イデアの遺伝子
煤けた月が、何色でもない不動の空にぽっかりと穴を開けていた。
凝固した光に照らされた道は、熱なく空洞的な安心感に満ちている。私はそんな無垢な景色をぼうっと眺めながら、盲目的に帰路を辿る。扉を前に、私の掌には鍵があった。ドアノブに挿し込む噛み合った感覚が、酷くなつかしい。
洞窟の様な廊下を抜けた先の居間では、つきっぱなしのテレビが煌々と壁を照らしていた。その画面は、美味で悲劇的な世界図をポルノの様に騙っている。消し忘れていたのだろうか。チカチカとパターンを持って繰り返されるその暗闇に、驚きはなかった。漠然と、波紋が境界線を超えて伝わってゆくように、私は自然とその景色を受け入れていた。
テレビの光が当たる壁をじっと凝視していると、時間の流れが早くなっている気がする。普遍的な変化の潮流の中でそれは、まるで永遠の様にすら感じられた。ふと背後の暖かな空気に気づくと、外は既に朝へと塗り変わっていたのだった。窓から差し込む陽光が、潺々と全てに熱を行き渡らせる。希望にも似たそれに私は目頭の熱を覚える。救済、薄暗い部屋に差し込むわずかな陽は、そうとしか形容のできない情景だった。
血の通わぬ光を見飽きた私はテレビを消し、窓の外を眺める。視野いっぱいに広がるその景色に見覚えはなかったが、そこには私にとって幼年期を過ごした自室の様な親しみがあった。葉は太陽に手を伸ばし、降り注ぐ光に溢れんばかりの喝采で応える。花は満面の笑みを咲かせ、根は大地をしっかりと踏み締めている。そして種は脈々と、私まで続いていた。
羽化する様に景色は移り変わる。全ては循環を続けている。私はその都度それを思い出し、私が私であることを思い出す。夜を跨いで、意識をすり替えて、その度に再定義がなされる。それは卵から孵ったにも等しい実感だが、私は土に還る実感もないまま、ただ、今という点線上を動いていた。
私たちはそうだった。日付変更線を越えるたび、新しい過去と未来が生まれた気がした。蝋燭の火を吹き消すたび、大人になる気がした。同じものを見聞きし、手を繋いでいると思っていた。無限回のその確認によって、世界がつくられていた。客観があると思っていた、意味があると思っていた、価値が実在すると思っていた。かたちを得た価値は巨大な流れを作って、フラクタルな循環系の中に新たなシナプスを作っていた。そこで私はあの居間の冷たいテレビの声が生まれた理由を思い出し、全ての因果が逆巻いていた過去を思い出した。
そうだ、それは全て証明不可能な過去の記憶だった。そして、対応した今が想起され始めるにつれ、朦朧とした憧憬が無慈悲に引き剥がされてゆく。弛緩した世界がほどけるにつれ、私の五感が刻まれていった。
今や瞼や肉体の感覚が全て失われたころ、全ての最小単位である私が、これが夢であったと思い出した。
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神話の時代、塔の崩壊が人々の繋がりを破壊した事と同様に、或いはそれそのものとして、我々の世界は崩壊した。同じ景色を見、同じ声を聞き、誰しもが平等に太陽に照らされていた世界を生きるあの幻想は泡沫と消えたのだった。私は再確認する様に反芻する。ああ、目が醒めてしまうのだ。
夢から醒めた私はひとりだった。あたりは面影をなくし、変わり果てた景色のまま、夢にまでみた世界を否定するかたちで現実を表していた。
全身の毛が逆立つ様な歪な衝動が沸き立ち、私は吐き気を催す。夢から放り出された私の輪郭は、ぐにゃぐにゃとまるで無重力に曝されるように揺れ、私はそれを朝だと認識した。全身から溢れる涙の様な感覚に耐えながら、私はすがる様に記憶をなぞり始める。私が私を再定義する。変化に耐えられなかったものが行う、古びた伝統的な習慣だ。
ある日何の前触れもなく、世界が崩壊した。つまり、すべてのものたちがある瞬間にそれまでと違う状態へと変化してしまったのだ。いや、私はあの時から変わらずに存在しているし、空も大地も重力も太陽も変わらずに存在を続けているのだろう。だが、それらのものがそれまで通りに認知することができなくなってしまった、という訳だ。
元来この世界はある一貫したものが成立していると言ってなにも問題のない世界だった。それが、今ではほとんどのものが見るたびに姿を変える。例えば空に広がる巨大な光が見えたとして、それが太陽なのか月なのか、それともただの錯覚であるのか見分けることができない。さらに言えば、それは空ではなく歪んだ大地であるかもしれないし、或いはそのどちらでもないのかもしれない。身体感覚も異常を示し続ける。痛みもそれが傷の証明などではなく、私でないはずの虚空より痛みが走る事さえある。既に私は、自己の状態を測る術も失っている。
現在は0と1、原始的な刺激のみを手がかりとして、わずかな理解を編み上げることだけが生きる手段の根底にある。
いったいいつからこの様な状態になってしまったのか、私には測る術がなかった。体感時間というものは一定ではない。そもそも、我々は時計やカレンダーなど、自らの外側にあるものに頼り過ぎてしまっていた。目を瞑ればそれらは等しく過去であり、再び目を開けることがなければ、記憶の中で磨耗し、薄れてゆく。だが、鋭く咲き誇った印象というものは色褪せずに残り続ける。それこそが今、私と定義されているものにして、正常と認識されているものなのだ。
そこは薄緑色のマーブリングに染まった暖かな袋小路で、理解不能な不協和音がうねっていた。昨日、私は人気のない道の角に隠れるように寝転がったのだ。過去と今の継続を信じ、そしてアクシデントを考慮しなかった場合、私は道で就寝し、同じ道で目覚めたということになる。
あの正常な世界を信じる私、ないし、それを信じた私が昨日を生きたことを信じる私は、内側から駆られるように立ち上がる。あたりは薄緑色からオレンジ色に変化し、刺々しい空気を孕んだ。外気に抵抗があるということは、私が意思を持ったということだ。
人は食べなければ吸収と代謝の循環が断たれて、死ぬ。系が崩壊すれば、より大きな系の循環に巻き込まれる。人は地球に還るのだ。それが全て幻想であったとしても、共通的な世界を信仰する私はその法を遵守しなくてはならない。私はその全てを総合する。つまり、私は今空腹で食物を求めているのだ。身体感覚が奪われた今でさえ、餓死というリスクは重々承知している。それだけだった。その今を牛耳る根拠が全て過去の産物でしかなかったことが、残念でならなかった。
仮定を信じて、私はその道を歩く。いつか無限遠点にて理解が実ることを期待しながら。もしかしたら、私が生まれた最初のときもそうであったのかもしれない。失われた仮定に名残惜しさを覚える。それが、私には、何故か理解とは違う救いがあることの証明の様に思えたのだ。
現在とは、未来のその何かに駆られて動いている。
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昼か夜かの判断は簡単だ。情報量が多く、体がざわつく方を昼とすれば良い。或いは、ユークリッド空間の把握が困難でないなら大体が昼だとも言える。全てが素通りする世界の中で、私は思考を遊具の様に回し始める。
人は認知のおよそ八割以上を視覚情報に頼っているらしい。つまり、太陽が我々の目に多くの世界を与えているときは昼であり、情報が著しく多い時は逆説的に太陽が登っているときであるという訳だ。答え合わせはできない。ただ、現状はその様な状態を昼、そしてその状況を作る仮想的な存在を太陽と呼んでいるだけに過ぎない。
そう考えたところで、私はふと空を見上げる。そこでは色の着いた虚空が、全てを覆い尽くしていた。
結局のところ、閉め切った脳の中でつまらない結晶が生まれただけだった。この程度の構造など、この変わり果てた世界に限った話ではないのだ。どんなときでも見出せるものを明言することで、時間を稼いでいるだけ。期限もわからないまま、延々と。
この新世界では、継続した存在はないと言っていい。全てのものが変容を続け、ある一つのものを定義することができなくなった。昨日落ちていた石は今日も同じ石であるはずだが、今では目にしている間すらもそれは変貌を続ける。音も、匂いも、色も形も。痛みや言葉すらも定まらない。今私が目を開いているのか閉じているのかも、直接的に理解する術はない。私の何らかの意思と連動して八割程の情報入力が断たれたとき、はじめて私は自分が目を瞑ったことを悟るのだ。
感覚の劣化は、記憶の劣化を産んだ。継続があるからこそ、時間を超えてものとものが結びついていた。いつの間にか、自分の内側に記録をする習慣が抜け落ちてしまった。良質な記憶の欠如こそが崩壊以降の世界をより不安定に彩っている。全てが正しくあった気さえするあの正常な世界は、つい昨日の様である一方、永遠にも等しい遠くに感じられる。いや、それどころか、実在したのかすら確かではないのだ。確かなものなど、一つとして存在はしない。
それでも私は記憶の中で、共通的な世界をあの日瞼の中で泡沫に浸っていたその瞬間まで信じていた。
思惟を手放した瞬間、輪郭の内側が目まぐるしくかき回される。濁流のなかで、私はケロイド状に膨れた瞼を掻き毟っていた。知覚世界に1が止めどなく増え始め、気がついた時、1の収束はわたしのかたちを成していたのだった。
この瞬間、無と有は明瞭に透き通って存在していた。浮かび上がった影を、私は手を伸ばしてすくい上げる。脳裏の私は、人のかたちをしていた。その姿を私はヒトと呼んだ。
一つ確かなことがあった。私は、この世界でまだ人と出会っていない。私という実在が、人間の実在性に寄与できるかどうかは疑わしいが、私は人を群体として知っていた。
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目まぐるしく落ち続け、泳ぐ様にかき分けて、有無の境界と私とを重ねていた。結局私が今歩いているのかなど、本当の意味ではわからないものだ。現実と世界と私と記憶、その一つ一つが絶望的な断絶をもって結びついている。本物とはあるものであって、見出だそうとして知るものではない。繋がりとは見落としがなければ成立せず、我々は完全から部分を拾うことしかできないのだ。そして不完全であるからこそ、我々は常に前を持つことができたのだ。
独房の様に澄み渡ったなかで、ゆらゆらと面影が揺れていた。内側から呼応するように、その斜陽に像を重ねていった。寄り添っては別れて、繋がっては消える。見落とし、見出だし、溺れ、拒絶し、忘れ、思い出し、広がり、狭窄し、パターン化再パターン化され漸近、多くの欠落とともに多くが創発する。
星の一生という概念は、多くの星を時系列的に繋いで作られた。原初のもの以外は架け橋を持っているものだ。私は私の死を、無意味の突出として偶発的に創造されたものではなく、多くの人を繋げてそれに共感することで生まれたものとして扱う。なぜなら有意と無意の選択は、常に可能性を否定しないものが選ばれるべきだからだ。そして私の探しているものは、常にそちら側にあった。
死を恐れるものが人の実在性を疑問視することは、まず無い。人から独立した死のみを信仰するものはもとより人としての生を持たないものだ。
この世界での死を悟るとともに、私は自己の生を強く意識した。孵化にも等しい羽化は弱々しくも強い意思をその瞳に映している。それは眼球という器官が失われていたからこそ、未知の神経として機能を始める。これまで無意味に素通りしていたパターンが、意味を携えて可覚化されてゆく。0と1の羅列はなだらかに、これまで空想することでしか得られなかった空間を描き、その知覚は地平線まで続いた。五感が蘇ったわけではないため旧世界の様な整然さは得られないものの、新世界の情報形式に則った新たな感覚器官が構築されたと言っていい。
そのフィルターを通して世界が私に入ってくる。原始的な世界は、文明の崩壊を体現して凋零磨滅。それまで見えていなかった±0達は沈黙こそ雄弁にと語りかける。空白の中では多くの命が混乱に呑まれて息絶えていた。変化はある意味において過去殺しであること、破壊と創造は表裏一体であること、アポトーシスの当事者は常にその意味を抱けないことが不意と思考をよぎった。意識は廻りながら、更に遠くを観ることで閉じた円環を拡大する。そうだ、私は螺旋を見出さなければならないのだ。終わらぬ輪廻転生の輪ではなく、連環のなかで一歩一歩前進する何かを、今を。
私の輪郭が拡大していると言っても良いこのミクロコスモスの神経系は、ビッグバンを証明するかの様に知覚世界を再び組み上げていった。太古の記憶でそれはステレオタイプとも呼ばれていた。そしてそれは今空想のものではなく実存として扱いを改められている。細胞が、血流が、葉脈が、電子が、意識が、情報が。一切合切が緻密に世界を埋め尽くし、私は生の衝動をありありと感受する。
その刹那、薄く伸びた知覚のその遠くで膨大な存在が脈動する。それは点在し、偏在し、私はその正体を悟ると同時に、まるで赤子のころに感じる様な原始的な歓喜に震えた。
ヒトはこの世界に実在する。
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私は力いっぱい走った。見えぬ手足でまだ見ぬ大地を蹴りながら、幻が消えてしまわないように、最も近くの集団へと走り寄った。私の脳は、何を話すべきか、そもそも意思疎通は図れるのか、私と同一形式の知覚を保有しているのか、などと疑問を呈していながらも希望の光へと迷わずに手を伸ばしている。
文明を失った人はさながら親を失った子の如く、文明を求めて新たな親になる。そんな展望が私を貫いて突き動かしていたのだ。
しかし、そんな興奮も次第にその一団の様子を識るごとに冷めていった。彼らは争っていたのだ。最初はなんらかの衝突を知覚するにとどまっていたものが、次第に悪意を浮き彫りにさせてゆき、最後には一人の個体が一切の信号を発さなくなった。絶命したのだ。彼らは共食いをしていた。食料を得られない極限状態を超えた先に、最低限を最大限欲する怪物が生まれる。彼らは悪意によって満たされ、命をつないでいる。
私の足取りは既に失われていた。透過される様に見える世界で、同じ悪意がごまんと取り囲み、悪臭を放ち、私は自分が狙われていることを理解した。世界を多く知覚するものが、知覚するだけのものを先導し、何も見えないものを襲う。時には他の群れも襲い、最低な自己保存の為に人を食い物にしていた。それが今、意図を私に向けて動きを変えている。
全ての悪夢が覚めることを願いながら、私は逃げ出した。遠く遠く、人のいない場所を目指して、宛てもなくただ一心に何もない場所を求めて走り続けた。縄張りがあるのか彼らはすぐ私を追うことをやめていたが、彼らの巣に積み上げられた死体の山を想像して、私の足は一層力を増していた。
文明の黎明期とはあんなものだということを理解してなお、私はそのあり方を受け入れられなかった。戦争を競争に置換し、安定をもって争いのステージをマクロに落とし込む。我々はその上で無垢に胡座をかいて、虫も殺せなくなっていたのだ。弱肉強食も適者生存も、全ては代謝の一形態だ。変容する渦のなかで容器が中身を入れ替えながら、その役割を入れ換えてゆく。フラクタルな循環回路。先兵か否かのグラデーション。旧世界も新世界も変わらない。あのころの我々は麻痺していたのだ。
走り続けた果てに、私の足は動かなくなった。広がった視野は現実のもとで再び狭まり、何も理解できない0と1の狭間へと帰ろうとしていた。意識も含めた全身が結晶化し諦観に甘えていた。私の体はきっと傷だらけで疲れ果てているのだろう。体の異常を感じながらも、私にはどうすることもできなかった。
餓死。脳裏に一つの意味が浮上する。世界が崩壊してから、私は水すらも飲めていない。そうだ、時間がきたのだ。
いまここで、死にたくないと思える私は、この世界にどれほどの愛着を持っているのだろうか。慣れるほどに浸れたとは思わない。失うのが惜しいほどになにかを成し遂げたのか、それとも失われる未来に悔いを感じるほどの可能性があったのか。そのどれもが、私には滑稽な欺瞞に思えた。
ゆらりと広がっていた知覚は、熱を失うように萎んでゆき、私の脳裏からも光が失われてゆく。
最後に残った輪郭を、0の波が埋め尽くそうとしていた。
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いつかの創発の果てに存在した我々は、繋がり、夢、叡智というかたちで私と共存していた。
全ての最大単位である我々が我々を忘れ去る。気がついたとき、私はひとりだった。
徹夜六時間で自分の美的感覚にのみ従った結果、人に読ませることを考慮していない、尽く分かりづらいテキストが生まれました。
これは一つの私の集大成で、二度と踏んではいけない轍なのでしょう。
ここまでたどり着いた方は、本当にお疲れ様です。後読了ありがとうございました。
今後は普通に面白い作品を作ることを研究して行きます。また、会えることを楽しみにしています。






