十一話 いつか、いつか、いつか。
事件の翌日は陽の日。つまり学院が休みの日だ。
少年は少女の家へとやって来ていた。
「おはようございます。今日もアエル様に」
少年がこの二ヶ月ですっかり顔なじみになった門番に、そう伝えた。門番の方も自分が仕える家の息女に毎日会いに来てくれる存在だから、快く通した。
因みにバフロス家の門番は、六人によるローテーションで、そこに偶に臨時でバフロス家の私騎士団を引退した者が入ったりしている。
それはさておき、屋敷に入った少年は、いつも通り少女が待っている中庭に行こうとした。だが、その前にフィンアーツに呼び止められる。
「おはよう、少年。少し話があります。先にこちらへ」
「おはようございます。わかりました」
アルエが通されたのはとある一室。全身鎧や数多の剣類。それらを見る間もなく、フィンアーツはアルエに話しかける。
「少年は強くなりたいと、そう言いましたよね」
「はい」
「私は……」
剣を一振り片手で持ち上げ、鞘からほんの少しだけ抜き、刃を見せる。窓から射し込んだ光が銀に反射して、アルエの目を一瞬眩ませた。
「剣しか教えることが出来ません。それでもいいですか?」
「はい。勿論です」
「それならば私は一つの道を提示します」
「道、ですか」
「はい。少年がお嬢様を守るための、強くなるための道です」
いいですか、とフィンアーツは前置きをする。
「まず、少年が十七、学院を卒業するまで私が剣を教えましょう。少年が卒業すれば、王国騎士団へ入り、そこから更に八年。二十五までそこで訓練をしなさい。そうなれば私騎士団に入り、お嬢様を騎士、という形でお守りできます」
「騎士……」
そこまで十三年。アルエがこれまで生きた以上の時間がかかる。
アルエには途方もなく思われたが、それでも光明が見えたのだ。それに騎士、という言葉は、少年を陥落させるのに十分な響きを持っていた。
だから返事は当然、
「お願いします」
その言葉一択だった。
少年はフィンアーツとの会話を終え、少女が待つ中庭へやって来た。
朝の澄んだ空気が、草花の香りと混じり、どことなく神聖な雰囲気を感じる。少年が少女と出逢った頃とはまた違う種類の白い花だが、以前に見劣りせず、季節に合った良さがある。
「よお」
いつものセットに座っている少女に、少年が近付きながら片手を上げて呼びかけた。
少女は摘んだ花から顔を上げ、横を見ると、少し気まずそうな顔で、
「おはよう、アルエ。その……昨日の怪我は大丈夫?」
不安げな声音で訊くと、少年は腕を曲げて力こぶを作るようにして、笑顔で、
「へーきへーき。ほら、こんなにピンピンしてるぜ」
にひひっ、と笑った少年に、少女は固くしていた表情を若干和らげる。
「そう」
それに気付いた少年は、昨夜は蹴られた腹が痛くて全然眠れなかったことは絶対に黙っておこうと誓った。
「今日は何をしようかしら」
少女は華奢な顎に手を遣り考える振りをする。普段から少年が来る前に何をするか、決めているのだが、いつもその場で考えたように話している。理由は少女しかわからない。
「それなんだけど、今日は先にしたいことがあって」
少年がそう言い出すのは珍しいことであったから、少女は銀色の目を大きく開く。
「何かしら」
「ええと」
少年は照れくさそうに頬を掻く。そしてその場に膝を付け、自分の目の前の地面を手で示し、
「こちらに立っていただけますか?」
その台詞に少女は戸惑いながらも応じ、少年の前に恐る恐る立つ。
少年はまだ少し恥じらいを残していたが、意を決し、手のひらを差し出す。
そして問う。
私の剣を、貴女に捧げます。
どうか、受け取って下さいませんか。
花も虫も鳥も風も、この世界のあらゆる存在が二人の為に静まり返り、その返答を待った。そして、少女の小さな口が、ゆっくりと開く。
はい。
少年の手に重ねられた小さな手。
周囲に咲き誇る色とりどりの花に囲まれたその瞬間は、まるで寓話の一場面の様で
あった。
「これからは俺がアエルを守る」
少年の口から毅然として告げられた言葉に、少女は新雪の様な顔をうっすらと赤く染め、
「どんな時でも?」
「どんな時でも俺がアエルを守る」
「どこに居ても?」
「どこに居ても俺がアエルを守る」
「ほんとうに?」
「本当に、俺がアエルを守る」
「ぜったい?」
「絶対に、俺がアエルを守る」
「ぜったいの、ぜったい?」
「ああ、絶対の、絶対に俺がアエルを守る」
「わたし、ずっと覚えてるわよ」
「忘れられたら思い出させてやる」
「わたし、意外と嫉妬深いから困らせちゃうかも」
「アエルの事で困るなら本望だ」
「わたし、おっちょこちょいだから迷惑かけちゃうかも」
「俺の助けが要る方がありがたい」
「その、わたし……」
「俺はアエルの為なら何だってする」
握られた手が、少し強まる。
「俺はアエルの騎士になる。だから、もう、大丈夫だ」
少女は目を薄くして、首を僅かに傾ける。口もにっこりとして、
「ありがとう」
少年の誓いは、少女に確かに伝わった。
それが少年の、アルエ・テルンムスの「■」の元だ。
小さな丘の、その頂上。
騎士と主の誓いを終えた二人は並んで地面に腰を掛けていた。
その距離は付かず離れずで、二人の心の距離間を反映しており、離れた所から見ていた老人からすれば、非常に微笑ましい光景であった。
ねえ、と少女が隣の少年の顔をのぞき込みながら話しかけた。
「何?」
急接近した少女の顔が眩しかった少年は思わず頭を後ろに引いた。
「何でアルエは、その、わたしの事を守ろうなんて思ったのかしら、って」
少女の言葉に少年は思わずギクリとなる。
一目惚れしたからだなんて言える訳ない。
背中を冷たい汗が一筋垂れる。
少年は目を逸らすが、少女は回り込んで逃がさない。
「そ、それは」
「それは?」
「ひ、秘密」
少年の顔に疚しい物があるのを察した少女は、頬を膨らませ、
「わたしの騎士ならわたしの質問にちゃんと答えなさい!」
「それはそれというか、その、勘弁して下さい!」
少年は両手を合わせ、頭を勢いよく下げた。
「…………はぁ。分かったわよ。今は諦めてあげる。だから、いつか、ちゃんと教えてよ」
「あ、ああ。いつかちゃんと教えるよ」
先延ばし。
少年はその危険性を知らなかったから、今はまだ笑っていられる。
いつか、いつか、いつか。
どうか、どうか、どうか。
夕方に帰宅したアルエは、母に早速今日の事を誇らしげに報告する。
「俺はアエル、様の騎士になったぞ!」
息子の雰囲気が何時もと少し違うことに違和感を持ちながら、もたらされた報告にルカは驚愕する。
「あんたが騎士!? 冗談はよしなさい」
「違うんだって! 本当だぜ!」
「えぇ……」
アルエが必死に訴えるも、未だルカは半信半疑だ。
「私にはどうしようもないからねぇ。父さんが帰ってきたら一応言っておくけど、本当なんだよね?」
「おう! アエル様に訊いてみろよ!」
自信満々なアルエに、ようやくルカは真実なのだと諦める。
アルエは貴族の次男なので、家を継ぐ可能性がなきにしもあらずなのだが、このアルエに父の後を継げるかと言われれば、まず間違いなく無理だろう。それに長男ウェストはとても優秀だ。問題はない、が面倒なのでルカは夫に投げ出すことにした。
陽が落ちきった頃、アルエの父、リュート・テルンムス男爵が王城より帰ってきた。
「お帰り父さん!」
玄関の扉が開いたのに気付いたアルエは駆けていった。
帰ってきた途端激しく迎えられたものだから、男爵は苦笑いをする。
「ただいま、アルエ。その顔は何か良いことでもあったのかい?」
「正解! 俺、アエル、様の騎士になったんだぜ!」
いきなりの事に戸惑う男爵は、まず整理するために訊ねる。
「アエル様……バフロス公爵様の御息女の事?」
「おう」
「何時の間に交流していたんだ……」
男爵が奥にいた妻にちらりと視線を向けると、華麗にかわされた。事情説明すらしてくれないらしい。そもそもルカも把握していないのだが。
アルエもアルエで父に学院はどうだと訊かれても、普通としか答えてこなかったので、本当にさっぱりわからない。
「まあそれはひとまず置いておくとして、アルエ。騎士になるとはどういう事か、分かっているのか?」
「ああ、勿論だ。アエルを守るって事だろ」
うっかり呼び捨てにしてしまったが、男爵は気付かずに頷いた。
「うん、命を賭して守るべき者を守り抜くのが騎士だ……と私は思っている。だから……。その顔を見るに覚悟は出来ているみたいだね」
「まあな」
「なら、少し待っていてくれ」
「? わかった」
男爵は城より帰ったばかりなので、一端自室に帰り、そして戻ったときには一振りの剣を携えていた。
「アルエにこれをあげよう」
「これは……!」
ポン、と渡されたそれを見て、アルエは目を見開く。それは数ヶ月前まで父の腰にあった剣だ。
「私にはもう必要ないものだからね」
男爵は昔から、一度も剣を抜いたことがないということを誇りにしていた。『剣を使わなくても、領の経営は出来る』。男爵の信条だった。
鞘と剣の身は、留め具が付けられていて抜けないようになっている。
「剣を抜いてごらん」
「いいの?」
それが父にとってどれだけ重大なことであるか、アルエは理解しているから、驚き、慎重になる。
「勿論だ。それは今からアルエの物。アルエがどうしようと、構わないさ」
丁寧に、とても固い留め具を外す。
「フンッ……」
そして、華麗にはほど遠い鈍った音を立てて、剣が抜けた。
錆だらけの、所々刃こぼれしているようにも見える骨董品のような剣が。
当然といえば当然。二十年以上手入れされていない剣はそうなるだろう。
「………………」
「………………」
二人とも何も言えずに気まずい沈黙が場を支配する。先に口を開いたのは男爵だった。
「……新しい剣を、買ってこよう」
「……お願いします」
因みにこの錆びた剣はアルエの部屋に飾られることになった。
同時刻、バフロス公爵家にて。
「お父様。わたしをお呼びとの事ですが、何でしょう」
アエルが父、アレクサンドロス・バフロス公爵の書斎を訪ねた。
中には彼の仕事部屋であるので、縦二メートル、横四メートル程の大きな机があり、それに大量の書類が積まれている。その全ては明日の朝までには総入れ替えされているであろう。無駄な家具や装飾は一切無い部屋なので、若干味気ないような気もするが、主が全く気にしていないので問題はない。
公爵はおよそ五十前後の見た目をしている。白髪が混じり始めているが、それが彼の重厚な雰囲気を倍増させている。着ている服はさすがに公爵に相応しい豪華な造りだが、これは城から帰ってそのままの服装だからだ。彼はこのようなゴテゴテとした服を好まない。
一枚一枚に目を一瞬でしっかり通し、認可する物はサインを、そうでない物ははねている。彼の元に届くのは、普通は全て許可できるはずなのだが、稀に紛れ込んでいる下手な書類もある。しかし、全てをちゃんと確認しているのでそういう物もはねられる。彼の有能さの象徴だろう。
公爵は書き物をしていた手を止め、愛娘の可愛い顔を見る。例えそれがどんなに重要な案件であっても娘より優先される事はないのだ。
「ああ。こんな夜中にすまないな。実は、その。アエルに騎士が付いたとフィン爺から聞いてな。それは本当か?」
公爵は表情を取り繕うとして顔がおかしな事になっている。再び湧いた怒りで口元がヒクヒクしている。
うちの娘に近付く害虫は一匹残らず駆除してやる。
そんな信念があった。
父親の内心を察せなかったアエルは嬉しそうに、そう、公爵には久しく見せていない位の笑顔で報告する。
「ええ、本当よ。アルエのことは知っているでしょう? ほら、テルンムス家の。彼よ」
「ほう」
公爵の心の中で冷たい怒りが煮えたぎる。あのリュートの息子か、と。
こんな事を臆面にも出さずに隣で働いていたとは。明日詳しく問いただす必要がありそうだ。勿論張本人にも。
「彼はどのような人間だ?」
公爵は会う前に多少なりとも人柄を知っておく必要があると考え、訊ねた。
「そうねぇ。面白い人、かしら。一緒にいて退屈しないわ」
公爵はその返答にもしや、と思い、明らかに動揺しながら訊ねる。
「ほ、ほぉ。ではアエルはその少年のことをどう思っている?」
「どうって?」
「つ、つまりアエルにとってどういう存在かをだな……」
「うーん」
少し考えるアエル。公爵はそんな娘の様子を見て恐々としながら返答を待つ。
そして、
「弟、かしら。ええ。多分弟が居たらあんな感じなのかしら」
アエルは公爵家の待望の第二子で、末子だ。だからそういう答え方をした。
それを聞いて満面の笑みを浮かべた公爵。どうやら明日のお話し合いは穏便になりそうだ。
「そうか。ありがとう。じゃあまた後で。アエル」
「ええ、また後で。お父様」
重いが滑らかに閉まる扉に娘を見送って、公爵は一人部下との会話を思い出す。
『昨日の件についてご報告を。まず、処理した青年五名についてですが、裏の繋がりは
全く無し。ただの不良だったようです。アエル様が運悪く彼らの縄張りに入ってしまったようです』
『なるほど。それは良かった。全く、いちいちラフロスの影を疑うのは心臓に悪い。だが最近は殆ど動きがないからな。また何か企んでいるとも限らん。それにアエルのクラスには奴の息子が居たよな?』
『はい、アカルエ・ラフロスですね。今のところ不審な動きは見られませんので、ほぼほぼ無害かと』
『油断はするな。奴の息子だ。頭の中で何を考えているかわからん』
『勿論でございます。ああ、それと』
『まだ何かあるのか?』
『アエル様に騎士が付きました』
『は?』
『では』
『ちょ、待っ』
公爵は大きな溜め息を吐く。
フィンアーツには赤ん坊の頃から知られているから歯が立たない。未だに翻弄されることもしばしば。だがそれ以上の信頼と実績があるので、大切な娘を任せているのだ。
まあ、なんとかなるか。
公爵は娘と……家族と早く夕食を食べる為、猛スピードで書類の片付けに入る。
ああ、早くアエルに会いたい!
一瞬でも面白い、続きが読みたいなど思ってくださったら、評価の方よろしくお願いします。
感想も待ってます!




