八話 流れる雲をかき分けて。
アエル・バフロスと名乗った少女は、家名からして間違いなくこの家の者だ。
アルエはそう気付いたが退こうとはしなかった。
「ええと、今何してんだ……してるんですか?」
幼い頭で懸命に考え、彼女との距離を詰めようとする。
必死に様子の彼に、アエルは口元に手を当てて微笑む。
「無理に言葉を綺麗にしようとしなくても良いわ。ただ、わたしのことはアエルって呼んでね」
片目を瞑り、首を少し傾ける。
その言葉は、少女が幼い頃から置かれてきた境遇が関係しているのかもしれない。
公爵家の娘として鍛え上げられ、周りには同年代の子供が居ない。そんな中突然現れた少年は、少女にとって不思議で興味深い存在であった。
特に名前が気に入った。アエルとアルエ。なんともいい響きではないか。
「わ、わかった。アエル」
「うん、それでいいわ。アルエ」
だが生来勝ち気な少女はそういう素振りを全く見せない。
「で、わたしがこんな所で何をしているか、だったわよね」
「うん」
こくりと神妙に頷いた少年がおかしくって、そんな大層な理由じゃないわよ、と少女は笑いながら答える。
「ここで花を眺めていたの」
手元の白い花たちに目を落としながら、それでも失われない少女の明るさに、少年は再び顔を赤らめる。
「へえ。楽しいのか? それ」
少年は何気なく訊ねたつもりだったのだが、それは少女の心を少し、ほんの少しだけチクッとした。
「まあ、それなりにね」
「ふぅん、オレはもっと楽しいこと知ってるぜ!」
少女の興味を引こうとする少年は、そんな事を言ってみる。
「どんなこと?」
「山をヤマウサギと走り回るんだ! すごいんだぜ、アイツら。ちっこい身体でオレの何倍も速く走れるんだ」
「そう」
少女の顔が僅かに翳りを帯びる。
「それは、楽しそうね」
少女の心中を察せなかった少年は楽しそうに喋り続ける。
「それでさ……」
十数分後、喋り疲れた少年は少女とともに空を見上げていた。建物に囲まれた四角い空は、どこまでも広がっているはずなのに何故か少女には狭く感じられた。
四方を壁が遮っていても、風は空から訪れる。
少女の処女雪の様な髪を春の風がふんわりと持ち上げる。
幻想的な一瞬を、一生忘れまいと自身の頭を抱え込む少年。
何やってんだと冷たい視線を送る少女に気付かなかったのは、果たして幸運なのか。
顔を上げた少年が、どこかから自分を呼ぶ声に気付いた。
「やべっ」
自分が抜け出してきたことを思い出したのである。
「お、オレ、今日はもう帰るぜっ」
勢い良く立ち上がった少年に、眠気が一気に吹き飛んだ少女は目を柔らかくして、
「ええ、また明日」
その言葉に、少年は目を輝かせた。それは、つまり。
「おう!」
てってって、と花を踏まないように元気良く駆けていった少年の後ろ姿を見て、少女は顔をフッと綻ばせた。
それがアエルとアルエの最初の出逢いだった。
翌日。
部屋から抜け出していた事がバレたアルエは母にこっぴどく叱られ、自宅謹慎を言い渡されていた。
謹慎とは言っても、新居に荷を運び込んだり、整理をしたりと、こき使われることになるのだが。
アルエを一人にしていると間違いなく脱走するので、ルカが常時見張っている必要がある。
彼らの新居は貴族街のやや市民街寄りの場所にある。バフロス公爵家から、約十分程度とかなり近いのは、公爵が新居を手配したからだ。
前に住んでた家と比べれば大分大きいんだけどなぁ……。
アルエは昨日入った公爵家と比べ、その格の違いにがっかりする。片や王都の大貴族。片や貧乏男爵家なのだから比べてはいけないのだ。
ところで新居とは言っても新築ではない。所々から時代が窺える。
母の監視の元で朝から手伝いをしながら、アルエは脱走計画を練る。
隙を見て近くの開いている窓から逃げようと考えたアルエは、母の隙を窺う。
………………。
全然隙がない!?
「コラっ!」
「ヒッ」
「何をぼーっとしてるの!? まさか……アンタまた逃げようとでもしてるの?」
「ち、違う違う」
顔をブルンブルンと激しく横に振るアルエ。だがルカは長年培ってきた母の勘というヤツで嘘を見抜き、目を細める。
「へーえ。なら、いいけど」
アルエを泳がせ、尻尾を見せたところを捕まえる算段だ。
その後、アルエは黙々と働き――内心文句をぐーたら垂れていた――あっと言う間に昼になった。
「うん、この調子だと明日には終わりそうだね」
午前中の作業の成果を眺め、満足そうに頷くルカ。それを見たアルエは、
今だっ!
「じゃあ昼食にしようか」
急ブレーキ。
駆けだしていたアルエは一瞬で釣られた。
テーブルと椅子は備え付けだった。一家もそれらは馬車で持ってくるには大きかったから持ってきていないので、かなり助かった。
アルエとウェストが椅子に座ってから五分。たったそれだけでルカは昼食を完成させた。ちなみに男爵はここにはいない。なんでも偉い人に呼ばれたということで、王城へと入城しに行った。
「ねえ、アルエ」
席に座ったルカが唐突に声を掛けた。
「何? 母さん」
「アルエも学院に行きたい?」
「学院?」
「そ。貴族の子供たちが勉強をする所。ウェストも明後日から編入するんだけど、アンタはどうする?」
ウェストが顔を上げて弟と通えるのか、と一瞬期待したのだが、直ぐに落胆する。
「オレはいいや。勉強とか、嫌いだ」
ルカはその答えを予期していたように、特に驚きもせずに言う。
「そう。心変わりしたら言いなさい」
「そんな事ねぇよ」
ははは、と笑いながら、アルエは言った。
同日。午後二時頃。
「あの……、アエルに呼ばれたから来たんだけど、入れてもらえますか?」
聞く者が聞けば言葉遣いがなっていない! と勢い良く注意されるであろうアルエの言葉だったが、幸い応対した門番は優しかった。
年輩の男は、アルエの顔を見て直ぐにピンときた。鋭い目を光らせて、
「おや、君は昨日の……」
「はい、テルンムス男爵家次男、アルエ・テルンムスです」
名乗りくらいはきちんと出来るらしい。これも母の教育の成果か。
「やはり。それは構わないのだが、少年。アエル様、もしくはお嬢様と呼びなさい。でないと示しがつかない」
「わかっ……りました」
辿々しい言葉遣いだが、門番はそれで許し、アルエを通す。
「お嬢様は中庭にいらっしゃる筈です。では、ご緩りと」
アルエは彼に礼をして、小走りで少女の元へと向かう。
幸い、誰にも咎められることなく、中庭の入り口に着いたアルエは、顔だけ出してそっと庭を見る。
…………居た。
小さなカフェテーブルと日傘の下で、お嬢様らしい華奢な椅子に座り、本を読んでいる。
黄色のワンピースに身を包み、髪を水色のリボンで括っているので、少し昨日とは雰囲気が違う。
その姿を確認した少年は安堵する。もしも居なかったらどうしよう、と内心ずっと不安だったのだ。門番から居るとは聞いていたものの、やはりその姿を見るまでは安心できなかったらしい。
何度見ても息を呑む可憐さ。目を疑うような儚さ。少女は顔を出したまま固まっている少年と目が合った。
「あら、そこにいるのはアルエかしら」
隠れて覗いていたのがバレ、少々気まずく思いながら少年は身体を出す。
「よ、よお」
ぎこちなく片手を上げた少年に、少女は本をぱたんと閉じ、嬉しそうに微笑む。
「本当に来てくれたのね」
「まあ……」
少年は、また明日って言ってたからな……と口の中でもごもごと言った。
「そちらに座ってもいいのよ」
立ったままの少年を見て、少女はテーブルを挟んだ空いている椅子を指した。
小さなテーブルで向かい合う、少女と少年。
長閑な春の一場面。
「なあ、アエル様」
「……ねぇ」
その言葉に、少女は裏切られたような顔をする。そして不愉快そうに、
「わたしはアエルって呼んでって言ったわよね。どうして『様』なんて付けるの?」
「それは……その。門の所に居た人がそう呼べって」
少女はそれを聞いて、安心と呆れを混ぜた溜め息を吐く。
「今日の今頃はフィンじいね。……仕方ないわ。じゃあこれから他に誰も居なかったら、二人きりだったらわたしの事は呼び捨てにして。それ以外の所だったらしょうがないから『様』を付けていいわ」
「わかった。アエル」
少女は満足げに頷いた。
「ところで、さっき何を言おうとしていたのかしら」
「あ、ああ。何の本を読んでるのか気になって」
「これ? これは……あ、そうだ」
少女は両の手を胸の前で組む。
「アルエも学院に行くわよね?」
「学、院」
少年は、母さんもそんな事言ってたな、と思い出した。それまで頭の片隅にすら残っていなかったので、思い出すのに少し時間が掛かった。
「そう。明後日が始業式だから、ちょっと勉強の本を、ね」
表題に『アルカーナ王国史』と煌びやかな字体で書いてある本を少女は少年に見せた。
少年は目を逸らしながら、
「お、オレも勿論いくぜ」
「それは良かった。じゃあ同じ学級にしてもらうよう言っておくわ」
少年の頬を冷や汗が伝う。ヤバい、このままだと嘘がバレる。
「ア、アア、チョット急用ヲ思イ出シタノデ一旦帰リマス」
少年は一時撤退をする事にした。
「フフっ。じゃあまた後で」
立ち上がりながら変な声音で喋った少年に少女は軽く吹き出し、片手を振りながらそう言った。
「おう!」
元気良く? 走り出した少年が居なくなった後、少女は少し寒くなった気がした。それは今までに感じたことがない類の寒さだった。
家に戻ったアルエは母に拳骨を落とされ、次には土下座をしていた。
「ごめん、母さん! オレも学院に行きたい! 行ってもいいよな!?」
たったの数時間で何があったのか、と目を丸くするルカだったが、困惑しながらも承諾する。
「ウェストの分をこれから申請しに行くつもりだったから、別に良いけど……」
「良かったぁ」
アルエは心からの安堵の息を洩らした。
そんな息子の変わり様をますます奇妙なものを見る目で見ていたルカだった。
「なんか、これ変な感じだ」
「ちょっと硬いけど慣れたらきっと身体に合うんだろうな」
翌日、父が新調してきたウェストとアルエの制服を二人は着ていた。
サイズは急ぎだったのでオーダーメイドではなかった為、少し裾に余裕がある。が、この年頃だとあっと言う間に大きくなるので丁度良いだろう。
アルエはそれまで着たことがない、硬い服に背中をむずむずさせている。一昨日公爵家で着せてもらった服は、貴族の物とはいえ、普段着の範疇を出ないので、この制服ほどではなかった。
一方ウェストはと言うと、こちらはかなり落ち着いている。年齢か、はたまた長男の自覚故にか。ウェストは母の教育に真面目に付き合い、勉強面で言えば今ではもう母よりも賢くなってしまった。彼は途中編入と言った形だが、直ぐに馴染めるだろう。
白を基調として、金色のボタンが六つ。いや、十二。肩と左胸に藍色で国章が描かれている制服。
かなり初々しい。
「寸法は合っているみたいだね。よかった」
まだぎこちない二人を見て、男爵はうんうんと頷いた。
「はいはい、終わったら着替えて。残りの荷物を片づけるよ」
ルカは手を一回軽く鳴らしてからそう言った。全員解散。
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