けが来るのを待つしかない。
ただ、神奈川県の山中には、月の輪熊が生息していると聞いたことがある。
長く居られるところではない。
それでも。
小屋の狭さから、俺と大原は、ぴっちりと体を隙間なく寄せている。その体温に、俺は幸せを噛みしめている。
泥まみれの濡れたジャージを木の棒に引っ掛け、Tシャツ、短パンの姿になっているというのに。
俺との間接キスをいやがらないし、こんなふうに体を寄せ合っている。もう、友達の距離じゃない。
でも、交際は断られている。
ならば、いい機会だ。ぜひ真意を聞いておきたい。
「なあ」と、俺は切り出した。
「なに?」
「俺って、お前に嫌われてはいないんだよな?」
「うん。好きだよ。どちらかと言うと」
「どちらかと言うと?」
「こんなふうに体をくっつけていても、勘違いしないし、忍耐力があるし」
「忍耐力?」
「わたしの行動に付き合ってくれてるでしょ?」
「あれは、お前がっ!」
何も好きこのんで付き合っているわけじゃない。巻き込まれているだけだ。
「普通はね、一度で懲りて離れていくんだ。それを今日も付き合ってくれた」
「今日?」
「ほら、羊羹のこと」
あれか。
「実はね、生徒会役員の間で、わたしと篠崎会長の仲が怪しいって噂になってるの」
「えっ?」
それは、知らなかった。
「そういう関係じゃないんだけどね。篠崎会長は、生徒会の仕事にあまり関心がないから、わたしが仕事を引き受けてるだけなのに」
「そ、それで?」
「羊羹のことが広まれば、そんな噂もなくなるでしょ?」
「……代わりに俺とのことが噂になるんだけどな」
「それは、しかたないよ。だって、山崎はわたしのことが好きなんだから」
「俺の立場はどうなるんだ?」
「悪くはないよね? だって、他に好きな女の子いないでしょ」
「それは、そうだけど」
「いい加減、わずらわしいんだよね。わたしと誰が付き合ってるとか、関係ないじゃない」
「俺は、隠れ蓑にちょうどいいってわけか」
「そう、だね。でも、山崎がいやならしかたないけど」
「いやじゃ、ない、けど」
「なら、よかった。この先、山崎の代わりなんて見つかりそうにないからね」
「お前は平気なのか?」
「わたしもいやじゃないからね。誰かと付き合うとか、今は考えられないけど、山崎とだったら噂になってもいいって思ってる」
「どうして?」
「毎日会いたいとか、電話やメールがないのはさみしいとか、言わないでしょ」
えっ? 俺、思ってるよ。毎日会いたいとか、電話やメールがほしいって。さみしいと死んじゃうからって。
「いや、俺だって」
「嘘だね」
「嘘?」
「誰かに深く関わる人生なんて真っ平だって顔をしてるよ」
「それは、まあ、そういうこともあるけど」
「いつも、そうだよ。そういう態度でみんなに接してる。だけど、もし、好きな女の子ができたら教えてね。きちんと説明してあげるし、つきまとったりしないから」
「……そうか。じゃあ、お言葉に甘えて仲良くさせてもらうよ。でも、たぶん、お前は間違ってるけどな」
「反論するつもりはないけどね。でも、う〜ん。なんて言うのかな。ほら、人生なんて何が正解なのかわからないでしょ。
学校の試験みたいに正解があるといいんだけどね。そこを目指して一直線に向かえればいいんだけど。人生は違うから。
山崎がどうかは知らないけど、わたしは、いっぱい間違えてきた。正しい道を選ぼうとして。
これからわたしがすること、選ぶこと、何が正解で、何が間違っているのか、簡単に答えを出すことなんてできそうにないよ。
もしかしたら、間違っているとわかっていても、選ぶかもしれない。
取り返しのつかないことだってするかもしれない。誰かを傷つけることだって。
それでも、答えを出さなきゃいけない。何かを選ばなきゃならない。
だとしたら、せめて、そのとき、甘えさせてくれそうな人に助けを求めるのは悪いことなのかな?」
「俺には、わからないよ」
俺は、答えを出せない。大原の言うことは間違っている。間違っているのなら、答えを教えてほしいと言っているんだろう。
だけど、そう言ってやれない。
だって、その言葉の重さが怖いから。
這いつくばってでも、自分の信念を貫けなんて、言ってやれない。
それが茨の道だとしても、我慢して進めなんて、絶対に言えない。
自分自身、その言葉を信じていないから。
でも、たった一つだけ確かなこと。
それは、こいつが俺を男として意識していないということだ。
俺が返事をしないことを、肯定と受け取ったのか、大原はつぶやいた。
「……みんな、大丈夫かな」
大原の心にはもう俺への関心はないのだろう。
雨脚が一際激しくなった。
迎えはまだ来そうになかった。