十四話 もうあの頃の彼らは居ない。
就寝前の、少女の日課。
小さな灯りが一つだけの暗がりに、パラパラと紙をめくる音がする。
「風を解する魔は三種類のみ。それらを何回も描くことによって、再現できる」
机の上に置かれた分厚い一冊の本。魔導書だ。
表紙は重厚な深紅の地に、薄緑の文字で『風』とだけ書かれている。
今日までに、少女は『火』と『水』を修了した。少女の今の精神力ではせいぜい一メートル程度までしか描けないが、この齢にしては驚くべき偉業だ。
少女が魔法を修得しようと決断したのはほんの数ヶ月前。少年が少女の騎士になると誓った日だ。
何もできない無力な自分に不甲斐無さを感じた少女は、守られるだけではいけない。隣とまでは言わないが、せめて後ろから少年を援護できるように、と。
その衝動に少女は突き動かされるように魔法の勉強を始めた。今日の誕生日の贈り物だって、父に何が欲しいかと訊かれ、普通には売っていない魔導書、と答えたくらい、彼女は本気だ。
公爵は多大な危険を冒して『陽』と『陰』の魔導書を手に入れたのだが、それらは今後暫くは使われることはないだろう。他を完全習得するまでは開かないと決められているからだ。
三時間後、アエルはようやく本を閉じる。何度も何度も読んで、完全に理解しなければならない。理解するだけではなくて、実践も。
目を閉じて、第一位階の風の魔法陣を思い描く。
最初はいつも上手くいかないが、何百回も何千回も繰り返して、完成させる。
わたしはわたしにできる事をする。
だから、待ってて。
少女は机の端に掛けられた麦藁帽子に目を遣り、ここには居ない少年を想った。
時は流れ、二人が出会ってから四年後。
少年は顔つきが精悍になり、身長も伸びに伸びた。同年代と並べば頭一つ抜き出るくらいに。肩幅も広くなり、全体的にがっしりしている。変声期を迎え、低く重くなった声が、どことなく威圧感を生み出している。
少女はこの歳にしてもう妖艶さを醸し出している。時折見せる大人びた表情に、少年は毎回どきりとさせられているが、直ぐにいつもの少し抜けた少女に戻るので、あまり変わってないのかもしれない。少女が聞けば、きっと怒るだろうが。そして彼女は殆ど常に少年から貰った初めての贈り物である麦藁帽子を身に着けている。
この四年間で、二人の関係性に変化は無かった。しかし、それは二人が変わらなかったことを意味するのではない。二人とも同じくらい成長したのだ。
肉体的にも、精神的にも。
ただ守られるだけであった少女と、守る力を持たなかった少年。
それが、もう立派な魔法使いである少女と、守る力を得た少年、になっていた。
年齢的には子供であるかもしれない。だが、二人とももう大人、で通用するだろう。
二人が出逢って五年目の春。
特別な意味はないけれど、それでも少年にとっては毎日が特別で。
しかし、二人が学院から帰ろうとした時、同じクラスのユゥから呼び止められ、その後に起こった事件は、二人にとって毎日以上の意味があった。
「あの、お二人とも、今日はこの後何かご予定はありますか?」
丸眼鏡を通した、感情が読み取りにくい表情で告げられたその言葉に、少女は当惑するも、
「? 特にないわよ」
「じゃあ少し私の家の商会に遊びに来ませんか?」
「ええ、わかったわ。アルエもそれでいいわよね」
「ああ、問題ない」
そうして二人は少女に付いていくことになった。
ユゥの父親が経営するダリェル商会は、アルカーナ王国だけではなく、王国の南西にある陽光皇国や、北東にあるヒューリトル共和国などにも勢力を広げている、この大陸随一の大商会だ。
扱う品は幅広く、庶民の日用品から貴族御用達の宝飾品まで網羅しており、ここで買
えない物はない、とまで言われているくらいだ。
王国の首都、ディルカーナには商会の店舗は約十あり、店によって扱う物のベクトルが違うのだが、それは立場が違う者が同じ場所にいると、面倒な事が起こってしまうからである。
さて、そんな大商会だが、色々と後ろ暗い噂もある。曰く、敵対した商会が『火事』に遭い、立ち行かなくなった。曰く、彼の商会の立ち退きに反発した家の者は、謎の死を遂げた。
一般においてそれらはあくまでも噂であり、憶測の範疇を出ない。
だが、裏の世界において、それは誰もが知っている事実だ。
仕事を請け負う暗部の名は、暁闇一族。
大陸の南に源流を持つ、暗殺者の集団だ。
ユゥに連れられて歩く二人。何度か細い路地を通り抜け、進んでいく。
「どの辺りの店舗なの?」
何度目かの細い路地に入ったとき、少女は前にいたユゥに訊ねた。
ユゥはゆっくりと振り向き、堪えるように袖をぎゅっと握った。
「直ぐに、分かります」
「そう。わたしの記憶ではこの方面にダリェル商会の店舗は無かったのだけれど」
聡い少女の言葉に、ユゥは言葉を詰まらせる。
「……新しく、出来たんです」
俯いたユゥに、少女は鼻を鳴らす。
「そう。開きたてって事ね。それはいいじゃない」
重苦しい沈黙が場を支配する。
泥濘をかき分け進むように、ユゥは再び歩み出す。
そして、次にユゥが入った路地は、続く道が無く、周囲に三メートル以上の壁がある、行き止まりだった。
「ユゥ、これはどういうことかしら」
少女が縮こまったユゥに笑い掛ける。
その所為で、更にユゥの肩が沈んだ。
「み、道を間違えたのかもしれません」
「それはもういい」
それまで沈黙を保っていた少年が、腰の鞘から剣を抜き払いながら、ユゥの言葉を切り捨てた。
「ヒッ」
白刃に慄くユゥは、腰が抜けてペタンと地面に座り込んだ。
それを横目に、少年は少女の手を握り、柔らかいその手に思わずどきりとしたが、表情に全く反映せずに壁に寄らせた。そして空中に話しかける。
「出て来いよ。ずっと前から視線が気持ち悪ぃんだよ」
少年が見据えた空間が波打つ様に揺らめき、一人の男が手を叩きながら現れた。
「お見事です。流石はあの老害に師事しているだけありますねぇ」
別世界から見られていることすら察知するとは、と能面のような顔が笑う。
そして口元をにゅっと釣り上げ、
「これは、楽しめそうです」
暗い色の外套をはためかせながら、奇妙な男――襲撃者は少年に襲いかかった。
音を立てずに走る男の手には何もない。そのまま少年の剣のリーチに入るかと思われた瞬間、身体が沈み、左脚を繰り出した。突飛な挙動にも少年は顔色一つ変えずに剣で脚を斬る――斬れない。
剣と脚が甲高い音を立てて火花を散らす。男が脚を剣に沿って滑らせ、剣を封じている間に更に右脚を鋭く突くように少年の身体に刺そうとする。
「軽いんだよ」
少年が左脚で迎え撃つ。
男の両足は地面から離れているが、身体の一部が固定されているかのように、異常な程に男の身体は動かなかった。
「時空魔法か」
「ご名答」
男が使っていたのは時空魔法。最初、消えていたのもその所為だ。魔法陣が見えないのも、恐らく魔法陣自体に魔法陣を隠す式が入っているのだろう。
普通、魔法陣を展開しながら近接戦闘を行うのは不可能だと言われている。戦闘中に魔法陣を描く事に頭のリソースを割いていたら、間違いなく駆け引きで負けるからだ。
少年がまだ本気を出していないとは言え、実戦レベルの魔法――第三位階以上――を使いながら涼しい顔|(?)で戦闘を行う男は、とんでもなく手練だ。
男は認識を改める。目の前の少年は強敵だ。魔法を使う余裕はない、と。男は存ぜぬ事だが、もう少女に老人は付いていないのは、少年が老人に認められたという事だ。
「ヒヒッ」
気味悪く喉を引き攣らせた男は、絶えず揺れながら少年との距離を詰め、数瞬の内に三十センチにまで寄り、拳を――剣の柄で弾かれる。危険と判断した男は背を見せずに後ろに跳んだ。
少年は眉を顰める。
「たしか、暁闇、だったか?」
男はとっさにとぼけようとしたが、少年の鋭い目に射ぬかれ、諦める。
「ハハッ、だから嫌だったんですよ。これを使うのは」
正体を見破られた男は、右手を頭に遣って苦しく笑う。
彼の一族の歩法は門外不出。使用者は間違いなく暁闇の者だと思って良い。
少年は、嘗て少年にその歩法を実際に使って見せた老人の言葉を思い出したのだ。
動きに悪い癖が付くと言って教えてくれなかったが。
「さて、どうしたものか」
一人で少年を殺すのは不可能だと考えた男は、取り合えず目的だけ達しようと、どこからともなく指の間に現れた八本のナイフを不規則に鋭く少女に投げた。しかし全てが少年の剣によって打ち落とされる。
「これは無理そうですねぇ」
「とっとと諦めて帰ったらどうだ?」
このまま戦っていたら、少女を危険に晒してしまうかもしれない。まあ駄目だろうけど、と少年は心の中で呟いた。
「こっちもそういう訳にはいかないんですよ」
男は左手を頭に遣って、哂った。
次の瞬間、少女の真横に暗い外套を纏った女が現れ、薄っぺらい笑みを浮かべながら、短剣を少女に突き刺し――
「ッ!?」
女の気配が現れた瞬間にそちらを振り向いた少年だったが、距離的に明らかに手遅れだった。
誰もが終わりを察した。
当人である少女を除いて。
女のナイフは不可視の壁にぶつかり、それを貫くことはなかった。
「なっ!?」
女はその結果に驚き、声をもらした。
少年は安堵し、男は舌打ちをする。
そして、
「退くぞ」
「了解っす」
驚異的な身体能力で二人は壁の上に跳び、消えた。
たった今まで激しい戦闘が行われていたとは思えないほどの静けさが場を満たす。
臨戦態勢をゆっくりと解いた少年は少女に訊ねる。
「今の、何?」
「あら、言っていなかったかしら。わたし、魔法が得意なのよ」
少女は見えない魔法陣くらい、わたしだって描けるわ、と鼻を高くする。
聞いてねぇよ、と少年は苦笑いをして、
「アイツはどうする?」
とっくの前に気絶していたユゥを親指で指した。
「放置するわけにもいかないし、ちゃんと事情を訊かないといけないから持って帰るわよ」
少年はりょーかい、と間延びした返事をし、肩に担いだ少女の末路を思ったが、直ぐに頭を振り、雑念を払った。
少年が後から聞いた事件の顛末はこうだ。
ユゥの商会が版図を広げる為にとある貴族と交渉をしていた。その貴族の名は、ユゥの父親である商会長しか知らなかったらしく、彼は依然として黙秘を続けている。聞き出そうとしても、死よりも恐ろしいナニカに怯えてしまっているらしく、これからも訊き出す努力はするものの、徒労に終わるだろう。
その交渉の中に、バフロス公爵家長女、アエル・バフロスを殺害するという物があったらしい。
そこで商会長は何度も依頼を完遂させていた暁闇一族に依頼を出した、という訳だ。
今回の件でダリェル商会は細分され、様々な組織に吸収された。完全に潰されなかったのは、ダリェル商会が突然なくなってしまった場合の混乱を考えた結果だ。
「へぇ。じゃあなんだ、まだ黒幕の貴族が残ってるって事か」
「ええ、そうよ」
「それなら気を付けないとな」
「別に今まで通りで良いと思うわ」
「何で?」
「だって、私の事はアルエが守ってくれるんでしょう?」
挑発的でこ惑的な目に、少年はぐらりとした。
でも直ぐに普段の調子を取り戻し、
「でもアエルは強いじゃん。あんな魔法まで使ってさ」
いやいや、と少女は顔の前で手を振る。
「あれを使ってる間は私は全く動けないし、ずっと使って居たら息が詰まって死ぬわよ、たぶん」
しかも、
「しかも?」
「魔法陣を展開するのに十秒くらいかかるから、その間に狙われたら一貫の終わりよ。だからちゃんとアルエに守ってもらわないと」
少年はほっとしたような、後ろめたいような微妙な顔になる。
「何よ、その顔」
「なんでも、ない」
自分の役割が失われなかったと安堵する一方で、そんな考えを持ってしまった自分が憎い。そんな事、正直に言えるわけがない。
「そう」
察した様に笑う少女に、少年は溜め息を吐いて諦める。
アエルはこうなのだ、と。
わかっているくせに一歩退いてくれる。
だから少年は。より一層。
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