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第23話 そのランナー、締(し)める者につき

 10月18日金曜日。


 1年A組は、朝から異様な雰囲気に包まれていた。


 3日前の授業から始まった中間試験の答案の返却。


 そこで、異例の事態が起きていた。


 答案を返すときに、教師達が、満点を取った生徒の数を公表するようになったのだ。


 ただし、名前までが公表されるわけではないし、どのクラスの生徒かも明らかにされていない。


 しかし。


 答案が返却されるたび、伝えられる満点を取った人数の多さ。


 常に十人を超え、多いときは二十数人。


 それが何を意味しているかは明らかだ。


 返却された答案すべてにおいて満点を取り続けている生徒が、数人、いや十人近くいるということ。しかも、このクラスに。


 もはや、百点は異次元の数字ではない。努力を続ければ叶う目標となった。中間試験という限られた範囲の成果でしかないにしても。


 もちろん、この特進クラス以外の生徒が取っている可能性だってある。


 それでも、自信満々の顔と悔しがる様子からわかってしまう。


 あいつは振り落とされた。あいつはまだ残っていると。


 だから、俺達は疑っていなかった。


 このクラスの上位3分の1は、いまだ全教科満点を取り続けているということを。


 現に、この俺がそうだ。


 かつて経験したことのない点数と充実感、そして、次は振り落とされるのではないかという恐怖心にも似た緊張感。


 だが、それも今日で終わる。


 4時間目の世界史。


 最後の答案返却が始まる。


「テストを返すから出席番号順に並んで取りにきなさい」


 世界史の新宮先生の声に緊張しながら、俺達は順番に並んで一人ずつ受け取っていく。


「みんな、よく頑張ったな」


 先生からテストを受け取ったやつの手が震えている。


 次のやつも。


「こんなことは教員生活の中で初めてだ。最初は、目を疑った。正直、驚いた。そして、次に君達を疑った。


 ……申し訳ない。もしかしたら、カンニングが行われたのかもしれないと。だが、他の科目でも、このクラスの生徒達が満点を取り続けていると職員室で知って、その疑いは晴れた。


 おめでとう。


 世界史で満点を取ったのは、1年生で30名。このクラスの全員が百点満点だ」


 うおおぉぉーっ!


 歓声があがる。

 授業中だということを忘れて。


「おいっ!」


 新宮先生が、口に人差し指をあてて静かにするように促すが、この興奮は止まらない。


「みんなっ! 忘れないでっ! 勝って兜の緒を締めろだよ」


 大原の言葉に、「よっしゃー」「やるぞ」「頑張ろうね」と、言葉が交わされる。


 誰も彼もが、この瞬間は勝者だ。


 試験でよい点を取った。そのことで一緒に喜べるなんて、おそらくは二度とない。


 互いの頑張りをたたえあう。


 およそ、試験に関してはありえない光景に、みんなの興奮は冷めそうにない。


 それを引き起こしたのは、あの勉強会。


 発起人の一人としては喜ばしいことだが、なんとなく複雑な心境でもある。


「じゃあ、そろそろ授業を始めるぞ。さっき、大原も言っていたが、勝って兜の緒を締めろだ」


 その声に、騒ぎもやっと収まる。


 正しくは、勝って兜の緒を締めよ、なんだけどな。


 その言葉を残したのは、北条氏綱(うじつな)。戦国時代の武将、北条早雲(そううん)の息子だ。もっとも、早雲が北条氏を名乗ったことはないし、鎌倉幕府の執権だった北条氏とも関係ない。


 北条早雲は、生前は伊勢新九郎とか伊勢宗瑞(そうずい)と名乗っていたというからね。


 北条氏を名乗ったのは、氏綱うじつなが、関東の領国支配を正当化するためだったらしい。


 その氏綱(うじつな)が息子の氏康うじやすに遺言でのこした「五箇条の御書置」の最後を締める言葉が「勝って兜の緒を締めよ」なのだ。


 勝ったと思って兜の緒をゆるめたときにこそ返り討ちにあう。だから、緩めるのではなく、締めろと。


 そして、この言葉は、その後、日本が日露戦争に勝利し、日本海軍が戦時編成から平時編成に戻すのにあたって開かれた解散式の「連合艦隊解散ノ辞」において、「古人(いわ)ク勝テ兜ノ緒ヲ締メヨト」と、締めくくる際にも使われている。


 そうだ。

 気を緩めてはならない。


 忘れるな。


 その後、北条氏が豊臣秀吉に滅ぼされたことを。「連合艦隊解散ノ辞」を起草したといわれている秋山真之(さねゆき)が晩年のとこから憂慮した国難が、後年こうねん日本を襲ったことを。


 俺達は、まだ、何も成しとげていないのだから。


 ところで、秋山真之(さねゆき)は、友人から、成績の良さの秘訣を問われた際に、試験対策について、こんな言葉を残している。


「過去の試験問題を参考にすることと、教官のクセを見抜くことだ。また必要な部分は何回も説明するから試験問題を推測できる」と。


 オーソドックスな対策を地道に続けていく。どうやら、秋山の時代から百年経っても、これ以外に効果的なやり方は見つかっていないようだ。


 ❏❏❏❏


 タン、タタタタッ!


 続けざまに銃撃音が鳴り響く。


 それをくぐり抜け、机とイスで築いたバリケードの上を飛び越えて、俺は背中からマットの上へと落ちていく。


 逃げ込んだのは、生徒会室。


 前転で転がり、襲撃者から距離を取ると、やっと軽口を叩く余裕が出てきた。


「くっ、文芸部のやつら、しつこいな。ペンは剣よりも強し、じゃなかったのかよ」


 水越まゆみがモップで床を掃除しながら呆れたように聞いてきた。


「何があったの?」


「サバゲ部のやつらがゲリラに武器を供給してたんだ。改造モデルガンと銃弾を文芸部に売りつけて荒稼ぎしてやがる。マジで死の商人だな」


「会長がまた何かしたんでしょ?」


「大したことじゃない。文芸部に、コピー用紙とプリンターのインクの使い過ぎだと言っただけだ。ろくな作品を書いてないんだから資源の無駄遣いはやめて、ネットで部活をしたらどうかと言ったら、いきなり撃ってきやがった」


「それは会長が悪い」


「どうして?」


「だって、小説投稿サイトに作品を投稿したら、それはもう部活動とはいえないでしょ」


「そんなことはないぞ。発表するのは、インターネットなんだから、読むのは部員だけじゃない。世界中に発信して、より多くの人に読んでもらえるじゃないか」


「その分だけ、酷評されて傷つく機会が増えるってことなのよ」


「そんなの、削除すればいいだけのことだろ? サクッと」


「削除しても、ひどい感想を書かれたことでつらい思いをすることには変わりないじゃない」


「作品を発表するということは、世界に意見を表明するということだ。なんの反応もないよりもマシだと思うんだが」


「高校の部活動でそんな痛みはいらないわよ」


「若いうちは失敗はつきものだ。そもそも、誰にも読まれない物語を書いてどうする」


「仲間(うち)だけだったら、どんなにひどい内容でも辛辣しんらつな感想は言わないでしょ?」


「でも、陰で言うんだろ? ゴミを読まされた。ゲロ、ゲーロとか」


「ひどいっ!」


「ひどくない。ひどいのはちゃんとしてない文章を読ませるほうだ。それは、もう、暴力といっていい」


「暴力?」


「そう。暴力だ。読んでも意味がわからない。相手の顔を見る。こいつ、何を言いたいのかなって。もう一度文章を読む。頭が痛くなる。もう、こいつ、殺してしまおう」


「それで撃たれたんだ」


「あと、ちょっとした感想も言った」


「えっ? 感想?」


「そう。っちゃい。っちゃい。ちゃいでおじゃる〜」


「待ったーっ!」


 ちっ! またかよ。せっかくノリノリでいいところだったのに。


「山崎っ! いい加減にしてよ。アドリブなんか入れないで。まゆみが戸惑ってるじゃないっ!」


 俺の演技にクレームを入れたのは、演出担当の清水優子だ。


 さっきから、この調子でちょいちょい稽古を止めてくる。


 土曜日の午後。


 俺達は割り当てられた体育館の使用時間に劇の稽古をしているところだ。


「それに、本番ではいずみが演じるのよ。台本にないセリフは言わないでっ!」


 だけど、その大原は声を殺して笑っている。説得力ゼロなんだけど。


 しかも、俺は、ダブルキャストの舞台にあがらないほうだ。


「稽古なんだから、面白おかしくやってもいいじゃないか。アドリブで演技力を鍛えるってことも知らないのかっ!」


 文化祭当日にこの役を演じる大原が笑っているなら、問題はナッシング。台本を書き替えたって、肝心の大原が笑って受け入れるなら大騒ぎするほどのことじゃない。


 まあ、俺が演じるんだったら、こんな性格破綻者の役なんて死んでもいやだけど。


 素人しろうとなりに一生懸命考え抜いて書いた作品をゴミ呼ばわりとか、マジでクソだよな、この主人公。死ねばいいのに。


 あと、この二人の会話、文芸部員が書いた作品を、読むに耐えないことを前提にしてナチュラルにディスってるけど、失礼この上ないことに気づいてないのか?


 特に、水越まゆみが演じる神田書記。


 読んでもいないのに、酷評とかひどすぎる。もう、背中から刺されてもおかしくないレベルの暴言だからね。


 あの陰キャども、マジで何考えてるかわからないんだから。


「優子、いいんじゃない。多少のアレンジなら、わたしは平気だよ。それに、そっちのほうが面白そうだし」


 言い争いになりかけたのを止めたのは、大原いずみだった。


 清水は、しかたないという目で大原を見て、ドスンとイスに座る。


「じゃあ、続けて。山崎のセリフ。『あと、ちょっとした』から」


 水越がほんとにいいの? とでも言いたそうな顔で大原と清水を見ているが、清水は腕組みをして黙っているし、大原はそんな清水の肩をマッサージしている。


 それに、そもそもが俺の言葉じゃない。これは渋谷生徒会長のセリフを借りた清水優子の言葉だ。断じて俺の真意ではない。


 が、演出担当のダメ出しには逆らえない。


 俺は、しかたなく台本からセリフを拾う。


「あと、ちょっとした提案もした」


「提案って?」


「美術部とコラボして、いてもらったアニメ風美少女のイラストをアップするだけで閲覧数が稼げるぞって」


「文芸部のこと、完全否定ね」


「次の瞬間、撃ってきやがった。文芸部のくせに言葉が通じないやつらだ」


「通じてるから。行間まで読んでるから。会長の言ったことを正確に理解してるから。言葉の裏の悪意まできちんと伝わっているから」


「そうか? なら、俺じゃなくて、自分の頭を撃つべきだったな。なっ?」


「どうするつもりなの? 敵ばかり作って」


「おかしいな? 俺は最大の理解者のつもりなんだが」


「これは、撃つしかないかも」


「はい。オッケーで〜す。時間なので、今日はここまで。音響と照明は進行表を確認しておいてね。キャストはセリフを覚えておくこと。あと、山崎はよけいなセリフを考えてこないようにっ!」


 清水の言葉で、今日の稽古は終わった。


 手分けをして暗幕を取りはずし、大道具と一緒に教室に持ち帰る準備を始める。


 次の軽音楽部が来る前には撤収しなければならない。


「山崎、少しいい?」


 暗幕を持ち帰ろうとした俺に声をかけてきたのは大原いずみだった。


 呼び止められる心当たりはない。あるとすれば、次の水曜日の課外活動のことかもしれないと立ち止まる。大原と俺は、同じ班だからな。


 1年生の課外活動は、キャンプ場を利用した社会実習だ。


 食材と調理器具、飯ごう、食器を学校側が用意し、生徒達がカレーライスを作る。器材やゴミ、炊事場の後片付けをし、それぞれの役割に対する考え方を班別に討議して問題点と解決策を代表者が発表した後、それについてクラスでディスカッションすることが活動内容となっている。


 学校側は課外活動と呼んでいるが、俺達に課せられているのは、調理後のタスクに関する班別討議とプレゼンテーションがメインだ。


 料理を作る楽しさ、後片付け、ゴミ処理や清掃の煩わしさを、限られた環境で経験することで、家事の色々な側面に対する意識づけを行い、家事分担の大切さを涵養かんようして男女共同参画社会にふさわしい考え方の育成、定着を試みようということなんだろう。たぶん。


 まあ、俺は料理はできないんだけど、せめて片付けだけでも役に立ちたいし、掃除の大切さもわかっているつもりだ。


 食事なんて、米さえければ、惣菜を買ってきてもいいし、何だったら冷奴ひややっこにお茶漬けとか、目玉焼きに即席味噌汁だけでもいいと思ってるんだけどね。


 ただ、夫婦共働きが増えたことで、食卓にビジネスが持ち込まれ、食事を市場経済にゆだねることになってしまった結果、フードロスという問題が生じたことも理解している。


 食料を生産するのは素晴らしいことだ。


 余剰生産は、豊かさの象徴だし、有効活用すれば日常の中に蔓延はびこる貧困問題や食料問題を打開する可能性だってある。


 だけど、市場経済がそれを許さない。


 身近な例をあげるなら、スーパーの弁当とか惣菜。


 作りたての弁当と3時間後の弁当が消費者にとって同じ価値であるはずがない。


 だが、利益を求めるスーパーからすれば、割引なんてしたくない。作った材料、かけた手間ひまに、作りたてだろうと3時間後だろうとかわりはしない。


 それを値引きへと動かすのは、廃棄するにも費用が生じるという事実。


 それでも。


 期待した売上が、材料費を大きく割り込むのなら廃棄したほうがいい。廃棄分を見込んで少しずつ料金に上乗せをすることでロスの費用は解消できる。


 最終的にそれを負担するのは消費者なのだから。


 消費者だってそれを承知している。気に入らなければ別のスーパーに行けばいい。


 どちらの店を選ぶのか、それすらもが市場経済の手のひらの上にある。


 負のスパイラルはいつまでも続く。行きつく先は、品質の低下と信用の喪失だ。それは、供給の低下と価格の上昇につながる。


 だがこれは。


 卵が先か、ニワトリが先かという問題じゃない。


 市場経済と社会的使命という、全く異なる価値観に基づく行動原理を、あえて関連づけた誰かの先進的な視点が、多くの人の心に刺さったということだ。


 世の中は動いている。ルールはいつも知らないうちに変わっている。


 それなのに、古いルールにしがみつこうとするなら、その事業はすたれていくしかない。


 廃船で乗り出した航海に行き着く港などない。


 そのことに気づいて新たな道を見つけた企業だけが抜け出していく。


 生き残るために、医療機器の分野に進出して成果をあげた富士フイルム、コニカミノルタを例にあげるまでもなく。


 ちなみに、富士フィルムではなく、富士フイルムな。ついでに、キヤノンはキャノンではない。ただし、声に出して呼ぶときはそれぞれ「フイルム」に「キャノン」。忘れないでほしい。


 人の名前と同じように、名称には意味がある。リスペクトは大切だ。


 クラスメイト全員の名前を、最近になってやっと覚えた俺が言えたことではないが。


「何か用か?」


 俺は、大原と向き合う。


「ここでは話しにくいから、生徒会室に行かない?」


 ……生徒会室? 警報が鳴る。全身がやめておけと警告する。お腹が痛いと言って逃げろと、胃がきりきりと痛みだす。


 俺には暗幕を教室に持ち帰るという、余人をもって代えがたい仕事があるからと断ろうとしたが、清水がするりと暗幕を奪い取っていった。


 さらに。


 大原に腕をつかまれてしまった。これを振り払うことなど俺にはできない。


 手をつないだなら、指をからませたなら、行き先が地獄であっても、お供するしかない。


 手はつないでいなかったね。俺の左腕を大原が両手でいだいているだけ。胸に押し付けているだけ。


 見ようによっては、あなたに夢中、もう離さないと、態度で示しているようにも映るだろうが、そんなわけがない。


 オメーに用があるんだ。今日は逃がさねーからな。きっちり、ナシをつけてやる。たぶん、そんなところ。


 だって、なんとなくだけど、関節をめられてる気がするんだ。


 俺は行間どころか、空間すら読める男。全教科満点はだてじゃない。


 ……たぶん、こいつもだけど。


 だから、今の心境をたとえるなら、借金のカタに売られていくむすめ。しかも、生娘きむすめです。天地神明に誓って。


 角を曲がるたび、階段をあがりきるたび、大原の腕に力が加わる。


 そのつど、伝わってくるのは、絶対に逃さないという大原の強い意思。


 ……一度、逃げてるからね。前科持ちに世間の目は厳しい。


 廊下で生徒とすれ違うと、いぶかしげな視線にさらされる。俺はともかく、大原は有名人だ。


 いや、俺のことをゆびさしてくるやつもいた。ラッパーだという声が聞こえる。


 今度は何をやらかしたんだ? そう聞こえてくるが、余計なお世話だ。俺は悪くない。今も、あのときも。


 だけど、バレてるのかな。俺が連行されていること。だとしたら、つらいんだけど。


 生徒会室の前でやっと俺は解放され、大原は鍵を取り出してドアを開けた。


 久しぶりに見る部屋に、いつものソファ。そこに櫻井先輩の姿がないことが寂しい。


 そうか。あれから1か月になるんだな。


 部屋を見回して感慨にふける俺に、大原は、ソファに座るよう促す。


 大原は、そのままコーヒーを淹れ始め、俺はその香りを胸一杯に吸い込む。


 ……結局、菅原会長、いや、元会長のコーヒーを飲むことはなかったな。散々勧めてくれたのにと、思い出すことすら懐かしい。


 やがて。


 大原が俺の目の前にコーヒーを置いた。続いて、自分の分も。


「砂糖とミルク。室付しつづきはいくつ?」


「いや、いらない」


 そう言って、カップに口を付けようとして──


 思い出した。


 かつて、そう呼ばれていたことを。


 恐る恐る顔を上げた俺の目の前に、足を組んでとてもいい顔で微笑ほほえむ大原いずみがいた。


「ようこそ。山崎室付(しつづき)?」


 まるで断罪するかのように声が響いた。


 ❏❏❏❏


「黙秘します」

「それは、認めたのと同じことなんだけど」


「俺は悪くない」

「悪いなんて言ってないよ」


「コーヒーを飲んだら帰るからな」

「まだ何も話してないんだけど」


「仮に何かあっても、話すことはない。守秘義務があるからな」

室付しつづきだったことは認めるんだね」


室付しつづきって、なに?」

頭文字かしらもじを取ってS。つまり、スパイ」


「この学校にスパイなんているのか?」

「前生徒会の活動日誌に出てくるんだ。情報源Sって。最初は誰かのイニシャルかと思ってたんだけど、そのうち複数人いないと説明がつかないことに気づいた。そこで、思い出したんだ。菅原会長が山崎のことを、室付しつづきって呼んだことがあったのを」


「そ、そんな、こと、あった、かな?」

「忘れたの? 山崎が櫻井副会長と駆け落ちした日だよ」


「駆け落ちなんかじゃないっ!」

「同性愛は嘘なんだね。知ってたけど」


「俺は何もしゃべらないからな」

「いや、もうずいぶん話してくれたよ」


「そうじゃなくて、何をしたかだ」

「それはいいよ。別に」


「そうなの?」

「うん。別に責める気はないし」


「なんだぁ〜。早く言ってよ〜」

「やっぱり」


「やり方が汚いぞ」

「おいしいよ、コーヒー。冷める前にどうぞ」

「いただきます」


 ❏❏❏❏


「それで、話って何?」

「ダブルキャストの件」


「なんだ。……いいんじゃないか? 来年、再来年の出し物を考える必要がなくなる。それに、3年の秋は受験勉強で忙しい。新たにセリフを覚える負担が減るんだから、文句を言うやつはいないんじゃないか?」


「じゃあ、やってくれる?」

「何を」


「渋谷生徒会長役を」


「誰が?」

「山崎が」


「どうして?」

「わたしにつかえがあるから」


「文化祭に?」

「正確には文化祭二日目の午後に」


「どういうこと?」


「劇をするのは、文化祭の二日目の11月3日。その日の午後、実は、高校女子駅伝の東京都予選会があるんだ」


「どこで?」

「板橋区にある荒川河川敷(かせんじき)駅伝コースで」


「それは、練習試合とかじゃなくて?」

「うん。優勝すれば全国大会。京都の都大路みやこおおじを走ることができる」


「大原は選手だったよな?」

「走るのは5人だけど、エントリーは7人。わたしは、そのメンバーに入ってるんだ」


「え〜と。つまり、文化祭で演劇を上演する日、大原が大会でいないから、その代わりに、俺に舞台に立ってほしいと?」


「そういうこと」


「で、あの渋谷生徒会長の役をやれと」

「お願いっ!」


「ふう〜っ」


 俺はため息をついて考え込む。


 いやだ。あんな役を人前で演じるなんて恥ずかしすぎる。


 うちの両親が見にくることはないから、兄に知られることもないと思うけど、それでも、もう一人の俺が、相棒というか、リトル・ヤマザキが見ている。ただの自意識過剰だとしても。


 たぶん、その夜、ベッドの上でのたうち回ることになる。選挙演説でラップをしたあの日の夜のように。


 いかん。あの夜のことを思い出して憂鬱ゆううつになってきた。


 でも、俺ができないと言うと、こいつが困るんだよな〜。


 これを見越してダブルキャストを提案したとは思いたくないけど、でも、たぶん、というか間違いなく、そうなんだろうな。


 こいつのことだから、もう一つ二つ隠し玉を用意してそうだし、うなずくとしたら、交渉の余地がある今しかないよな。


 だけど。


「大丈夫なのか? 文化祭担当の生徒会役員として、挨拶とかないのか?」


「挨拶は、文化祭実行委員長の仕事だよ。生徒会の仕事は、文化祭実行委員会と学校側との橋渡しというか、学校に対して交渉すること。文化祭の運営は実行委員会が行うから、始まったら私の出番はないかな。あとは、終了後に実行委員会が提出してくる会計報告と実施報告のチェックくらいだね」


 そうか。


 大原がいなくても、文化祭に支障はないのか。……なんか寂しいな。


 だったら、俺にできることは──


「いいよ。やっても」

「いいの? 本当に?」


「ああ、是非もなし、だ」

「何それ。でも、ありがとうっ!」


「ただし」

「ん?」


「条件がある」

「何?」


 考えてみれば、こいつと二人で遊んだことはなかった。いい機会だ。もしかすると、こんなチャンス、二度とないかもしれない。


 大原いずみとデートをしたい。


 新宿駅のアレはノーカンだ。あんなのはデートとは言わない。新宿のホテルへ行ったのも、学大駅前のカラオケ店もそういうのじゃなかった。


 俺のことをきらってはいないだろうけど、好きというわけでもない。


 ただの友人。使い勝手のいい男友達。


 もしも、大原に好きなやつができたなら、デートに応じてくれるとは思えない。


 だから。


「俺とデートしてくれ」

「いいよ」


 えっ?


「いいの?」

「うん。いいよ」


「本当に?」

「うん。山崎を何度もデートって誘い出したけど、実際にデートしたことはなかったからね。その罪滅ぼし」


「そっか〜」


 ……罪滅ぼしか。その言葉で俺が傷つくなんて思ってもいないんだろうな。


「それでね、劇の稽古のとき、アドリブはやめてほしいんだ。明後日あさっての稽古からは山崎がメインの芝居になるわけだし」


 デートに誘ったら、クレームを返されました。……なんか、悲しい。


「まあ、あれはあれで面白かったんだけど、文化祭当日、わたしはいないからね。山崎がセリフを忘れても、暗幕の裏からセリフを教えてくれる人はいないんだから、しっかり準備をしてほしいんだ」


 なるほど。つまり、俺だけサポートがないってわけだ。


「でも、心配はいらないよ」


「えっ?」


「渋谷生徒会長は常にB5の手帳を持ち歩いている設定にしたんだ。それを開くと、セリフが書いてあるから、困ったらペラペラめくってね」


「手帳?」

「まゆみがね、作ってくれたんだ」


「いつの間に?」

「月曜の朝。ほら、優子がわたしの家でお弁当を作っていたとき」


「もしかして、水越も泊まったのか?」

「言ってなかったかな? でも、問題ないよね」


「まさかと思うけど、ダブルキャストの話って」

「うん。二人が泊まりにきたときに、3人で話し合って決めた」


「じゃあ、俺があの役をやるというのは」

「そのときに決めた。元の台本を書いたのは山崎だし。問題ないよね?」


 そうか。


 これが、あのときに感じた違和感の正体か。


 清水が大原の家に泊まったと聞いて、大原シンパの水越まゆみが何の反応も見せなかったのは、一緒に泊まっていたからだったんだな。


 ということは、月曜から今日まで、俺に伝えるタイミングを見計らっていたということだな。


 何かおかしいとは思ったんだ。


 いきなり舞台にあがれと言われて。でも、好き放題にアドリブを演じられることが楽しくて、いつの間にか、大原よりも稽古する回数が増えていたことに気づいていなかった。


 だけど。


 これ以上、振り回されてはたまらない。


 慌てて、条件をつけ加える。


「さっき約束したデートだけど、清水と水越を連れてくるのは、なしだからな」


「当たり前じゃない。何を心配してるの?」


 そう言って、大原は首をかしげる。


 ちくしょー。かわいいなあ。


 何度騙されても、懲りないくらい。


 ホント。最悪にかわいい。


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