二話 夢の中で夢を見た。ここはどこなのだろうか。
ソラが【観測者】の一族として生まれたのは、約十六年前のことだ。
両親は分からない。【観測者】になる上で、知る必要がないからと、教えられることはない。母親の代わりに、子供を育てる役割の人がいて、同時に生まれた子供と三人で育った。彼らが、ソラの家族だ。照れくさいので口には出さないが。
【観測者】としての義務を十全に果たすための訓練を受けた彼らは、十五歳から里を出て、それぞれ分かれて行動を始めた。
『世界の記録』というものがある。
文字通り、世界中で起こったあらゆる現象を記録しているのだ。ありとあらゆる現象。自然現象から人の軌跡に至るまで、本当に何でも記録されている。もっとも世界の誕生以前のことは分からないのだが。
【観測者】は『世界の記録』から記録を引き出すことが出来る。ソラが先ほどテルンムスに対して行っていた行為はこれだ。
このように一見万能にも思える『世界の記録』だが、自動で記録できない事象が二つだけある。
その一つが『詠唱魔法』なのだ。
【観測者】の存在理由は、その『詠唱魔法』を記録することにある。
それだけの為に、彼らは存在している。
この人の『詠唱魔法』が未記録のものだったら良いんだけどなあ。
ソラは目の前で不思議そうな顔をしているテルンムスを見ながら、そんな事を考えていた。
もし外れであったとしても、彼の趣味・・を満たすことは出来るからあまり問題はないが、やはり『詠唱魔法』を記録することが義務なのだから、それは果たしたい。
「【観測者】というのは何か、訊いても良いか?」
その質問をしている途中でテルンムスの頭をよぎったのは、前団長から聞いた話の一つ。彼らが国を滅ぼしたとかいう事だ。テルンムスだって、一騎当千どころか万を相手にしても勝つ自信はある。だが、国を滅ぼせるかと言われればそれは不可能だと答える。それが出来ていたら、とっくにこんな長い戦争は終わらせている。
「言うなれば、ただの観測者ですね」
テルンムスはその答えに、ソラにはまともに答えるつもりはないと判断した。ソラとしてはそれ以外の答えを持っていないので、真面目に答えたつもりではあったのだが。
「……そうか。何度も訊くが、本当に邪魔はしないんだな?」
「ええ、勿論です。貴方を観る以外には、決して何もしません」
テルンムスはその即答を受けて、少し考える。自分だけで判断しても良いのか。危険な存在であるならば、一応王に知らせるべきではないか、と。
「……わかった。君がこの陣地に居ることを認めよう。だが、王より禁止されれば、その時は追い出すことになると思うが、構わないな?」
「ええ、ただ、アルカーナ王国ならば、まず問題ないでしょうけどね」
自信満々に頷くソラに、テルンムスは怪訝な顔をしたが、いちいち訊いていては話が進まないので、無視して続ける。
「私を見る、ということだったな。それは常に私の側にいるという事か?」
「基本的にはそうですね。ただ、嫌ならば、貴方が戦っている時――『詠唱魔法』を使う時だけでも構いません」
「……わかった。君の天幕はこちらで……用意しておこう」
テルンムスは言葉の合間に、ソラたちの後ろで待機していた兵士に目線で合図を送り、彼を送り出す。
「ありがとうございます」
「帝国の動きがきな臭くなってきたら伝えよう。今のところ、我々から撃って出るつもりはないのでな」
疲れきった顔でそう言ったテルンムスに、ソラは少し同情するかのような表情を見せた。
「……では僕は一旦失礼します」
ソラの天幕を確保しに行った兵士が戻ってきたので、確保し終えたのだろうと解釈したソラは、そう告げた。
今の短い間で仕事を終えた兵士は、軍のトップに付けられるだけあって優秀なのだろう。やけに怯えていた姿が印象に残るが、それだけでは無かったという事だ。
案内された天幕に入ったソラは、テルンムスが居たそれに比べて明らかに等級が落ちたことに落胆する。
「まあ仕方ないか」
ソラが、簡易ベッドに腰掛けながらぼやいた。ただ、寝床と屋根があるだけ、野宿とは大違いなので、口とは裏腹にそこまで不満は抱いていない。
ケープを脱いで、楽な姿勢になったソラは、目を閉じ、眼を開く。
そうして趣味と実益を兼ねた『世界の記録』の閲覧を始める。
『世界の記録』には、この世の殆どのものが記録されている。だが、それらはディテールが粗く、精細に記録されているのはほんの僅かだ。そしてその僅かは、【観測者】が記録したものである。
だから彼は寄り道をする。
遠回りをする。
より多くのものを記録する為に。
より多くの人を生かす為に。
これが彼の生きる道――人生だ。
私はとある男爵家の次男だった。
ただの辺境の貧乏貴族の出だった。
それが、私が生まれて十二年が経った頃のこと、父がいきなり中央に異動させられたのだ。明らかに異例の出来事で、当時は父への当たりは強かったらしい。
もっとも、父がその有能さを実績で示し始めてからは、誰も面と向かっては言わなくなったらしいが。
その分と言っては変かもしれないが、妬み嫉みの矛先は、息子である私に向けられるようになった。
私は同世代の子供に馬鹿にされ続けるのが辛くて、それならば私も何かを磨こうと思った。
それが私にとっての剣の道であった気がする。
幸いにも、私には類稀なる才能があったらしく、気付けば剣一本で王国第二騎士団副団長の地位まで上り詰めてしまっていた。
そして私が得られたのは、何故か虚無感であった。
私はそれを気のせいだと思うことにして、日は流れ、いつの間にか【英雄】になっていた。
御蔭で私に友人と呼べる存在は殆ど居らず、この歳になっても結婚すらしていないのだ。
まあ私は次男なので、気にしていないが。
これが、私がこれまで歩いてきた道――人生だ。
ソラがこの地で起こったことを観終えて目を開くと、目を閉じる前は白かった天幕が紅くなっていた。
傾いた陽が、行き交う兵士たちの顔を真っ赤に染めている。
ソラが外に出ると、そこにずっと立っていたのか、兵士が一人、礼をしてきた。恐らくは監視役だろうとソラは当たりを付ける。
「お出かけですか?」
「うん、この陣地を観て回りたくって」
「見回り、ですか」
兵士の顔が不審の色を帯びる。彼はソラを、【観測者】のことを教えてもらっていないので、目的が分からない。もっとも、【観測者】のことを深く知っていても、ソラの目的はわからなかっただろうが。
「気になるなら将軍さんに伺ってみたら?」
ソラがそう提案すると、兵士は不承不承といった感じで、通りかかった他の兵士を呼び止め、
「なぁ、悪いがこの人をちょっとかん……見ていてくれ。直ぐに戻ってくる」
「え、あ、ああ。わかった」
やっぱり監視役だったか、とソラは苦笑する。
フィリップ。【英雄】テルンムスに憧れ、志願兵となった。小さな戦功をあげ小隊長に任命された。
ソラは流れるようスムーズに、情報を『世界の記録』から読みとった。
フィリップはテルンムスに報告しに行った兵士が戻ってくるまで、遠慮なしにソラのことをジロジロと見ていた。
そして三分後、ようやく戻ってきた兵士は、フィリップに、
「悪い、もう行ってもいいぞ。それとソラさん、ある程度なら自由に動いて良いって話です。ただあまり変なことはしないでほしいとのことです」
「わかりました。ありがとうございます」
テルンムスはどうやら自分のことを信用してくれているらしい、とソラは思った。目を真っ直ぐ見たのが効いたのかな、とも。
兵士は引き続き天幕の前に立っているらしい。
ソラは兵士に背中を見送られながら、どこかへと消えていった。
陽が落ちた。
陣地から少し離れた小高い丘。
「彼らは『生きている』」
陣地の中で忙しなく動き回る兵士たちを眺めながら、誰に向けたわけではない言葉が、噎せ返った。
「正真正銘、この世界に『生きている』。本当に、羨ましい」
最後の一言に含まれた感情は……
それは悲しみ? いや、違う。
あれは妬み? いいや、違う。
その感情は、苦しみだ。
「僕は、僕たち【観測者】は『世界の記録』に残らないんだ。誰一人として」
胸の内の靄を吐露していくソラを誰かが見たならば、必ず胸を打たれるに違いない。どこまでも切実で、稚拙で、儚い彼の存在に。
「『世界の記録』に残らないものは、いずれ消えてなくなる。だが彼らは違う。『世界の記録』に残り、いつまでも『生きている』。僕は生きていない」
しばしの静寂。風がピタリと止み、薄くなった空気に声が響く。
「僕は死んでいる」
言い終えたソラは、どこかすっきりとした顔で、
「だから僕は彼らを生かしたい。より精細に、精緻に、彼らの人生を記録するために僕は世界を放浪する」
自分が死んでいる事なんて、気にしていないとでも言いたげに。
彼の本心はここにはない。
心を、夢を、希望をどこかに置き忘れてしまった。
それを取り戻すことはきっと出来なくて。
ソラは軽薄に嗤った。
白い天幕の天井――夜の闇に呑まれかけているそれを見ながら、ソラはテルンムスの事を思い出し、興奮していた。【英雄】を実際にその目で初めて見られて感動していた。
彼にとって【英雄】とは幼いころから『世界の記録』で見続けてきた雲の上のような存在だったのだ。
早く眠りたいのに、眠って水に流したいのに全然眠れない。ソラの高ぶった頭は、冷えてくれそうにない。
いつ『詠唱魔法』を見られるだろうか。あるいは、その先も――
この染血盆地は、毎日血が流れている訳ではない。それこそ二日に一度、少ないときには一週間以上戦闘が起きないような事もある。
停滞した戦線が動かないのには、訳があった。
帝国側としては、あまり攻めすぎるとアルカーナ王国から本格的な反抗を喰らう可能性があるという事。帝国は他に二つの戦線を抱えており、国力が周辺敵国の中では最大の王国に本気になられては困るのだ。それならば最初から手を出すなと言いたいところだが、出してしまったものはしょうがない。ずるずると引きずる内に、講和も非常に厳しくなってしまっている。
王国側としては、帝国に攻め込むわけにはいかないという事。攻め込んだとしても、一時的には優勢を保てるだろう。しかし、帝国の圧倒的な物量の前には敵わない。帝国の一方面軍だけで精一杯なので、そこに更に中央軍や手すきの南方軍まで加わってはまともに勝てるはずがないのだ。
様々な両国の事情が絡まり、この大東戦線は、もうかれこれ十年以上維持されている。
そんな状態を、アルエ・テルンムスはあまり面白く思っていなかった。彼がアルカーナ王国第二騎士団団長になって早六年弱。日々すり減っていく若者たちの命。数にしてみれば二桁程度かもしれないが、それでも悔しいものは悔しい。
彼らの人生を、未来を思うと早く決着をつけたいと思ってしまう。だってテルンムスにはその力があるのだから。
やろうと思えば、帝国軍を一人で相手出来るかもしれない。彼がそれをしないのは、国から厳重に『詠唱魔法』を使うのを禁止されているからだ。
『詠唱魔法』を使えない【英雄】か。なんとも皮肉なものだ。
とテルンムスはしばしば自嘲する。
抑止力になるという点では十分に活躍していると言えるのだが、いかんせんその効果が分かりにくい。
そういう訳もあってストレスを溜めているテルンムスだったが、慌てて駆け込んできた伝令からの報告を聞いて声を上げる。
「帝国軍の本格的な攻勢だと!? 規模は!?」
「や、約五万、ほぼ全軍かと思われます」
直接戦闘に関わる兵を、ほぼ全て投入してきたらしい。何の前兆もなかったのに、明らかにおかしい。
「奴等……何を考えて……? まぁいい、全軍に戦闘準備をさせろ。少々厳しくなるかもしれんな」
顎に手を当て、俯きながら険しい顔になるテルンムスだったが、直後何故か顔を明るくし、空を見上げる。
「あの、どうかされましたか?」
「良い作戦を思いついた。巧くいけばこちらの損害は零に出来るかもしれない」
陣地から少し出た所に布陣したアルカーナ王国軍。そしてその最前列の漆黒の馬に乗るアルエ・テルンムス。
今の彼は威風堂々という言葉がぴったりとくる、まさに将軍と言った様態で、見る者全てに安心感を与える。
長い間起こっていなかった大規模な戦いだが、王国軍の兵士達に動揺があまりなかったのは、彼の功績だろう。
じわじわと迫り来る帝国軍を眺めながら、テルンムスは目を閉じていた。集中していた彼は、帝国軍が彼が言った距離まで来た事を隣にいた騎士に肩を叩いて教えられ、目を再び開いた。
距離は約二キロ。攻撃に用いられる『汎用魔法』が届かない、ギリギリの距離だ。
そして彼は低い声で詠い始める。彼にとって随分と久しぶりだったが、問題なく、彼の胸の奥から湧き上がってくるようにスムーズに詠い始められた。
同時に、彼は無意識の内に首元に手を伸ばす。嘗てそこに在った大切な何かを握りしめるかのように。
「『シド記:第一節:彼は最も謙虚であった:
陰と死を司る神 その名はシド
彼は十柱の神の中で最も謙虚であった
彼は陽が生まれた後に月を創った
この世界に夜を生み出したのだ
彼は月を生み出した後 世界を負の生命で満たした
相反する二種の生命は混ざり合い この世界に生と死の廻りを生み出した
其れが為に今の我々が在り 彼女と彼が訪れなければ今もこの世界には一つの生命も生まれていない
:夜が集まり月と成る 死ぬという事は生きたという事』」
彼が詠い始めた直後から、両軍の間に生まれた地を覆う陰。それは純然たる『陰』であった。何物も通さない陰。何物にも染まらない陰。光を呑み込む陰。
両軍から聞こえてくるどよめきに、テルンムスは陰の操作を以て答える。
帝国軍の兵士が矢を撃ち込むが、それは陰に呑み込まれ、一片すら残さない。魔法使いが炎の槍を飛ばしたが、結果は同じ。
呑み込んだ光を糧として陰は脈動を始め、そして広がっていた陰は一つに纏まり――月を生み出した。本物の月と大きさは比べるまでもないが、目に見える大きさとしては、こちらの方が何万倍も大きい。
誰もがその圧倒的な、まさに神の御業とも呼ぶべき事象に呑まれている中、一人だけ冷静さを保持していた人物が居た。
ソラだ。
ソラはテルンムスから『詠唱魔法』を使うという連絡を聞いて、直ぐにテルンムスの元へ向かい、今は彼のすぐ側に待機し、詠唱を聴いていたのだ。
「シド記の第一節か。内容は予想されていた通りだったな。でも当たりだったから良い。さて、新しい情報は無いが、まあいいだろう」
その声は、月の操作に全神経を傾けているテルンムスには聞こえていなかった。
陰から生まれた月は、ゆっくりと上昇し、百メートル程でぴたりと停止する。
そして帝国軍の中心付近まで近づき、ふっと消え失せた。
途端に、張りつめていた緊張が弾け、帝国軍は我先にと逃げ出し始める。指揮官がいくら声を上げてもその波は止まることなく、瞬く間に帝国軍は居なくなった。
誰一人として居なくなった敵軍を見て――味方の大将が『詠唱魔法』を披露して、沈黙していた王国軍から、どこからともなく歓声が上がり始め、気付けばアルカーナ王国第二騎士団団長、アルエ・テルンムスを誉め称える即興の合唱で一杯になっていた。
『詠唱魔法』を終え、意識を戻したテルンムスはそれを聞いて苦笑する。そして、確かに彼は、今の自分に酔っていた。
これがアルエ・テルンムスの今の姿。今の立場。今立っている道。通ってきた跡を決して振り返ろうとしない、彼の道。
時折、同じ夢を見ることがある。
どこか知らない場所で、知らない少年と少女が遊んでいる夢。
彼らはとても楽しそうで、見ていて微笑ましい夢だ。だが、何故か胸のどこかが苦しくなる。
自分も交ざりたいと願うが、それはもう、決して叶わない願いである事を、心のどこかで悟ってしまっている。
だから夢から醒めた後は、いつも直ぐに忘れている。
諦めている。
だが、また同じ夢を見たときに思い出すのだ。
何度でも、何度でも。
これは彼の過去の夢。
もう二度と手に入らない、夢の話。
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