二十四話 アエルとアルエ
欠落した魔法は何も成さずに解けていった。
それを観たソラの唇の皮が破れ、一筋の血が垂れる。
失敗の要因を考える。
目を閉じること数秒。ふとその脳裏をある考えがよぎった。
「罪には赦しが必要だ」
ソラは呟いて、確信に至る。それだ。それしかない。
ならば、アルエ・テルンムスを赦すのは誰だ?
決まっている。それが出来るのはアエル・バフロスだけだ。だがもう既にアエル・バフロスは亡い。
しかし、人は命を落としたとしても、魂がある。
「…………魂が残っている可能性ならば、あるいは」
人が死ねば、魂は【陽】と【陰】の神の元へ誘われる。だが、あまりにも強い心があれば、魂が留まり続ける事だってある。
「……賭けてみるか」
ソラの身体と精神はただでさえ魔法の酷使でボロボロになっているのに、更に鞭打とうと、決心する。
「運が良ければ寿命が数十年削れる。運が悪ければ……」
それならそれで仕方がないと、ソラは思う。だって、今から挑戦ことが成功すれば、きっとアルエとアエルの役に立てる。生きていない――『世界の記録』に残らないような自分でも、人の役に立てるのだ。
「最適な魔法を……『詠唱魔法』は……これだ」
過去の【英雄】が詠んだ魔法を『世界の記録』から引き出す。まずは、都合の良い世界の構築。
「『エレウス記:第二節:自由な世界は此処には無かった
エレウスは永遠にも思える地獄に居た
終わらない苦痛
耐えがたい拷問
赦されない罪科
だから彼は願った
自由な世界が欲しい
辛い涙が流れない世界が欲しい
苦しみが無い世界が欲しい
笑い合える世界が欲しい
ちゃんと終われる世界が欲しい
彼は妹弟と共に逃げ出した
先が見えない旅に出た
いつか 自由な世界を手に入れられると信じて
:世界は何処までも狭く 我等は限りなく小さい』」
ソラが願うのは、魂が人の目に見える世界。小さな範囲で良い。というよりも、大きな世界は創れない。
心臓が悲鳴を上げ、右目の毛細血管が破裂した。最早治す手間すら惜しい。魔法を使う余裕がない。
ソラは無視して、右目を閉じる。【観測者】は両目が開いていなくても、『世界の記録』にちゃんと記録できるから、何ら支障はない。
さあ、次だ。………………。
ソラは口から地面に垂れた膨大な血に、暫し呆然とする。普段なら内蔵の損傷くらい分かるのに、興奮しすぎて気付かなかったのだ。
それに気付いた瞬間、身体が鉛のように重くなった。
一度瞬きをするだけで、泥沼の中を走るような倦怠感が全身を襲う。
一度息を吸うだけで、何十キロも全力疾走したような疲労がどっと押し寄せる。
もうとっくに、身体が限界だと叫んでいる。
…………でも、心が僕を急き立てる。
だから僕は進める。
もうちょっと、もうちょっとだけなんだ。
だから、僕は魔法を紡ぐ。
「『フュー記:第三節:生命賛歌
フューは力を手に入れた後 直ぐさまソレを試みた
絶対の禁忌
異端の象徴
死者の蘇生
嘗て愛した男と再び出逢う為に
ソレは半分成功し 半分失敗した
男の肉体は完全な形で戻ってきた
心臓は鼓動し 肺も動いた
だが その肉体には魂が宿っていなかったのだ
魂こそが人を人足らしめるのに 最も大切なものであったというのに
だから彼女は魂を求めようとした
だがそれは出来なかった
男の魂はとうの昔に輪廻に乗り 生まれ変わってしまっていたのだ
人を人足らしめるのに最も大切なものは魂だ
魂こそが私たちだったのだ
フューはそれを悟った後 心を喪った
:魂が為に我等は存在する』」
望んだ魂を引き寄せる魔法。ただし、神々の手元から連れてくることは叶わない欠陥魔法。しかし望んだ魂が地上且つ肉体の外に在れば話は別だ。
ソラが望んだ魂は、アエル・バフロス。
『詠唱魔法』は、望み通りの結果をもたらした。
ソラは次第に遠のく意識の中で、あたたかい銀色の光を知覚した。
何が起こっているのか、テルンムスにはさっぱり分からなかった。自らの人生を掛けた魔法が失敗し、茫然自失となっている所に、前触れ無く聞こえてきた『詠唱魔法』。聞き覚えのある声音で途切れ途切れに――息を詰まらせながら吐き出すように詠われた魔法は何も起こさなかったように見えた。ただ、強烈な何かの存在は感じられた。
二度目の『詠唱魔法』を少年が詠っている間に、テルンムスは何かに引き寄せられるかのように脚が勝手に動き、近付いて行ってしまった。そちらに行かねばならない、と頭の中で、何処かで聞いた事があるような声の誰かが囁いていた。
その誰かは、自分と良く似た声だった。
テルンムスがソラの作った世界に入った瞬間、それは起こった。
発光。
テルンムスの胸元が眩しく光り、現れた質素なネックレス。それに明らかに後付けされたと思われる一部が赤黒く染まった白いリボン。それを見て、熱い涙が一気に溢れてしまった。
それはいつの日かなくしてしまったと思っていた彼女の形見。
涙が自由に垂れることを厭わず、なくしてしまった大切な物を再び抱きしめるような手で、リボンを撫でる。そして訪れた、再びの発光。柔らかく、優しい銀色の光。
気付けばそこに、彼女が居た。
あの頃と全く変わらない姿。すっかり歳をとってしまった自分と比べてしまう。
だが、そんな事よりも先に、様々な感情が込められた声で訊ねる。
「なんだ、ずっとここに居たのか」
それは十八年分の後悔と罪悪感と自己嫌悪が詰め込まれていて、更に十八年ぶりにその姿を見られた喜びが微かに含まれていた。
少女は寂しそうな表情になり、そしてゆっくりと唇を動かす。それをテルンムスは固唾を飲んで注視する。
「ええ、そうよ」
テルンムスは安堵と絶望に拉がれながらも、懸命に言葉を紡ぐ。
「そう……か。どうして……いや、彼か」
近くで仰向けに倒れている黒髪の少年を見て、全てを悟る。二つの『詠唱魔法』を使い、再び彼女と逢わせてくれたのだ、と。胸は上下しているから、生きてはいるらしい。
「久しぶり、だな」
テルンムスは止めどなく溢れてくる感情を堪えるように、
「俺は……ずっと……」
涙の跡を残す彼に、アエルは優しく、聖母のような微笑みを湛えて返す。
「だいじょうぶ。ずっと見てたもの。ちゃんとわかってるわよ」
一度は止まったテルンムスの、青年の涙腺が再び決壊する。だから彼は途切れ途切れにしか言葉を言えない。それでも言わなければならない言葉があるから、謝らなければならないから。
「約束、守れなくて、ごめん」
いつか、二度と破らないと誓った約束。
謝罪の言葉を飾る意味はない。言葉というのは心を伝えるためにあるものだ。だから、主人と騎士という二人の間には、余計な言葉は要らない。むしろ、邪魔にすらなる。
アエルは苦笑するように、ばつが悪いように言葉を返す。
「仕方ないなぁ、もう。それに、わたしも悪かったわ。あんな酷い事を言ってしまって、ごめんなさい。あ、あれはもちろん全部でたらめだから。本当よ」
アルエは直ぐにそれを思い出した。二人が交わした最後の会話。交わしたと言うより、一方的に言葉をぶつけられた、あの時を。
「もう、気にしないでくれ。ただ、その。俺は馬鹿だから、さ。言ってくれなきゃ分からない事もあるんだ。だから、『次』はちゃんと言ってくれ。頼む。そしたら俺も『次』は最期までアエルを守れるから。アエルが泣いている時には絶対助けられるから」
アエルは自身の最後の手紙を思い出す。泣きながら書いたあの手紙。涙が垂れて文字が読めなくなってしまっていたが、書き直す時間もなかった上に、もう一度書いても同じ結果になっただろう。
「……ええ、分かったわ」
これで、贖罪は成った。アルエ・テルンムスとアエル・バフロスが己を責める理由もなくなった。
だから、もう。
「ああ、そうだ。今度一緒に何処か遠くへ往こうぜ。国とか、人とか、そういう面倒な全部から離れた所へ、さ」
もう、彼らは自由なのだ。
アエルは、今度は混じりけなしの喜色満面の笑みで、
「今度じゃなくて、今からでもいいのよ」
アルエが嬉しそうに顔を輝かせる。
「そりゃいいや。今から往こう」
しかし、アエルはアルエの唇に人指し指を当てて、
「でも、その前にやらなきゃいけないことがあるでしょう?」
アルエは少し驚いた様子だったが、一瞬で悟った。
「……ああ、そうだった。準備はいいか?」
「もちろんよ。十八年前からできてるわ」
敵わないな、とアルエは笑い、
「俺はさっき終わったばかりだ」
二人は息を合わせて詠い始める。
「〈人生魔法:アエル・バフロス;アルエ・テルンムス:永遠を共に眺む
二つの道は嘗て分かたれた
しかし 今 ここで 再び道が交わり
何処までも高く続いていく
私たちが死んだ時 場所は違えども
この魂はいつまでも共にある
一輪の白い花に永遠の愛を〉」
そうだ。これで、いいんだ。
ソラは彼らの最期をぼやけた片目で観ながら、そう確信した。
……たった今思いついた事がある。
どうして『詠唱魔法』は『魔』を組み合わせた魔方陣ではなく、詩で表現するのか、と。
そういうものだと思っていた。
神話を伝える役割があるからだろう、とも。
『唯一魔法』も『詠唱魔法』のようなものだから、詩で表現するのだろう、と。
でも、そうじゃないのかもしれない。
複雑で、尊くて、素晴らしい人生を表現するには『魔』という概念では到底足りなくて。
だからこれら二つはきっと『魔法』ではないのだろう。
訳もなく流れる涙が視界の大半を占有したまま、ソラは薄い意識の中、そう思った。
止めろ。止めてくれ。
離れた所から観察していたイチは心の中でそう叫んだ。
確かにあの二人は救われるかもしれない。だが、自分はどうだ? 一生を賭けた計画を台無しにされ、挙げ句の果てに、今から途轍もない大魔法で全てが消し飛ぶのだろう。想像しただけで吐き気がする。
そんな彼に語り掛ける者が居た。片目が潰れた小さな鳥だ。
「あの二人の人生を詰め込んだ魔法なんだ。彼らが望んだ世界を実現する魔法だから、決して何かを破壊するような魔法じゃない」
イチは鳥が話したことには全く驚かず、笑うしかないとでも言いたげに、指さす。
「あんなに強い力が漏れているというのにか?」
「当然だ。あれは二人の願い、そのものだから」
それだけ言い切り、仕事は果たしたとでも言いたげに、鳥は崩壊した。
そして、アエルとアルエの魔法が終わり――
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