第17話 その候補者、無力につき
「ア、エ、イ、ウ、エ、オ、ア、オ」
中庭から窓越しに演劇部員達の発声練習が聞こえてくる。
立会演説会に引き続く大原と篠崎先輩の短距離走の後、俺は古川満子部長に捕まってしまった。
そのまま引き立てられるように演劇部の部室へと連れてこられ、6時間目の授業は受けさせてもらえず、こうして尋問を受け続けている。
「なぁ、山崎ぃ〜、別に部活に出てこないことを怒ってるわけじゃない。ただ、お前が立会演説会でラップをしてみせた理由を知りたいだけなんだ」
そんなことを言われても答えることなんてできない。
室付という生徒会役員を名乗ることは許されてないし、仮に言ったとしても菅原会長をはじめ、役員達は否定するだろう。
むしろ、簡単に白状したことで、菅原会長からどんな理不尽な罰が下されるか、想像するだけで恐ろしい。
相手は、インターハイに出場した黒帯でありながら、下級生の素人相手に暴力を辞さない脳筋なのだ。
スポーツマンと言っても、一皮むけばこんなもの。
だけど。
櫻井さんを含め、生徒会役員達は菅原会長に甘いからどうしようもない。
頼みの綱は、6時間目の授業に教室に戻っていないことで、1年A組の誰かが探しに来てくれることだったが、期待するだけ無駄だったようだ。
時刻はすでに3時半を過ぎて、放課後になっている。
大原や勉強会メンバーから見捨てられ、俺は、1時間以上もこの変態部長から問い詰められているわけだ。
「何度も言っていますが、なんとなくですよ。俺にもどうしてあんなことをしたのかわかりません。気づいたらステージに立っていたんです」
「ああんっ!」
顔を寄せて凄んでくるが、これ以上は答えられない。
理由は二つ。
生徒会とのつながりをこの人に知られたら最後、それをネタにどんな理不尽なことを求めてくるかわからない。
そして、大原いずみの選挙参謀なんてことが知られたら、大原を演劇部に勧誘するために拉致監禁の片棒をかつがされかねない。
現に、俺はこうやって監禁されている。
そんなやつを大原を近づける? 冗談じゃない。
ここの演劇部は、舞台を創る前に、役者である部員に羞恥心を捨てさせることから始める。
新入部員は、まず、ランニングして戻ってきたら、部室内で並んで発声練習をする。慣れてきたら体育館裏、グラウンドの隅、中庭、校門前、そして、ランニング途中に寄った児童公園内、市民会館前、最後は駅前と徐々に人が多い場所へとハードルを上げていく。
発声練習も、アメンボ、アカイナとか、外郎売の口上だったのが、最後は大声で自己紹介をさせられる。
自己紹介はもちろん自分で考えなければならない。思いつかなければ「満子先輩の好きなところっ!」と体の一部で魅力的に思うところを十個言わなければならない。
マジ悪魔のような女だ。
そんなの、駅前でしたら確実に通報される。
だからか、いまだそんな猛者はいないと聞いた。
もはや、部活というよりも罰ゲーム。
だが、どんな非道なやり方であろうと、一度正常な羞恥心を壊された部員達は、舞台の上でどんな破廉恥なことも平気でできるようになる。
高校生、いや女性の裸を見たこともない童貞でありながら、セックスとかレイプという言葉を大勢の観客の前で叫べるようになるし、腰をくねらせたり、お尻を振るという性的な表現も恥ずかしくなくなるのだ。
演技指導は、そこを過ぎてから始まるというのがこの演劇部の方針だ。
ただし。
性というタブーに自爆覚悟で果敢に挑戦する演劇部のやり方は、何もこの変態先輩個人の性癖に由来するわけではない。
タブーへのアプローチこそが容易く人の心に潜りこみ、掴んで離さないという誘惑に、古の表現者達もまた囚われ、離れることはできなかった。
たとえばNTR。
劇作家であり、小説家でもあった、つかこうへいが「寝盗られ宗介」を発表したのは1981年のこと。
もっとも、舞台が先だったのか、角川書店発刊の小説雑誌「野生時代」に掲載したのが先だったのかはわからないが。
しかし、その特異さゆえに、その後も舞台化、映画化がされ、その都度、そのタイトルや内容でインパクトを与えてきた。
そして。
今やNTRは、アダルトなゲームや映像作品のジャンル名となり、ネットの世界や小説ではタグが付けられるほどの人気属性となっている。
ただし、公言できない趣味として。
だが、その歴史は古く、ギリシア神話を始めとする神話世界ですでに語られていた。性のタブーである近親相姦と同じように。
11世紀には紫式部の「源氏物語」において、12世紀にはフランスの「トリスタンとイズー」において、14世紀にはジョヴァンニ・ボッカッチョの「デカメロン」において、16世紀にはフランソワ・ラブレーの「第三の書」において、そして17世紀にはシェイクスピアの「オセロ」や「ハムレット」において、寝盗られ要素が静かに息づいていた。
また、「人間失格」や「暗夜行路」に見られる、主人公に影を落とす重要なファクターとして。
しかしながら。
それらの多くは、フランス文学に代表される寝取られ男の悲哀だ。悲喜劇だ。
彼らは、浮気されていることを知らなかったり、浮気されて深く傷つく。なかには、知ってなお動揺を見せない人生の達観者もいたにはいたが。
そこへ。
近時、特に日本において、大切にしているパートナーが、自分以外の者とセックスをすることに性的興奮を覚える嗜好がクローズアップされてきた。
ネトラセである。
起源に谷崎潤一郎の「鍵」を挙げるとしても、ネットでの同人作品の広がりとともに、それは、従来のネトラレとは似て非なる、まさにマゾヒズムの一種として特異な位置を確立しつつある。
ネトラレが苦痛と怒りを読者との共感に訴えるのに対し、ネトラセは不安と葛藤を読者に押し付けるという点で。
この演劇部が目指す舞台は、ネトラセのような人の心の奥底に隠された醜く歪んだ欲望を暴きだし、その感情の揺れを観客に追体験させ、その心をわしづかみにすることを狙っている。
その手段として、部員に、逸脱から生まれる羞恥心を、他の人ができないことをした特別な自分という快感に変換することを覚え込ませ、演劇の力で、舞台から客席にナマの感情をぶつけるというやり方で表現者たらんとしているのだ。
だから、逸脱に見える行動も、慣れ親しんだ目から見れば、実は周到な計算の上に立っていることが見て取れる。ある種のテンプレとでもいうような。
「なあ〜、MCヤマザキよぉ〜」となだめたりすかしたりするこの変態部長にしても、テンプレを踏みはずしてはいない。
こうやって俺と向き合うために6時間目の授業をサボったのも、俺からすれば、高校生の悪行としてはありふれたものだし、自分のことを満子部長と呼ばせるのも、「あの花」の安城鳴子の愛称を意識した卑猥な悪ふざけでしかない。
もっとも。
あっちと違って、こっちは性器を意識させられる分だけ、平常心ではいられない。いや、あっちを性器に分類する変態がいることは知っているけど。
それに、腐の宿業を背負ったご令嬢達からすれば、性差を超えるどころか、何だって性器に分類できるらしいから、あっちだこっちだと区別する意味はないのかもしれない。
オスメスと呼ばれる、品物を入れる箱と被せる箱はともかくとして、ボルトとナット、ペットボトルとキャップ、木と木を刻み加工して接合する継手のほぞとほぞ穴。
特に2枚ほぞのような二つのほぞと二つのほぞ穴で組む継手は、一部マニアからすれば、鼻血が出るほど興奮するブツらしい。
また、性に目覚めたばかりの少年少女にいたっては、愛用の国語辞典をぱらぱらめくっただけで、入口と出口の区別もつかない性の多様性に振り回されたザマが知れるというもの。
何度も開いて癖がついたページにある特定の文字。
国語辞典を緩い股のように何度も何度も押し開いては自分の形を覚えこませたそのページは、横から見ると、使いこなされた分だけ手垢で黒ずんで、やがて、若さゆえの過ちの重さを思い知らされる日がくるのだ。
今風な小説のタイトルにするなら「俺の国語辞典がエロ本になっているのを教室で親友だと思っていた奴に暴露されたんだが 〜 いつかざまぁを夢みる俺の復讐譚。逆恨みだろうが、あいつのことは絶対にゆるさねー」とでもなるんだろうか。
……まあ、昔の話だ。
え〜と、何の話だっけ?
そうだ。演劇部の話だった。
そもそも、純朴な少年少女に逸脱行為を強いる演劇部のやり方は、洗脳と同じだ。羞恥心で感情が揺さぶられる中、達成感で混乱している頭に、方向づけした価値観を植え付けようとする悪質なやり口だ。
だから、俺はゆるゆると演劇部から距離を置こうとした。
この夏、演劇部はクーラーの効いた区の文化センターで稽古をしていた。
上演予定の作品に配役がないのをいいことに、殺陣の練習とか、小道具の制作とか色々と理由をつけて、部室に出ている体を装い、熱心すぎる顧問の目をかわして、区の文化センターには近寄らないようにした。
この学校の演劇部は、昨年秋、地区大会で優勝し、池袋の芸術劇場で行われた東京都大会では3位という成績を残した。
全国大会までの道のりは、秋の地区大会、都大会、翌年1月の関東大会、そして8月の全国高等学校総合文化祭の演劇部門となっている。
全国大会には、そこまで導いた3年生は卒業して参加できないし、それ以前に、関東大会はなぜか、大学入試センター試験の日程とかぶっている。
そのため、演劇部は1、2年生を中心に活動している。
今年1月に開催された関東大会への進出は叶わなかったものの、都3位の特典として、演劇部は、この夏に行われた全国大会の上位4校に混じって、国立劇場で昨年の参加作品の再演をした。
熱心すぎる顧問も、変態部長を始めとする演劇部員も、今年の地区大会参加作品の稽古に加えて、昨年の参加作品の稽古と再演に追われていた。
そのことが、俺に逃げる機会を与えてくれた。
はずだった。
この秋の地区大会が終わるまで関わらなければ、逃げ切れると思っていた。
甘かった。いや、ラップをする姿を見せたのは俺だから、油断したというべきか。
俺という存在を認識させてしまった。
何もしなければ、脱落者として、知らないうちに名簿から名前が消えていたはずなのに。
たが、もう遅い。
俺にできるのは、適当な返事をしながら時間が過ぎるのを待つことだけだ。
さすがに5時になったら帰してくれるだろうし。
「お前、強情だな〜。新入部員に戻って叩き直すしかないか〜? ん〜?」
「なんと言われてもわからないものはわかりません」
「じゃあさ〜、お前、なんで舞台袖にいたんだ〜? あそこは関係者以外立入禁止だろ〜?」
「さあ、なんででしょうね」
「確か、副会長の櫻井洋平もそこにいたはずなんだよな〜? なんで、お前を止めなかったんだろ〜な〜?」
「誰ですか? それ。俺の知らない人の話をされても困るんですが」
「まあ、いい。どうだ〜? 今日は部活に寄っていくんだろ〜?」
「いえ、今日は家で用事が」
「なんだ〜? オベンキョか〜? そ〜いや〜、大原いずみって、お前と同じクラスだったな〜」
「そうですね」
「あれ、いいケツしてんな〜。どうよ? お前、演劇部に連れてこられね〜か?」
「どうでしょうね。それほど仲良くはありませんから」
「さっきよ〜、篠崎に負けた大原のところへ、お前、行こうとしてたよな〜。心配して」
「一応、クラスメイトなので」
「仲良くないのに、心配する〜? ホントかな〜?」
変態部長、とうとう大原の名前を出してきやがった。
これはもうしかたがない。
観念して一度、演劇部に戻るしかないのかもしれない。
そう覚悟を決めたとき。
ジリリリリと非常ベルが鳴った。
その既視感に、俺はドアを見る。
満子部長もそちらに顔を向ける。
「火事、ですかね」と俺は立ち上がる。
「様子を見てきますね」と、変態部長の返事も待たずにドアを開け、「このまま避難します。部長も急いでください」と廊下へ飛び出した。
廊下のずっと向こうに、大原や何人かの女子の姿を見つけ、「お〜い、待てよ〜」という背中にかけられた言葉を振り切って走りだす。
助かった。
見捨てられたわけではなかった。
心配して探してくれたことに涙が出そうだ。
俺が捕まっていることを知って、非常ベルを鳴らしてくれたことがありがたい。
廊下を走り抜け、角を曲がって大原達に合流する。
「助かった。ありがとう」
「授業が始まっても戻ってこないから心配したんだよ」
「具合が悪くなって保健室に行ったのかなって探したんだけど、いなくて」
「かばんは残っているから帰ったはずがないって」
「山崎が演劇部の部長に捕まっていたのを見た人がいて、もしかしたらと思って」
勉強会メンバーが安堵したように口にする。
それを、大原が止めて「とにかく、ここから離れよう。非常ベルを鳴らせたことが知られたらまずいからね」と俺のかばんを渡してきた。
「モスへ行くよっ!」
その号令に、清水と水越を含む勉強会メンバーがうなずく。
俺達は、急いで学校を後にした。非常ベルで消防署に通報がいくかもしれないが、知ったことか。
少なくとも、俺は非常事態だった。あやうく悪の組織に連れ戻されるところだった。
いつものモスでは、まず最初に、俺が演劇部の部長に拉致された経緯を聞かれた。
俺は、ラップで目をつけられたことを説明し、大原が狙われているかもしれないと警告する。
というか、落選したら間違いなく大原に近寄ってくる。陸上部に居場所がないはずだと決めつけて、あの手この手で勧誘してくる。
目立つということは、こういうことだとあらためて思い知らされた。
この学校生活で、大原はもうその他大勢の中に隠れることはできない。成功しても、失敗しても、その行動は大きくクローズアップされ、責任が求められる。
今日の非常ベルなんて完全にアウトだ。
櫻井さんなら、間違いなく俺を切り捨てていた。
だけど。
友達を切り捨てない大原いずみだからこそ、今、俺はここにいる。
清水優子も、水越まゆみも、永田由紀子も、石月恵子も、田村春香も、後藤しおりもここにいるのは同じ理由からだ。
そのことが、たまらなく嬉しい。
こんな時間が失われるのなら、生徒会長なんてならなくてもいいんじゃないかと言ってしまいそうだ。
わかってる。
大原が生徒会長なんてものを目指したのは、文化祭実施のためだってことは。
それでも、あの夏の日々を懐かしく思い出さずにはいられない。
あんなふうに、これからも過ごしていけたならよかったのに。
演劇部の恐怖に沈んだ空気をなんとかしようとしたのか、永田由紀子が、大原に声をかけた。
「篠崎先輩からなんて言われたの?」
「えっ?」
「ほら、並んで走った後」
「うん。速くなったなって言われた。頑張ってるんだなって。俺も頑張らなきゃいけないなって」
「それだけ?」
「それだけだよ。なんで?」
「え〜と、なんかもうちょっと色っぽいこととかなかったのかな〜って」
「ない、ない。先輩にそんなこと期待しても無駄だよ」
「でも〜、耳元で囁いてるのを見ちゃったし」
「他の人に聞かれたくなかったんじゃないの? ほら、頑張れって言葉しか知らない人だから」
「ねぇ、ねえ、いずみの元彼って、もしかして」と田村春香が加わる。
「違うよ。先輩のことは尊敬してるし、食堂前のポスターで見せている真剣な眼差しにあこがれたこともある。
でも、それがわたしに向けられることはないし、自分があの眼差しと釣り合う生き方ができるとは思えない。
……だけど、そうだな。
元彼って、どちらかというと、山崎に似てる。
自分ではきちんとできていると思っていても抜けているところとか、普段ふらふらしていても時折見せる真剣なところとか。
あと、エロいところ」
「「「「「「「エロいの?」
思わず、俺も聞き返してしまった。
「エロい。あっ、でも、キスより先のことはしてないよ」
「なんで別れたの?」と今度は清水優子。
「理由は色々あるけど、一番は、自分に嘘をつけなかったから。……それが相手にわかって、それでも相手を傷つけたくなくて……結局、傷つけちゃったんだけどね。
もう、この話はこれでおしまいっ!」
「え〜、もっと聞かせてよ〜」と石月恵子が食い下がる。
「これ以上はダメ」
「元彼と連絡とか取ってるの?」水越まゆみが遅れて参戦してきた。
「ないよ。別れてすぐに別の彼女を作っていたからね」
「なによ〜、それっ!」後藤しおりが怒ってみせる。
俺だけがこの話題についていけない。男子がここにいるって、忘れてるのかな。
でも、こんな雰囲気も悪くない。
そう思ってほっこりしていたら、大原から攻撃の矢が飛んできた。
「でも、元彼、ラップはできなかったな」と俺を見て。
「ねぇ、MCヤマザキ?」
途端に、大原の元彼の話から俺のラップへと話が変わった。
「すごかったね〜、あれ」
「アレって即興なの?」
「前からラップをしていたの?」
「練習って、どんなことをするの?」
勉強会メンバーがかしましいが、それを断ち切るように。
「なんであんなことしたの?」と大原の鋭い声がした。
「なんでかな? 俺にもどうしてあんなことをしたのかよくわからない。でも、そうだな。空気を変えたかったのかもしれない。
篠崎先輩が大原の応援演説をした。何が起こったのかわからず、会場は静まり返っている。
このままじゃまずいと思った。自然とラップが口に出た。それだけだな」
「なに、それ、変なの」と後藤しおりは笑うが、これ以上は言えない。
そして、俺は口にする。
ここに来る途中で確認した、櫻井さんからのメールによる指示を。
それが俺の仕事だから。
「そんなことより、これからの選挙活動なんだが」
「選挙? 篠崎先輩が勝ったんだから、立候補辞退が認められて、いずみの無投票当選が決まったんじゃないの?」
田村春香が首をかしげるが、俺は首を横に振って答える。
「生徒会はそう考えていない。副会長に確認したら、『選挙はする』って言われたからな。生徒会長は、篠崎先輩が大原に負けたら辞退は認めないと言っただけで、勝ったら辞退を認めるとは言ってない」
「それって詭弁だよね」と永田由紀子が口をとがらせる。
「俺もそう思う。だが、これはゲームじゃないし、俺達は篠崎先輩に立候補を辞退しろと言える立場にない。そもそも、篠崎先輩は大原の応援演説をしただけで、辞退するとは言っていない。俺達が勝手にそう思い込んだだけだ」
「そんな〜」と言う後藤しおりの声に「おかしいよ」と石月恵子も同調する。
「おまけに、50メートル走というイベントで、辞退云々がうやむやにされてしまった。大原の足も速かったけど、篠崎先輩のスピードを間近で見ることができて、みんな、大喜びだったじゃないか」
「それはそうだけど……」と後藤しおりの声が小さくなっていく。
「その前にMCヤマザキのステージがあったけどね」と大原が口を挟むが無視だ。
「そもそも、生徒の多くは篠崎先輩の生徒会長を望んでいるんだ。誰も文句なんか言わないんじゃないか? 篠崎先輩は生徒会長からこってり絞られたとは思うけど」
「はぁ〜」とがっかりした様子を見せる一同。
特に、大原は、釈然としない顔で腕を組んでいる。
まあ、自分の思惑どおりにいかなかったわけだから、無理もないか。
だが、ここで引き締めなければ勝負にならない。
相手は圧倒的なパフォーマンスを見せた。選挙にはまったく関係ないけれど、あれを見て何かを期待しないやつはいない。
大原の公約に賛同したことも、篠崎先輩に有利に働くだろうから、もはや、公約の優位性は期待できない。
だから、ここは積極的に行動すべきだ。
「がっかりする気持ちは俺も同じだ。だけど、気持ちを切り替えよう。演説会の前だって勝てる目算はなかった。それは今も同じだ」
皆が居住まいを正す。
「公約にあげた文化祭の実施を口先だけと思われないために、篠崎先輩よりも先に行動に移す必要がある」
「具体的には?」
大原が胡散臭そうに俺を見る。
そんな目で見るのはやめてくれ。
確かにいろいろとやらせたことは認めるけど、お前だって、俺達に言わなかったことがあっただろ?
半眼になった大原を無視して俺は提案する。櫻井さんの指示を、まるで俺が考えたかのように。
「これから毎朝、といっても、明日と明後日しかないんだけど、校門前でビラ配りをしようと思う。
ビラのタイトルは、そうだな。『文化祭を取り戻せ』なんてどうだ? 大原の演説原稿を元にしたビラを配って文化祭実施を訴えるんだ」
「ビラ配り? どうしてそんな回りくどいことを?」
清水優子が、そんなことをしなくても、とでも言いたげに首をかしげる。
「本気度を形と行動で示したい。校則で、学校の許可がないビラ配りは禁止されている。だが、例外がある。それは生徒会長選挙期間中の選挙に関するビラ配りだ。
これを利用して、文化祭の実施を希望していることを全校生徒だけじゃなく、学校側、特に理事会の目につくように行動を起こすんだ。
なんと言っても文化祭の早期実現の障害は理事会だ。残り時間は少ない。行動を見える形にして、同時に得票に繋げたい」
「わかった」と大原が即答した。
「時間がないから、デザインは文字だけ。案を今日中に皆に送信するから、確認して意見を返してくれ」
「ここでみんなで考えればいいのに」と水越は言うが、それには乗れない。
デザインは、まさに今、櫻井さんが考えているはずだから。
俺の仕事は、櫻井さんの案をそのまま丸呑みさせること。
でないと、明日の朝までに800部の印刷が間に合わない。櫻井さんはその手柄を俺に譲るつもりでいる。なら、俺にできることはその案を押し通すだけ。
「じゃあ、メール送るから」と、不安げな彼女達を残して席を立った。
これ以上、ここにいて嘘をつく不誠実な顔を見られたくない。
すべてが櫻井さんに操られている道化の姿を、非常ベルという危険を冒して演劇部部長から俺を救ってくれた恩人達に見せたくない。
彼女達を騙していることで、居たたまれない。
モスのドアが締まり、チリンと鐘の音が遠く聞こえる。
選挙が終わり、室付から解放されるまで、休日を含めてもあと6日。
とても、生徒会室に立ち寄ってパソコンで大原の個人情報をのぞき見る時間も気力も出てきそうない。
櫻井さん、あんたの言うとおりだった。
この仕事、見返りとまったく釣り合っていない。
俺は、駅に背を向け、学校へと戻っていく。
せめて、印刷の手伝いくらいはしたい。今日中に印刷物を受け取り、櫻井さんが明日、早朝登校する負担くらいは減らしてあげたい。
ふと思いついて、ポケットからスマホを取り出す。
生徒会室に俺が行くのが、櫻井さんの迷惑でなければいいのだけれど。
それと、篠崎先輩と生徒会室で鉢合わせをしないように。
❏❏❏❏
その夜、生徒会室に一人残ってコピーを取っていた櫻井さんから受け取ったビラを見ながら、今日、モスにいた大原の仲間達にメールを送った。
『明日のビラはこれでどうだろうか。大原の演説を元にして作った。時間がないから、細かい修正は明後日のビラで反映させたい。
都合がつくなら、明日の朝7時30分に校門前に集合してほしい。
山崎 浩二
── 文化祭を取り戻せ ──
文化祭の延期が決まって1か月になろうとしています。
いまだ、実施の見通しは聞かされておらず、このままでは今年の文化祭は中止となるかもしれません。
今、わたし達は問われています。
口をあけて待っている鳥のヒナのままでいいのか。そもそも、文化祭は生徒達で作り上げるものではなかったのか、と。
思い出してください。
夏休み、文化祭の準備に心はずんだ日を。そのために流した汗を。
わたしは、10月中の文化祭実施を学校に強く訴えかけたい。
また、学校側と意見交換する仕組みを提案したい。
一緒に文化祭を取り戻しませんか。
賛同していただける方のご支援を待っています。9月24日、投票所で。
生徒会長候補者 大原いずみ 』
案の定、反対または修正のメールは来なかった。来たのは、モスに集まった7人全員からビラ配りに参集するという返事だった。
『明日は、早起きしなきゃ。ドキドキして眠れそうにないんだけど』
『一緒にがんばろう。大丈夫だから』
『天気予報では明日も晴れ。いい日にしたいね』
『山崎の引き出し、多くてすごいね。わたしも見習わなくちゃ』
『朝早いから、おにぎり作って行くよ』
『じゃあ、わたしはお味噌汁。期待しててね』
そして、最後の大原からは。
『ありがとう。山崎には助けられてばかりだね。みんな、迷惑かけるけど、ごめんね。おやすみなさい』
たった数行のメール。
それだけのことなのに、罪悪感で胸が押しつぶされそうだ。
単に彼女達を騙しているだけじゃない。
室付として、俺は、大原達のためと言うよりも、生徒会のために動いている。
櫻井さんが考えたことを自分のアイデアのように振る舞って、大原達の歓心を集めて信頼を勝ち得ている。
あたかも、大原陣営の中心に居座っているように見せかけながら、その実、生徒会の、いや、櫻井さんの走狗と成り果てたのに、偉そうに指示なんか出してしまった。
彼女達を裏切っているわけではないと、自分に言い聞かせても虚しいだけだ。
そんな言い訳をする自分の薄汚さに反吐が出る。
赦しを請うこともできずに、このまま俺は腐っていくのかもしれない。
そうか。
俺を利用したとき、大原もこんな気持ちになったのかもしれないな。
学芸大学駅前のカラオケで、大原が俺の質問に素直に答えたのは、懺悔の気持ちもあったんだと初めて気づく。
人を騙すということがこんなにもつらい。それが、好意を持っている相手だからなおさらだ。
だとしたら。
もしかして、大原は俺のことを……。
いや、思い上がるのはよそう。
振られてまだ一か月も経っていない。その間に、勉強会メンバーとも親しくなりつつある。
俺達の関係は、まだこれからだ。
だけど。
俺が彼女達に懺悔できる日が来るとは到底思えない。
そのことが、俺と彼女達との間にどうしようもなく深い溝があるように感じられてしかたなかった。
【あとがき】
いずみ「『誰がために君の鐘は鳴る』の『第17話 その候補者、無力につき』を読んでいただきありがとうございます」
浩二「このあとがきは、作者に代わって副音声ふうに俺達でお送りします」
いずみ「司会進行の大原いずみと」
浩二「主人公の山崎浩二です」
いずみ「オーバーロードⅣ。名言いただきました。アインズさま。座右の銘とさせていただきます」
浩二「俺としては四武器のリリネットさんの性的嗜好に驚きなんだが。12歳の少年に欲情するとか……怖いんだけど」
いずみ「魔導王陛下のお言葉を伝えようとしたわたくしの言葉をさえぎるとは、ニンゲン、死にたいの?」
浩二「いや、魔導王陛下だって言ってるよ。異質な意見だからこそ大切にしなきゃいけないって」
いずみ「ふん。想定どおりか。クズめ」
浩二「クズめは、絶対に言ってないだろっ!」
いずみ「静粛に。魔導王陛下の名言を伝えます」
浩二「ごくり」
いずみ「『きっと、未来の自分がなんとかするさ』以上です」
浩二「えっ?」
いずみ「その場をしのぐ魔法の言葉。さすがはマジックキャスター。いいことを言うね」
浩二「それは、迷言の間違いなんじゃ?」
いずみ「少子高齢化で原資の乏しい年金問題に、稼働した原発から生み出される放射性廃棄物。それら今日直面しているあらゆる難問を解決する魔法の言葉。多くの政治家がこの言葉の前にひれ伏すことでしょう」
浩二「ただの妄言だった。あと、変な宗教、やってない? 世界平和がどうとか」
いずみ「信教の自由を犯すのはタブーだよ」
浩二「くっ! ……都合が悪くなると正論を言いやがってっ!」