十八話 狂気は人知れず膨張する。
テルンムスが目を覚ました直後に感じたのは、途轍もない酩酊感と倦怠感、嫌悪感に罪悪感。あらゆる悪感情が綯い交ぜになって、一度に押し寄せてきたかのような、そんな感情。
彼は自分の七年分の人生を追体験した。
しかし、現実で流れていた時間は、十秒に満たなかった。
「大丈夫ですか!?」
どこかで聞いた少年の声。
テルンムスは無自覚のままにしゃがみ込んでいた。背中に掻いた脂汗が気持ち悪く、額を拭きながら立ち上がる。
「ああ、ええと、君は……?」
顔を上げながら、その黒髪黒目の少年に、テルンムスは問うた。
すると少年はいよいよ心配そうな声音で、
「僕ですか? 僕はソラですよ。まさか忘れてしまったんですか?」
ああ、聞き覚えが……
テルンムスは主観で、一気に七年前に遡った。忘れてしまったとしても、無理はない。
……思い出した。
彼は【観測者】の少年で、そう。私が思い出してしまったのも、彼の所為だ。
キッと睨みつけた後に、それが八つ当たりに等しい行いである事に気付き、テルンムスは己の卑しい心に辟易とした。
テルンムスは眼前で気圧されている少年に、すまない、と声を掛ける。
「少し、取り乱してしまったようだ。もう大丈夫だ」
「は、はあ。それで、アエルって、誰のことですか?」
【観測者】という生き物は、こんなのばかりなのだろうか。
テルンムスはあまりの遠慮のなさに少々嫌悪感を覚えながら、質問にはまともに答えない。
「君に言う理由が見当たらないな」
彼としては冷たく突き放したつもりではあったが、それでもソラは食い下がる。
「じゃあ取引をしましょう。僕が出来ることなら何だって。だから」
「断る」
取り付く島もなく切られたソラは、不服そうな顔をしながら下がっていった。
誰も居なくなった天幕で、テルンムスは独り、正確な言葉にしようのない感情を溜め息に混ぜて吐き出す。
「クソったれが」
何に向けたのか、自分でもわからない暴言。
いつの間にか掻いていた油っぽい額の汗を服で拭き取る。
倦怠感と喪失感が、諦観を通して何も見えなくなった。
「アエル」
ポツリと声に出してみる。
笑顔が一つ、頭の中で咲いた。
「アエル」
もう一度、呟いた。
怒ったような顔が、彼を見つめた。
「アエル」
何度も、何度も。
困ったような瞳が彼を捉え、流れるような銀の髪が風に揺られる。
諦めてしまった全てが、もう取り返しのつかない選択が濁流のように押し寄せ、
嘗て少年であった男は、それら全てに目を瞑った。
もう、何もできることがないのだから。
「クソったれが」
情けない男を罵倒する言葉がどこかから聞こえてきた。
せめて…………。
その晩。帝国軍にて、小規模な宴会が多く開かれた。振舞われた貴重な葡萄酒を、帝国軍の兵士たちは心行くまで飲んだ。
どこかの影で男がせせら笑う。
種は蒔き終えた。後はいつでも呪えるだろう、と。
静寂な天幕内にけたたましく響く、小さな鳥の声。
いや、ソレは本物の鳥ではない。時折身体がぶれている。
滑らかに目を開いたソラ。 彼が起きても鳴いている鳥にソラは近付き、手を翳し、灰色の魔法陣を展開する。
「うっさい」
瞬間、音が消える。すると鳥は抗議するようにパクパクと嘴を開閉し、翼をばたつかせた。
「お前が余計なことしたからだろ」
その言葉遣いは、一切の遠慮が抜けた家族に対するものだった。
魔法陣がふっと消えると、小鳥から人の声がした。
「やあ、ソラ。元気そうだね」
「お前の所為で気が削がれたよ、ウミ」
中性的な高めの声。言葉に合わせて鳥が翼を挙げたりしていて、愛嬌がある。しかし、ソラの機嫌はあまりよろしくない。それを宥めるように、ウミと呼ばれた鳥は、
「まあまあ、そう言わずに。ときにソラ、私が今どこに居るか知っているかい?」
「あーっと、確か帝国領内に居るんだっけか」
面倒そうにソラが答えると、小鳥が大仰に翼を広げる。
「正解! やっぱり私の事が大好きなんだね!」
「アホか。とっとと本題を言え」
今のソラに、軽口を受け入れる余裕はない。急かされたウミは、
「あはは、ごめんごめん。じゃあ短くね。取り合えずそこから逃げた方が良いよ」
突然の言葉に、ソラは思わず首を捻る。
「逃げるって、なんで」
「説明すると長いんだけど、この鳥もそろそろ限界だから」
小鳥の身体が再びぶれる。
「短くで良い?」
ソラは溜め息を吐き、ちょっと待て、と言ってから目を瞑った。
「ふんっ」
四重の魔法陣が展開される。灰、薄緑、白、橙。四層のそれは小鳥に重なり、次の瞬間、ぶれていた小鳥の輪郭がはっきりとする。
「これで、良いだろ……」
少し疲れた様子のソラに、拍手が送られる。小鳥の口から手の鳴る音がするのは、かなりシュールだ。
「さっすが、ソラ。ありがとう。じゃあちゃんと説明しようじゃあないか。まず始めに。今、帝国では一人の男が『呪い』の研究を行っているんだ」
「『呪い』? それがどうしたって言うんだ。……まさか」
「ああ、そのまさかさ。ふふっ、一度言ってみたかったんだよね」
どうでもいいから続けろ、という無言の圧力に屈して、小鳥は喋りを再開する。
「ソイツの『呪い』の研究は非常に進んでいてね、もう完成間際、あるいはもう完成しているかもしれない。男の周囲の『呪い』の所為で、最近は『世界の記録』から観れないんだよね」
「だろうな」
「それで、もう大量に『呪い』をばらまく準備は終わってるってわけ」
「へえ」
「というか、もう既に種みたいなのはまかれてるね。ソラの直ぐ近くに」
「……! 帝国軍か」
「そ、多分何かのきっかけがあれば一瞬で帝国軍の兵士は『呪い』に侵される。男は『擬非人』化って呼んでるけど。君も近くに居たら危険かなぁって思って、連絡してあげたんだよ。私って優しー」
「……ありがとう」
「どういたしまして。じゃ、バイバイ」
元気に嘴を動かしていた小鳥が霧のように消え去った。
はぁ、と溜め息を吐いたソラは、ウミが伝えてきた情報について、考える。
『呪い』。『魔』で理解出来ないものの一つ。
つまりは、訳が分からない。
しかし、危険だということは分かっている。『魔』で理解できないということは、この世界において異常なのだ。
しかし。
ソラはどこまでも自分の為に企む。『擬非人』とやらを使えば、自分の夢を叶えられるかもしれない、と。
自分の目で、あれを見られるならば、僕はなんだってしよう。それによって、人がどれだけ傷付こうが、別に構わない。
だって彼らは生きているのだから。『世界の記録』にいつまでも残り、生きていられるのだから。
僕とは違って。
ソラの異常な価値観は、彼にとっては当然で、生まれた時からの常識なのだ。
「さあ、準備を始めよう」
その声を他人が聞いたなら、彼の事を心底恐怖するだろう。
彼の言葉は凍っていた。凍てつくようなせせら笑いが人知れず響いた。
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