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第19話 その候補者、無双につき

 9月20日金曜日。


 泣いても笑っても、選挙活動最後の1日だ。だからと言って、俺たちにできることは少ない。


 それでも、いや、だからこそ、こうやって校門の前でビラを配っている。


 たとえ、すでに理事会が文化祭の実行を承認しているのだとしても、問題はそこで終わらないことを、俺は知ってしまったから。


 もっとも、そのことを俺からビラ配りメンバーに伝えるつもりは微塵みじんもないけれど。


「「「「「「「おはようございます」


 昨日一日で慣れた朝の挨拶と笑顔。


「おはよう。頑張って」の声も増えて、この二日間で大原は確かな手応えを感じているようだ。


 昨日の段階の票読みでは、全然足りていないんだけどね。


 まぁ、文化祭の日程とか、それに対するクレーム対策を考えると、生徒会長には篠崎先輩がなったほうがやりやすいのは間違いない。


 ここは、スポーツ特待生としての義務と責任をきっちり果たしてもらおう。


 それにしても、気になるのは、昨日見た票読みの数字。圧倒的だったのは篠崎先輩に対する2年生の200票。


 選挙活動なんかまったくしてないし、敵に塩を送るような演説をしたというのに、それだけの信頼を得た上に、3年生の100票と1年生の80票も確保している。


 つまりだ。


 にこにこと笑いながらビラを受け取っているやつらの半分近くが偽りの仮面をかぶって、これ幸いとばかりに女子高生の手を握っているということだ。


 票読みの結果から察すると、2年生とスポーツ特待生のやつらは間違いなくそういう手合ということになる。


 女子高生の柔らかな手のひらの感触を楽しんでおきながら、篠崎先輩に投票して、ざまぁでもするつもりなんだろうか。それとも、同調圧力には逆らえないってことだろうか。


 でも、昨日、聞いておいてよかった。


 この握手会、違った。ビラ配りで好感触を得たあと、接戦にすらならずに負ける大原に心の準備をさせることができる。


 本来は負けて当たり前の選挙だったはずなのに、いつの間にか勝てるかもしれないと浮かれていたことに気づかされた。


 それを、大原とビラ配りのメンバーにそれとなく悟らせてショックに備えたい。


 いや、待てよ。


 握手で支持を広げたはずの生徒達に裏切られたと思った先に、俺が手を広げて待っているというのも、アリだな。


 傷心の大原の頑張りを認めて、慰めて、ともに悪態をついて、仲を深めることができる。


 うまくいけば、そのまま……。


 むふふ。


 いかん。想像するだけで、嬉しくて笑い出しそうだ。


「なに、ニヤニヤしてるの? 気持ち悪いんだけど」


 大原いずみが、向かい側から顔をしかめるけど、止められない。ぐふふ。


 ヤバい。よだれが落ちそうだ。


 われながら、ゲスな考えだと思うけど、愛は勝ち取るもの。惜しみなく奪うもの。


 有島武郎もそう言っている。


 元々は、トルストイの「愛は惜しみなく与う」という言葉を、有島が持論を展開して評論した言葉らしいが、愛するということが、相手のすべてを奪って自己のものにしたい願望だということには強く同意する。


 実際、有島はそうしてみせた。


 1923年、雑誌記者であった人妻と恋愛関係になり、最後は心中した。


 愛する人を、命ごと夫から奪った。


 ちなみに、俺は、心中とは、相手から命を奪い、残された親しい人達からもその人とともにあった未来や楽しかった思い出を根こそぎ奪い去ることだと思っている。


 友人に宛てた遺書に「実際私達は戯れつつある二人の小児に等しい」とか「愛の前に死がかくまで無力なものだとは此瞬間まで思はなかつた」と書いてあったらしいが、これが「惜しみなく愛は奪ふ」と言った男の最期の言葉なのかと思うと、残念でならない。


 第三者にそんなことを書き残すくらいなら、世間体も、愛情も、貞操も、命すらも相手に差し出させて奪い去ってみせたのだから、そこまで人を愛したことを誇り、その人に自分の命を奪わせるまでに愛された喜びを、小説家として書き残してほしかった。


 死を直前にして、おのれが見抜いた愛の本質の正しさを世界的文豪を相手に叩きつけてほしかった。


 女性の夫宛ての遺書に「すまない」なんてもってのほかだ。そんなものが何になる。


 妻を奪われた夫は、ウィキペディアに有島を「脅迫」して「苦し」ませたとまで書かれているが、仮にそうだったとしても、当たり前のことだ。


 当時は、姦通罪のあった時代なんだから。


 人倫も法律も踏みにじった挙げ句に殺人者になったことを、相手を殺人者にさせたことを、そこまで奪い奪われ尽くしたことを、死後、予想される自身と死んだ女性に向けられる非難に正面から立ち向かえるだけの戦う言葉として、愛の本質を語る文章を残してほしかった。


 そうでなければ、うわつらの道徳感に押しつぶされてしまう。


 ましてや、「他人の不幸の上に自分の幸福を築いてはならない。他人の幸福の中にこそ、自分の幸福もあるのだ」と言ったトルストイの切ない希望に爪痕つめあとを残すことさえできない。


 妻にすべてを残して家出した挙げ句、下車した駅舎で肺炎により死んでいった世界的文豪の言葉を、ただ揶揄やゆしただけだと言われかねない。……極東の島国、世界の片隅からと。


 愛とは、奪うもの。

 すべてを敵に回しても奪い尽くすもの。


 そして、相手に見返りを求めるもの。


 なぜなら、愛されたいから。

 愛するだけじゃ満足できないから。


 きれいごとなんていらない。

 人の本質はそうだと俺は思うから。


 だから、俺は、大原いずみを奪う準備を怠らない。目の前の機会を逃さない。


 そんな俺の気持ちに気づくはずのない大原は、生徒達に愛想を振りまいている。握手を交わしている。


 ジリッ。首筋に熱を感じた。


 これは、嫉妬なんかじゃない。

 朝日のせいに決まっている。


 舗道脇の植栽の緑が明るく輝き、陰が濃くなり始めている。


 雲の隙間から太陽が姿を現したからだ。


 9月も半ば過ぎたというのに、容赦ない日差しと熱があたりを覆う。


 今日も暑くなる。


 俺は、ビラを一枚一枚手渡しする大原を眺めながら、そんなことを考えていた。


 ❏❏❏❏


 夕方、勉強会が終わって帰ろうとした俺は、スマホにメールが届いていることに気づいた。


 発信者は、大原いずみ。

 いつもどおり部活に出ているはずの。


 件名は「デートしよ♡」。

 本文はない。


 覚えのある展開にため息が出る。もう、これだけで脇の下が冷や汗でじんわりと濡れてくる。


 大原の意図を正しく汲み取るなら、「ちょっと、ツラを貸せ」だ。


 呼び出された場所が、たとえラブホテルであったとしても、実質的には校舎裏と同じ。むしろ、SMルームでの望みもしない拷問を警戒すべきだ。


 一糸まとわぬ姿でXの形をした十字架にはりつけられ、むちで叩かれるなんて、想像しただけで、……げへへへ。


 いや、喜んでないよ。ホントだよ。


 そんなことより、このメール。


 俺の行動を不審に思って探りを入れてきたんだろう。

 

 人目につかないところに連れ出して、問い詰めようとしているのは間違いない。そのためなら、暴力も辞さないはずだ。


 何がバレたのかな。


 気分は、浮気を疑われている夫だ。問題は浮気した事実を妻が白状させようとしているのに対し、こちらにはどの浮気相手のことなのかがわからないということ。


 うかつな答えは許されない。


 心がけるべきは、質問をはぐらかし、曖昧な態度に終始して、けして断言はしないこと。身に覚えのないことで責められているんだと、真摯な対応と誠実さを前面に押し出してアピールするのが肝要。


 それとも。


 逃げるか?


 うん。そうしよう。


 このメールには気づかなかったことにして、このまま返信もせず、電源を切って、そっと家に帰ろう。そうしよう。


 昇降口はだめだ。靴箱で待ち伏せされている可能性がある。窓から出て、上履きのまま帰るしかないか?


 いや、ここは、どこかに身を隠して暗くなるのを待とう。どうせ、あと1時間もすれば、日が暮れて顔の判別もつかなくなる。


 それまで、どこかにいい場所はないか?


 俺はかばんを抱えて階段を上る。できるだけ昇降口から離れようと。


 だが、隠れる場所が見つからない。


 男子トイレ? だめだ。人気ひとけのなくなった校舎では、探しやすい場所ともいえる。


 どこかの空き教室は? だめだ。どこも鍵がかかっている。


 残るは屋上か? だめだ。追いつめられたら逃げ場がない。


 ちくしょー。隠れる場所が見つからねーっ!


 そうだ。あそこならっ!


 俺は、まわりを警戒しながら、誰にも見られないように生徒会室へと向かった。


 この時間は、まだ櫻井さんが残っているはずだ。生徒会室に逃げ込めば、櫻井さんがかくまってくれるだろう。


 仮に大原が乗り込んできたとしても、本棚の陰とか、衝立ついたての後ろとか、カーテンの向こう側とか隠れる場所にはことかない。


 大原がこなければ、櫻井さんが帰るまで仕事を手伝ってもいいし。


 俺は、生徒会室のドアを背にして張り付くと、まわりを見渡しながら後ろに回したこぶしでドアをノックした。


「どうぞ」


 櫻井さんの声に、後ろ向きのままドアを開ける。


 コーヒーの香りが漂ってきた。ぎなれた匂いに、ひと安心する。今日も菅原会長が来ているようだ。これなら大丈夫と胸をなでおろす。


「櫻井さん、実は」


 そう言って、ゆっくり振り返ると。


 大原いずみが、ソファに腰掛けていたんだ。


「うわあぁぁああーッ!」


 そのまま腰を抜かして後ろ向きに崩れ落ちる。


 廊下の方に体をねじまげ、四つん這いになって逃げ出そうとするが、ダンッという足音がして、首根っこをつかまれた。


「やめてくれーっ!殺さないでぇーっ!」


 俺の叫び声が誰もいない廊下に響き渡る。


「言い方が失礼だよ。山崎ぃ〜?」


 大原の声が頭の上から聞こえてくるが、嬉しいなんて気持ちは出てこない。今、まさにこの世で一番会いたくないやつに出会ってしまった。


 口はがたがたと震え、這いつくばったまま体は硬直したように動かない。


「一人で立てるよね」と言うが、無理。


 恐怖で足が震えて、意のままに動かせない。立とうとするのに、腰砕けになって足が踏ん張れない。


 大原が俺のかばんを取り上げたのを見て、取り返そうとするが、伸ばした手は虚しく空を切る。


 そこへ。


 櫻井さんがしゃがみこんで、俺に肩を貸して立たせてくれた。


 俺の体を支えたまま、ゆっくりとソファに運び、座らせてくれる。


 だけど。


 向かい側にはコーヒーカップを前に、腕組みをした大原が座っている。組んだ脚がスカートに山を作り、そこからスラリと伸びてなまめかしいが、俺の心は恐怖で一杯だ。とても、妄想なんかできる状態じゃない。


 俺の隣に座った櫻井さんが、しかたなさそうに俺に言う。


「30分前に大原がいきなり来て、山崎のことを聞かれた。俺とつながってるんじゃないかって。もちろん、俺は否定した。


 生徒会役員として、山崎がビラをコピーするのに、生徒会室のコピー機を使うのを許可しただけの関係だって。


 だが、信じてくれない。一体どうなってるんだ? 余計なことを生徒会に持ち込まれても困るんだが」


「じゃあ、何で山崎は今、ここにいるんでしょうね? 副会長?」


「そんなの、俺が知るわけがないだろ? だが、もう5時になる。選挙活動も終わりだ。おそらく、山崎は、コピー機を使った礼でも言いに来たんじゃないのか?」


「それにしては、さっきの山崎の態度、おかしくありませんでした? まるで、浮気現場を押さえられた間男みたいでしたよ。それに、副会長のことを櫻井さんって親しげに呼んでいましたし」


「山崎の態度も、俺の呼び方も山崎の問題だ。俺に聞かれても答えられない。なぁ、山崎?」


 アイコンタクトだけで櫻井さんの意思が伝わってくる。


 証拠は何もない。ここは、とぼけてしまおうと。


「大原、櫻井さんの言うとおりなんだ。昨日の朝と今朝のビラはここでコピーさせてもらった。その選挙活動がもう終わる。ノーサイドの時間だ。


 俺は、選挙結果が出る前に櫻井さんにお礼を伝えたかっただけなんだ」


「副会長が篠崎先輩の選挙活動を手伝ってることは知ってたよね?」


「知ってるけど、関係ないだろ? 篠崎先輩は選挙活動なんかしてないんだから」


「じゃあ、なんでわたしを見て逃げ出したの?」


「それは、驚いたから」


「わたしがここにいただけで、あんなに驚く? それは、這ってまで逃げようとした理由になってないよ」


「それは、反射的に」


「逃げようとしたのは、後ろめたいことがあるからでしょ。たとえば、山崎が篠崎先輩の側に寝返っていて、情報を流しているとか」


「そんなわけないだろっ! 俺は大原のためにいろいろと提案してきたはずだ。疑われるのは心外だ」


「そう? なら、言えるよね? 逃げようとした本当の理由。


 それから、ビラを生徒会室でコピーしたことをわたし達に教えなかった理由。


 そして、昨日も今朝も、全校生徒でただ一人、副会長だけは、山崎からビラを受け取っていた理由も」


 ヤバい。ヤバい。ヤバい。


 これは、もう完全に詰んでいる。


 俺が生徒会の下っ端だということまではわかっていないけど、櫻井さんとつながっていることは確実にバレている。


 どうする? どうしようか? どうしましょうかと、櫻井さんを見る。


 櫻井さんはすました顔で大原を見返すと、「そんなことにいちいち理由なんかあるわけないだろ? なぁ、山崎」とあくまでとぼけようとする。


 俺も必死になって首を縦に振る。


「あとね。山崎、わたしからのメール、見た?」


 ガチャリ。


 そのとき、ドアが開いて、大声がとどろいた。


「よおっ! 室付しつづき、来ていたのかっ! 選挙活動ご苦労……だった……な……」


 段々と、か細くなっていく声の持ち主は、菅原会長。


 部活が終わって立ち寄ったのだろうか。


 だけど。


 大原の姿を見て立ちすくんでいる。


 その瞬間。


 目のはしで人影が動くのをとらえた。菅原会長の脇をするりと通り抜けて廊下へと消えていく。


 俺も、ダッシュで櫻井さんの後に続く。


 大原いずみと菅原会長をその場に残して俺達は駆ける。


 櫻井さんが何を考えて逃げ出したのかはわからない。だけど、ここまでくれば一蓮托生。


 少なくとも、脳筋会長と一緒に大原に立ち向かうなんて無理っ!


 そもそもが、あの人、味方かどうかすら怪しいし。


 かばんは取り上げられたままだが、しかたがない。明日はリュックで登校しようと覚悟を決める。


 一目散に昇降口へと向かい、靴を履き替えて外へ飛び出す。


 グラウンドの横を、校門へと続く舗道を走り抜けて、校外に出る。


 帰宅で混み合う人の群れをサイドステップでかわす。


 薄暗くなり、街灯がともり始めた街の中を俺達は駆け抜けていく。


 ようやく櫻井さんが立ち止まったのは駅前のラーメン屋の前だった。


 二人とも、息を切らしてゼイゼイ言っている。


 しばらくの間、そのまま息を整えていたが。


「ここに、入るぞ」


 櫻井さんの声に、ポケットを探る。


「カネは、俺が払うから」と言ってくれるが、確認したかったのは、家に帰る定期券と機密満載のスマホ。


「らっしゃいませー」


「こってりでいいな? こってり、単品、並、二つ」


「こってり2丁、いただきましたーっ!」

「はいよーっ! こってり2丁っ!」


 店員の掛け声を聞きながら、俺は目の前に置かれた水を一気に飲み干す。


 隣を見れば、櫻井さんもだ。


 すぐに、ピッチャーを持って、からになった櫻井さんのコップに水を注ぐ。俺のコップにも。


 櫻井さんも俺もそれを一息ひといきに飲み干し、もう一杯。


 そして。


「逃げてきて……よかったんですかね」とつぶやいた。


 櫻井さんは何も言わない。


「……菅原会長、大丈夫でしょうか?」


「今は、何も聞くな」


「……でも」


「……俺は、来期の副会長を辞退しようと思う」


「えっ?」


「これ以上とぼけるのは無理だからな。会長が山崎のことを室付しつづきと呼んだ。それで、大原いずみの追及をかわしきれないと判断して逃げた。あれが最適解だと思ったんだ。今は会長に任せるしかない」


「……菅原会長に?」


「そうだ。最悪でも、室付しつづきという存在と山崎がそうであることは隠してくれるだろう。室付しつづきに迷惑はかけない」


「そうですか」


「だが、大原が生徒会役員になれば、いずれ室付しつづきという存在に気づく。だから、俺は大原とは二度と会わないつもりで副会長を辞退するんだ」


「同じ学校ですから、会わないというのは難しくありませんか」


「俺と室付しつづきが初めて会ったのは先週の金曜日、一週間前だ。それまで顔を合わせたこともなかっただろ? 生徒会副会長と新入生代表なのに」


「そうでしたね」


「俺にできるのはここまでだ。後は、室付しつづきがうまく立ち回ってくれ」


「わかりました」


「だが、今日はどうして生徒会室に来たんだ? 用はなかったはずだろ?」


 俺は、「実は、大原から呼び出しを受けましてと」大原から逃げ回っていた経緯いきさつを説明する。


「……そうか。大原は思っていた以上に頭が切れるようだな。たった一通のメールで生徒会を切り崩してみせた。俺が甘かったな」


「俺が生徒会室に行かなきゃよかったんですね?」


「いや、大原が、室付しつづきのことを疑ってるとわかった時点で、俺が会長と室付しつづきに来ないようにメールで伝えるべきだったんだ。……大原からのそのメール、たぶん俺が大原の追及をそらそうとコーヒーを淹れているときに打ってたやつだ」


「へい、こってり2丁、お待たせしましたーっ!」


 ドン、ドンと、カウンターにラーメンが並べられた。


おうか」


「そうですね」


「「いただきます」」


 俺達は、ずずっとラーメンをすすり、レンゲでどろりとしたスープをすくう。


 黄土色に濁った鶏ガラスープは、もはや飲み物とはいえない濃厚さで舌に残り、ざわりと口中こうちゅうを侵略してくる。


 それは、チェーン店ながら、この店がもつこだわりだ。昭和46年創業。およそ半世紀も前に創業者が作り出した「こってり」というジャンル。


 そうして生まれた、この、背徳の沼。


 この店の発祥の地が京都だと聞いて、思わず二度見するほどのインパクトをもつスープ。


 それが、今のささくれだった心を癒やしてくれる。この一杯が、舌とか腹だけじゃない、失った何かを埋めてくれるようだ。


 ──天下一品。


 権之助坂と呼ばれる通りに面したこの店で、俺と櫻井さんが会うのもこれが最後になるのだろうと思いながら、両手でどんぶりを持ち上げてスープまできれいに飲み干した。


「「ごちそうさま」」


 店を出たときには、すっかり暗くなっていた。


 空を見上げても、月と金星以外に星なんか見えない。いくら目を凝らしても見えるのは、緩やかに動く飛行機の航空灯だけ。


 それは、この街のあかりがまぶしすぎることだけが理由じゃない。


 人の世の生きづらさが、目をくもらせているからだ。


 生きるということは選択の連続だ。

 生き残るために俺達は何かを捨てる。

 大切にしてきたものを失う。


 苛酷な現実にくじけそうになる。


 おのれの人生から目をそむけたくなる。


 そんなとき、とっておきの一杯のラーメンが心のどころとなる。


 明日を生き抜く力を与えてくれる。

 生き方は一つじゃないと教えてくれる。


 ラーメンの数だけ生き方はあるのだと。

 

 そんな、センチメンタルな気持ちになっていたからだろうか。


 駅を目の前して、つい口にしてしまった。


「菅原会長、まだ生徒会室ですかね?」


「そうだろうな。……大原は、見た目と違って、踏み込んでくる強さ、タイミング、目のつけどころが鋭い。一つ年下なのに、俺なんかと比べて甘さも容赦もない。会長、うまくしのいでくれてるといいんだが」


「難しそうですね」


「ああ、難しいと思う。一体、何が大原を突き動かしているのか。室付しつづきはそれが何か知ってるか?」


「いえ、特には」


「告白したのにか?」


「それとは関係ないでしょ。……それに、振られましたし」


「振られた?」


「今は友達と一緒にいるほうが楽しいらしいですよ」


「そうか」


 俺は、学校の方を向いて心の中で手を合わせた。……ごめんなさい。菅原会長。


 そのとき。


 櫻井さんのスマホが鳴った。


「……会長からだ」と言いながらメールを開く。


 やがて、目を通し終わると、ため息をついて俺に渡して見せてきた。


『大原は今帰った。まだ学校にいるのならかばんを取りに戻ってこい。生徒会室に置いてあるから。


 こんなに時間がかかったのは、大原の追及が厳しかったからだ。どうやら、室付しつづきが裏切って、篠崎の側に付いているのではないかと心配しているようだった。懸念した生徒会とのつながりは疑っていなかった。


 だが、すまん。


 櫻井と室付しつづきの関係をしつこく問われて、つい口が滑った。


 というか、思わず、でまかせを言ってしまった。


 本当にすまない。


 大原の中では、櫻井と室付しつづきが交際していることになってしまった。


 俺の言葉が足りなくて申し訳ない。


 それでも、室付しつづきが生徒会役員だということは隠し通した。


 その点だけは安心してくれ。


 重ねて謝る。悪かった』


 ……っ⁉ 安心なんか、できるかーッ!! ボケーッ! 何してくれてんねんっ!


 あまりの悲慘事ひさんじに関西弁になってしまったが、俺は関西で暮らしたことはない。上司を罵倒する言葉を、関西弁で柔らかくしてしまったのは、社畜根性からだろうか。


 知らず知らずのうちに醸造されたのだとしたらとんでもないことだ。


 こんな生徒会とは早めに手を切らないと。


 櫻井さんは目を閉じて何も言わない。


 菅原会長が言い逃れるために、俺と櫻井さんを生贄いけにえにしたことをどう思っているんだろうか。


 いや。


 櫻井さんはともかくとして、俺は明日も大原と会うんだぞ。どんな顔すりゃいいんだよっ!


 何度も謝ったからって済む問題じゃない。むしろ、誠意があるかさえ疑わしい。


 ……だけど、クラスに同性愛者がいる。


 いや、俺は大原に告白しているから、両性愛者か。


 大原が、俺にどんな対応をしてくるのか、そっちのほうが気になってしかたがない。


 そりゃたしかに、LGBTを出せば、大原だってそれ以上は追及できないだろうさ。


 「性の多様性」とか「性のアイデンティティ」というのは、異性へのアプローチすらままならない高校生にとっては、禁句に等しい言葉だ。


 それで逆手にとろうとしたんだろうけど、別の意味で取り返しがつかなくなってんじゃねーかっ!


 こんな生徒会、今すぐ辞めてやるっ!


 選挙は、火曜日の投票と開票を待つだけだし、俺のすることはもうない。つまりは、室付しつづきの仕事も終わった。


 大原の誤解を解こうにも、代わりに問われるのは、櫻井さんとの関係。


 それでも、生徒会のスパイをしていたなんてことは知られたくない。


 大原達にとって俺は裏切者だ。俺の信用は地に落ち、うまくいきはじめた人間関係も終わりを告げる。


 バイセクシャルだと思われていたほうがまだマシだ。


 俺は櫻井さんにスマホを返すと、頭を下げて別れを告げた。


「選挙活動は終わりました。結果はまだ出ていませんが、俺にできることはもうないと思います。今日をもって室付しつづきを辞任します。


 今までお世話になりました。


 俺の力不足でいろいろと迷惑をかけることもありましたが、多少なりとも役に立ったと思っていただけたなら嬉しいです。これからは生徒会にお邪魔することもないでしょうが、今までのご指導は絶対に忘れません。


 今日はごちそうさまでした。櫻井先輩、お元気で」


「……最後の挨拶にはまだ早いぞ。明日の朝、かばんを取りに行かなきゃいけないからな。始業前に生徒会室に来てくれ。


 ……だが、そうだな。室付しつづきには、いや、山崎には助けられたと心から思っている。ともに生徒会役員をしていたと口にすることはできないが、山崎は頼りになる後輩だ。


 また、いつか、こんなふうに一緒にラーメンを食べられたらいいな」


「ありがとうございます。では、ここで」


「ああ、山崎。最後に一言ひとことだけ、いいか?」


「何でしょうか?」


 櫻井先輩は、言葉を選ぶようにゆっくりと口をひらいた。


「……ここ、目黒駅は、目黒区じゃなくて、品川区にあるってことは知ってたか?」


「いえ、初めて知りました。でも、どうしてそんなことを?」


「名前とか、見た目、思い込みで、知ったような気になってはいけないってことだ。特に人はな」


 そんなの当たり前のことだと思うが、おそらく、本題はこれからだろうと俺は櫻井先輩の言葉を待つ。


「……大原いずみ、見た目と違って、意思の強さ、慎重なところ、ポイントを押さえた攻撃、それらは今のところうまくいっているようにも見える」


 櫻井先輩が口にしようとしているのは、俺へのアドバイスなのか。それとも、別の何かなのだろうか。


「選挙に勝って生徒会長になっても、負けて生徒会役員になっても、いい人材を生徒会に取り込めたと思っている。だが、これから大原には生徒会という負担が増える。


 ……特進クラスだから学業をおろそかにすることはないだろうが、いずれ陸上部と生徒会、そのどちらを優先するかで悩む日が来るはずだ」


 それは、文武両道に新たな負担が加わる深刻さを意味している。だが、櫻井先輩の口ぶりには、もっと深刻な何かがあるような気がした。


「そのときに、もしも、大原が生徒会のために陸上をあきらめるような決断をしそうになったらめてやってほしい。


 山崎が大原を支えたいと思うのなら、誰になんと言われようと、彼女のそばからけして離れないでやってほしい。


 ……いや、副会長を辞める俺が言っていいことじゃないな。すまん。忘れてくれ。……じゃあな」


 櫻井先輩は、最後は早口になりながらそう言い残すと、足早あしばやに雑踏に消えていった。


 それを見送りながら、俺は、漠然とした不安に襲われていた。


 言い返す言葉も、示す覚悟も見つけられず、ましてや最後の言葉の意味すらわからないまま。


 ……いや、本心を言うと、わかりたくないと思ったんだ。


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