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第11話 その道化師、ハートブレイカーにつき

 夏休みもあと数日を残すのみ。


 その日は、朝からうちの学校の盗撮事件の話題で各局のワイドショーをにぎわせていた。


 駅での盗撮行為で現行犯逮捕された教師の自宅や職場のパソコンから、盗撮画像が出てきた。中には、学校内と思われる画像もあった。こういう教師に生徒を任せていいのか、学校の監督責任はどうなってるのかという内容だった。


 と言っても、せいぜいが十数分程度。


 俺がチャンネルサーフィンをしている間にあっさりと終わるような扱いだった。


 結局、通して見れたのは1局だけ。


 その番組も、ここ最近の学校教師による不祥事の特集と「生徒や親の信頼を裏切る許せない行為ですっ!」と騒ぐ最近見なくなったタレントのコメントで締めるだけのもの。


 その程度の切り口なのに、最後まで観てしまったことを後悔した。


 もっとも。


 学校教師なんて、この国には百万人以上いる。それだけの人数が教育にたずさわっているんだから、いろんな人がいて当然だ。


 そのうちのほんの一部がした犯罪行為を、あたかも父兄代表のような顔で糾弾するタレントの、誰もが言いそうなコメントに、「そうですね〜。じゃあ、次の話題」と、まるで時間を惜しむかのように仕切るMCにがっかりした俺が悪い。


 テレビ局、いや世間様にとって、一教師の不祥事など日常の瑣末さまつなできごと。直接関わらない限り、1分後には忘れ去られる程度のことでしかない。


 だけど、俺は、むなしくなったんだ。


 報道を装いながら、物事の本質を捉えるつもりがない作り手の姿勢に。


 赤の他人からその場限りの薄っぺらい感情論を聞かされるために、チャンネルサーフィンをした俺の過剰反応に。


 学校の教師は、俺達学生にとって、親以外に触れ合う機会の多い大人だ。


 その言葉や行動は、善し悪しに関係なく俺達に影響を与える。まだ、何者でもない俺達にとって、一流大学を卒業し、カネではなく、教職を選んだ人生の先輩はまぶしいヒーロー、ヒロインなんだ。


 そして。


 百万人を超える人間が教職につくことを許すこの国の文化度の高さ。職業として成立させる経済力の豊かさ。国の根幹を教育水準の高さに置こうとする未来に向けた強い意思。


 学校の先生というのは、そういった一朝一夕に叶うことのないこの国の歴史の重さ、理念の高さの具現化だったんだ。


 確かに盗撮は許されることではない。


 だけど、どの世界、どの時代にも、イレギュラーは一定程度存在する。完全無欠な人間だけで作る世界など存在しない。


 しかも。


 盗撮グッズはネットで簡単に手に入る。


 盗撮を商品化したアダルトビデオも販売されている。ヤラセかもしれないが、テレビのドッキリは盗撮を前提としている。


 そんな社会において、盗撮犯は予定された不具合に過ぎないと切り捨てられたような気がしたんだ。


 でも。


 何かに背中を押されて一歩踏み出した人がいたんだ。俺の隣に座っていた人が。


 テレビや新聞の無責任さは今に始まったことじゃないけど、薬にも毒にもならないただの感想を言うくらいならコメンテーターなんていらないんじゃないか?


 それほどまでに俺はいらついていた。


 気分がもやもやしたままなのは、テレビのせいだ。スッキリしない消化不良の番組を見せられたせいだ。


 こんなとき、いつも思うのは。


 勉強の大切さだ。


 勉強には、常につきまとう言葉がある。


 古文は日常で役に立たない。数学は計算機があれば十分だ。微分積分、いつ使うの? 歴史や地理、生物、物理は人それぞれの趣味。外国語はスマホの翻訳アプリでこと足りる。なんせ、すでに機械翻訳のレベルはTOEIC600点程度のレベルに達したと言われているからな。


 そんな子供の言い分に、きちんと答えられなかった大人のせいで、学ぶということの大切さから目をそらした小中学生達がいる。


 大切なのは、学ぶという姿勢。


 知らないことに興味を持ち、謙虚に知識を受け入れる心構え。


 教科が何かなんて関係ない。子供達が興味をそそられるように、手を変え品を変え、学ぶ意欲を引き出そうとしているだけだ。


 身につけるべきは、わからないことをそのままにしない、他人の言葉を鵜呑みにせずに自分で調べて考えるという姿勢。


 生きる上での、最初にして最後の指標。


 それを俺達は長い時間をかけて訓練していくんだ。少しずつゆっくりと。


 誰もが、いつかは、人生の岐路に立つ。


 自分の打席に立つ。

 あるいはマウンドに。


 そこは、誰も正解を持たない孤独の戦場だ。


 そんなとき。


 間違えていないと信じてバットを振れるように。


 勇気をもってその一球を投げ込めるように。


 その瞬間を迎える日のために、俺達は勉強をする。バットを振り続ける。ボールを投げ続ける。


 今、この瞬間の選択は間違っていないかを、おのれに問い続ける訓練をするんだ。


 だから。


 勉強することは無駄じゃない。


 無駄があるとすれば、社会では役に立たないからと、学ぶ姿勢から背を向ける言い訳を探そうとする時間だ。


 空振りするかもしれない。

 打たれるかもしれない。


 それでも。


 結果や成果の意味を理解できるのは、きちんと学んで決断をした人間だけだ。


 俺は、目の前で起きているできごとをただ眺めていて、知らないうちにいつの間にか崖っぷちに追い詰められているなんて真っ平だ。


 それまでに積み重ねたすべてを捨ててでも、次を生き抜く道を探したい。


 学ぶとは、そういうことなんだ。


 だから。


 この事件の裏側で、大原いずみがしたことを、俺は知っておきたい。


 今夜、学校で開かれる説明会に出席する母親の説明なんて待ってられない。聞きたいのは、大原の言葉だ。


 俺は、大原にメールを送る。


『俺は、全部知ってるぞ』


 件名のみを打ち込んで。


 5分後。


『何を知ってるのかにゃあ』と返信がきた。ふざけたメールだ。でも、余裕ぶっていられるのも今のうちだ。


『今回の盗撮騒ぎでお前が仕組んだことだ』


『盗撮したのは谷口先生だにゃあ』


『なぜ、谷口先生だと知ってる? 報道発表に名前はなかったはずだぞ』


『もうみんな知ってるにゃ。知らないのは山崎だけにゃあ。情弱。ぷーくすくす』


『みんな知ってる? そんなこと誰から聞いた?』


『昨日のうちにメールが回ったにゃ。警察が学校に来て、谷口先生のパソコンを押収していったにゃあ』


『女子更衣室のカメラもか?』


『容疑が盗撮ということで、学校側が更衣室とかトイレを全部調べて回って見つけたらしいにゃあ』


『谷口先生のパソコンの盗撮データは女子更衣室を撮影したものなのか?』


 メールが返ってこない。

 5分経っても、10分経っても。


 やがて。


『山崎、出てこれない?』と返信がきた。


 ようやく、俺と向き合う気になってくれたようだ。


『いいよ。どこで会う?』


碑文谷ひもんや公園はどう?』


 えっ?


 背筋が凍りついた。


 碑文谷公園は、この家のすぐ近くだ。大原いずみが俺の住所を知っていることに戦慄する。別に隠していたわけじゃないが、誰かに教えたこともないはずだ。


『おーい』


 催促のメールが届いた。とりあえずは回答を留保して時間を稼ぐしかない。


『どうやって俺の住所を知った?』


 これは、マジでやばいかもしれない。


 こいつから聞き出そうとする内容は、誰かに聞かれていいものじゃない。核心に迫る話をするとしたら、俺の家に、この部屋に来るつもりでいるに違いない。


 今までとは状況が違う。


 好きな女の子を迎え入れるなら、桃色気分でドキドキだけど、今は、首元にナイフを突きつけられたような恐ろしさしか感じられない。


 なんせ、相手は策をろうして盗撮犯を警察に逮捕させるようなやつだ。


 大原が、この部屋で服を脱いで俺を誘惑し、大声を出した瞬間にすべてが終わる。


 学校の説明会に出席するために仕事を休んだ母は、悲鳴を聞きつけてこの部屋に飛び込んでくるだろう。


 俺は、レイプ犯のレッテルを貼られ、母親からは冷たい眼差まなざしでさげすまれ、父親も交えて家族会議というか、裁判が始まる。


 もう、学校の説明会どころじゃない。


 証人となった母を含む検察官兼裁判官の両親を前に、俺を助けてくれる弁護人もいないまま、有罪へまっしぐらだ。不服申立てなんてもってのほか。罪が重くなるだけだ。


 黙秘は、レイプを認めたことになる。否認は、嘘をつくなと怒られる。やりましたと言ったら、早く言えと言われる。


 証拠なんていらない。親の監護権はそれほどまでに強い。


 冤罪が引き起こす刑罰は、家族からの無期限の軽蔑だ。俺は、冤罪を晴らすこともできず、家族は、俺がレイプする人間だと思い込んだまま生涯をとじる。


 遠く、京都の大学に進学した兄のあざけり笑う顔が目に浮かぶ。


 あいつは、「ああ、こいつならやりかねないね。いつかはやるだろうと思ってた。むしろ、今までやらかしてなかったことが不思議だ。もしかしたら、ばれてないだけかも?」って、憎しみこめて言うに決まってる。


 ここぞとばかりに、全力で俺の人格を否定する言葉を並べまくるに決まってる。


 詰んだ。


 盗撮事件に対する俺の疑問は封じられ、卒業まで大原に逆らうことは許されず、もしかしたら、今後、不正の片棒をかつがされるかもしれない。


 手の中でブブッと着信音が鳴る。

 恐る恐るメールを開く。


『公園に住んでるの? 親がよく許したね』


 はぁっ? そんなわけないだろっ!


 そこで、ふと思い出した。昨日、女子達と新宿中央公園で会話したときに「最寄り駅はどこ?」と聞かれて「学芸大学。東横線の」って、答えたことに。


 碑文谷公園は学芸大学駅から近い。おそらく、住所まではつかまれていない。


 が、状況は何一つ変わっていない。


 近所で会うのはだめだ。


 会う場所を考えあぐねていると、スマホが再度ブブッと着信を知らせる。


『今、中目黒に着いたところ。あとふた駅で学芸大学だけど、碑文谷公園でいいんだよね?』


 俺は、あわてて返信する。


『学大の東口を出てすぐのところに、本屋さんがある。そこで待っててくれ』


『東口?』


『学大は小さい駅だ。改札は一つしかない。改札を出ると、正面がスーパー、左右に商店街が見えるはずだ。右手が東口だ。そちらの商店街をまっすぐ進むと、少し行ったところ、道路の右側に本屋がある』


 俺は、送信すると、急いで準備をして家を出た。


 感のいい大原のことだ。わが家とは反対の東口に誘導したことはお見通しだろう。


 だが。


 この家に連れてくるわけにはいかない。それに、あのあたりにはカラオケ店がある。そこでなら、大原も無茶なことはしないだろう。


 10分後。


 俺は、行きつけの本屋の1階で大原を見つけた。


 大原が手にしているのは、先月、今年上半期の直木賞を受賞した「ホテルローヤル」。


 上下黄色のスポーツウェアに身を包み、バンダナで髪の毛を押さえ、テニスのラケットカバーを肩にかけている姿は、どこからどう見てもテニスを趣味にする女の子だ。


 一見、これからテニスをしに行きます、その途中で本屋さんに寄ったのよとでも言いそうな格好だが、こいつがここまで来た事情を知っている俺としては、戦闘服にしか見えない。


 むしろ、キル・ビルっ! 俺を待っている間に、凶器にするハードカバーを選んでいた可能性が高い。


 本は、人を殴るモンじゃないんだぜ?


 ただ、あれを使った場合、証拠隠滅は容易たやすいだろう。今一番売れている本だ。犯行の後、駅のベンチに置いておけば、誰かに持っていかれて探索は不可能となる。


 対する俺は、チノパンにポロシャツ。ジャケットまで羽織っている。戦闘力皆無のいでたちだ。


 格好をつけてきちんとしたよそおいにした。改めて顔を洗い、ひげを剃って、2度目の歯磨きもした。


 万が一に備えてビキニブリーフに履き替え、駅前西口の銀行ATMで財布にお金を補充した。話の展開次第では、本屋の斜め向かいの薬局でコンドームを買うことも頭にあった。


 自分のおめでたさにあきれる。


 常在戦場──


 そのことわりを忘れたやつから死んでいく。


 そう、知っていたのに。


 陸上部の大原が、あのテニスラケットケースに何を入れてるかなんて知りたくもない。少なくとも、棒状の何かが入っていることは間違いない。


 俺の気配に気づいたのか、大原はこちらを向いて笑った。


「この本屋変わってるね。マンガが1冊も置いてないなんて」と言いながら本を平積みに戻す。


「それとも、学芸大学だからかな? 学芸大生はマンガを読まない? そんなはずないよね。大学生からマンガとパチンコを取ったら、生きるしかばねだって、うちの父が言ってたし」


「そんなわけないだろっ!」


「あとは、ご飯を食べて排泄はいせつするだけのうんち製造機」


「うんちとか、言うな」


「それから、どこでも眠る。学校でも、居酒屋でも、公園でも、路上でも」


「それは、酔いつぶれてるんだ」


「大学では、金持ちは車でデート、貧乏人はチャリでバイト。社会の縮図のようなヒエラルキーを目の前に突きつけられたと言っていた」


「お前のお父さん、苦労したんだな。だが、東京は家賃が高い。地方から出てきたら、生きていくだけで一杯一杯なのは確かだ」


「わたしはバイトする側だけどね。ところで、そんな東京生まれ、東京育ちの恵まれた山崎くんは、今日、わたしをどこに連れて行ってくれるのかにゃあ?」


「と、とりあえず、喫茶店とか?」


「人に聞かれたくない話なんだけど?」


「じ、じゃあ、カラオケにしよう。すぐそこにあるから」


「りょ~かい。……ハードカバーって、高いよね。文庫本が出るまで待つしかないか」


「……俺が買ってやろうか?」


「いいよ。図書館にあるかもしれないし」


「じゃあ、こうしよう。俺が買ってお前に貸す。読み終えたら返してくれればいいから」


 俺は、そう言うと本を手にレジへと向かった。大原が今読みたがっているのなら読ませてやりたい。


 この一週間、楽しかったのは事実だ。そのすべてが大原いずみが与えてくれたものばかりだ。


 今日、その関係が終わるのだとしても、俺は大原に何も返していない。


 いい機会だから、これで恩を返しておこう。本1冊では足りないかもしれないが。


 それでも、そうしておかないと、大原の不正をただす資格なんてないと思うから。


 支払いを終えて外に出ると大原が待っていた。


「先に読んでいいから」と押しつけるように本の入った袋を渡す。


「山崎の後でいいよ」


「遠慮するなよ。今読みたいんだろ?」


「……そう? ごめんね」


 そう言いながら、ラケットケースを開いて大事そうにしまい込む。


 ちらりと見えたのは、鈍く光る鉄パイプ。


 ……こいつ。やっぱり。


「……マンガ、1冊も売ってなかったね」


 見られたことに気づいたのか、あわてて別の話題を振ってきた。


「マンガを売ってないわけじゃない。あの先、角を曲がって少し行ったところに、マンガ専門店を別に開いてるんだ。あと、学芸大学駅っていうが、東京学芸大学は随分昔に小金井に移転してる。附属高校はあるけどな」


 ちなみに、附属高校から学芸大学に進学する生徒は毎年十人前後と少ない。教育学部の単科大学だからな。教職を目指す学生しか受験しない。


 俺は、先に立って東口商店街をカラオケ店へと向かう。


 と言っても、もうすぐそこなんだけどね。


 大原は物珍しそうに左右の店を眺めていた。似たようなアーケード街ならどこの町にもありそうだけど、道幅が狭いことに驚いているのだろう。


 車一台がやっと通れるほどの歩行者専用道路の左右に、いろいろなお店が軒を連ねている。


 その東口商店街だけでも駅から数百メートルは続いているんだ。アーケードなんかない、ただの商店街。


 だけど。


 長年暮らしている俺ですら、夕方歩いていると、灯りがともる箱庭のような風景に心惹かれることがある。


 ここはそんな街だ。


 カラオケの個室に入ると、大原は足を組んで俺に問いかけた。


「で、山崎くんは何を聞きたいのかにゃあ?」


「おちょくるのはやめろ。俺が知りたいのは、谷口先生が本当に盗撮犯なのかということと、学校の女子更衣室に盗撮カメラを仕掛けたのは誰かということだ」


「ふむ。……まあ、盗撮犯逮捕の最大の功労者だからね、山崎は。正直に答えてもいいよ。そうだね。まずは、新宿駅の話をしようか」


「功労者? ……俺が?」


「そう。構内で鬼ごっこしたよね。わたしを追いかけ回したやつ」


「……別に、追いかけ回したわけじゃない」


「駅構内を女の子のお尻をガン見しながら追いかけてたんだよ。ずっと、小1時間もね。まわりから見たらどうだったんだろうね」


「そりゃあ、おかしいとは思うけど。だけど、ゲームだから」


「それは、他人にはわからないよね。でも、お陰で、駅構内にいた警察が山崎に注目してくれた。あとは、彼らを引き連れた山崎を盗撮犯の近くまで誘導しただけ」


「えっ。……それって、警察が追いかけていたのは俺ってこと?」


「そうだね」


「俺が警察を引き連れて、盗撮している現場まで行った?」


「そう。警察の人達、山崎がいつわたしのお尻にさわるか心配だったんじゃない?」


「そこで、谷口先生が盗撮をしていたと?」


「そう。やり方が巧妙でね。靴の先に盗撮カメラを仕掛けてプラットフォームのベンチの端に座り、女性が乗車の列に並ぶのを待つんだ。横にはキャリーケース。怪しい動きを見られないように壁を作るためのもの。そうして、眠ったふりをして、女性のスカートの下に足を入れて盗撮をしてた」


「大原も狙われていたのか?」


「違うよ。わたしがしたのは、キャリーケースとは反対の方向から、山崎とあんたをつけていた警察を、まさに盗撮犯が足を伸ばす瞬間をみはからって案内しただけだよ」


「どうして、その瞬間がわかったんだ?」


「……だから、何度も前を通ったじゃない。気づいてなかったの? 盗撮犯は自分からは動かないんだ。中央特快の電車に乗る列が目の前にできて、最後尾がスカートを履いた女性のときに初めて行動に出る。それまでじっと待ってるんだ。職を失う危険は冒したくないとでも思ってたんだろうね」


 中央特快は利用者が多い。平日の昼間とはいえ、新宿駅から乗るとき、少しでもいているドアを選ぼうとしたら、プラットフォームの中央にベンチが置かれている場所が最適だ。ベンチが邪魔をして列に並ぶ人数は少なくなる。女性が好みそうな場所だ。


 たしかに何度も階段を上ったり下りたりして通路を歩き回った。だけど、大原のお尻の動きに集中していた俺は、同じところを歩いているとは思ってもいなかった。


「あー、ごめんね。最初のころは、警察を探してた。不審な行動をしている山崎を見つけてくれないと何にもならないからね」


 どうやら、俺はエサの役目をしていたらしい。


「でも、谷口先生が新宿駅にいるって、よくわかったな?」


「つけまわしてたからね。弱みを握ろうって。それで休みの日は1日新宿駅で過ごすことがわかったんだ。谷口先生があのベンチにいることは、優子からの電話で知っていたから」


 ゲームを持ちかけてくる前の、あの電話がそうだったのか。だが、それよりも。


「つけまわすって? 谷口先生の家、よく知ってたな?」


「帰り道の跡をつければわかることだよ」


「そこまでしなきゃいけなかったのか?」


「うん。この夏の間、谷口先生が休みの日はどうしてるのか、優子とまゆみ、そしてわたしで交代して朝から見張ってた。それで、盗撮していることを突き止めた」


「なんでそんなことを?」


「コーチの川村先生、知ってる? 女性の」


「いや、知らないけど」


「……そう。体育教官室でパワハラを受けてたんだよね」


「体育の先生全員から?」


「誰が何をしたかはわからないけど、職員会議があることを伝えない、間違った学校行事の日程を教える、備品の紛失を疑われる、掃除や雑用を押しつけられる、他の3人の誰かが休むからという理由で有給を取らせてくれない。女の子の日だってあるのにね」


「そんなの、学校側に言えば──」


「体育の先生達は川村先生の上司だよ? 川村先生は期限付き契約のコーチで、期間経過後に再契約するかは体育の先生達の評価で決まる。学校側だって面倒なことを言うコーチを切るほうが簡単なはずなんだ」


「そんなの、やってみなくちゃわからないだろっ!」


「あのね。セクハラと違って、パワハラは証拠が必要なんだ。不快に思ったというだけじゃ通じない。相手は上司。指導をしただけだと言われたらおしまいだよ。それに、立場が全然違う。体育の先生達は何事もなければ定年までこの学校にいる。法律でしっかり守られているんだ。学校側がどちらを取るかは明らかじゃない?」


「……大原が帽子やサングラスをつけていたのは、谷口先生から顔を隠すためだったのか?」


「そうだね。わたしのことは知らないにしても、見覚えのある人間がいたら警戒されるからね。むしろ、心配したのは、谷口先生が山崎の顔を覚えてるんじゃないかってこと。でも、授業で生徒を放置するくらいだから杞憂きゆうだったね。……昨日は谷口先生にとって、夏休みの最後の有給休暇だったんだ。間に合ってよかったよ」


「間に合った? いや、それより、どうやって谷口先生の休暇を把握したんだ?」


「誰がいつ休むのかは、体育教官室のホワイトボードに書いてあるんだよ。……間に合ったというのは、川村先生のこと。川村先生、8月一杯で辞めるつもりでいたからね。辞表も提出していると聞いた。でも、これから体育の先生を探すのは無理でしょ? 補充しようにも、少なくとも9月には間に合わないよね。学校がどうするかはわからないけど、今なら川村先生を引き留める可能性はあるって踏んだんだ」


「学校で焼肉パーティーをした日、火災報知器のベルが鳴ったのに、俺たちのクラスはグラウンドに集合しなかったよな。あれも大原達の仕業か?」


「前に言わなかったっけ? わたし達A組女子の体育の授業は川村先生が見てくれているって。つまり」


「クラスの女子、全員が共犯者だと?」


「そのとおり。非常ベルを押したのはクラスの女子だよ。グラウンドに体育教師3人が出たのを確認して、体育教官室からカメラを持ち出して女子更衣室に仕掛けたんだ」


「何のために?」


「駅で盗撮していただけなら、校長は監督責任を問われるだけでしょ? でも、学校内で盗撮していたとなったら? 保護者は学校の責任を問うんじゃない? そうなったら、校長だって、理事会の手前、急いで谷口先生の処分を考えるはずだよ」


「……もしかして、谷口先生は学校では盗撮していなかった?」


「さぁ? でも、女子更衣室のカメラは動いてなかったはずだけど?」


「じゃあ、校内での盗撮というのは、冤罪なんだな?」


「パソコンの中の動画のことを言ってるのなら、そうだね。山崎がネットにアクセスして観たものと同じものだからね」


「パソコンにはパスワードが設定してあったんじゃないのか? しかも定期的に変更しているはずだ。それをどうやって知ったんだ?」


「パソコンにポストイットが貼ってあったよ。password5って書いてね」


「その動画を添付したメール、清水から大原に宛てたメールは、誤送信じゃなくて、そもそもが俺に送ったものだったんだな」


「そうだね。山崎が動画を見ない可能性もあったんだけど、優子が、山崎は絶対に見るって言い張るから」


 くっ! あのヤロウッ!


「あの動画はまだネットに存在するのか?」


「まさか。クラスの女子に協力してもらった動画だよ? 今となっては、谷口先生のパソコンの中にしか存在しないよ」


「それで、俺のスマホからアドレスも履歴も削除したんだな?」


「そうだね。あのパソコン以外からデータが出てくると困ったことになるからね」


「だから、あの朝、俺が学校に来るのを待ってたんだな?」


「優子が、図書館に来てって、メールしたよね? 動画を見たなら朝から来るだろうし、見てなければ昼に来ると思って、わたしと優子で分担したんだ」


「大原が、俺を女子トイレに連れ込んだのは、俺が勝手に動き回らないようにするためだったんだな?」


「そうだね。でも、あのとき、山崎が女子更衣室の前にいるのを誰かに見られると困るっていうのもあったんだけどね」


「谷口先生を盗撮犯に仕立て上げられないからな。もしかしたら、最初から俺を巻き込むつもりで声をかけてきたんじゃないのか? ほら、図書館の自習室で、大原が俺を探したとき」


「そうだね。あの日、学校に来ていた男子は4人。靴箱を見てわかっていたから、優子とまゆみと相談して山崎に決めたのは確かだね。劇の稽古のとき、わたしにキスしたでしょ? もし、途中でバレてもわたしが説明したら喜んで協力してくれるだろうって、みんなが言うから」


 そんなわけがあるかっ!


「最後の質問だ。昨日、プールに行ったのは、クラスメイトを学校から引き離しておくためだったのか?」


「それもあるけど、一番引き離しておきたかったのは、山崎、あんただよ」


「俺?」


「だって、学校で盗撮があったと信じている唯一の人間だからね。学校の調査が終わるまで変なことを言われると困るんだ」


「俺が?」


「そう。……盗撮カメラの箱に山崎の指紋が残ってるからね」


「残念だな。俺は箱にはさわってない」


「……穴を隠すのにバンドエイドを使ったでしょ?」


 そう言えば。


「バンドエイドにね。山崎の指紋がばっちり残ってる」


「もし、俺が、このことを学校か警察に通報したら?」


「この会話を録音でもした? やめたほうがいいよ。……山崎が疑われて、指紋を取られでもしたら、人生を棒に振ることになるよ」


「そっか。録音しておけばよかったな」


「そこまでしてかばいたいの? 相手は盗撮犯だよ?」


「やってないことの責任を取らせることを冤罪って言うんだっ! それは、許されないことなんだぞっ!」


「……冤罪ねぇ。学校での盗撮は起訴されないんじゃない?」


「なぜそう思う?」


「だって、今日、平成25年8月28日現在、学校での盗撮行為を罰する法律はないからね」


「そんなばかな」


「自分で調べてみなよ。東京都迷惑防止条例で盗撮が規制されているのは、公共の場所又は公共の乗物って書いてあるから」


「学校は含まれないのか?」


「そう言われてるね。条例はそのうち改正されるだろうけど。だから、山崎が心配するような冤罪事件は起こらないよ」


「じゃあ、なんで、そこまで」


「言ったでしょ。わたし達の目的は川村先生の復帰なんだ。刑事裁判なんて待ってられない。学校がすぐにでも谷口先生を懲戒解雇できるようにしたんだよ」


「谷口先生は現行犯逮捕なんだから、言い逃れなんかできないだろ」


「学校の理事会もそう考えてくれると嬉しいんだけどね。罪が確定するまで処分保留とか、起訴されても在宅や保釈で学校に出てくるなんてことになったら困るんだ。でも、学校が今夜、説明会を開くことになったからね。懲戒解雇すると決めたんだと思うよ」


「……そうか」


『ありがとうね。山崎のおかげだよ』と言った清水優子の笑った顔が目に浮かんだ。


 あれは、そういう意味だったのか。


 すべては、こいつらの手のひらの上だったってわけだ。


 俺は、力なく敗北宣言をする。


「だとしたら、鉄パイプはいらなかったな。俺が学校に通報するって言い張ったら、それで言うことをきかせるつもりだったんだろ?」


「へっ? ……違うよ? いやぁ、わたしは言ったんだよ。山崎はそんなことしないって。でも、どうしても持って行けって優子が心配して渡してきたから」


「心配って?」


「ほら、山崎の家とか、部屋とか入っちゃったら。そのね。……わたしは信じてるんだよ。山崎はそんなこと絶対にしないって。……でもぉ」


 そこまで言われたら、さすがにわかる。


 こいつは、いや、清水優子は、俺が大原を部屋に連れ込んでレイプするって本気で思ってたってこと。


 あのヤロウ。どんだけ俺のことが嫌いなんだよっ!


 そんな俺を見ながら大原が頭を下げた。


「ただね、山崎。……わたしは、あんたの気持ちには応えられない。ごめんね」


「……俺は、別に」


「なら、いいんだ。……でも、ごめん」


 チクショーッ! なんか泣きたい。


「念のために、一応、聞いておきたいんだけど……なんで?」


「わたしはまだ何も成し遂げてないから」


「それは、陸上のこと?」


「それもある。……わたし、最近やっと人と正面から向き合えるようになった気がするんだ。これって、高校デビューって言うのかな? 優子やまゆみと一緒にいるだけで楽しいんだ。……だから、ごめんね」


 大原はもう一度頭を下げた。


 でも、その姿を見ていると、大原の声が聞こえたような気がしたんだ。


『コーチは、十代のうちは何を食べてもいいんだって言ってる』


『コーチは、レース前に減量して体重を落とし、レース後にたくさん食べなさいって、いつも言うんだ』


『コーチは、食事制限には反対なんだ。摂食障害とか、疲労骨折、運動性無月経の弊害で競技人生が短くなることをいつも心配してる。よく食べてよく走れ。普段から骨の貯金をしておけって、うるさいくらいにね』


『選手の体に気づかってくれるコーチなんだ。……といっても、本来ならコーチはスポーツ特待生だけを指導していればいいんだけどね。それでも、やる気を見せれば応えてくれる。わたし、この学校を選んでよかったよ』


 そうか。


 こいつ、本当に川村先生のことが好きなんだな。


 俺は、この日、俺の恋がずっと前に破れていたことを初めて知った。


 その夜。


 説明会から帰ってきた母が、学校の方針を教えてくれた。


 谷口先生は、現行犯逮捕されたことで犯人と断定、懲戒処分で解雇されたと。


 学校での盗撮画像は、写りが悪く、個人を特定できるものではなかったと。それから、マスコミが沈静化するまで文化祭は当面延期すると。


 そして、父兄と生徒に心配かけたことを謝罪するとともに、再発防止に向けて校内パトロールに取り組み、体育教師を含む全職員への指導を徹底すると。


 母の口から、川村先生の復帰や体育教官室でのパワハラについて語られることはなかった。


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