一話 濡れた地面は瞬く間に乾いてしまう。跡は何も残らない。
見える地面の全てが荒れ果てた土地になってから丸二日。植物は殆ど見当たらず、地面の赤い砂混じりの土は血を連想させるような不気味さがある。幸い今は春の頭なので陽はそこまで厳しくはないが、夏になれば随分と厳しい気候になることは間違いないだろう。ただ、適度な風が頻繁に吹いているので、夏も意外と涼しくなるかもしれない。
全く代わり映えしない風景に飽きることなく、随分と前からずっと無言で歩き続ける、藍色のフーデッドケープを被った小さな影が一つ。
彼は道も目印もない荒野を、明確な方向がわかっているように歩いていた。
彼が水分補給のために立ち止まってから約一時間後、大きな坂に差し掛かった。
「ああ、この先か」
つぶやいたその声は、まだ変声期を迎えていないのか、少々高めの少年の声だった。
二百メートル以上あるその坂を苦しむ声一つ上げずに上りきった少年の目に、その壮大な光景が飛び込んできた。
「おお」
反対側が地平線に沈むほど巨大な盆地。頂上に上りきった陽がその内部を余す所なく照らし、血の様に紅い地面は見る者の目を刺激する。
実際に目で見るのと、眼で見るのとではやはり異なるようで、感嘆の声を上げた少年のフードが風に吹かれ、取れた。
名前はソラ。黒髪黒目という、この世界では存在できない姿形の彼は、【観測者】だ。『詠唱魔法』を求め、世界中を放浪し、その眼で『世界の記録』に記録し続ける、全員が黒髪黒目で構成される集団の一員だ。
そんな彼は、緩みかけた頬を押さえ、気を引き締めるようにフードを深く被り直した。
眼下に広がる戦場を、その眼で観ながら。
彼らの発祥は分からない。人類史の始まりと同時だという者もいるし、世界の誕生と同時だという者もいる。わかっているのは【観測者】という集団がとても長い歴史を持っているということだけだ。
アルカーナ王国軍の陣地は広大だ。帝国軍とにらみ合っている場所、大東戦線、染血盆地。呼び方などいくらでもあるが、戦場が非常に広いため、必然的に陣地を広げざるを得ないというのが実状である。
帝国軍の七万という兵力に対して、王国軍は五万。数的不利な王国軍は常に緊張が漂っている。
適度な緊張であればよいのだが、今の王国軍は、動きを悪くする様な緊張をはらんでいた。
そんな中、アルカーナ王国第二騎士団団長、アルエ・テルンムスは苛立ちにその精悍な表情を歪めていた。
後方に、王都に隠れて戦場には出てこないくせに、無茶な要求を再三してくる貴族たちにうんざりとしているのだ。
今もまた、
「テルンムス団長、その、面会の申し出が……」
怖ず怖ずと、ビクつきながら天幕の中に入ってきた兵士が、テルンムスに告げる。
するとテルンムスは彼を怒鳴りつけた。
「あれほど能なし貴族共の使者は追い返せと言っただろう!」
「ひっ、そ、それが、子供なんです」
兵士が怯えながら言うと、テルンムスは眉を顰める。
「何? ……ここは子供の遊び場じゃないとでも言って帰しておけ。わざわざ私に報告するようなことではないだろう」
兵士は何か怖い物を見たかのように、震えながら言葉を接ぐ。
「か、彼はどうしても団長に会わせろ、と。【観測者】だと伝えたら問題ないはずだ、とも」
【観測者】。その単語を聞いて、テルンムスの記憶の底からある記憶が呼び起こされた。
騎士団長になった際の、叙任式の後でのこと。入れ替わりで引退することになった前任者から、こう言われた。
『【観測者】には敵対するな』と。
曰く、敵対すれば国が消滅する、と。
曰く、彼らは黒髪黒目の者達である、と。
曰く、彼らは一人で行動している、と。
テルンムスがその話を聞いたときは、そんな馬鹿なと笑い飛ばしたかった。しかしそれが出来なかったのは、伝えてきた者の顔があまりにも真剣であったからだ。
五年以上前に、一度だけ聞いたことなので、思い出すのに少し時間がかかった為、その間を不審に思った兵士が、テルンムスに、
「あの、どうかされましたか?」
テルンムスは埋没していた記憶を掘り起こし、【観測者】を名乗る者の、話を聞く価値はあるかもしれないと判断した。
だから訊ねた。
「そいつは黒い髪と黒い目か?」
テルンムスの言葉に兵士は救われたと思ったのか、顔を輝かせて、
「はい! 随分と珍しい、それどころか見たことがない髪と眼の色でした!」
テルンムスはその報告を聞いて、ひとまず通すことを決定する。
「よし、そいつを連れてこい」
「了解しました!」
険悪だったテルンムスの雰囲気が和らいだことに歓喜しながら、やや駆け足で天幕より出ていった。
「【観測者】、か。一体何者だ?」
テルンムスの問いには、誰も返すことが無く、彼一人のみがいる天幕に吸われた。
【観測者】だと伝えたのだから何も問題はないだろう、とソラは楽観する。
寝そべった兵士たちの顔色は、あまり芳しくなく、ストレスが溜まっているように見えた。
何故だろうかと想像しながらぼんやりと歩いていたソラは、案内していた兵士が立ち止まったことに気付き、停止する。
「テルンムス団長! 【観測者】様をお連れしました」
中に聞こえるように、兵士が大きな声で叫んだため、近くにいた者達が珍しいものを見るような目で見てきたため、ソラは少し居心地が悪くなった。生まれたころから異端であり、そういうものだとは分かっていたが、それでも慣れられそうにない。
「通せ」
天幕の中から、短くそう告げられた兵士は、入り口を開ける。
「失礼します」
ソラがフードを脱いでから中に入ると、アルエ・テルンムスが机に両肘を付いて出迎えた。
テルンムスの髪はややくすんだブロンドで、短く切り揃えられている。碧い眼は非常に大きく、そこだけ切り取れば愛らしいとも思えるのかもしれないが、全体の厳つい雰囲気により、そんなことは微塵も思えない。大男そのもののがたいは見る者に威圧感を与えることは間違いない。
彼の眼光は鋭く、訪問者を見極めようという思惑が見て取れたので、ソラは睨み返す、とまではいかないものの、真っ直ぐにテルンムスの目を見た。
沈黙のまま数秒が経過する。その間に、ソラは『世界の記録』からアルエ・テルンムスの情報を、少し抵抗を感じながらも引き出す。
アルエ・テルンムス。年齢は四十二という若さでありながらも、アルカーナ王国の第二騎士団の団長を任されるほど有能。第一騎士団が近衛騎士団であることを鑑みると、実質的に王国の軍の頂点であると言える。質実剛健という言葉が似合う性格。王からの信頼は篤く、民からの支持も強い。が、かなりの苦労人。
なかなかに好人物らしいが、この地位にあって独身というのは実は何か問題があるのか? 直近にはそういう記録はないようだが……まぁ別にそこまで調べる必要はないだろう。
ソラは一瞬でそこまで調べ終えると、意識を戻す。
「ふむ。少なくとも君は強い人間のようだ」
ソラはずっと思考しながらも表情や目は一切動かさず、萎縮せずに目を合わせていたため、話すに値する人物だとテルンムスは認めた。
テルンムスの落ち着いた言動に、ソラを連れてきた兵士は内心安堵する。普段のテルンムスはこの口調であるが、興奮したりすると、ああなってしまう。
「お初にお目に掛かります。【観測者】のソラです」
「ああ、あまり堅くならないでくれ。私はアルエ・テルンムス。アルカーナ王国第二騎士団団長だ。よろしく」
テルンムスは立ち上がり、自己紹介をした後、ソラに歩み寄り手を差し出す。その手をソラが握り、テルンムスは若干眉を動かした。ケープで体格は隠れていて、華奢に思わせるような雰囲気のソラだったが、その手は意外にも鍛えてある、武人と形容しても遜色なかったからだ。
「それで、【観測者】殿が私に何の用かな?」
手を離し、テルンムスはソラにそう訊ねた。しっかりとその漆黒の目を見つめながら。
その態度に、ソラはなかなか油断ならない人物だとテルンムスを評価する。別に嘘を吐く意味も理由もないのだが、嘘を吐けば直ぐにバレそうだ、と。
「では単刀直入にお伺いします。貴方が【英雄】で間違いありませんね?」
テルンムスはその事実自体は秘匿している訳ではないので素直に答える。
「ああ、そうだ。それがどうかしたのか?」
その返事を聞いて、ソラは若干安堵する。万一この噂が偽であったならば、ここまでの旅路の本来の目的を果たせないのだから、仕方ない。
「それは良かった。では、僕を暫く貴方の傍らに置いていてくれませんか? 勿論貴方の邪魔はしません。なるべく干渉はしないので。どうでしょう」
「……何が目的だ?」
テルンムスは勘ぐるような目線をソラに向ける。
するとソラは単純なことです、と薄ら寒いほどに軽薄な笑みを浮かべ、
「僕が【観測者】だからですよ」
一瞬でも面白い、続きが読みたいなど思ってくださったら、評価の方よろしくお願いします。
感想も待ってます!