十五話 幸せ。
清々しい朝の滑らかな風が少年……青年の身体を一瞬だけ包み、また別の誰かの元へと飛んでいった。
カツカツと乾いた音を立てる真新しいブーツの底。
彼の為だけに鍛えられた剣が一振り、腰の優美な鞘に収まっている。
着慣れていない為か、全く似合っている様には見えない、銀と赤が織りなす流麗な団服。
背が低かった少年は今はもう居ない。何の力も持たなかった少年ももう居ない。
ここに居るのは、身長が伸びるに連れ肩幅が広くなり、今や顔つきも随分と男らしくなった、騎士見習いの青年だ。
彼は少女を――こちらは身体的にはあれから殆ど成長していない――見下ろしながら、呆れたように笑う。
「もういいだろう? あんだけ準備したんだからさ」
変声期を終えた男の声は、口調とは裏腹に随分と優しげだった。
少女が、団服の胸元をトンと軽く叩きながら、
「だめよ。今日はアルエの晴れ舞台なんだから、絶対に失敗……というか傷を付けたらだめなの。わかった?」
その台詞を聞いて青年は仕方ねぇなぁ、と微笑む。
彼女が本当に青年の為に言っているのが伝わったから。
それからややあって。
「ええ! もういいわよ!」
「おっ、やっとか」
退屈そうな顔から一転。綻んだ顔の青年に少女は後ろを向くように命じる。
「何で?」
「いいからいいから、早くして頂戴」
「わ、わかった」
青年はぎこちなく背中を少女に向けた。
直後。
ポン! と青年の背中に軽い衝撃。
青年が驚いて振り向くと、背中に体当たりした少女がふふ、と笑って、
「行ってらっしゃい!」
青年を門から送り出す。
敷地を出た青年はもう一度だけ振り返り、
「行ってきます」
少女の頬を伝う煌めきだけは見なかった振りをして。
あっと言う間だった。彼が私の騎士になってから五年。
毎日が楽しくて、時にはちょっとした刺激もあって。最初は同じくらいだった身長も、急に彼だけ伸びてしまって、今では頭一つと半分も彼の方が高い。
今日、彼は騎士になる。それまでもわたしの騎士だったのだけれど、今日から国に認められた、正式な騎士になるのだ。正確に言えば騎士見習いだけど、わたしの中では立派な騎士なのだ。
嬉しいような、寂しいような。
感情が溢れてきて、何かがこみ上げてきて思わず涙が漏れてしまった。
彼には涙を見せたくなかったから隠そうとしたけれど、きっとばれてしまっただろう。
彼はわたしの事をよく見ているから。
……あれ、これは?
なんだか胸がぽかぽかしてきた。
動悸が少しずつ速まってきて、心なしか暑い気がする。
まあ、いいか。
わたしもいつまでも子供では居られない。
バフロス公爵の娘として、やらなきゃいけないことが、たくさんある。
今は父様が殆ど全てを排除してくれているけど、甘えてはいられないのだ。
わたしの騎士に負けないように、わたしもしっかり頑張らなくっちゃ。
もうとっくに見えなくなった背中を視ながら、わたしは拳を軽く握った。
これから訪れる別れなんて知らずに。
青年がアルカーナ王国第三騎士団に見習いとして入団してから、後一週間で半年が経つ。彼はこの日、特別に午前で暇を貰った。
秋の昼下がりの穏やかな風が、大分着慣れてきた青年の制服の側を通り抜ける。通りを歩く人々の顔は柔らかな陽光を受けて、絶えず笑みをこぼしている。
それとは対照的に、青年の顔は強ばり、足取りもぎこちない。目はきょろきょろと右左に動き、挙動不審だ。騎士団の制服を着ていなければ、今頃通報されているに違いない。
端的に言えば、彼はとても緊張しているのだ。
理由は、そう。
「こ、ここか?」
青年の不安げな声。しかし、それは少年だった頃の影を残している。
彼が今居るのは鍛冶通り。王都ディルカーナの東に延びた、名前通り、鍛冶が盛んな場所である。ここには王国、いや、大陸中から腕利きの職人や、彼らに憧れてやってきた未来の職人候補が集まってくる。
青年が手元のメモと何度も照らし合わせている工房の名は『ユーリード工房』。彼が腰にはいている剣の束にも、同じ名が彫られている。
ようやく確信を持てたのか、青年は煤けた――汚い――ドアをノックする。
「すいません」
彼にしては意外なことに、かなり声が小さい。特段人見知りするタイプではないはずなのだが、どうしたことか。
しかし、一向に返事がない。青年はもう一度、
「すいません!」
………………。
「すいません!!」
三度目にして、ようやく反応が返ってきた。だが、それは青年が期待していたものとは少し違っていた。
「うっさいわ!」
気難しそうな怒り声と共に思いっ切り開く扉。しかも外開きーー青年に直撃、しかけたが、すんでの所で跳び退き、事なきを得る。
酒に焼けたような声の持ち主を、青年は睨みかけた、が、行動には移さない。今日は目の前のずんぐりとした煤けた髭の老人に頼みごとがあるのだ。失礼な態度を取るわけにはいかない。
「ご、ごめんなさい。あなたがユーリードさんですね?」
老人は、自分よりかなり目線が高い位置にある青年の顔と身体をじろりと見て、
「断る」
まだ名前を確認しただけなのに、すげなく断られてしまった青年は、ここで引き下がるわけにはいかないので、諦め悪く食い下がる。
「そ、そこをなんとか! 話だけでも!」
青年は必死に頭を下げながら頼み込む。
それを無視して扉を閉めようとした老人、ユーリードは、青年の腰の剣に目を止め、重い口をぶっきらぼうに開いた。
「それは、儂の剣か?」
偶然興味を引けた青年は、この機を逃すまいと必死にアピールする。
「は、はい! 僕が持っている剣は全て貴方が打った剣です!」
少しの沈黙。そして溜め息。
「入れ。話くらいは聞いてやろう」
扉を閉めようとしていた手を離し、ユーリードは青年に背を向けて中へと入っていく。アルエは大きな、とても大きな声で、
「ありがとうございます!!」
今度はユーリードはうるさいと怒鳴らなかった。
ユーリードが腰を下ろしたのは所々黒く煤けた|(アルエは絶対に口には出さないが)薄汚い、こじんまりとした小さな部屋だった。
「さて、何の用だ?」
「実は……」
青年は声の調子を落として続ける。
「……を作ってほしいんです」
それを聞いたユーリードは一瞬意味を理解できずに呆け、そして顔を真っ赤にして、
「儂は細工師ではないわ!」
前触れなく落とされた雷を、青年は予測していたので、落ち着いて、申し訳なさそうに頭を下げた。
「理由を聞いていただけませんか?」
ユーリードは青年の腰の剣に一瞬目を落として、ふん、と背を向け、
「まぁ、聞くだけ聞いてやろう」
「ありがとうございます!」
かくかくしかじか。
とても深く、この世界で一番深い所よりも深い溜め息を吐いて、ユーリードは頷いた。
少女は今朝からどことなく浮ついている。普段より三十分は早く起き、気合いばっちりの、それでいて動きやすい純白の服を着ている。そして頭にはいつかの麦わら帽子を載せて、バフロス家の中庭の椅子に畏まって座っていた。
「ま、まだ早いわよね……」
正確な時刻はわからないが、陽の昇り具合からして待ち合わせ時間にはまだまだ長い事はわかる。それに彼は普段とは違いって、少し遅いらしい。何か、どこかに用があるとかで。
その用とやらは、わたしよりも優先価値が高いのだろうか、と少女は考えてしまい、若干憂鬱になる。彼にとって、少女が何よりも大切だという事は、とっくにわかっているというのに。
待ち始めて数分が経過。こんなことなら何かしら本を持ってくるべきだったか、今からでも持ってこようか、と悩むも、その間に彼が来てしまったらどうしようという葛藤。立ち上がって座ってを繰り返して、七回目。座った直後に彼は現れた。
青年は椅子に座る少女の姿を認めると、慌てた声で訊ねる。
「お、おはよう、アエル。悪い、もしかして待たせちまったか?」
その言葉に少女は隠しきれない高揚が微笑となって現れてしまう。ううん、と首を横に振り、
「おはよう、アルエ。大丈夫よ。今来たところよ」
青年は胸をなで下ろし、少女の元へ寄る。そして手を優雅に……優雅に差しだし、
「早速だけど、行こうぜ、アエル」
「ええ」
少女は目の前の手を取り、優美に立ち上がった。
少女は青年の左隣にピタリとついて歩く。もう逸れたりはしないし、そんなことは青年がさせないが、それでもそうしているのは青年への信頼の証。
人の移動が少ない時間帯なので、二人はかなり目立つ、が、彼らの事はこの付近の住民ならば皆五年前から知っている。この半年は殆ど姿を見なかったが、それでも記憶に残りやすい二人だ。
そうか、あの少年は少女のは騎士になったのか、と、微笑ましい気持ちにさせられる。
二人は周囲から向けられる奇妙な感覚に顔を見合わせ、首を傾げたが結局答えは出なかった。自分たちが普段からそのような目で見られていたとは、想像も付かなかったのだ。
二人は明確な目的地を持たずに歩く。
時折目を引くものがあってはそこに立ち寄ってみたり、木陰のベンチに二人で並んで
座って談笑したり。
貴重な休日をこのように消費するのは背徳感があるものの、少女がこうしたいと言ったのだ。青年としては異論はない。だからより楽しめるようなサプライズを最後に用意してある。
どんな反応をしてくれるのか、非常に楽しみだ。
永遠にも感じられる一瞬を終え、空が紅くなり始めたことに気付いた青年は、少女に屋敷に戻ることを提案した。すると少女は頬を膨らませて、
「もう少しだけ、こうして居たかったわ」
そんな少女に青年は大丈夫、と慰めるように声をかける。
「最後はあの中庭でしばらく過ごそう。そうしたいんだ」
青年のその言葉に少女は少し間を置いてから折れた。
「……わかった、そうしてあげる」
「ありがとう、アエル」
少し拗ねたような主を見て、青年は陽のような優しい笑みを浮かべた。
さて、いつもの中庭に戻ってきた二人だったが、先に少女が常に置かれている彼女の椅子に座った。しかし、青年はなかなか座ろうとしない。どうしたのかと思い、少女は不審げに訊ねる。
「ねえ、アルエ。早く座りなさいよ。そんなんじゃ、ゆっくり話も出来ないわ」
「…………」
青年はなおも黙って身体を揺らす。
いい加減痺れを切らした少女が、口調を強めて座るように言おうとして口を開いたその時だった。青年が意を決して少女の前に跪く。
いつかの景色が蘇る。あの時と比べ青年の背は高く伸び、少女だって雰囲気だけなら一端の女性にはなったものの、それでもここにいるのは確かにあの二人だった。
「ど、どうしたの? アルエ」
不審から不安へと変わった主の感情は、絶えず揺れ動いていた。
でもそんな彼女を落ち着かせるように、青年は温かい眼差しで彼女の眼を捉える。
その瞳がピタリと静止したため、青年はポケットにずっと隠し持っていた小さな手のひらサイズの箱を取り出した。
「……?」
状況が理解できていないものの、青年を全面的に信頼している少女は彼の言葉を待つ。
そして、青年は一度元の体勢のまま深呼吸し、その箱を彼女に向けて開いた。
「あっ」
驚いたように小さく声を上げる少女。その声の中には期待があった。
青年がすっかり固くなってしまった口を開く。
「この指輪をアエルに受け取ってほしい」
小さな箱の中には、同じく小さな指輪が入れられていた。その指輪には宝石等は付けられておらず、ただリングがあるのみ。一般的に特別な金属が使われているというわけでもなく、どちらかと言うと鈍い。しかし、アエルには分かった。
「これは俺の剣と同じ鋼鉄で、俺の剣を打った人に無理を言って作ってもらったんだ。俺はこの剣を常に持っているから、アエルがこの指輪を填めていてくれたら……」
照れくさそうに笑って、
「離れていても繋がってる気がするだろ? 受け取って、くれるか?」
アエルはその顔を紅潮させ、身体いっぱいにオレンジ色の陽を浴びて、
「ええ!」
眦が、陽の光の所為で薄く煌いた。
遠くの紫苑の空で鴉が啼いた。
二人はずっと、幸せだった。
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