三話 指の隙間から大切な何かが零れていく。それはきっと、
年中変わらぬ乾いた風が、草木が一切生えていない荒野を駆け抜ける。
草木がないのに、それでも風が吹いているとわかるのは、ソラのケープの裾がたなびいているからだ。
彼は今、少し小高くなった丘の頂上に立ち、ぼーっとしていた。
いや、ぼんやりとテルンムスが見せた『詠唱魔法』について、考えていた。
そもそも魔法とはなんなのか。
一般的な意味で言うと、それは『魔』という概念によって、世界の全てを九つに区分し、理解する試みである。
神、エレキドによって創造されたその概念は、主に幾何学模様によって表現される。
だから誰でも使える魔法である『汎用魔法』は、九種の色を持った幾何学模様が、陣――魔方陣を描き、事象を顕現する。
しかし、『詠唱魔法』は違う。
『詠唱魔法』は選ばれた者にしか使えず、しかもその人数は非常に少ない。十年に一度、世界に一人、出てくるかどうか。
『詠唱魔法』とは、神話の一節である。神々の偉業を言葉で伝え、その力を一瞬、ほんの僅かだけ借りられる。
少し話が逸れるが、神話とは詰まるところ神々の物語だ。
彼らが為した事柄を語っていくだけの、単純な話集だ。
この世界の十柱の神々の名は、
時空を司る神、エレウス
大地を司る神、アルキド
大海を司る神、ハルカ
森林を司る神、トクトルス
風雷を司る神、エレイン
陽と生を司る神、フュー
陰と死を司る神、シド
火炎を司る神、ユウト
聖を司る神、ノクロルス
魔を司る神、エレント
という。
さて、ほんの僅かな神の力の顕現とは言え、それでも神の力の一部なのだ。途轍もない力を孕んでいる。
更に、『詠唱魔法』の行使に代償は無いので、語り部は【英雄】として、歴史に名を刻んできた。
テルンムスが詠った神話は『陰』の神、シドのものだった。
【観測者】の目的は、『世界の記録』に、全ての神話の節を集め神話を完成させること。そして、その先、世界の、神々の謎を解く事だ。
もっともソラに謎を解くつもりは無い。なぜなら、ソラのような若い者は神話を集める係。その後は長老達の仕事であるからだ。
だからソラは神話の内容についてではなく、あの魔法の効果について、思い返していたのだ。
巨大な月――本物とは比べるまでも無い大きさであったが、間近にあったので、まあ巨大でいいだろう――が生まれ、消えた。あれは質量を持っていない。
『死』という概念そのものだ。
そしてソラは神話の一説を思い出す。
『死ぬという事は生きたという事』
あれに呑まれて死ねば、僕も生きたという事になるのだろうか、と。
そう、想像してしまった。
陽には薄い雲がかかり、地面の赤銅色は更に暗くなっていた。
数多の天幕が立ち並ぶアルカーナ王国の陣地。その中でも一際大きく、豪華な一つ。そこに、アルエ・テルンムスは居た。
彼が書いているのは、昨日使用した『詠唱魔法』についての報告書。
中央から『詠唱魔法』を使うなと言われていた彼の言い分はこうだ。
誰一人殺していない。
そもそも禁止されていた理由が、帝国軍を本気にしてはいけないからだった。攻勢に出ては破綻する、という。故に、今回彼が行ったのはあくまでも牽制だ。攻めてきたら『詠唱魔法』を使うぞ、という。こちらもあちらも被害は零。更にこれからの損害も軽減される可能性大、と。素晴らしいじゃないかとテルンムスは自賛する。
どうせ王都の馬鹿共が何かいちゃもんを付けてくるだろうが、そんなことより兵士達の命の方が大切だ。知った事じゃない。
だが、まあ、半ば勢いでやったことは否定しないが。
だからテルンムスは少しだけ、ほんの少しだけ後悔している。
「団長! お客人がお見えです」
もう耳に入ったのか。あまりにも早くないか?
訪ねてきたのは大方中央の貴族だろうと思っていたテルンムスは、首を捻る。ここから王都まで、早馬であっても一週間程度は掛かるのだ。もしかしたら違うのかもしれないと、テルンムスは兵士に質問する。
「誰だ? 一体」
「その、団長のご友人だと言う方が。ティービーだと伝えれば分かるとの事です」
テルンムスがその名を聞き、思い出したのは、懐かしい友人の顔。そういえばもう十年以上会っていないのか、と一人感傷に浸りかけ……そこで兵士に声を掛けるのを忘れていたことに気付く。
「……ああ、あいつか。通していいぞ」
ティービーを待つ間、テルンムスは友人――それもあまり良い友人ではなかった。悪友、というか一方的に巻き込まれていただけのような気がする――を思い出す。
最後に会ったのはあいつが退団する前だから、十二、三年前か。
思えば随分と久しぶりだ。良い感じに歳をとっているのだろうな、と少し期待をする。
「団長! お連れしました!」
「ああ」
入り口の布を豪快にかき分け入ってきたのは見た目は二十半ば位の男。赤い髪がその真っ白な騎士服に映えている。
「よお、久しぶりだな」
片手を上げてそう挨拶した男に、テルンムスは驚愕する。
「ティービー……外見が全く変わってないな。まるで、昔のままだ」
「ハハ、久しぶりに会って一言目がそれかよ。そういうのは女性に言う言葉だろう? お前は随分とまあ……棘が抜けたような雰囲気しやがって」
ティービーは机の前に用意された椅子に座りながらそう言った。
その一言を理解しなかった、しようとしなかったテルンムスはスルーして話を続ける。
「それにしても何故今日は? お前は確かどこかの伯爵家に仕えている筈だろ?」
アルカーナ王国騎士団団長としての威厳ある顔ではなく、ただの男として親友と話すテルンムスは、久方ぶりに肩の力が抜けたように見える。
「いや、何。旧友との親交を暖めに行くって言ったらラフロス様は簡単に許してくれたぜ」
「その言い方じゃ、他に何か目的があるって言ってるようなものだがな」
テルンムスはまったく、変わっていないな、と苦笑し、嬉しくなり、寂しくなる。
自分だけ取り残されたような気がしたから。
彼は昔から奔放な性格で、テルンムスが羨ましく感じる瞬間が沢山あった。
「いやいや、別にそれ以外の目的は無いこともないが、それが殆どだぞ」
「あるのかよ」
「まあな。だが嘘は吐いていないから問題はない」
「問題だらけだよ。で、何が目的だ?」
「だからさっきも言ったろ? お前に会うためだって。元気そうで何よりだ。お前の噂は王都でもよく聞くぞ? なんでも英雄将軍? あの頃のお前からは想像もつかないな。とんでもなく美化されてるのかと思いきや、そうでもないらしいし。さっき陣中を歩いてるときに兵士たちが皆誉め称えていたぞ。『あの方について行けば間違いない』『英雄将軍さえいれば勝てる』一体何をしたんだ?」
ぺらぺらと饒舌に喋るティービーに口を挟めなかったテルンムスは、若干照れた顔で、
「その、昨日『詠唱魔法』を使って帝国軍の総攻撃を追い払ったんだよ。勿論無傷で」
そう言うテルンムスは、どこか自慢げだった。
「そ、そうか。やっぱり凄いな、お前は」
「そういうお前は最近どうなんだよ。全然話を聞かないが」
当たり前だろう、とティービーは苦笑する。
「お前は王国騎士団団長で、俺は私騎士団の下っ端だ」
私騎士団。それは伯爵以上の殆どの貴族が持っている私有の騎士団だ。
「あの時はお前がこんな事になるなんて思わなかったよなぁ」
騎士見習いに同時になったあの時はさ、と。しみじみと当時を噛みしめるように、そう呟いた。
「俺もお前も推薦枠だったから、てっきり同時に退団すると思っていたんだが」
あんな事になるなんて。
テルンムスの頭の中で、その言葉が虚しく響いた。
思い返したくない。思い出せない。
何を言っているんだ? こいつは。
止めろ、止めてくれ。
「じゃあ俺は一旦出るわ。暫くはここにいるだろうから、よろしくな」
「あ、ああ」
立ち上がり、そう言ったティービーに、テルンムスはそう返すしかなかった。
「じゃあな」
入り口にいた兵士に手を軽く上げて、ティービーは去っていった。
そしてテルンムスが真っ青になった顔を隠しながら兵士に言う。
「暫く誰も入れないでくれ」
「はっ? その、誰もですか?」
「ああ、少し一人になりたい。君もだ」
「わ、わかりました」
兵士は少々戸惑いながらも、彼ならば、テルンムス団長ならば問題ないだろうと思い、外に出ていった。
ああ、ああ、ああ。
言葉にならない呻き声を、テルンムスは天井を見上げながら出した。
腕を目の上に置いて、見上げ続ける。
彼の目の縁から涙が一筋垂れた。
絶えずソレが私を見ている。
どこまで逃げても気付けば私の隣に居る。
どれだけ無視しても諦めずに私を睨む。
まるで私を嘲笑するかのように。
まるで私に贖罪させるかのように。
何度謝っても赦しは貰えない。
赦しを乞う相手がもう居なければ、永遠に赦しは貰えないのだから。
どこまでも澱んだ世界の中で、私はいつまでも溺れ続ける。
ごめんなさい。
その言葉は誰にも届かずに、暗い世界の底に吸い込まれていった。
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