第10話 その道化師、ドナドナにつき
今日、俺は、オトコになる。
新宿駅構内を大原の手を握りしめて歩きながら、俺はそんなことを考えていた。
将来のことを決めるにはまだ早いかもしれない。
けれど、大原いずみの隣という、この場所を俺の中心に置けたなら、どんなことだってできそうな気がする。何者かになれるような気がする。
いつか目標ができたとき、たとえ届きそうにない夢だとしても、追いかけ続ける勇気を持てる気がする。
握る手に力がこもる。
前に振り出す足に決意がこもる。
大丈夫だ。
歌舞伎町二丁目への道のりなら、頭に入っている。
途中で食事をするなら、地下街のサブナードを通るのがいいだろう。
駅を東口方面に向かい、改札を出たら、地下街に潜ろうと計画を練る。そこなら、俺の好きなオムライス屋やステーキのお店に和食御膳のお店だってある。
大原は、食べるものに色々と注文をつけるけど、チキンステーキならいいんじゃないか? だめでも蕎麦屋、ドトール、スタバが軒を連ねている。
食事を終えたら、靖国通りの端の出口から地上に上がる。四季の路を抜ければ、そこはもう歌舞伎町二丁目だ。
途中でゴールデン街が右に見えるけど、大人になったら、大原と二人で行ってみるのもいいな。
戦後のまだ混乱期だったころにできた闇市がゴールデン街のルーツだ。今は文化人が集まるバーが多いことで知られている。狭く薄汚いカウンターの前に座らせたら、大原は顔をしかめるだろうか。
夢は将来に向かって広がっていく。
このまま、どこまでも歩いていけそうだ。
なのに。
俺の覚悟に水を差すように、大原は、俺の手を強く握り返して「こっちだよ」と、前に立って方向を変えた。
「そっちは!」
西口だ。サブナードではなく、デパートの名店街に向かっている。
しかたない。
食べたいものがあるのなら、そこへ行こう。
食べ終えたら、駅地下を歩いて東口に回り込んでサブナードに向かってもいいし、地上に出て新宿大ガード下をくぐって靖国通りに出れば、歌舞伎町は目と鼻の先だ。
こちらには、思い出横丁がある。
かつてはションベン横丁と呼ばれていたらしい。トイレがなく、お店から出たところで酔客が用を足していたことからそう呼ばれたと、父が言っていた。今は共同トイレがあるらしい。
こちらも、戦後の闇市がルーツだ。狭い路地に所狭しと提灯が並ぶ。
透明なビニールカーテンの端をめくって路地から店内に案内したら、大原は顔をしかめるだろうか。
父は、俺が二十歳になったら、そこで俺ともつ焼きを食べながら酒を酌み交わしたいと言っていたと、母が教えてくれた。
ごめん。父さん、母さん。
俺は、親よりも一緒に過ごしたい人ができた。
たぶん、そこに行くときは、大原と一緒に行く前の下見になる。
そんなことを考えているうちに、改札口を出て、地上を都庁方面へと進み始めた。
あれぇ?
戸惑う俺を引き連れて大原は歩いていく。
繋いだ手の熱さは、初体験の緊張からじゃない。けして逃がさないという大原の強い思いが表れたもの。
俺の脇を流れる汗は暑さが原因じゃない。いや、まだ夏だから暑いんだけど。違う。何かが違う。警戒心が先に立って冷や汗が止まらないんだ。
大原に連行されるように、いくつかの角を曲がり。
やがて。
見えてきたのは、立ち食いそばのイメージが強い富士そば。
えっ? 立ち食いの富士そばなんて見たことがないって? 立ち食いから始まったんだよ。富士そばの歴史は。
1号店は、渋谷109の近く、センター街と文化村通りの間にある。
四、五人しか入れないカウンターだけのお店だけど、富士そばファンにとっては、聖地ともいえる場所だ。
そんな富士そばの新宿西口店。
ホワ〜イ?
「お昼ごはんで山崎に散財させるわけにはいかないからね」
そう言って大原は笑う。確かにラブホ代は2時間の休憩で四、五千円はかかる。
だからといって、なにもこんなところまで来なくても。俺の財布、試していいんだぜ?
だが、ここは大原の心遣いをありがたく受け入れよう。
2時間じゃすまないかもしれない。もしかしたら、夢中になりすぎてお泊まりすることだってありうるし。
幸いにして、明日はまだ夏休み。
それなら、万全の体制で臨もう。
ラブホにはコンドームが2枚しか用意されてないと聞いた。薬局に寄って薄薄を一箱、買っておこう。
さすがに妊娠させるわけにはいかないからな。
俺が大学を卒業して就職するまでは、子供は我慢してもらおう。
それまでの間、安心安全に互いの体をむさぼり尽くそう。隅々まで晒し合い、敏感な場所を覚えて二人の歴史を刻みこむんだ。
さて。
券売機で大原が選んだのはもりそば。俺は冷し肉そばに温泉玉子をトッピング。豚肉と温泉玉子で精力の充実を図る戦略だ。長期戦に臨むのなら万全な兵站が必要なのは歴史が証明している。
薬局で買うリストに、栄養ドリンク2本が加わった。俺と大原の分ね。
券を受付カウンターに置いて、テーブルに陣取り、ダスターで軽く拭く。俺と大原の水をコップに用意していると、受付カウンターから番号が呼ばれた。
さすがは、先月、ついに国内100店舗を達成した人気の立ち食い蕎麦屋。
客を待たせないことに特化したサービスは安心のクオリティだ。
味だって悪くない。
こう言うと、名店の十割蕎麦の香りも蕎麦湯の濃厚さも味わったことがないのかと、あきれるやつらもいるけれど、それはもう趣味の世界の話だ。
蕎麦屋では、客は待つのが当たり前。通は、打ちたて、茹でたての蕎麦を待つ間、板わさや焼きのりといったつまみを肴にして日本酒を楽しむのだと、蕎麦は締めの1枚だと言うやつがいるけれど。
だけど、それはもう日常の食事風景じゃない。
食事を日常に組み込んでいない時点で、フランス料理のランチコースと比較すべきだ。
ランチに2時間もかけて楽しむ精神と、美味しい蕎麦を食べるために東京から高速を使って長野県の木曽福島まで車を走らせる狂気はどこかしら似ている。
それが悪いわけじゃない。
だけど、たとえば居住空間まで楽しめる高級車と、運搬という実用に特化した軽トラを比べるのは意味がないだろ?
自動車だから見てくれも気になっちゃうんだろうけど、軽トラを見て二の足を踏むやつは、料理にしても同じこと。
おそらくは、たった一つの価値基準しか認めない寛容性に欠ける生き方をしている。
そこに、揺るぎない評価を与えていくほど、日常からは遠く離れていく。本来の目的を見失い、腹を満たす以外の価値に傾倒していく。
そういう生き方が許されるのなら、それは贅沢なことだ。そういう生き方で自分を律しようとするなら、それは窮屈なことだ。
だけど、それは。
自分の心のうちからにじみ出た価値観なんだろうか。
他人がつけた評価を、あたかも自分の評価のように錯覚しているだけじゃないのか。
だって、俺は知っている。
蕎麦屋で待って食べるおいしさも、立ち食いでかきこむおいしさも、家で食べる母が茹でた蕎麦のおいしさも。
家で、たまたま袋麺を見つけて自分で作るラーメンなんか、最高だ。薬味がなくても不満などない。
だから、俺はあえて言う。
味、値段、気軽さ、提供する速さという点なら、立ち食い蕎麦屋は最強だと。
……富士そばに、正確には名代富士そばに、立ち食い店はほとんど残ってないんだけどな。
まあ、十割蕎麦を「じゅうわり」じゃなく、おしゃれに「とわり」と読んでるこの俺も、いつの間にかおしゃれ中毒の患者になっているんだが。
そんな俺の目の前で、大原がずずっと蕎麦をすする。よく噛んで飲み込んでいる。
すするのは蕎麦の作法だからいいとしても、のどごしを味あわないなんて、どうなの?
ヌードル・ハラスメントという言葉がある。麺類をすする音で、聞いた人に嫌な気持ちにさせることだという。マナー違反だとか。食べ方が汚いとか。
一方、すする派によると、汁が麺に絡みやすいとか、空気を一緒に吸うことで、鼻から抜ける香りを感じられ上、冷たい空気で冷ますことで火傷を防止するとか、すすることにも一応の理由があるという。
俺も、口をあけて食べるクチャラーは嫌いだが、蕎麦やラーメンをすするのを聞いて不快に思ったことはない。
たぶん、慣れなんだろうな。
大原のシンパである清水優子なんかは、大原のそんな食べ方を見て、かっこいいって思うんだろうな。
よく噛んでいるのも、咀嚼は体にいいんだよと反論するんだろうな。
こいつの砂糖抜き玉子焼きを食べられなかったくせに。
俺は食べたからな。
今日はさらにいろんなものをいただいちゃうよ。
取り返しのつかないところにも傷跡をつけちゃうよ。
だから。
気にしない。気にしない。
それでも、どうしても気になるのは。
ナポレオンが寝ている時に、チーズの臭いをかがされて「ジョセフィーヌ、今晩は勘弁してくれ」と寝言を言ったというヨーロピアンジョーク。
本当にそんな臭いがするの?
俺のイカ臭さとタメを張るレベルで?
体の隅々まで探索するのは次回にしよう。少しずつ、ゆっくりと互いを知っていけばいい。無理は禁物。匂いをかいでためらったことを知られたら、この恋は終わる。
今日は上半身と上半身、下半身と下半身、互いのカウンターパートだけのお付き合いにとどめておこう。
先は長い。
「ごちそうさま」
大原が食事を終えるのと同時に、俺も箸を置く。ごちそうさまと、二人のトレイを返却口に渡す。
さあ、いよいよだ。
大原が、俺の手を捕まえてしっかりと握りしめた。
こいつも緊張してるのかな?
初めてならしかたないよな。
その場合、男の責任は重大だ。
ロストヴァージンは、その後の女の子の性に対する意識を左右するからな。
がつがつせずに、優しく、壊れものを扱うようにそっと抱きしめよう。
あせらず、じっくり時間をかけて一枚ずつ花弁を開かせていこう。
だけど。
大原が進む先に見えるのは、都庁の高層ツインビル。そちらにラブホがあると聞いたことはない。
どういうこと?
その疑問は、あっけなく解消された。
着いたのは、外資系のシティホテル。
確かに、初めてはおしゃれなシティホテルのほうがいいよね。
俺も賛成だ。だって、二人の記念なんだから。
大原は、俺の手を引いてフロントへと向う。
「ビジターで」
大原のその一言でホテルスタッフはすべてを理解した様子を示す。
「こちらのエレベーターでどうぞ」とお辞儀して手を広げ、エレベーターの中に誘導する。
俺達が中に入ると、行き先階のボタンを押して外に出て、お腹の前で手のひらを重ね「ごゆっくりどうぞ」と再びお辞儀。
その次の瞬間にドアが閉まる絶妙なタイミングを狙った秀麗なパフォーマンス。
だけど。
俺の頭には疑問符が浮かんだままだ。
手慣れた大原の態度といい、ホテルスタッフの慇懃な態度といい、何かがおかしいと警報を鳴らしている。
もしや、大原は初めてじゃないのか?
いや、それならシティホテルにこだわったりはしないだろうし。
はっ! まさかっ!
大原は、清水優子か水越まゆみとホテルに来たことがあるんじゃ?
確かに、男とは初めてだけど、女の子をいただいちゃったというのは、ありうることだ。清水も水越も、大原に誘われたら断るわけがない。
やられたっ!
チーズの匂いがどうのとか言ってる場合じゃないっ!
徹底的に、大原いずみを俺色に染めなければ。
女に寝取られていたなんて冗談じゃない。
足の指先から付け根の奥まで味わい尽くし、俺から離れられなくなるくらいに愛情をたっぷり注ぎ込んでやる。
シティホテルには休憩タイムなんてない。今夜は泊まりに決定だ。
いや、待て。
そうだとしても、ホテルスタッフの態度が説明つかない。
そんなことを思い悩んでいるうちに、エレベーターが止まり、ドアが開いた。
「じゃあ、行こうか。みんな、もう待ってるから」
大原に促されるままにエレベーターを降りたが、俺は、これからどうすればいいの?
ルームキーももらってないし。
部屋番号も案内されなかった。
宿泊記帳すらしていない。
それに、みんな?
まさかの乱交パーティー?
酒池肉林は男の夢だけど、俺はそんなことを望んではいない。童貞にはハードルが高すぎる。第一、体がもたない。
それに。
薬局に寄るのを忘れている。
栄養ドリンクもコンドームも買ってない。
おい、おい、破廉恥すぎるぞ。
こんなの高校生の領分を超えている。
ホテルから警察に通報されちゃうんじゃないの?
「いらっしゃいませ」
廊下を進んだところで、受付カウンターから声をかけられた。
「こちらで受付をお願いします」とホテルスタッフから記帳を求められる。
「へっ?」
「山崎、ほら、記帳して」と大原が笑いを堪えながら台帳を指差す。
「これは?」
「プールだよ」
「ホテルに行こうって?」
「だから、来たじゃない。ホテル」
「プールだよね?」
「そう。ホテルのプール」
「一緒に初めてを経験しようって言ったよね?」
「うん。わたし、ホテルのプールって、初めてなんだ。山崎は、来たことがあるの?」
「……ないけど」
「そう? よかった。初めての経験だね」
「……もしかして、みんなって?」
「うん。クラスのみんな」
「もしかして、劇の練習をここで?」
「ん? わたし、山崎に聞いたよね。学校に行かなくてもいいかって」
「ホテルのプールで劇の練習をするとは思ってなかったよ」
「そう? 涼しくていいじゃない」
「俺、水着を持ってきてないんだけど?」
「大丈夫。ここで貸してくれるから」
受付のスタッフから声がかかる。
「予約は3時までの2時間となっております。水着はフリーサイズですが、お体に合わないようでしたら、お声がけください。交換させていただきます」
「ありがとうございます。山崎も早く着替えてね〜。みんな、もうプールで待ってるはずだから」
大原はそう言って背を向けた。
後に残された俺は、渡されたパンツとキャップが入った袋を握りしめて、大原のお尻を見つめている。
大原が角を曲がって姿が見えなくなるまで、そのお尻が左右に振られることは一度もなかった。
俺は、記帳を終えると、肩を落としたまま、男子更衣室へと入っていった。
更衣室にはまだ数人の男子が残っていた。こいつらには、ここに集まるようメールが送られたのだろう。
俺には届かなかったメールが。
からかうにしてもひどすぎるんじゃないか? これはもう、いじめだよね。
喜び勇んでいた1時間前の俺を殴りたい。目を覚ませって。その女の言葉を信じるなって。
何が目的なのかは知らないが、俺一人が仲間外れにされたのは間違いない。
「くそっ!」
腹立ち紛れにズボンを床に叩きつける。
そんな俺の憤りに気圧されたのか、残っている男子が俺のことを遠巻きに見ている。
だが、いつまでもここにいたら、負けたような気がする。
こんなときこそ、顔を上げろ。
俺は胸を張る。
負けてたまるか。
今は、プールに向かうのみ。
俺は水着に着替えようとパンツに手をかけた。下着を脱ごうとした。
黒のビキニブリーフを。
実力以上にもっこりを主張する最強の防具を。
ふと、まわりを見渡した。
ここにいる男子は、全部で10人。
つまり、クラスの男子全員。
ええっ?
なんでこっち見てるんだよっ!
俺は、あわてて前を隠すと、サニタリースペースへと走った。もちろん着替える瞬間を隠す未使用のバスタオルを取るためだ。
こんなハッタリをかましたビキニブリーフをみんなの前で脱ぐ勇気なんて、俺にはない。
ましてや、ビキニブリーフがすでにクラス中の男子の注目を集めていたなんてわかるわけがない。
そして。
この日を境に、クラスメイトの男子達から、陰で「もっこり」と隠語で呼ばれるようになったことを、俺は随分経ってから知ることになる。
ちっくしょーっ!
もう死にたいっ!
死なないけどっ!
だが。
そんなことを知る由もない俺は、先陣を切ってプールへと向う。
男子達と一緒にいても、話すことなど何もない。こいつらは、俺にメールを回そうとしないことに与した時点で、清水優子の手先だ。
清水優子、マジ許すまじ。
それが大原いずみと相談した上の行動だとしても、俺を孤立させたのは清水だ。
俺は、ドアを開けて仁王立ちになる。
ここでうつむいたら、いじめはひどくなる。多少のことでは、俺はへこたれない人間だということを見せつけなければならない。
そんな俺の目に飛び込んできたのは、女子達がきゃっきゃうふふと戯れながら、台本読みをしている光景だった。
縦20メートル、横8メートルの小さなプールサイドに腰掛けて脚をバタバタさせながら、台本を片手にセリフを暗唱している。
そっか。台本、完成したんだな。
俺には何も教えてくれなかったけど。
よかった。
俺の台本が無駄にならなくて。
高い天井からは陽光が降り注ぎ、窓辺に立てば、この高層階から新宿を見渡せる明るいプールサイド。
観葉植物と居並ぶデッキチェアがリゾート感を盛り上げている。
泳いでいる女子がいない分、まるでハリウッドの豪邸を使ったロックスターのプロモーションビデオみたいだ。
女子達が、紺色のレンタル水着に白い水泳キャップを身に着けていることには目をつぶろう。
ここはパラダイスだ。
「みんなーっ! 今回の劇の原作者、山崎くんが来たよーっ! 拍手ーっ!」
大原の声に、女子達がきゃあーっと歓声を上げて拍手で迎えてくれると、それだけで嬉しくなる。顔がにやけるのを止められない。
「今回の功労者だからね。山崎は」と、大原が隣のデッキチェアを叩いて勧めてくれる。
「いや、俺は特に……」
歓声に応えようとするが、言葉が出てこない。舞台はまだ始まってもいない。なのに、この騒ぎよう。何か裏があるんじゃないかと勘ぐらずにはいられない。
大原に騙されていたことを、俺はまだ覚えてる。
忘れたりはしない。こいつの股間と俺の股間がマッチングするまでは、絶対に。
それでも、歓声を無下にできない小心者ゆえに、片手を上げて応え、さっさと大原の隣に座る。
「ありがとうね。山崎のおかげだよ」と清水優子までもが破顔して迎えてくれる。
……俺、清水にそこまで喜ばれることはしてないはずなんだが?
けれど。
そんな疑問は、次々にプールサイドに現れた男子達を迎える声でかき消されていく。
「何やってんの〜」
「早く、早く〜」
「遅いぞぉ〜」
「ほらぁ、恥ずかしがらないでっ!」
「こっちにおいでよ〜」
「ふぁいとぉーっ!」
「「「「「「「いっぱーつっ!」
「「「「「「「きゃはははっ!」
女子達がけらけら笑う中。
照れ隠しからなのか、男子がプールに飛び込んだ。「飛び込みはだめだよ〜」と清水の声が響く中、女子達もプールに入って水浴びを始める。
30人もいるんだ。とても泳げるような状態じゃないけど、水面を叩いて、水しぶきをかけあい、誰彼かまわず頭から濡らすだけで、パーティータイムの始まりだ。
台本はプールサイドに放置され、男女入り乱れてのパラダイスに、俺も混ざって水をかけて「そぉれっ!」と声をあげる。
かけられた水しぶきから顔をそらして「やったなっ!」とお返しをする。
誰かと会話するわけじゃない。ただ歓声を上げ、水をかけあって遊ぶだけ。
誰も泳いだりはしない。その代わり、誰が一番最後まで潜っていられるか、勝負をした。
水中で変顔をして女子達を笑わせたりもした。「ウォーターボーイズ」のマネをして、シンクロナイズドスイミングを披露して爆笑を誘った。
このとき、俺はクラスの一体感を確かに感じていたんだ。
大原いずみが、笑いながら俺に水しぶきを浴びせてくるのを幸せに思っていたんだ。
時間がきてホテルを出ると、この夏のクラスの思い出になったと固く信じて、みんなとわいわい騒ぎながら新宿中央公園の中を歩いた。女子達といっぱい話をした。
「山崎くん、成績いいんだよね。今度一緒に勉強会をしようよ」に始まり、「将来は何になりたいの?」、「この夏、どこか行った?」、「野球に興味があるなら、東京ドームに行かない?」「後楽園遊園地とかいいよね」、「今、映画、何やってるんだっけ?」から、果ては「付き合ってる子はいるの?」、「どんな女の子が好きなの?」、「最寄り駅はどこなの?」と、随分と親しくなった気がする。
俺、本当に楽しかったんだ。
今まで生きてきた中で一番。
大原いずみへの恋心も、いいように騙された恨みも、笑って忘れてしまえそうに思えるくらいに。
やがて。
日が暮れそうになっていることに気づいた誰かの「楽しかったね。またみんなで遊ぼうよ」という声に誘われるように、新宿駅までの帰り道をくだらない話の続きを楽しみながら歩いた。
それぞれ別れの挨拶を交わして、家にたどり着くまで、ほっこりした気分でいた。
あたりは暗くなり、お腹もすいていたけど、最高の一日だったと信じて疑いもしなかったんだ。
だけど。
晴れやかな気分で家に着いた俺を迎えたのは、母の心配そうな顔だった。
「あんた、学校、大丈夫だった? 変なこと聞かれなかった?」
「なんのこと?」
「あんた、学校に行ってたんじゃないの?」
「行ってない。今日はクラスのみんなと遊んでた」
「そうなの? じゃあ、ニュースも見てないのね?」
「ニュースって?」
「あんたの学校の先生、駅で盗撮して逮捕されたのよ」
「えっ?」
「それで、明日の夜、保護者説明会を開くから来てくださいって学校からメールがきたのよ」
「説明会? なんで?」
「なんでって。……その先生、体育の先生らしいんだけど、学校でも盗撮してたらしいのよ。警察が学校に行ってその先生の私物を捜査していたら、パソコンの中から盗撮画像が出てきたんだって。それで、校内を探したら、女子更衣室でカメラが見つかったからもう大騒ぎ。しかも、そのことが夕方のテレビのニュースで流れちゃうし」
「テレビで?」
「そうなのよ。わたし達、親が知る前にテレビにニュースが出ちゃったから父兄から学校に問い合わせが殺到したらしくて。学校もうかつよねぇ。ほら、父兄の中にはテレビ局にお勤めの方もいるんだから。隠し通せるわけがないのに。それで今、マスコミが学校の前に押し寄せているのよ。……そうそう、生徒は当分の間、登校しないようにって」
「マスコミが?」
「あんた、うかつに学校に行ってインタビューに答えたりしないでよね」
「そんなことしないよ」
「そう? 信じてるからね?」
疑わしそうに俺を見る母親のことなんて、今はどうでもいい。
考えるべきは、今日の新宿駅での大原の様子。いや、ここ数日の違和感だ。
あのとき、新宿駅で逃げていた大原を捕まえたとき。「ゲームに負けたときのペナルティをまだ決めてなかったね」と大原がくるりと振り返って笑ったとき。
大原の後ろ、プラットフォームのベンチに誰が座っていた?
わらわらと人混みから出てきた男達は、何者だった? なんであのタイミングで現れた?
鬼ごっこを始める直前、大原は電話で誰と話をしていた?
大原がキャップで髪を、サングラスで顔を隠していたことに意味はなかったか?
たとえば知り合いから顔を隠そうとしていたとか。
疑いだせばきりがない。
学校で焼肉パーティーをした日、火災報知器のベルが鳴ったのに、俺たちのクラスはどうしてグラウンドに集合しなかった?
グラウンドに体育教師が集まることを知っていたんじゃないのか? もしかして、体育教官室を空にするためだとしたら?
あの日、清水も大原も理由をつけて、どこかへ行ったけど、もしも全部が計画的だったとしたら?
今から思えば、清水からのメール、本当に誤送信だったのか?
あの動画、本当は誰がアップしたんだろうか? いや、今も存在するんだろうか?
大原が俺のスマホから清水からのメールを削除し、動画を検索できないようにしたのは、理由があったんじゃないのか?
あの日の朝、女子更衣室前で大原に会ったのは偶然だったのか?
俺を女子トイレに連れ込んだのは、俺が勝手に動き回らないよう行動を制限するためだったんじゃないのか?
いや、そもそも、大原が図書館で勉強していた俺を探したのには、何か隠された意図があったんじゃないのか?
もしかしたら、俺は、図書館で会った日から今日までずっと、大原の手のひらの上で踊らされていた?
だけど、なんのために?
思いは千々に乱れ、考えはまとまらない。
でも、確かなことが一つだけある。
大原いずみは、今回の逮捕劇と無関係じゃない。
それは。
大原が女子更衣室での盗撮を学校に知らせようとしなかったことから明らかだ。
大原は犯人が近いうちに捕まることを知っていた。でも、どうやって?
まさか。
今日のプールも、クラスメイトを学校から引き離しておくためだったのか?
いくら考えてもわからないことばかりだ。
ただ。
もしも、もしもの話だが。
大原達が何か仕組んだとして、無実の人が罪に陥れられたのだとしたら。
俺は、絶対に大原いずみを許さない!
それは、義憤とか同情からじゃない。
怒りだ。
ただの私怨だ。
好きになった女の子が不正を働いた。そのことに対するどうしようもない無念さからだ。
このままだと、俺は、大原いずみの顔をまともに見ることができない。
いや、女性不信になりそうだ。
だから、俺のするべきことは──
❏❏❏❏
翌朝。
ネットニュースの片隅に、高校教師による盗撮事件の記事が掲載された。
《8月27日午前11時30分頃、新宿区のJR新宿駅構内で、都内私立高校に勤務する34歳の男性教諭が20代女性を盗撮したとして、警視庁新宿署が東京都迷惑防止条例違反の疑いで現行犯逮捕していたことが、同署への取材で分かった。
新宿署は余罪があると見ており「捜査に支障がある」として、認否や当時の詳しい状況を明らかにしていない。
なお、容疑者が勤務する高校の校長は、取材に対して「驚いている。容疑が事実であれば大変遺憾である」と話している。》
記事には、学校での盗撮については一切触れていなかった。