第16話 その候補者、無冠につき
その日は、朝から掲示板のまわりに人だかりができていた。
生徒会長選挙の立候補は昨日締め切られ、選挙ポスターが校内7か所の掲示板に貼られたのだ。
候補者は二人。
二度のインターハイ出場という実績で学校の顔となっている篠崎京介と、全くの無名だが文武両道を掲げる大原いずみ。
だが、掲示板に集まった連中の中から聞こえてくるのは、1年生の無謀な挑戦についてなんかじゃない。
「全教科満点かよ」「すごいな」「初めて見た」という称賛と「そこまでして勝ちたいのかよ」「生徒会長は成績で決めるもんじゃねーぞ」というやっかみの声。
だが、これで。
大原いずみ、Who?
なんてことは言わせない。
大原を知らない生徒は篠崎先輩に投票するから、名前を知ってもらえただけで一歩前進だ。
すべてが満点の答案をバックにした大原の夏の制服姿の写真。
両手を腰に仁王立ちしていたり、椅子に腰かけて脚を斜めにそろえていたり、机に頬杖をついているアップだったり、加工処理した波打ち際でギリギリまでスカートをたくし上げ、長い脚と裸足を惜しげもなくさらしていたり、細いネクタイリボンを両手に絡ませて流し目でこちらを見ていたり、学校旗をマントにして振り返る後ろ姿だったり。
だけど、最も注目を浴びたのは、食堂前に貼られたポスター。
ポニーテールの大原の真剣な眼差しの横顔に、乱れて流れる髪と流れ落ちる汗。
その顔と向き合うように。
篠崎先輩がスタートダッシュをかける一瞬を切り取ったポスターが。
それは、夢に向かってまっすぐ駆けだす二人を応援するかような、この学校の未来を賭けて戦うような、情熱のほとばしりを感じさせる構図だった。
篠崎先輩のポスターも櫻井さんが担当しているから、おそらくは、昨日、大原のポスターを見て思いついたのだろう。
あえて、同格の戦う相手だとイメージさせることで、接戦を演じさせたい櫻井さんの思惑がよく伝わってくる。
だが、事情を知らない生徒達からは「このポスター、ヤバくね?」「偶然だろうけど、見ているだけで力が入っちゃうよな」「俺、これ見て決めたわ。投票は大原一択!」「同じ陸上部なんだから、先輩に譲るべきだと思うわ」「この子、大丈夫? 篠崎君にケンカ売るなんて無茶よ」「1年なのによくやるわよね」と興奮気味の声が聞こえてくる。
それが賛否のどちらであろうとも、流れ作業のように篠崎先輩に投票を決めていた生徒達の心の中に選択肢が芽生え始めていることだけは間違いない。
揺るぎない絶対勝者はもういない。
今日の午後、昼休みが終わったら、全校生徒は体育館に集合することになっている。
候補者二人による立会演説会。
演説の順番は、立候補届を提出した順ということで大原が先になった。
篠崎先輩の推薦人はすべて生徒会が用意した人達なので応援演説は行われない。
一方の大原は、応援演説をしようと意気込んでいた清水と水越にやんわりと断わりを入れていた。
相手に応援演説がないのにこちらだけするのは公平じゃないとか、数にあかせて応援演説するのは対立の根を深めるだけだとか。
けれど、俺は知っている。
篠崎先輩が立会演説会で、生徒会に反旗を翻して立候補を辞退する可能性があることを。
それを知った上で、大原が立候補をしたということを。
櫻井さんからの今朝のメールによると、篠崎先輩は、菅原会長の説得に応じて櫻井さんが作成した演説原稿をおとなしく読むことにしたらしい。
しかし、こと篠崎先輩については、菅原会長や櫻井さんよりも大原のほうが詳しい。
大原の言葉が思い浮かぶ。
『生徒会長とか選挙の結果とか、興味も関心もないんじゃない? 選挙運動すらしないと思う。むしろ、わたしが勝ったらほっとするんじゃないかな? わずらわしいことから逃げられたって』
大原は、篠崎先輩が立会演説会で立候補を辞退すると確信している。
それは、頂点を目指そうとして未だ叶わず、それでも手を伸ばし続けてあがいているアスリートにしかわからない境地なのだろう。
夕食後、お腹が空いたからカップラーメンに手を伸ばすような人には絶対に理解できない。
戦うのは相手だけじゃない。己と戦い、時間と戦う。
0.1秒を削ろうと世代間で渡されてきた呪いのようなバトンパス。
そこに身を置いた者にしか理解できないその絆は、学校の顔とか、生徒会長という立場など一顧だにしない、指導者となった先輩から後進へと繋いできた願いにも似た襷だ。
ここで生徒会長を引き受けるということは、負けるということだ。挑戦権を手放すということだ。
ぬるま湯に漂う微生物レベルにまで退化する自分を是とすることだ。
自分の限界を知り満足して諦めるということだ。
大原は、もしかしたら──
だけど、篠崎先輩はまだ死んじゃいない。
大原はそう信じている。
今日の午後、そのことが証明される。
俺は、食堂の前に貼られた2枚のポスターを眺めながら、そんなことを考えていた。
教室に入ると、大原の全教科満点が話題になっていた。
内心はわからないが、クラスメイトからの賛辞のこもった応援の言葉を大原は素直に受けとめている。
「すごいじゃない」「まぐれだよ」
「謙遜しないで」「まあ、頑張ったけど」
「演説も頑張ってね」「精一杯やるよ。ありがとう」
だが、予想したとおり、男子の反応は微妙だ。ここは、俺の出番かな? あまり話したことはないんだけど、と踏み出そうとしたとき。
勉強会メンバーが男子に声をかけているのが見えた。
「いずみの点数見た? すごくない?」
「自分も頑張らなくちゃって思うよね」
「本物の頑張り屋さんだよ。応援しなくちゃ」
「ねぇねぇ、今度、私達の勉強会に参加しない?」
普段から女子に話しかけられるのに慣れていない男子達は、もうそれだけで有頂天になっている。
ニヤけた顔が気持ち悪い。
もしかして、俺もあんなふうに見えていた? そう思うと恥ずかしさで死にたくなる。
もとから、大原いずみをリーダーと崇めている女子達からの反発は見えないが、何かあっても、この様子なら勉強会メンバーがうまくさばいてくれるだろう。
油断は禁物だけど。
そうして、午前の授業が終わり、お昼休みに入った。
大原は原稿を暗唱する練習のために、清水や水越と教室から出ていった。
俺はといえば、教室に残り、空気に徹してクラスメイトの様子をうかがっている。
櫻井さんから指示されたのは、孤立しているクラスメイトの数。それは白票につながる不穏分子だ。
おそらくは、俺のようなスパイが各クラスにいて、その報告から票読みをするつもりでいるのだろう。
篠崎先輩が立候補を辞退すれば意味がなくなるというのに、副会長サマは大変だ。
ボッチで行動する生徒を数える。
一人、二人、三人か。
誰と話すこともなく、弁当を持って教室から出ていく女子。
名前は確か、柏木、吉川、高良。
もっとも、俺も入れれば4人だが。
クラスの男子のやつら、俺に声をかけることもなく教室から出ていった。
勉強会メンバーの永田由紀子、石月恵子、田村春香、後藤しおりに声をかけられて一緒に食堂に向かったのかもしれないな。
なんか、寂しい。
知ってるか?
うさぎは寂しいと死んじゃうんだぞ。
まあ、嘘だけど。
それは、昔のテレビドラマのセリフらしいからな。
そのセリフを言った女優が少し前に世間を騒がせたことで俺も知ったが、なんか、いいよね。俺のことみたいで。
実際のうさぎは縄張り争いもする。
少数の群れで地中に作ったトンネル状の巣穴を共有していることが確認されているが、寝るときも草を食べるときも基本的には単独行動だ。
飼われている中で、ストレスから、土を掘る動作をしたり、噛みついたり、ケージや室内のものをかじったり、寂しさを紛らわせるために毛づくろいをしすぎて毛が抜けるということはあるようだが。
また、体調不良を隠す習性から、飼い主がうさぎの病気に気づかないまま、症状が悪化して突然死んでしまうこともままあるらしい。
だが、うさぎに限らず、野生では怪我や病気で弱っていることを天敵に知られることは死を意味する。それを隠すことは生き残るための戦略なのだ。
それは、俺達人間も同じこと。
弱みを見せたら食い物にされる。
振り込め詐欺には、すでに騙された人の名簿が使われていると聞いた。
一度騙された被害者の、失った金を取り戻したいという心理状態につけこんで、甘い言葉で近寄ってくるというのだ。詐欺師達は、そういう詐欺被害経験者を「鉄板」と名付けてターゲットにしていると聞くが、怖い話だ。
話がそれた。うさぎに戻そうか。
草食であるうさぎの胃腸は、常に動いていなければならない。12時間以上絶食をすると胃腸の動きが停滞して危険な状態になることもある。
一方、糞を食べる行動も見られる。それは、主食の草には繊維質が多いため、消化が難しく、最初の軟便の中に一度で消化吸収できなかった栄養素がまだ含まれているからだ。
つまり、食べたものから栄養を吸収し、出した糞の中で微生物が発酵を行って作った栄養素をまた摂取するということだ。
うさぎが「栄養素が足りなければ微生物を使って作ればいいじゃない」と言ったかどうかは知らないが。
要するに、俺はお腹が空いたということ。
まあ、教室の隅で、一人寂しくコロッケパンをかじりながらペットボトルのコーヒー飲料を飲むしかないんだけど。
ちなみに、うちの学校の図書館には、うさぎは寂しいと死んじゃうというセリフを言った女優が主演するDVDがひっそりと置かれている。
それは、裁判員制度を紹介するために、最高裁判所が制作した「審理」というタイトルの広報映画だ。
最高裁も、まさか主演女優が薬物で逮捕されるなんて思ってもみなかったんだろうな。
学校としても、税金で作られた最高裁お墨付きのDVDを、寄贈されたとはいえ、簡単には処分できないと判断したんだろう。
寄贈元の東京地裁に返送したとして、新たに教材DVDが制作、送付されるとは限らないし。
さて、お昼休みも終わり、体育館で立会演説会の時間が近づいた。
俺は、皆が教室から出ていくのを確認してからのろのろと動き出す。
立会演説会に向かわないクラスメイトがいたら、確認して報告するよう櫻井さんから指示されていたからだ。
幸いにも、今のところこのクラスに目立ったアンチはいないようだ。
そのことに安堵して、体育館へと向かう。
❏❏❏❏
体育館の入口は開け放たれ、会場整理のためだろうか。教師らしき人が一人、入口に立っていた。
会場内は、折りたたみ椅子が並べられ、780人の全校生徒がぎゅうぎゅう詰めになっている。
9月も半ば過ぎたとはいえ、人いきれで体育館には熱がこもり始めている。
立会演説もまだ始まっていないというのに。
俺は、壁伝いに、生徒達が座る脇を抜けてステージへとたどり着いた。
ステージ中央には、4月に俺が新入生挨拶をした演壇とマイク。
ステージ脇には「選挙管理委員会」と紙を垂らした長机を前にどっしりと構える菅原会長と書記の服部さんと会計の福本さん。
ステージ袖に、立候補者の大原と清水、水越が固まって立ち、そのすぐ横には篠崎先輩と櫻井さんが並んでいる。
俺は、大原に手をあげながら近づいた。
「調子はどうだ?」
「最低っ!」
大原は吐き捨てるように言うけれど、これは避けては通れないセレモニーだ。
いや、本当は、皆が待っているのが篠崎京介というヒーロー一人だという事実に滅入っているのだろう。
自分の功績を誇ることなく、ただ悠然と大空を舞う大鷹が何を言うのか、告げようとしているのか、観客の関心はそのことにしかない。
大原の演説は、その前説、あるいは前座、もしかしたらヒーローショーの進行を務める名前も知らない女性MCのようなものだろう。
だが。
賽は投げられた。
大原の登場を促すように、午後1時を報せるチャイムが、いや、運命の鐘の音が鳴り響く。
菅原会長がマイクを持って立ち上がった。
「時間になったので、これから生徒会長選挙立会演説会を始める。
皆も知っているとおり、候補者は二人。演説は大原いずみ、篠崎京介の順で行う。なお、両候補とも応援演説はない。時間は各自15分以内。
集まってくれた生徒諸君。
会場は満員で熱気にあふれている。暑いとは思うが、次の生徒会を担う代表者を選ぶ選挙だ。
諸君らは、自分の意志で諸君らのリーダーを選ばなければならない。
ヤジを飛ばすような見苦しいことをすることなく静聴することを期待している」
菅原会長の言葉に拍手が起こったのを、片手で制して、隣に座る服部さんにマイクを渡して座った。
服部さんが大原を紹介した。
「立候補者、大原いずみさんです。所属は1年A組。では、どうぞ」
その声に導かれて、大原が演壇に立つ。
「皆さん、こんにちは。1年A組、大原いずみです。この度、生徒会長に立候補しました。
わたしの掲げる公約は、文化祭の早期実現です。
わたし達にとって、文化祭は重要なイベントです。クラスメイト、あるいは部活で計画して楽しみにしていた人も多いでしょう。
夏休みから準備を始めていたクラスもありました」
大原は、一度会場を見渡すと、マイクをスタンドから外して持った。
「それが、延期となりました。そして、いまだ、実施の見通しすら聞かされていません」
そのまま演壇を回り込んで生徒の前に全身をさらして立つ。
「もう少ししたら、中間試験が始まります。3年生は受験準備に入るでしょう。時間はあっという間に過ぎていきます。わたし達には時間がありません。今ここで行動を起こさなければ、今年の文化祭は中止となるでしょう。
もちろん、生徒会の仕事は文化祭だけではありません。文化祭を実際に運営するのは文化祭実行委員ですし、出し物を用意する皆さんです。
そして、学校が教育的配慮から文化祭の実行をためらっていることも理解できます。
それでも、わたしは問いたい」
マイクを持ち替え、大きな手振りを加えて聴衆に訴える。
「文化祭がこのまま中止になるのを黙ってみていていいのかと。
わたしは、嫌です。
自分に何ができるかはわかりません。それでも、何かをしたい。何かできることはないのか。
そのことを、学校側に、皆さんに伝えたい。
わたし達は、もう、ただ口をあけて待っている鳥のヒナではありません。
何が大切なのか、もうわかっている。
それを手にすることが難しくても、自ら手を伸ばさないと、大きな声で叫ばないと、手に入れられないことを知っている。
文化祭というイベントは、まさにそういうものなのです。
誰かから与えられるものではなく、わたし達が作りあげるものだということを、もう一度思い出してください。
校内パトロールの強化、場合によっては外部招待の制限、もしかしたら規模は従前よりも小さくなるかもしれない。
それでも、今、行動しなければ、今年の文化祭は永遠に失われてしまうのです。
先程も言いましたが、生徒会の仕事は文化祭の実行だけではありません。
ですが。
わたしは、わたしを支援してくれる仲間達は、来月中の文化祭実施を第一目標にあげて、学校側と折衝してまいります。
併せて。
この機会に、今後、このようなことがあった場合に備えて、学校側と連絡会を作り、危機管理態勢を作ることを提案します。
その内容は、新聞部を通じて適宜生徒に情報公開することも約束します。
わたしの考えに賛同していただけるなら、どうか、わたしに投票してください。
一緒に文化祭を取り戻しましょうっ!」
一部、大きな拍手もあったが、全体的にはそれほど盛り上がってはいない。
3年生はすでに諦めているのか、あるいは、すでに別の目標に向かって走り出しているのだろう。
下級生達からしてみれば、来年もあるじゃないかと悠然と構えているのかもしれない。
文化祭を開くのは学校側の仕事だと、他人任せにしている連中がいてもおかしくはない。
いずれにしても、大半の生徒達の心を捉えることはできなかったようだ。
続いて、服部さんの紹介で、篠崎京介が登壇した。
巻き起こる割れんばかりの拍手。大原が登壇したときとはえらい違いだ。
だが、演壇に進む手の中に櫻井さんが書いたはずの演説原稿が見当たらない。
思わず、横に立つ櫻井さんを見た。俺を見返して左右に首を振る櫻井さん。
そして、それが起こった。
「最初に、インターハイに向けて俺を応援してくれた皆に感謝を述べたい。ありがとう」
そう言って、演壇からまわりを見る。
自己紹介などしない。
誰もが自分を知っていることを前提とする圧倒的な存在感を示して言葉を紡ぐ。
「今年のインターハイには、二人の怪物がいた。今の俺では全く歯が立たない。それほどまでに強い相手だった。その二人は3年生だから来年のインターハイには出てこない。
だが、今年、1年生でファイナリストになったやつがいる。そいつは、インターハイの南関東大会で、高1の歴代2位となる10秒48の記録を出した。
また、来年はさらなるモンスターが出てくる。そいつは、まだ中学3年生だけど、10秒83の記録を持っている。来年は今の俺よりも速いかもしれない。そいつと戦うのは、まずは東京大会になる。俺もそれに向けて準備をしなければならない。
俺と戦う相手はそういうやつらだ。
さしあたっては、10月あたまに調布で開かれる国体がその戦場となる。今はこれに集中したいと思っている」
そして、一度だけ菅原会長に目を向けると。
「今、大原いずみがここで話した文化祭についてのこと、それから、危機管理態勢の構築、それらについて俺は全面的に同意する。
そして、この場に立って、大原いずみなら必ずやり遂げてくれるだろうと確信した。
彼女ならば、生徒会長の重責もはねのけ、学校側とのタフな折衝にも折れることはない。俺はそう信じている。
なぜなら、彼女は挫折を知り、それを乗り越えてきたからだ。身を削って戦った短距離走を諦めても、駅伝に活路を見いだすことのできた選手だからだ。
それでも、全国大会は難しいだろう。
しかし、彼女のために一生懸命になれる友人がいる。そのかけがえのないものを、彼女はこの半年間で手に入れた。
その一点だけでも、大原いずみは俺に勝っている。
この場から皆に伝えたい。
大原いずみは信頼できる人間だ。
学年とか年齢とか性別なんて関係ない。まだ1年生だが、俺がこの学校に入学して見てきた以上のものを、手に入れた以上のものを、すでに手に入れている。
だから、今、俺は彼女にエールを送ろうと思う。
がんばれ、大原いずみ。がんばれ。
以上だ。ありがとう」
ヤバい、ヤバい、ヤバい。
大原からは、選挙にも生徒会長にも興味も関心もないやつだとは聞いてはいたが、ここまでとは思わなかった。
ステージ袖に戻ってくるのを、誰もがあ然と見送っている。拍手などない。皆が、篠崎先輩が言った言葉の意味を消化しきれていない。たぶん、意味自体はわかっているのだろうが。
この人、自分のことばっかじゃん。生徒会長やりたくないって言っちゃってんじゃん。
会場の空気は凍りついたように感情の行き場をなくし、熱気のこもる体育館で、皆の思考が停止している。
菅原会長もあ然として見ている。
そして、はっと気づくと、俺に何とかしろとゼスチャーで指示を送ってくる。
無理でしょ。こんなの。
いや、ある意味予想した結果ともいえるんじゃないの?
そもそも、篠崎先輩は菅原会長と櫻井さんの管轄でしょ?
俺が右手を左右に振って見せると。
菅原会長は、力こぶを作り、もう一方の手で指差して俺に見せつけてきた。
あんた、有段者だよね。
それが、暴力に訴える?
なんで櫻井さんに伝えない?
俺は、思わず、後ろで篠崎先輩を迎え入れている櫻井さんを振り返った。
しかし。
無視ですか?
早くも切り捨てられた?
しかたがない。
俺は、まがりなりにも生徒会役員になってしまった。室付とかいう怪しい役職だけど。その実、生徒会に大原陣営の状況を報告するスパイでしかないけれど。
でも。
♪ラップのリズムが 動き出す。
思いつくまま コトバを刻む。
♪上司の怒りにゃ 触れたかねー。
こんなブラック 報われねー。
♪理不尽さにもう 何かが目覚める。
それが何かは わからんけれど。
♪後悔するにゃ もう遅ー。
これはやるっきゃ 許されねー。
♪俺の目を見て 櫻井パイセン。
不安な顔して マイクを渡す。
♪この場をさばくは 俺MC。
マイクを片手に 足を踏み出す。
♪ライムなリリック 自然と生まれる。
これでノらなきゃ なんにもできねー。
♪震えているのは 気のせいだ。
自分をごまかし 舞台にあがるぜ。
♪口に向けるは マイクロフォン。
MCヤマザキ ただ今参上。
♪後の始末は 菅原会長に任せた。
知ったことかと 覚悟を決める。
「♪ブンブン、ブブーン、ブンブブーン
ブンブン、ブブーン、ブンブブーン」
♪足でステップ 踏みながら。
ステージ中央 身をさらす。
「♪Hey Yo! Hey Yo!」
♪左手上げて 生徒をあおる。
こんな程度じゃ ノッたりしないか。
♪不審者 怪しい行動に。
あぜんとしている そりゃそうだ。
♪菅原会長も顔を 覆ってる。
見てられないと 告げてくる。
♪なんとかしろって あんたが指示した。
従う俺は しがない室付。
「♪Yo! Yo!」
♪雰囲気フロウの フリースタイル。
並べるリリック 破れかぶれだ。
「♪ここ 体育館は あぜんの表情
みんな 期待してた あんたの会長
なのに発する 会長辞退
つどった俺達 モブキャラみたい
理由を聞けば 国体狙い
それじゃあ俺達 納得いかない
今までだって 時間はあった
対立候補も 都合があった
ここであんたが ケツまくりゃあ
残るみんなは どうすりゃいい
百メートルは 大事だが
クラスメートは どーなんだ
あんたを知ってる わけじゃない
そんな俺でも 知っている
グランド走る あんたの姿
あしあと残る あんたの功績
それを支える 部活の仲間
夢を見るのは みんなも同じ
国体かけると 言うけれど
勝負はそこでは 終わらねー
気づいているのか そーいうところ
わかっているのか 続く勝ち負け
きのうの涙は 今日のバネだろ
笑ったからとて 油断はできねー
そうして走って きたんだろ
汗を流して きたんだろ
続く毎日 今とおんなじ
抱える条件 みなとおんなじ
さあ、どうよ! さあ、どうよ!」
♪聴衆もだんだん ノッてきた。
手拍子カムオン これならいける。
「♪言い分あれば 聞かせてくれよ
イーブンに俺は 聞いてやるから
積んだ経験 ひとりじゃねー
重ねた日々には 俺もいた
あんたにゃ見えない だけのこと
前だけ見てちゃ それもそのはず
気づいてないなら 俺が言う今
知らないままで 済ませちゃいけねー
ここにいるのは あんたの仲間だ
足かせなんかじゃ ないそう信じて
聞こえているか 俺の声
届いているか この言葉
あんたは自分に Noという
昨日の自分は足りない ですか
そんなの俺に 言わせれば
それでも地球は 回ってる
気づいてくれよ 俺の姿に
見据えてくれよ ゴールの先に
俺の言いたい ことは以上だ
残るはあんたの ターンだけ
タマシイこめて 叫べばどうだ
それに応える 俺達ゃ仲間だ」
♪ラップもこれで 終わりを告げる。
最後を締めるは コールアンレスポン。
「♪Say Yeah!」
♪マイクロフォンを 会場に向ける。
お前の番だぜ さあ来いよ。
「「「「「Say Yeah!」
♪返ってきたのは タマシイの叫び。
まだまだいくぜ ついてこれるか。
「♪Say Yeah!」
「「「「「Say Yeah!」
♪波を打つのは オーディエンス
だから最後に もう一度だけ。
「♪Say Yeah!」
「「「「「Say Yeah!」
♪これはやみつき なりそうだ。
だけど知ってる 奇跡のステージ。
「♪グッ、ラーク!」
♪再びコールを 呼びかける。
応えてくれるか この俺に。
「「「「「グッ、ラーク!」
♪返す波に さよなら告げる。
楽しかったぜ このひとときに感謝。
♪それじゃあ時間だ そろそろ行くか。
道化は消えるぜ こんちくしょー。
「♪あばよーっ」
「「「「「あばよーっ!」
「センキューッ!ど〜も、MCヤマザキでしたーっ!ありが、とーっ!」と手を振りながら、俺はステージからはける。
会場はもう大騒ぎだ。「アンコール」とか聞こえてくるけど、あれは即興。俺の引き出しはすっからかんだ。
というか、大原達も櫻井さんも腕を組んで困ったやつだと俺を見ているし、肝心の篠崎先輩にいたっては、拍手で俺を迎えている。
俺の渾身のラップが通じた気がしない。
たぶん、この人にとって、俺の言葉など「世界平和、大切だよね」くらいにしか響かなかったんだろうな。
そこへ、菅原会長がやってきて、「よくやった、のか?」と褒めてるんだかよくわからない言葉でねぎらってくれた。
でも、もういい。
それだけで十分だ。
俺はやるだけやったんだ。
会場は騒然としたままだ。誰かがこれを収めなければならない。
菅原会長は先ほどまで入口付近に立っていた教師らしき人と何事かを話し合った後、マイクを片手にステージへと出ていった。
「あー、この厳粛に行われるべき生徒会長選挙の立会演説会において、一時的にとはいえ、不審者が会場をジャックするのを許してしまったことは、現生徒会長として、また、選挙管理委員会の代表としてきわめて残念でならない。
不審者はすでに捕まえ、相応の処分をするつもりでいる。諸君らには先程のばか騒ぎに惑わされることなく、週明けに行われる選挙で厳正なる投票に臨んでほしい」
会場から「篠崎は辞退すると言ったぞ」という声があがるが、菅原会長は「それも含めて選挙管理委員会が判断する」と手を振って却下する。
そして。
「篠崎が心配しているのは、陸上と生徒会長を両立できない恐れだ。そんな心配は不要だ。……だが、あながち杞憂とも言い切れない。根が真面目なやつだからな」
それ、嘘だよね。そんなこと言ってなかったよね。
「そこで、これから立候補者同士、篠崎京介対大原いずみで勝負をしてもらう。50メートル走で、篠崎が大原に負けたら辞退は認めない。体格に劣る女子に負けて国体とか片腹痛いからな。生徒会長に専念するつもりで選挙を戦ってもらう」
会場から「部活をする自由はないのか」と非難する声がした。
「活躍したスポーツ特待生にとって、学校の顔になるのは、義務であり、権利だ。
それを否定することはこの学校のあり方を否定することだ。
文句があるなら、書面にして生徒会に提出しろ。責任をもって理事長室に届けてやる。ああ、自分の名前を書くのを忘れるなよ」
そして、全校生徒は、そのままグラウンドへと移動した。
❏❏❏❏
ざわめく群衆に向けて、菅原会長が声を張り上げる。
「さっき、俺は、50メートル走で勝負してもらうと言ったが、副会長の櫻井から、男女の体格差を考えると公平ではないという意見がでた。確かにそのとおりだ。そこで、篠崎は大原よりも10メートル後ろからスタートさせることにし、本人達の了解を得た。つまり、大原は50メートルで、篠崎は60メートルで競う。ちなみに、女子の50メートルの日本記録は、男子の60メートルの日本記録よりもコンマ1秒速いらしい。では、始めるぞ」
すでにランニングウェアに着替えた大原と篠崎先輩がスタート位置につく。
全校生が固唾をのんでそれを見守る中、菅原会長が競技用ピストルを宙に向けて発砲した。
素早いスタートダッシュで大原がぐんぐん加速する。
これで短距離をあきらめただと?
俺よりも速いんだけど。
その思いは皆にも伝わったようだ。ざわついていた空気が一瞬で静まり返る。
後続の篠崎先輩を引き離しているかのように思われたレースだが、一陣の風がそんな上っ面の予想を切り裂いた。
大原以上の加速で追い詰めていく。
しなやかにサバンナを駆けるインパラを狩るかのように、チーターがその距離を縮めていく。
一瞬。わずか6秒か7秒のできごと。
最後の一歩で篠崎先輩が大原をかわしてテープを切った。写真判定など必要ない。
明らかな篠崎先輩の勝利だ。
だけど。
つまり、どうなる?
「選挙は続くということだ」
櫻井さんが俺にしか聞こえないようにぼそりと教えてくれる。
マジか〜。
大原の狙い、最後の最後で菅原会長にひっくり返されてんじゃん。
しかも、選挙とか、理屈とか、皆の感情とか関係ないところで。
それに、あの立会演説会はどうなる? 結局、俺が恥ずかしい思いをしただけなの?
なんか、死にたい。
これだから、体育会系にはついていけない。
膝に手をついて息を整えている大原の姿が見えた。そこへ、篠崎先輩が近づいて何事かを告げる。
大原の顔が上を向いて篠崎先輩をとらえる。そんな大原の肩に手を乗せると、篠崎先輩は耳元で何かを囁いた。
それを見た女子達がキャーと叫んだ。ヒューヒューと囃し立てる男子達は、上級生だろうか。
大原いずみという少女が遠くなっていくようで、俺は、近寄ろうと踏み出した。
そこへ。
後ろから、肩に手を回す柔らかな感触を感じた。
「山崎ぃ〜、部活に出てこないと思っていたら、ずいぶんと面白いことをしてるじゃないか〜」
演劇部の古川満子部長が、俺に体を寄せてきたのだ。
「ぶ、部長っ! あ、あれは」
しどろもどろになる俺を離そうもせず「MCヤマザキ〜、とでも呼んだほうがいいのかな〜」とニタリと笑う。
俺が演劇部に顔を出さなくなった原因が現れた。
まるで、ヘビににらまれたカエルのように身動きがとれない。
別に怖い人じゃない。
ただ、セクハラがひどいのと、それから──
演劇部部長2年C組古川美津子。
それが正しい名前。
だけど。
この人は芸能人でもないのに芸名を名乗っている。名刺にして配っている。
その名前が「古川満子」。
もちろん、「みつこ」とは読まない。読ませないし、呼ばせない。
「演劇で人間性を解放するんだ。己の臓物をさらけ出せ」とか、もう無理。
「久しぶりだな〜」とか言うけれど、できれば二度と会いたくなかった。
公衆の面前でも「満子先輩」とか「満子部長」と呼べとか、この人、アタマがおかしいんじゃないか?
こんな人を部長にした演劇部、マジ廃部になればいいのに。
【あとがき】
いずみ「『誰がために君の鐘は鳴る』の『第16話 その候補者、無冠につき』を読んでいただきありがとうございます」
浩二「このあとがきは、作者に代わって副音声ふうに俺達でお送りします」
いずみ「司会進行の大原いずみと」
浩二「主人公の山崎浩二です」
いずみ「すんっ、すんっ!」
浩二「俺、なんか臭う? 知らないうちにスメルハラスメントしてた? 毎日、風呂に入ってるんだけど」
いずみ「気にしないで。咲うアルスノトリア」
浩二「すんっ!」
いずみ「今回は、小アルベールの隙間案内。鳩を巣ごと頭に乗せて洞窟の中を出口を探すお話」
浩二「そして、いなくなった小アルちゃんを探していたアルスノトリアはニオイをもとに窓へと駆けだす」
いずみ「そんな、魔法学園都市アシュラムで生活するペンタグラムの少女達のほんわかな日常の物語」
浩二「一方、騎士達は、まったく関係のないところで大暴れ」
いずみ「えっ?」
浩二「名誉ある正義の剣の行使を許可するっ!」
いずみ「そんなシーンあった?」
浩二「ペンタグラムと敵対する騎士だよ。ほら、エルバート・ノッ」
いずみ「エルバート・ハバードねっ! 知ってる。『よい記憶力は素晴らしいが、忘れる能力はいっそう偉大である』って名言を残した人っ!」
浩二「忘れる能力?」
いずみ「あと、『説明などするな。味方であればあなたを理解するし、敵であればあなたを信用しない』とも言った」
浩二「……うん。なんか、もういいや」