2 ポークカレーを作ったら犯人ですか
入口の呼び鈴がなった。夜の10時だった。こんな時間に訪れる人はいないはずだが、と思いながら、「はーい」と返事をした。入口のドアを開いた。そこには半年ぶりに見るあの警官が立っていた。
「ご無沙汰しておりますが、お変わりありませんか」
「こちらこそご無沙汰しております。なんとか元気にやっていますが、こんな時間に何かあったのですか。以前の不審者が捕まったとか。それとも他の事件ですか」
「以前の不審者騒ぎは一過性のものでした。あの後は同じようなことは通報されていません。やっぱり子供の思い過ごしだったのでしょう」
「そんなところですよね。そうそう事件なんておきませんからね」
「それが今回は本物の事件が起きたんです」
「殺人事件ですか、それとも強盗事件」
「いえ、ひったくり事件です」
「ひったくり事件も立派な犯罪ですね。それでどんな事件なんですか」
「おばあさんが一人で歩いていたら、自転車に乗った男が、いえ実際は男かどうかもはっきりとはわからないのですが、自転車に乗ってひったくりをするのは通常男なもので、男ということにさせていただきます」
「そうですか。女性も自転車に乗るのですが、ひったくりは男の専売特許ですか」
「どういうわけか、そうなんですね。ひったくるにも力がいるし、逃げるために必死にペダルをこぐのにも力がいるからですかね」
「それで、ひったくりにあったおばあさんはどうなったんですか。転んで打ち所が悪くて死んでしまったとか」
「いえ、お元気です。どこも怪我をされていません。しばらく自転車を走って追いかけたくらいですから。本人が交番まで来て一部始終を話してくれました。ずいぶん立腹されていて、気丈なおばあさんでした」
「じゃあ、ハンドバッグには大金が入っていたのですか」
「盗まれたのはハンドバッグではなく、スーパーで買い物をした品物を入れたエコバッグです」
「では、現金は?」
「現金の入った財布は、懐の中に入れていたそうなのです。盗まれたのは買ったばかりの夕食の品々です」
「肉とか魚ですか?」
「夜はポークカレーを作ろうと思っていたそうなんです。その具材一式です」
「犯人は豚肉やニンジン、ジャガイモ、タマネギなどのかさばるものを盗んだんですね。なかなか笑えるものがあるじゃないですか」
「おばあさんは腹を空かせていることもあって、今日の晩飯はどうしたらいいのか、ととても腹を立てていたんです」
「おばあさんの身になったらそうかもしれませんね。面白がっては失礼ですね。でも、お金を取られたわけでもないし、おばあさんに怪我もなかったんだから、不幸中の幸いではないですか」
「でも、事件は事件ですので。我々としては犯人を検挙しなければならないわけで」
「でも、どうしてわたしのところにいらっしゃったんですか」
「それがですね、おばあさんの話によると、犯人はねずみ色のジャージを着ていたというのですね。ねずみ色のジャージということでピンときたのがフルタさん、あなたなのです」
「いえ、いえ。ねずみ色のジャージを着ている人は世の中にいっぱいいるでしょう。わたしはジャージをパジャマ替わりに使っているので、外出する時に着て出ることはありません」
「まあ、そう言い訳する人もいますね」
「わたしは犯人ではありません」
「犯人とは言っていないでしょう。過剰に反応しないでください。あくまで一般論ですよ。そう怒らないでください。あっ、良い匂いがしていますね」
「ああ、カレーを作っているもので。あっ」
「カレーですか。上がってもいいですか」
「いや、いいですけど」
「何か都合の悪いことでもあるんですか?」
「別にありませんよ。汚れていますけど、どうぞ」
「これはまさしくカレーですね」
「わたしカレーが好きなので、定期的に作っているんですよ。それが今日なのです。偶然の一致というものですよ」
「なかには豚のばら肉がたくさん入っているじゃないですか。これはまさしくポークカレーですね」
「たしかにポークカレーですが、それがどうかしましたか」
「その狼狽ぶり、何かやましいところでも」
「わたしが犯人だと疑っているでしょう」
「いえ、そんなことはありません。カレーにはビーフカレーやチキンカレー、シーフードカレー、ベジタブルカレーなどいろいろあるのに、あなたはよりによって今日ポークカレーを作っている。わたしはカレーの中では、ビーフカレーが一番好きなんですけどね」
「わたしはポークカレーが一番好きなんです」
「まあ、いいでしょう。とりあえずそういうことにしておきましょうか。ところで、材料はどこで購入されましたか?」
「桜スーパーですが」
「おばあさんも桜スーパーで購入されたんですよ」
「そりゃあ、ここらは桜スーパーしかないでしょう。ここらの住民はみんな桜スーパーで食材を買うと思いますよ」
「わたしはタマネギだけは産直で買っていますけど」
「それはあなたの勝手でしょ。普通はスーパーで買います」
「新鮮さが違うのです。それもわからずに料理をしているのですか? 値段も産直で買った方が安いですよ。スーパーではいくらでした?」
「覚えていません」
「ほら知らない。自分で買っていないから、わからないんじゃないですか」
「濡れ衣です」
「それにしてもカレー美味しそうですね。今から食べるところだったのですね」
「そうです。食べるところにあなたが来たんだから」
「これ、手を付けてはいけませよ。証拠隠滅になりますから」
「別に隠滅しようと思っていませんから」
「カレーを少し分けていただけませんか。署に持って帰って、スーパーで買ったものかどうか分析します。タッパウエアありますかね。申し訳ありませんね。その大きさで十分です」
「こんなにたくさん持って帰るんですか」
「分析に必要なもので。それとジャガイモの皮や芽もいただけますか。DNA分析すれば桜スーパーで購入したものかどうかはっきりしますから。現代の科学をなめないでください。科捜研です」
「いや、なめちゃあいませんけど、こんなひったくり事件に科捜研が動くのですか」
「まあ、そこは難しいところですね。でも、単なるひったくり事件でないとすると」
「事件を盛らないでくださいよ。単なるひったくり事件なんでしょ」
「何か隠していることはありませんか。昔、人殺しをして逃げ回っているとか」
「妄想もそのくらいにしてください。カレーでもごみでもなんでも持って行ってください。わたしには一片のやましさもありませんから」
「一片のやましさもない。大きく出ましたね。道路に落ちていた十円玉をネコババしたことはないんですか?」
「そのくらいありますよ。誰でもあるでしょう」
「そうでしょう。それを一片のやましさというんです」
「言葉の綾でしょう。良いじゃないですか、ここで使っても」
「このカレーの具材を買った時のレシートはありますか?」
「ゴミ箱の中じゃないですか。レシートを取っておくほど几帳面ではないので」
「ゴミ箱の中のレシート、ありましたよ」
「散らかしたゴミはきちんとゴミ箱の中に戻してくださいよ」
「機嫌が悪くなってきましたね。それじゃあ、裁判官に心証悪いですよ」
「だから、どうしてわたしが裁判所に行かなければならないんですか。わたし何もしていませんって。ポークカレーを作ったら犯人なんですか?」
「ジャージを着ていましたよね」
「そう言えば、わたしは自転車を持っていません。これでわたしが犯人ではないことは明らかですよね」
「いえ、自転車は盗んだものかもしれませんから。自転車を持っていないことは、なんら犯人ではないことを証明しません」
「では、どうしたらわたしが犯人ではないことを証明できるのですか」
「簡単ですよ。犯行時刻にアリバイがあればいいのです。犯行時刻に違う場所で違うことをしていたならば、当然犯行は不可能です」
「犯行時刻は何時ですか?」
「8時半前後ですね。おばあさんは8時を待って買い物をするそうなんです。その時刻になったら、店員が上から安い値札を貼りに回りますからね。ライバルがいるそうなので、8時きっかりに買い物をするそうなんです。買い物をして帰宅途中ですから、犯行は8時半前後なんです。8時半頃は何をしていらっしゃいましたか?」
「8時半ですか・・・・・。多分、カレーを作り始めたんじゃないですかね。部屋にいました」
「ということは、誰もあなたのアリバイを証明する人がいないということになりますね」
「あたりまえでしょう。アリバイの証明に気を付けながら行動しているわけじゃありませんからね」
「苦しくなってきましたね」
「どこが苦しいんでしょうか」
「あっ、本署から連絡がありました。少し、お待ちください」
「待ちますよ。待てばいいんでしょ」
「えっ、犯人が捕まった。近所の大学生が出頭してきた。はい、了解しました。ということなので、あなたは犯人ではありません。言い忘れましたが、あなたが犯人ではないことは、真犯人がいることでも証明されます。これは決定的ですね」
「わたしはたまたまねずみ色のジャージを着ていただけですよ。それだけで犯人に決めてかかられたんですよ」
「いえ、わたしはあなたを犯人だなんて一言も言っていませんけど」
「えっ、そうだっけ」
「そうです」
「でも、犯人扱いしたでしょう」
「それはあなたの被害妄想というものです。ポークカレー、どうぞ召し上がってください。寝かせたので、温めたらぐっと美味しくなりますよ」
「どうせだから、あなたも食べて行きますか? 犯人ではなかったことの祝勝会だ」
「公務なので、これで失礼します。いただいた野菜の切れ端やレシートなどはすべてこちらのゴミ箱に返却しておきますので。カレーのサンプルは持ち帰って、わたしの方で処分しますので、ご心配なく。ごちそうさま、いや、ご協力ありがとうございました」
つづく