第14話 その候補者、無謀につき
「鍵となるのは立会演説とポスターだ」
俺の言葉に、大原と水越、そして清水はあっけにとられたような顔をする。
いや、わかってるよ。そんなのは当たり前だってことは。
問題は中身なんだ。
今更、公約なんて意味がない。大切なのは、篠崎先輩とは違う次元で戦うということ。
対立候補を否定することは絶対にしない。
だって、勝たなくていいというか、勝っちゃいけない戦いだからね。これは。
生徒達に篠崎先輩以外の選択を求めるのではなく、大原を選んでもいいかなと迷わせることができれば十分だ。
俺達の学校の生徒会長候補になれるタレントは一人じゃないんだぜと、生徒達にもう一人のメニューを提案するだけでいい。
そう。ご一緒にポテトいかがですかぁって具合に。
ここは教室。今は昼休みで、クラスメイトは食事に行って残っていない。
昨日、モスバーガーで大原と水越から話を聞いた俺は、清水優子も交えて作戦を説明しているところだ。
というか、こいつらはノープランだから、俺の提案を丸呑みしてもらえるよう説得するしかない。
今日は9月13日金曜日。
17日火曜日の告示日まで、土曜日の半日登校、日曜日、敬老の日と残り時間は少ない。
立会演説は翌18日だし、選挙活動ができるのは20日金曜日まで。
土曜日、日曜日、秋分の日をはさんで、火曜日には投票と開票が行われるのだ。
せめて、今日中には選挙方針を決め、明日はクラスの皆に説明して応援を頼みたい。
大原の優位な部分は特進クラス生で運動部員だということ。劣るのは知名度の低さ。
対する篠崎先輩は圧倒的な知名度がある一方、スポーツ特待生ということで、運動能力しか取り柄がないと思われている。
事実、勉強する時間なんてないだろう。学校もそれに配慮して、スポーツ特待生の中間、期末の試験は一般生徒よりも簡単なものとなっている。
つまりは、脳筋。
あくまでイメージだけどね。
大切なのは、そこに触れずに大原の良さを示すこと。
大原の言葉を信じるなら、篠崎先輩は走ることに人生をかけている。そんな人を誹謗中傷することを大原は許さないだろう。
俺からすれば、そんな人生は息苦しいとしか感じられないのだが。
以前、一度だけ見た篠崎先輩は、笑いかける大原に向き合おうとすらしなかった。
夕方からのトレーニングに向けて、雨が上がる様子を見ていただけだ。あるいは、グラウンドコンディションでも見ていたのかもしれない。
つい、「篠崎先輩って、笑ったりするのか?」と口にしてしまう。
「すごく失礼だよ。それ。……でも、確かに笑ったところを見たことはないね。勝っても笑わないんだ。先輩は。昔からね」
「それは人間としてどうなんだ?」
「それを責めていいのは、限界を超えても成果を出そうとしている人だけだよ」
そうか。笑わないんだ。なら、この点もタブーだな、と俺はそっと封印リストに加える。
「そこで、俺の選挙プランだが、大原、頼んだものは持ってきてくれたか?」
「……持ってきたけど、なんに使うの? こんなもの」
「じゃあ、出して」
「えっ!」
「早く!」
「いや、だから、なんで?」
「使うからに決まってるだろ?」
「えっ! 聞いてないんだけど」
「言わなくてもわかるだろ? 早く出せよ」
「いやだよ。恥ずかしいよ」
「おい、ふざけんなよ」
「ふざけてるのは山崎のほうだよ」
「いずみ、どういうこと?」と問う清水に、水越が「昨日、モスで、山崎がいずみに1学期の期末試験の答案を持って来るように言ったのよ」と説明する。
それを聞いた清水も、胡散臭そうに顔を俺に向け、「相変わらず、意味不明なことを」と非難してくる。
その間も、俺と大原のやりとりは続く。
「いいから出せよ」
「いやだよ。変なことに使うつもりでしょ」
「そんなことするわけないじゃないか」
「信用できないよ」
「それで作戦を立てるから必要なんだ」
「いやいや、意味わかんないんだけど」
「いいから見せろ」と俺は、机の横に引っ掛けてある大原のリュックを奪う。
「何すんのよっ! やめてよっ!」と大原がリュックを取り返す。
「無理矢理はやめろっ!」
「ひどいことしないでっ!」
清水と水越も慌てて加勢するが、今更何を言ってるんだ?
「あーっ? 見せるために持ってきたんだろ? そのくらい、わかってたはずだぞ」
「まずは、理由を説明してよ」と大原はリュックを抱え込み、あくまで拒もうとする。
「大原の強みは、特進クラスで陸上部員ということ。つまり、キャッチフレーズは、文武両道っ!」
「「「文武両道?」」」
「この選挙、対立軸は作らない。全国区対文武両道の、どこまで行っても噛み合わないイメージ戦略で300票を取るっ!」
「え~と、何を言ってるか、よくわからないんだけど?」
首を傾げる大原の手から容赦なく俺はリュックを奪う。
そのままバックステップで3人から距離を取る。
「まだ、いいって言ってないっ!」
「山崎っ!」
「いいかげんにしてっ!」
女子達が追いすがるが、俺は抗議の声を無視してリュックに手をつっこみ、紙の束を取り出した。
そのまま、紙の束を広げてめくる。
おい、嘘だろ?
なんだよ、これ。
ショックのあまり、リュックがするりと腕の中から抜け落ちていく。
だが。
俺の目に入るのは、100という数字。
めくっても、めくっても、めくっても。
13枚全部が。
そんなバカな。……俺よりも点がいいだと?
「もう、いいかげんにしてよね」
大原がリュックを拾い上げて俺に苦情を言うが、俺は言葉を失ったまま立ちすくむだけ。
それをチャンスと見たのか、大原が手を伸ばして俺から答案を取り返そうとする。
そんなわけにはいくかっ!
俺は、飛び込んできた大原を抱きとめると、一歩踏み出し、片手を伸ばして机の上に答案をどんと置いた。
俺の腕に抱かれる形だけど、もちろんロマンチックな雰囲気などない。
「……お前、全教科、満点なの?」
絞り出すように声を出した俺から逃げるように、大原は、身を翻し、机の上の答案に覆いかぶさって隠そうとする。
清水と水越も驚いている。目を見開き、空いた口を手で抑えて息を飲み、声を発することもしない。
大原は無言で答案を両手で集めているが、もう遅い。
知りたかった情報は把握した。
予想以上の結果に驚いたけど。
「おい、くしゃくしゃにするなよ。それ、使うんだからな」
思わず咎めた俺を、大原は、振り返って顔を真っ赤にしてにらみつけてきた。
そんな顔しても無駄だぞ。総合計で俺よりも40点近く多いのに恥ずかしがってんじゃねーよっ!
この高校では成績順位が発表されることはない。試験問題そのものが、一般生徒とスポーツ特待生とで異なるからだ。
俺達は、試験成績表により、科目ごとに一般生徒230人の中での順位を知らされる。
おそらくは、スポーツ特待生も30人中で何位なのかが知らされるのだろう。
英語はリーディングと文法、数学は Ⅰ とA、現代国語と古文、地理と世界史、生物と化学、保健と体育、そして情報 Ⅰ の全部で13科目。そのすべてが100点満点で、合計すると1300点満点。
俺は、1263点で平均すると97点。
試験成績表は、科目別で英語、数学、国語で満点だったし、230人中1位となっていた。保健と体育ではそれぞれ90点と低かったが、それ以外は90台後半ですべての科目で5位以内に入っていた。
だから。
てっきり合計点数で、学年1位だと勝手に思いこんでいた。
それが、学年1位どころか37点も差があったなんて。
いや、点差は37点じゃない。問題がもっと難しかったなら、更に差をつけられていたのかもしれないのだ。
勉強会で教える側とか思ってた昨日までの俺、死んでしまえ。
いい気になって、偉そうに教えていたのが恥ずかしい。
勉強会メンバーに謝りたい。
永田由紀子、ごめん。救いを求める相手に俺は役不足だ。
石月恵子、ごめん。やれやれと首を横に振って許してくれ。
田村晴香、ごめん。まぶしい笑顔で向ける期待には応えられそうにない。
後藤しおり、ごめん。唇を歪めて笑ってくれていいよ。
水越まゆみ。こいつは、まあいいか。
「くぅ〜、ひどいよ、山崎ぃ〜」と答案をまとめて机の上でトントンと角を合わせているが、そのまましまうのは許さない。
これは、俺の想像以上に効果がある。
「それ、出したままにしておけよ」
「なんでこんなことするのぉ?」
「最初に言ったよな。鍵は立会演説とポスターだって。それから、文武両道をキャッチフレーズにイメージ戦略で300票を取ると」
「それで?」と大原はまだ懐疑的な表情を隠さない。
「この答案をその中核に置く」
俺は、そう宣言して3人を見回した。3人は、何を言ってるの? バカなの? と俺を見ている。
確かに、生徒会長に勉強の成績は求められない。それは人を測るものさしに使えないと誰もが知っている。
だが。
この答案を見て憧れない1年生の一般生徒はいない。その努力を理解できない特進クラス生はいない。
そして、大原の容姿。
これをストロングポイントとしないで、どうする?
俺は説明を続ける。
「この高校では、試験の順位は公表されない。学年が上がるときに、30位以内であれば特進クラスに入れるということだけが成績を証明している。そして、スポーツ特待生クラスの試験は、問題そのものが一般生徒の試験とは違うから、一般生徒と比較することができない。
つまりだ。
この答案の価値を一番よく知るのは1年生の一般生徒だ。ここで230票を取る。
それがどんなに大変なことなのかは、特進クラスの上級生にもわかるはずだ。ここで60票を取る。
当然、反発もあるだろう。残りの票は全部篠崎先輩に流れると見ていい。
そこで立会演説会だ。
どんな生徒がこの成績を取ったのか、一般生徒なら誰もが気になるところだ。
大原に注目が集まれば、上級生の男子から50票くらいは掠め取れるんじゃないかと俺は踏んでいる。
合計で340票。どうだ?」
俺は胸を張って3人を見る。
大原が難しそうな顔で聞いてきた。
「この答案を皆に見せるつもりなの?」
「そうだ」
「一応聞くけど、どうやって?」
「まとめて1枚に縮小印刷したものをポスターにして掲示するっ!」
「「「ぶふぉっ!」」」
3人で吹き出したが、何を驚いている?
やつら有象無象が一生見ることのできない答案を拝ませてやるんだ。
これに、水越が疑問を呈した。
「でも、選挙管理委員会が許可してくれるかな?」
「たぶん大丈夫だ」
選挙ポスターは、選挙管理委員会の承認を受けたものでなければ、掲示板に貼ってはいけない。
相手を中傷する内容、いたずらに刺激する表現、卑猥なものを排除するためだ。
例えば、大原が浴衣を着崩して両膝を立てて座り込んだ正面からの写真に「わたしに、入れてぇ♡あなたの、いっぴょっ!」とあおりを入れるとか、言語道断。
すぐに盗まれてしまう。
「けしからん」「公序良俗違反だ」「ぐへへへ」「この脚がええのう」「入れちゃう、入れちゃう」とか言われて。
まったく。一票を入れてっていう話なのに。……男子の妄想は恐い。
他にも。
大原が学校指定の水着になって、四つん這いでお尻を向けて振り向く写真に「いっぱい、ちょうだぁい♡」とか。
落ちているゴミを拾って笑う大原の口元の写真に「あなたの学園をきれいにしてあげる♡」とか。
制服姿の大原が投票用紙の角を口に咥えて「投票に……一緒にイこっ♡」とか。
制服の後ろ姿、スカートの下から逆さまに顔をのぞかせて「オ・ネ・ガ・イ」とか。
バニーガール姿で「もっと、もっとぉ。きてぇ〜♡ 投票に」とか。
将校服をまとって玉座で脚を組み、両手でムチを持って上から目線で「生徒会長とお呼びっ!」とか。
もう、最高っ! 違った。許すまじっ!
ぐへへ。
ヤバい。よだれが出てきた。
妄想がはかどってヤバい。
とにかく。
そんなものは認めてもらえない。
だが。
13枚の答案を100点の部分が見えるようにずらしながら重ねた1枚の写真の上に、大原いずみがジョジョ立ちをした写真の切り抜きを乗せたポスターなら問題はないはずだ。
ポーズ違いで、そういうのを7、8枚用意して選挙管理委員会に持ち込むことを俺は提案するつもりだ。
生徒達の反応も分かれるだろう。アンチも生まれるだろう。でも、それでいい。勝つためではないのだから。
大切なのは、イメージ。
インターハイのファイナリストに負けないインパクトで知名度を上げる。
そして、ここから先は大原とその仲間に言うつもりはないけれど、立会演説会では、大原の容姿を前面に押し出していく。
たいしたことじゃない。
体育館のステージで、演台に備え付けられたマイクで話すのではなく、マイクを手に持って演台を背に全身を見せながら話す。
特に何かをする必要などない。
ただ、マイクを持ってしゃべる。できれば手振りを入れたり、歩きながら話してくれればいい。笑顔を振りまいてくれたなら最高だ。
その親近感だけで人の心は揺れる。
人はイメージでたやすく流される。
俺はそのことを国政選挙で知った。
衆議院議員の3分の1を占める二世議員。
その多くを擁し、中心に据える政権与党を支えているのは、知名度と地元出身という親近感だ。
大臣をしている父親が地元を離れて東京に単身赴任しているわけがない。配偶者と一緒に東京で暮らしているのが当たり前。
その子供は東京で生まれる。東京で幼児期から大学までを過ごし、親の地盤を継いで選挙に出ると決めたときに、選挙区の地元出身を唱え始める。
親の地盤をそうやって引き継いでいく。
地元と称する場所に幼馴染みもおらず、その地域に住む人々、つまりは選挙民が過ごす春夏秋冬の暮らしも知らないのに。
そうやって、この国は何人もの総理大臣を生んできた。
政策を勉強して政治家を志す? 大切なことだが、イメージ戦略の前には歯が立たない。
人の声は聞きたい人にしか届かない。
だから、イメージ戦略は間違っていない。正しくないのだとしても。
だから俺は。
大原の容姿に上級生の男子が惹かれることを、密かに戦略の中心に置いた。
上級生の男子200人のうち4分の1にあたる50人程度が票を入れてくれればいい。
そうならなくても、一般生徒1年生や特進クラス上級生から取りこぼした票の穴埋めをしてくれれば惨敗とはならない。
実際のところ、全部で200票も取れれば俺達の目標は達成できるのだ。
大原はそもそもが負ける気満々だから、得票数なんて考えてないし、清水や水越だって、全校生徒の3分の1にあたる260票に近ければ、惨敗とは言わないだろう。
だから、この案で押し通す。
俺はじっと清水と水越の様子を見る。
二人は不安げな顔で大原の顔を見ている。
勝ったな。これは。
あとは、大原から答案を取り上げてスマホに写真を撮るだけだ。うまくやれば今日の放課後にでもクラスの皆に協力を求められるだろう。
腕組みをした大原のすきをついて、答案をごっそりと奪う。大原が「あっ」と手を伸ばしたがもう遅い。
「俺は落ち着いた場所で、これをスマホで撮影してくる。それまでにどうするか決めておいてくれ。俺の方法を採用しないのなら、画像は消すから」
そう言って席を立つ。
あとは、清水と水越に任せておけばいい。大原の惨敗を気にしている二人ならうまく説得してくれるだろう。
……やれやれ、今日は昼めしを食べる時間はなさそうだ。
興奮したせいか、空腹は感じないが、人と会うのに、お腹が鳴って恥ずかしい思いはしたくない。
だが、今は。
向かっているのは、生徒会室。
そこで待っているのは菅原会長だ。
今朝、登校してすぐに3年生のスポーツ特待生クラスに行って、約束を取り付けたのだ。
菅原会長は俺のことを覚えていなかったが、「大原の選挙参謀です」と名乗ると「教室じゃまずいから」と、昼休みが終わる前の10分間だけ時間を取ってくれた。
この選挙、篠崎先輩の無投票当選にもっていかなかった理由を知りたい。
その鍵を握る人がここにいる。
俺は、生徒会室のドアを叩いた。
「どうぞ」と言う声にドアを開けると、菅原会長がソファに座ってコーヒーを飲んでいた。
「コーヒー、飲むか?」
「お構いなく。ここ、コーヒーメーカーがあるんですね」
「何代か前の会長が残していったものだ。ええと……まだ名前を聞いてなかったよな」
「1年A組の山崎浩二といいます」
「選挙に関する話だったな。座れよ」
「じゃ、遠慮なく」
「それで?」
「今回の選挙、大原が立候補する意味ってあるんですか?」
「山崎、って呼んでいいかな? 山崎がここに来ることを大原は知ってるのか?」
「いいえ」
「なんで知りたい? 大原は立候補することも、負けることも承知しているはずだ」
「わざわざ惨敗して傷つける必要はないと思うんですが」
「傷つく? 冗談だろ。得票数を公開するつもりはないし、立会演説会で大原が篠崎と対立する発言をするはずもない。おまけにあのルックスだ。下手したら男子生徒の400票をかっさらって当選するかもな」
「どういうことですか?」
「その前に、山崎が大原の選挙参謀だという証明ができるか? ここから先は生徒会役員以外に知らせるつもりはないからな」
「これが証明になりますか?」
俺は大原の答案を広げてテーブルの上に置いた。
「これは……大原の答案か。どうやってこんなものを」
「選挙ポスターに使う宣材として接収しました」
「選挙参謀というのも嘘じゃなさそうだな。……これはすごいな。全部100点か」
「それをアピールポイントにします」
「……ここで聞いたことは誰にも言わないと誓えるか? もちろん、選挙が終わるまででいい」
「誰にも言いません。信用してください」
「なら、山崎を生徒会役員に任命する。任期は今日から9月30日までだ。役職は生徒会室付。
これから山崎のことは室付と呼ぶ。他の役員に紹介するから、今日、4時30分になったらここに来ること」
そう言って帰れとドアのほうに目をやる。
「俺の疑問にはまだ答えてもらってませんが?」
「そのときに説明する。今は帰れ」
「わかりました。……ここでこの答案をスマホで写真に撮っていいですか? これは大原に返さなくちゃいけないので」
「そこにカラーコピー機がある。それを使え」
「ありがとうございます」
「ああ、そうだ。室付、お前が生徒会役員になったことも誰にも言うなよ。もちろん、大原にも」
「そこまでですか」
「そこまでの問題なんだ。これは」
「わかりました」と俺はコピーをとって生徒会室をあとにする。
穏やかな対応と反するような、菅原会長のギラつく視線を背中に感じながら。
教室に戻ったときにはすでに予鈴が鳴っていた。
クラスメイトは着席し、次の世界史の準備をしている。清水も水越も、そして大原も俺を見ることはない。
俺も着席して机の中から教科書と資料、ノートを取り出す。
やがて、本鈴が鳴った。世界史の教師が教室に入るとともに委員長の清水が号令をかけた。
「起立。礼っ!」
❏❏❏❏
5時間目が終わり、休憩時間に入ると、俺はすぐに水越のところへ行った。
大原の了解がとれたのかを確認するためだ。
「いずみはそこまでする必要はないって言うんだけど、わたしと優子は了解したよ。山崎の作戦通りなら、いずみが恥ずかしい思いをすることはないからね」
全教科満点の成績が恥ずかしいとか、贅沢な話だからな。
ただ、このクラスの生徒にとっては、まぶしさを通り越して忌々しいことこの上ないだろう。
たとえ、成績を鼻にかけていないとしても、部活をしているということでそれとなく配慮してきた女子が、実は自分よりも成績がいい。
明確に意識しなくても、心のどこかに裏切られたような、反発する気持ちが芽生えるのはしかたがない。
現に、俺がそうだ。
俺よりも勉強ができて、スポーツもできる?
そんなやつを応援するとか、やりたいやつで勝手にやってくれ。……俺ならそう思う。少なくともこの夏の思い出を共有する前の俺なら。
だから。
──このクラスにアンチが生まれる。
それが大原の望むところではないとしても。
しかし、このクラスの連中。
誰かに勝るということは、コンプレックスの裏返しでもある。
自分は特進クラスだからと、優れていると、どっぷりと優越感に浸っていなかったか。
おそらくは、今までの馴れ合いのようなクラスではいられないだろう。
少なくとも俺を除く男子の9票は、篠崎先輩に流れると考えたほうがいい。
いつまでも仲良しこよしではいられない。
そんな幻想を早めに捨てられるいい機会だと捉えよう。
来年の4月、このクラスメイト全員が特進クラスにいるとは限らないのだ。
特進クラスでなくなった生徒が、それを屈辱に感じて転校していなくなることだってあるだろう。
友達との時間を大切にしたいと言った大原だが、そろそろ夢から覚めてもいい頃合いだ。
俺は、クラスメイトを見回しながらそう思っていた。
そして、放課後。
俺は、皆が帰り支度をしている間に教室の黒板の前に立ち、大原いずみが生徒会長に立候補することをクラスメイトに伝えた。
皆、手元を止め、一様に驚いた顔をしている。
教室から出たやつはいない。
大原と清水、水越が慌てて前に出て俺の隣に並んだ。
俺は、皆が注目しているのを確認すると、とりあえず着席してくれと頼んだ。
その頃には、俺の言ったことが理解できたのだろう。
顔をほころばせて隣の女子と手を取り合って喜んでいる女子もいる。
その笑顔が大原の成績を見て歪まないことを祈るばかりだ。
菅原生徒会長から立候補の依頼があったことはあえて言わない。
誰もが大本命の篠崎先輩の存在を知っている。大原の立候補は、来年に向けての布石くらいにしか思っていないのだろう。
今はそれでいい。
いずれ、大原の成績を見て応援する気持ちがなくなったとき、それでも負けが確定している大原に同情票を投じてくれるかもしれない。
だから。
不利な状況をあえて口にした。
「正直、勝つのは難しい。本命は2年生の陸上部、篠崎京介先輩だ。
知名度、貢献度では遥かに上の存在だ。それでも、これはいい機会だと俺は思う。スポーツ特待生の制度ができてからこっち、この学校の生徒会長はスポーツ特待生が務めてきた。
一般生徒が生徒会長に選ばれることはなかった。もしかしたら、この先も一般生徒がなることはないかもしれない。
だから、無謀に思える挑戦でも、この学校のあり方に一石を投じることができればいいと思って大原は立候補した。
クラスメイトの皆に何かをしてくれと役割を振るつもりはない。ただ、このクラスから出る候補者への応援として、みんなには、大原いずみに投票をお願いしたい」
そう言って俺は頭を下げる。
俺の横に立つ大原、清水、水越も並んで頭を下げているはずだ。
期せずして、拍手が湧いた。
音が大きく鳴り響く。
大原、お前、誇っていいよ。この半年、繋いできたものが確かにここにある。
それは、儚いものかもしれないけれど、今この瞬間、この拍手、称賛はお前のものだ。
お前が大切にしてきた時間がきちんと皆に伝わっていた証しだ。
人の心は移ろいやすい。
でも。
それだからこそ価値がある。明日、この拍手がまばらになるとしてもだ。
俺、この学校を選んでよかったよ。
今、初めて心からそう思える。それは、このクラスだからじゃない。大原いずみと出会えたからでもない。
この光景に立ち会えたからだ。
人と人が繋がっていることを実感する経験を得られたからだ。
人は信用するに値しない。
でも、この一瞬、皆の心に宿った灯火を、俺は、絶対に忘れない。
そう心に誓って隣を見た。
大原はまだ頭を下げていた。
床に雫が落ちる。
大原いずみが顔を上げることは、すぐにはできそうになかった。
【あとがき】
いずみ「『誰がために君の鐘は鳴る』の『第14話 その候補者、無謀につき』を読んでいただきありがとうございます」
浩二「このあとがきは、作者に代わって副音声ふうに俺達でお送りします」
いずみ「司会進行の大原いずみと」
浩二「主人公の山崎浩二です。……風の町、風都。この街では、小さな幸せも大きな不幸もつねに風が運んでくる。俺の仕事はその風に耳を傾け、小さな幸せを守って……やることだ。俺の名前は左翔太郎」
いずみ「いや、山崎浩二だよ。最初にそう言ったよ?」
浩二「きわめてハードボイルドな……私立探偵だ」
いずみ「私立だから探偵を名乗るのは自由だけど。嘘はいけないな」
浩二「い〜い風だ」
いずみ「ちょっとおっ!」
浩二「なに、怒ってんだよ」
いずみ「風都探偵だよねっ!」
浩二「そう。仮面ライダーW」
いずみ「その設定、無理があるよ」
浩二「なんで?」
いずみ「翔太郎とフィリップ、二人で一人の探偵の物語。でも、あんた、友達いないじゃん」
浩二「……大原、俺のフィリップになってくれ!」
いずみ「あんた、半人前だね。まだ半人前の探偵。かわいいけど、役に立たなそう。わたしを満たしてくれる人じゃ……ないっ!」
浩二「うがっ。……暴力、反対」
いずみ「ふはははーっ。ナルシスト気取りのハーフボイルドがーっ!」
浩二「……っ、お前の、罪を、数、えろ……」