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第21話 そのランナー、煽る者につき

 10月1日火曜日の今日、新生徒会が発足する。


 先週の選挙から一週間が経過していた。


 生徒会役員となった大原と永田、石月の3人は、その間、旧生徒会との引き継ぎに追われていた。


 そのために、永田と石月は勉強会から抜けることになったが、10月11日から始まる中間試験に向けて新たに参加者が増え、クラスメイトの半分以上が勉強会に加わったことで、教室は放課後とは思えないほど活気づいている。


 そして、今日の午後、5時間目の授業をつぶして、体育館で、国体出場選手激励会が開かれた。


 今日から衣替えということで、皆、ネクタイと紺のブレザーを着用している。


 そのためか、10月になったというのに、体育館は非常に暑苦しい。いや、見た目だけじゃなく、とても暑い。そして、息苦しい。


 真夏を思わせる熱気の中、俺達は、学年順、クラス順に整列し、主役達が登壇するのをひたすら待っているわけだ。


 雰囲気は最悪。


 始まる前から、憂鬱な気分で体育館の空気はどんよりと淀んでいる。


 そんな中、ステージに現れたのは、生徒会長代行となった大原いずみ。


 大原の司会で、激励会は始まった。


 校長の挨拶に続き、新生徒会長となった篠崎先輩を始めとする国体出場選手がステージに上がったのを、大原が一人ずつ紹介していく。


 俺達は拍手でそれに応える。


 全員の紹介が終わると、新生徒会役員のお披露目もその場で行われ、同じように拍手を送った。


 最後は、国体出場選手を代表して、前生徒会長の菅原先輩が決意を語った。


 俺達はそれにも拍手をし、大原が「これで、激励会を終わります。退場する選手にもう一度、温かい拍手をお願いします」と締めて終わった。


 はずだった。


 だけど、全員がステージからいなくなり、拍手がまばらになった瞬間。


「最後に、大切なお知らせがありますっ!」


 ステージに一人残った大原いずみが叫んだ。


「来月、11月2日、3日の2日間、文化祭を実施しますっ!」


 その瞬間、今まで聞いたことのない大歓声が巻き起こった。


 体育館は興奮のるつぼと化し、隣り合った者同士で抱き合って飛び跳ねている。


 俺も、この歓声の中で鳥肌が立つのを抑えられない。


 先週、すでに大原から、いや、その前に、菅原前会長から聞かされていたというのに、興奮が心の底から湧き上がってきている。


 もはや、国体出場選手激励会をほっぽりだして、皆の喜びが爆発し、体育館の歓喜の高まりは誰の手にも負えそうにない。


 心配になって、この騒ぎを引き起こした張本人をステージに探そうとするが、飛び跳ねているやつらのせいで、前方の視界はさえぎられている。


 ……どうするんだっ⁉ これっ!。


 そう思ったとき。


「♪うぉ〜らら、ららっ、ら〜ん、

  ららっらん、ららっらん、

  らら、ららっら〜ん!」


 この歌はっ!


 いつの間にか耳に馴染んでいたサッカー日本代表応援歌。


 そのメロディを、大原いずみがマイクで口ずさみ始めたのだ。


「「「はい、はいっ! はい、はい、はい、はいっ!」


 大歓声が合いの手に変わる。

 大原がメロディをリフレインする。


「♪うぉ〜らら、ららっ、ら〜ん」」」


 引きずり込まれるように口ずさむのは、俺だけじゃない。


「「「ららっらん、ららっらん」」」


 皆の歌声が大きくなる。


「「「らら、ららっら〜ん!」


 正確な歌詞を俺は知らない。ニッポンとも聞こえるし、セレッソとも聞こえる。大原と同じように、らららと歌っているやつもいる。


 だけど。


「「「はい、はいっ! はい、はい、はい、はいっ!」


 皆の口から歌が紡がれる。

 体育館に響くは、VAMOS! NIPPON。


 それは、いつかを願い、いまだ手が届かないいただきへの憧れを一身に背負った歌。


 フレーズが繰り返される。二度、三度。


 進め! ニッポン。目指す場所は遥か高く、道のりは遠い。たどり着けるかさえわからない。それでも、ともに歩き続けようと叫ぶ祈りの歌。


 進もう。ともに。


 歌声は一つに収斂しゅうれんし、心も、向く方向も一本化していく。


 その行き着く先は、ステージ上の大原いずみだ。

 

 右手を掲げ、こぶしを高く突き上げて、生徒達の感情をたばねていく。


 やがて。


 歌の区切りで、両手を左右にまっすぐ伸ばして上を向く。


 歌声がんで万雷の拍手に変わる。


 大原が前を向く。

 マイクを口元に。


 一瞬の静寂。

 そして。


「文化祭の、準備を、始めましょうっ!」


 その声に、うぉーっと生徒達が応える。


 それを、片手で制して「でも、十日後から始まる中間試験も忘れないでね」


 心からの拍手と乾いた笑いの中、大原は終わりを告げた。


「以上、生徒会からのお知らせでした。1年生から順番にゆっくりと退出してください」


 熱気は去り、俺達は日常に戻る。


 それでも、たぎった感情はまだ俺の身にまとわりついている。その興奮をしっかりと胸に抱きしめる。


 それは、俺だけじゃない。誰も彼もがいだいた思い。


 すべては、ここから。

 始めよう。ともに。

 もう一度、歩きだすんだ。


 高揚した気分のまま、俺達は体育館を後にする。


 そのときには、国体出場選手激励会のために体育館に集められた憂鬱など、きれいさっぱり吹き飛ばされていた。


 ❏❏❏❏


 教室に戻ると、早速、委員長の清水優子が声をかけて臨時のホームルームを開き、文化祭の劇の稽古の予定を立てることになった。


 議題は、中間試験との兼ね合い。


 特進クラス生が文化祭の準備にかまけて勉強を怠ることは許されない。


 清水がみんなに意見を求めるが、積極的に意見を述べる者はいない。


 多くの連中が、できれば、この勢いのまま劇の稽古に取り組みたいと思っているのだろう。


 勉強よりも楽しいからね。


 ならばと、清水は俺を指名してきた。


 俺が書いた脚本は、清水の手で書き直され、舞台の背景となる切出しも完成している。演者も裏方も各人に割り振られ、みんな、自分のするべきことはわかっている。


 アウトラインが固まっているのだから、それぞれの役割は個々人(ここじん)に任せ、全体稽古をする時期を決めればいい。


 その日を目指して中間試験を乗り切るのだ。今の俺達ならできる。

 

 俺は立ち上がって意見を述べる。


「中間試験は11日から14日まで。試験科目も10科目と多い。部活をしている連中も、明々後日(しあさって)からは試験に備えて部活は休みになる。


 俺達は、夏休みから文化祭の準備を進めてきた。日程を考えるなら順番にしたがって、まずは試験勉強に集中するべきだ。


 文化祭の準備は試験が終わる14日の午後から始めるのがいいと思う」


 賛同の声は聞こえない。


 俺は、もうひと押しすることにする。


「それでも、文化祭までは2週間の準備期間が取れる。この方針でどうだろうか」


「賛成っ!」と大原が手をあげた。


 遅れて、「賛成〜っ」「異議な〜し」の声があがる中、清水はまわりを見渡しているが、大原が同意した時点で、反対できるやつなんているはずがない。


 今日、大原いずみは、このクラスのオピニオンリーダーから、全校生徒のオピニオンリーダーとなった。


 こうして、段々と俺の手が届かない存在になっていくのだろうか。


 そう思うと少し寂しくなる。


 だが、クラスの方針は決まった。水越副委員長が黒板に書いた俺の案を、清水委員長が読み上げる。


 こうして、文化祭の劇の練習は、14日の午後から再開することになった。


 放課後の勉強会もスケジュールの設定から始める。試験科目を残りの日数で振り分けていく。


 試験勉強に向けて気持ちが高まっていく。


 今回の選挙で大原いずみの全教科満点が暴露された。


 不可能だと諦めていたことが、手に届くものだったと証明された。なんせ、俺達の最大のライバルは、陸上部でスポーツ特待生を押しのけて駅伝選手に選ばれる中で、その成績を残したのだ。


 俺達にやれないはずがない。


 入学式で新入生代表として挨拶をした俺を追い抜いた大原いずみ。


 だけど、その背中は遠くない。先は長い。今ならまだ巻き返せるはずだ。そのチャンスはここにいる誰もが持っている。


 その決意を新たに、俺達は、放課後だというのに、クラス全員が班ごとに机を向かい合わせにして、午後5時を知らせるチャイムが鳴るまで、ひたすら問題集を解いては答え合わせと解説をしていた。


 ❏❏❏❏


 問題集にみんなで取り組んだ充実感と勉強でしびれた心地よい疲労感を肩に背負いながら家に帰ると、玄関に見慣れない靴が置いてあった。


 あいつだ。


 大学の前期課程が終了して、昨夜から兄の山崎真也が帰省していたのだ。


 俺は、こいつが嫌いだ。相手もそう思っている。……はずだ。


 優等生であった兄と比較され続けた小学生時代。そこまでは、このもやもやした感情が何なのかわからなかった。


 どんなに頑張っても、優秀な兄の弟だからと、そのアドバンテージが強調され、俺の努力が認められることはない。


 そのくせ、失敗だけは俺の努力不足とそしられる。


 この感情を自覚し、名前をつけることができたのは、中学受験に失敗してからだ。


 国立大学の附属中学から附属高校に進んだ兄と、その附属中学の受験で不合格となった弟。


 その国立大学には附属中学が何校もあるが、全員が附属高校に進学できるわけではない。


 約半数の附属中学生は、三者面談や学力検査の結果、外部進学をしている。


 その一方で、一般試験で附属高校に入学する公立中学生もいる。その人数も男女120名と、内部進学が男女200名なのに比べて多いといえる。


 古い血を、新しい優秀な血と入れ替えてさらなる競争を促す仕組み。その中で競争に勝ち抜いて、昨年、京都にある国立大学に進学した兄。


 そして、そんな兄が毎朝、附属高校へと通学するのを横目に、地元の公立中学へと通う弟。


 劣等感に悩まされる日々。


 それでも、能力が、努力が足りなかったと自分を責めるしかなかった。


 だけど、俺の通う中学には、優秀な兄の存在を知る者はいなかった。誰かと比較されることのない解放感に、鬱々(うつうつ)としていた感情が反転した。


 兄がいない道を見つけた喜びに浮かれて、はしゃいだ。


 調子に乗って色々とやらかした。黒歴史を重ね続けた。


 そうして気づいたのは、兄が日常生活の色んな場面で一歩、いや半歩先からマウントを取ってくるという事実。


 必要もないのに頭を抑えつけられていたことに気づいてからは、兄から距離を置くようになった。


 中学受験の合否など、長い人生にさしたる影響などないとようやく理解できた。


 だが、過ぎた時間は取り戻せない。悩んだ日々はこれからのかてにするしかない。


 それでも。


 人生はやり直せるということを知った。


 人の道を踏みはずさなければ、いや、たとえそうなったとしても、他人の評価を心の中心に置かなければ、人はいつだって、どこでだってやり直せる。


 そうして、さらにやり直そうと選んだ高校で、俺はまさに一生忘れられない思い出を作りつつある。


 俺という人間は、まだ不完全で、どうしようもないやつだけれど、人生はエクササイズでプラクティスの連続だ。トライアルとかワークショップと言い換えてもいい。


 それさえ忘れなければ、恐れるものは何もない。


 酔っ払った父が歌う梅沢富美男の歌が初めて心に染みた。


 人生は、いつだって、初舞台。


 そうやって、初めて得た心の平安。


 だけど。


 この靴の持ち主は、そこに波紋を呼ぶ厄災としか、俺には思えなかった。


 ❏❏❏❏


 案の定、夕食での兄からの言葉は、俺の神経をさかなでするものだった。


「浩二さえよければ、俺が勉強を見てやろうか?」


「あらっ、いいじゃない」


 母の喜ぶ顔がうっとおしい。


「いいよ。勉強は一人でするもんだから」


「遠慮するなよ。これでも、向こうでは家庭教師をして、今年の入試では関西の有名大学に3人も合格させた実績があるんだぜ」


「大丈夫だから」


「だけど、浩二の高校からだと、このあたりの国立大学は難しいぞ」


 また始まった。自分の優秀さをひけらかしながら、俺をおとしめる言葉を自然にく。昔から、兄はこうやってマウントを取ってくるのだ。


「高校の名前で合否が決まるとか、本気で思ってるわけじゃないよね?」


「それは、そうだけど。……お前、なんか変わったな」


「そう?」


 兄の言いたいことはわかっている。競争という環境にいなければ勝てないということ。


 だけど、どこで戦うかを決めるのは俺だ。こいつじゃない。主導権は簡単には渡さない。


「なんか、自信がついたみたいだな。その自信に根拠があればいいんだけど」


「余計な心配はしなくてもいいよ」


「ちょっと、やめてよね」と母が慌てて口を出す。


「浩二の成績も学校ではトップクラスなんだし、真也もせっかく帰ってきたんだから、のんびり過ごせばいいじゃない」


「そうなのか? 母さん、ごめん。浩二も、悪かったな」


「いいよ。心配してくれたんだろ?」


「とにかく、食べて、食べて。真也、久しぶりの母さんのご飯、どう?」


「うん。懐かしい気がする。ご飯がすすむ味だね」


「そう? 嬉しいな。おかわりする?」


 母はそう言って喜んでるけど、こいつが言ってるのは、しょっぱいから食べられないってことだ。


 京都の味にも、水にも空気にも慣れたんだろうな。まだ、住んで2年も経ってないっていうのに。……とても、お似合いだ。


「学校はいつまで休みなの?」


「後期が始まるのは15日から。その2、3日前には戻るよ」


「冬休みは帰ってくるの?」


「高3の生徒の家庭教師をしてるから、無理だと思う」


「そうなの?」


「就職活動は東京でするから、あと2年間、自由にさせてよ」


「……でも、電話もくれないし。こちらから電話しても忙しいからってすぐに切ろうとするし」


「心配かけてごめん。でも、便たよりがないのは良い便たよりともいうからね」


「そうは言っても」


「心配いらないよ。自慢の息子を信じてよ」


 兄は俺への関心をなくしたのか、母の言葉に苦笑いをしながら対応している。


 俺は、色の濃いカレイの煮付けに箸をのばす。


 うん。醤油がよく染みている。

 たしかに、ご飯がすすむ。


 でもな。兄さん。


 便たよりがないのは良い便たよりというなら、なんで今帰ってきた?


 2か月近い夏休みも、入試の都合で1か月以上続く春休みも、お正月ですら帰ってこなかったのに、どうして、突然に?


 それに、その言葉、連絡をよこさない当事者が言い訳に使う言葉じゃない。


 連絡がなくて心配する人を、第三者が慰めようとするときに使う言葉だ。


 そもそも、いきなり俺の勉強を見てやろうというのがおかしい。


 本当に俺のことを心配してるなら、最初に聞くのは俺の成績なんじゃないのか?


 No news is good news.


 確かにそうだろうさ。むしろ、久々に会いたいと連絡を寄越した友人が、会った途端に保険の勧誘や新車の購入を勧めてくるなんてのはよくある話で。


 そんなことなら、便たよりなんてほしくなかったとかね。


 便たよりがないのは良い便たよりだよね? 兄さん。


 でも、連絡方法の乏しかった昔ならいざ知らず、現代はホウレンソウが励行される時代。


 No news is bad news.


ってこともあるんじゃないのか? 情報の隠蔽いんぺいって、そういうことだろ?


 俺は、勝手にご飯をおかわりする。兄と母の話はまだ続いていた。


 そして、翌日。


 兄がいないときに母から聞かされたのは、バイトの報酬で運転免許を取ったから、車を買う金を出してほしいとお願いされたということ。


 ほらね。やっぱりだ。

 No news is good news.


 ❏❏❏❏


 10月5日土曜日、朝から雨が降っていた。


 こんな日に、わざわざ濡れて帰ってまであいつとツラを突き合わせるなんて真っ平だ。


 午前授業が終わった後、俺は食堂でサンドイッチとコーヒー牛乳の昼食を済ませ、図書館へと向かった。


 夕方まで自習室で試験勉強をするつもりで。


 そこに、先客がいた。


 大原いずみ。


 こいつがここで勉強しているのを見るのは初めてのこと。


 窓際の席に陣取り、室内を背に数学の問題集を解いていた。


「よおっ」と声をかけて、空いている隣に座る。


「山崎も自習?」


「ご覧のとおり」


「そう。頑張ろうね」


「ああ」


 何気ない会話に癒やされる。


 問題集を開き、解説と照らし合わせながら、授業で書き込んだノートに赤ペンで覚えるポイントを書き加えていく。


 隣には大好きな女の子。


 その上半身が、雨で薄暗くなった窓ガラスに反射している。


 一心に問題集に向かう姿に、心が洗われるようだ。


 窓をつたう雨だれ、残された水滴さえもが優しく、いとおしい。


 もしも、俺達が結婚したら、こんな日が続くんだろうか。


 まあ、かりの話だけど。


 図書館は空調が効いている。雨が降っていようと、快適な空間。


 聞こえてくるのは、紙をめくる音と鉛筆を走らせる音。


 俺達二人だけ、世界から切り離されてしまったかのように穏やかな時間が流れる。


 このまま時間が止まってしまえばいい。


 あるいは、俺の心臓が止まったとしてもいはない。


 最期に見る顔が大原いずみであったなら、俺を看取みとるのが大原いずみであったなら、幸せな人生だったといえる気がする。


 なのに。


「頑張ってるか?」


 俺の肩に手を乗せたのは、山崎真也。俺の兄を称する男だ。


 この学校の関係者でもないくせに、どうやって入り込んだ?


 問い詰めるように兄をにらみつける。


「怖い顔するなよ。家にいても暇なんでな。渋谷に出たついでに寄ってみたんだ」


 土曜日は、母の仕事は休みだ。父は、朝食を食べながら休日出勤だと、愚痴をこぼしていた。


 母が残る家で、話に付き合うのがわずらわしくなって外出してきたのだろう。この雨の中をご苦労なことだ。


 しかも、渋谷に出たついでだと?

 雨の日に渋谷に何の用が?


 渋谷駅と目黒駅の間には恵比寿駅がある。実際には、5分程度しかかからないが、ついでと言うほど心理的には近く思えないはずだ。


 おそらくは、俺が帰ってこないとみて、わざわざこの学校に来たとみるべきだろう。ただの暇つぶしのために。


「よく図書館にいるとわかったな」


「学校に行ったらまず図書館を見る。それでその学校の知的水準が推し量れるからな」


「完全に不審者じゃねーか。警備の人を呼ぶぞ」


「いやいや、俺は父兄だから」


「誰の?」

「お前の」


 しばらくにらみ合うが、こいつの言ってることは正しい。確かに俺の父兄だ。しかたがない。こいつを連れて帰るしかなさそうだ。


「よろしいですか」


 そう言ってきたのは大原だった。


「山崎くんのお兄さんということでしたが、胸に来校者バッジを着けていらっしゃいませんね。受付を済まされましたか?」


「受付?」


「玄関脇に受付がありましたよね」


「いや、そんなものは」


「なら、今お履きになっているスリッパはどこから? それは受付の前に置かれているものですよ」


「……受付に誰もいなかったから」


「つまり、学校に無断でここまで入ってきたと」


「いや、俺は、こいつの兄だから」


「それは受付で言ってください。ご案内します。こちらへどうぞ」


「いや、そんな堅苦しい話じゃ……」


「受付を通さない場合は、どなたであれ、不法侵入ということになります。場合によっては、たとえば校内を許可なくスマホで撮影していたりしたら、警察に通報することもあります。


……山崎くんのお兄さまは、たしか、京都の国立大学に在学中とお聞きしていましたけれど、容疑者に対して名門大学が寛容だといいですね」


「いや、これは申し訳ない。すぐに退構します。ええと、お名前を伺っても?」


「不審者に名乗る名前はありません。お引取りを。それとも、警備員を呼んだほうが?」


「やれやれ。弟に会いに来ただけなのに」


 兄はそう言って背中を向けて去っていった。


「山崎、ごめんね」


「どうして?」


「お兄さんなんでしょ?」


「そうだけど」


「なら、ごめん。冷たい対応をして」


「いや、いいんだ。俺もわずらわしいと思っていたところだし。……でも、俺の兄の大学のこと、よく知ってたな? 教えたことはなかったはずだけど」


「そこは、それ。わたしは生徒会役員だからね。パソコンに生徒の家族構成に関するデータがあって、それを見ることができるから」と、大原は笑う。


 ……あっ。


 俺、お前の家族のデータを櫻井先輩から見せてもらうのを忘れてた。……もう、遅いな。なんで忘れてたんだろう。


「家に帰ったら言っておいてね。不愉快な思いをさせて申し訳ありませんでしたと、生徒会長代行が謝っていたって」


「大原が謝ることじゃない。うちの兄が悪い」


「でも、何か用があったんじゃ?」


「ない、ない。そんなの。ただの暇つぶし」


「そう? ごめんね」

「えっ?」


「だとしたら、わたしのせいだから」

「どういうこと?」


「谷口先生の盗撮事件以来、興味本位で学校を覗きに来る人がいるんだ。ここが盗撮の現場になったのかって。……学校での盗撮なんて、本当はなかったのにね」


 そうだったな。


 ここにも、あの事件の余波があった。そして、初めて気づく。兄が帰ってきた本当の理由に。


 夏休みが終わる直前にテレビニュースになった高校教師の盗撮事件。聞き覚えのある学校名に、弟の進学先だと思い出す。


 次の休みに行ってみよう。話のネタになるし。だが、平日に行くのは目立つ。土曜日の午後なら、不審に思われても、弟を探していたことを理由にできそうだ。


 それから、帰省したついでに、親に車を買う金をおねだりしてみようか。


 そんなところだろう。


 俺の推測が当たっているかどうかなんてわからないし、確かめるつもりもない。


 誤解であっても構わない。人の認識とは、そういうものだから。


 俺と兄の溝はそれほどまでに深い。


 せっかくの幸せな一時ひとときが台無しだ。


「もうすぐ3時になるね。お茶にしない?」と大原が笑いかけてくる。


 さっさと勉強道具をリュックに詰めて、俺の手を握る。


 振られたという事実があっても、心がなごんでいく。


 こんなことをされるから、振られた情けなさで距離を置くこともできやしない。


 ただの友人。


 それでも、心地よい。


 大原いずみは、まだ誰のものでもないのだから。


 もっとも、俺の場合は、まずバイセクシャルの誤解を解くことから始めなければならないのだが。


「もういいかな?」


 その声に、俺も慌ててかばんに荷物を詰め込む。


「行こうか」


 俺達は食堂を目指して席を立った。


 ❏❏❏❏


 土曜日の食堂は、午後1時でオーダーストップとなる。


 今月になって販売の始まった1杯50円の紙コップのコーヒーも、もう店じまいだ。


 食堂に人影はなく、がらんとしただだっ広い室内で、俺達は向き合ってテーブルについた。


 俺達の前には無料のお茶が入った紙コップ。


 ただ、大原はこれを飲みたくて俺を誘ったわけではなかった。


 図書館から食堂までの道のりで、わざわざ回り道をして立ち寄った玄関。


 そこに、来校者の靴がないことを確認するため。


 もしも、そこにまだ靴があるようなら、躊躇なく警備員に通報するつもりで。


 いや。


 玄関にスリッパが投げ散らかされていないか、確認するためだったのかもしれない。


 目で追っていたのは、玄関の濡れたタイルと傘立てに傘が置かれていないこと。


 俺を図書館から連れ出したのも、おそらくは、兄がまだうろうろしているようなら、連れて帰らせるつもりだったのだろう。


 その心配は杞憂きゆうに終わり、お茶に口をつけることもなく、俺達は黙り込んでいる。


 だけど、ここまで心配をかけたなら、一言ひとこと謝っておくべきだろう。


「悪いな。迷惑かけて」

「うん? お兄さんのこと?」


「ああ」

「気にすることはないよ? 嫌いなんでしょ?」


「どうして?」

「態度を見ていたら、なんとなくね」


「そうか」

「他人なら気にならないのにね。厄介だね。年の近い兄弟って」


 そうか。こいつにもいたんだったな。中学2年生の弟が。


 それを、俺が知っていることは言えないけれど。


 だから、知らないふりをしてただうなずくだけ。


 兄弟姉妹の、いや、肉親のわずらわしさは、関係が悪くなっても、断ち切れないところにある。


 もちろん、良好な関係を築いている家族だってあるだろう。


 だけど、それが大切であればあるほど、その関係を維持するために身を削る思いをするのもまた事実。


 十年、二十年先まで見据えた関係を考えなければいけない窮屈さが、いつしか、付き合いという名の義務に変容していく。


 逆に、嫌いだからと、お互いに不干渉を貫いたとしても、法律がそれを許さない。


 民法877条は、直系血族及び兄弟姉妹は、互いに扶養をする義務があると定めている。


 感情はまた別として。


 結局、どうしようもないと、諦めるしかない。そういった現実を思い知らされる最初で最後の壁が家族なんだ。


 子は親を選べない。兄弟姉妹を選べない。


 俺達は、そうつぶやいて、毎日、何かを諦める。それが、人生でないだけ、今の俺は幸せなんだと自分に言い聞かせて。


 気づくと、大原はテーブルの上に勉強道具を広げていた。


 俺も慌てて、かばんからノートと問題集を取り出す。


 やはり、こうやって向かい合って座るほうがいい。


 俺は、正面の大原いずみを見ながら、幸せな気分にひたっていた。


 ❏❏❏❏


 その夜。


 俺の部屋をノックして、勝手に入ってきたのは、兄の真也だった。


 ……こいつ。


 俺が、勝手に入るなと言おうとするのを制して、「今日は悪かったな」と謝罪の言葉を口にする。


「お前のことだから、たぶん図書館にいるだろうと思って探したら、女の子と一緒だった。ちょっとからかってみようかと思って声をかけたらしっぺ返しをされた。お前の彼女、なかなかやるな」


「いや、彼女じゃないけど」


「……彼女じゃ、ない?」

「うん。違う」


「彼女でもないのに、一緒に勉強を?」

「するね」


「隣に並んで?」

「あえて離れるほうが変だし」


「えっ? そういうもんなの?」

「だと思うけど」


「仲がいいんだよな?」

「悪くはないな」


「付き合っては?」

「ないよ」


「彼女じゃ?」

「ないよ」


「それは、当たり前?」

「だと、思うけど」


「……誰かにからかわれたりは」

「されないね」


「はあ〜、そうか。俺は、てっきり、お勉強べんきょデートかと」


「デートならしたよ」

「えっ?」


「ときどき付き合わされる」

「付き合ってないのに?」


「うん。新宿のホテルとか、駅前のカラオケで」

「マジか?」


「校内で呼び出されたこともある」

「それは、大丈夫なのか?」


「さすがに、まずいと思って逃げたけど、結局つかまってのしかかられた」

「お前の上にか?」


「そう。容赦なかった。最後はすきをついて逃げ出したけど」

「……校内でか?」


「うん。生徒会室」

「生徒会室?」


「あいつ、生徒会役員だから」

「……進んでるんだな。最近の高校生は」


「まあ、初めて尽くしで、俺もわからないことばかりだけど」

「初めて?」


「うん。いいように翻弄されてる。怒られたときはメチャ怖かった。平気で俺の頭を踏んづけてくるし」


「はあっ?」

「まあ、プレイと割り切ればつらくはないけど」


「プレイ?」

「マジだったら、シャレにならないよ」


「避妊は……してるんだよな?」

「否認? 当たり前だろ。何でそんなこと聞くんだ?」


「いや、悪い。俺の知らないことを、お前はすでに知ってるんだな」


「人それぞれだからね。……だけど、今、俺は充実した高校生活を送ってる」


「だろうな。……むしろ、俺の人生が虚しくなるよ。人生は勉強だけじゃないって」


「勉強は大切だろ? 現に、あいつは学年トップだし。俺も負けるわけにはいかないからな」


「……そうか。悪かったな。勉強の邪魔をして」


 兄はそれだけ言い残すと、肩を落として部屋を出ていった。


 なんだ? あいつは。


 俺は、机に向き直って、英語の例文を書き写すのを再開した。


 試験は近い。

 今度は負けない。


 兄が京都に帰っていったのは、翌日のことだった。


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